東晋時代40 東晋成帝(十五) 後趙と仏教 335年

今回は東晋成帝咸康元年です。

 

東晋成帝咸康元年

成漢帝(李期)玉恒元年/後趙天王建武元年/前涼文王太元十二年

乙未 335年

 

[一] 『晋書・第七・成帝紀』と『資治通鑑』からです。

春正月庚午朔、東晋成帝が元服しました(『資治通鑑』胡三省注が元服について解説していますが、省略します)

成帝は咸康八年(342年)に二十二歳で死ぬので、本年は十五歳です。

大赦して咸康元年に改元しました。

 

文武諸官)の位を一等増やし(増文武位一等)、三日間大酺(国を挙げての祝宴)を行い、鰥寡(配偶者を失った男女)・孤独(孤児や身寄りがない老人)や自存できない者に一人当たり五斛の米を下賜しました(賜鰥寡孤独不能自存者米人五斛)

 

[二] 『資治通鑑』からです。

成漢と後趙がどちらも大赦しました。

成漢は玉恆元年に、後趙は建武元年に改元しました。

 

[三] 『資治通鑑』からです。

成漢帝(成主・李期)が閻氏を皇后に立てました。

衛将軍・尹奉を右丞相に、驃騎将軍・尚書令・王瓌を司徒にしました。

 

[四] 『資治通鑑』からです。

後趙天王(趙王・石虎)が太子・石邃に命じて尚書の奏事を省可(確認・裁決)させ、郊廟の祭祀、牧守の人選および征伐・刑殺だけは天王が自分で裁決することにしました。

 

天王は宮室の建造を好みました。鸛雀台(『資治通鑑』胡三省注によると、鸛雀台は魏武(曹操)が立てた銅雀台です。鄴にありました)が崩れた時は、典匠少府・任汪(『資治通鑑』胡三省注によると、典匠少府は漢代の将作大匠に当たります)を殺して再び修築し、以前の二倍の規模にしました(倍於其旧)

 

石邃の保母・劉芝を宜城君に封じました。

劉芝が朝権に関与して賄賂を受け入れたため、仕進(仕官・昇進)を求める者は多くがその門から出るようになりました。

 

[五] 『資治通鑑』からです。

慕容皝が左・右司馬を置き、司馬・韓矯と軍祭酒・封奕に担当させました。

 

[六] 『晋書・第七・成帝紀』からです。

二月甲子(二十六日)、東晋成帝が自ら釈奠(学校で行う先聖・先師の祭祀)を行いました。

 

[七] 『晋書・第七・成帝紀』からです。

揚州諸郡が飢餓に襲われたため、東晋が使者を派遣して振給(救済)しました。

 

[八] 『晋書・第七・成帝紀』と『資治通鑑』からです。

東晋の司徒・王導が羸疾(衰弱疾病)のため、朝会に堪えられなくなりました。

三月乙酉(十七日)、成帝が王導の府を行幸し、内室で群臣と共に宴を開きました。

成帝が王導に拝礼し、更にその妻・曹氏にも拝礼を行ったため、侍中・孔坦が密かに上表して切諫し、「帝は元服を加えたばかりなので、動いたら礼を顧みるべきです」と主張しました。

成帝はこれに従いました。

また、孔坦は成帝が政事を王導に委ねていたため、従容(平然とした様子)としてこう言いました「陛下は春秋が既に長く(既に成長しており)、聖敬が日々向上しているので、広く朝臣(の意見)を納れて、善道を聞き求めるべきです(陛下春秋已長,聖敬日躋,宜博納朝臣,諮諏善道)。」

王導はこれらの事を聞いて憎悪し、孔坦を(宮内から)出して廷尉に任命しました。

孔坦は意(志)を得られなくなったため、病を理由に職を去りました。

 

丹陽尹・桓景は為人が諂巧(追従がうまくて狡猾なこと)で、王導に親愛されていました。

ちょうどこの頃、熒惑が南斗を守って(火星が南斗に位置して。『資治通鑑』胡三省注によると、南斗六星は丞相や太宰の位置に当たります)一旬(十日)が経ちました。

王導が領軍将軍・陶回に言いました「斗(南斗)は揚州の分(分野)だ。私は位を譲ることによって、天譴を圧するつもりだ(斗,揚州之分,吾当遜位以厭天譴)。」

陶回が言いました「公は明徳によって輔(帝王の輔佐)となりましたが、桓景と膝を向かい合わせています(公以明徳作輔而与桓景造膝)。どうして熒惑を退舍(退避)させることができるでしょう(使熒惑何以退舍)。」

王導は深く慚愧しました。

 

王導が太原の人・王濛を召して掾に任命し、王述を中兵属に任命しました(『資治通鑑』胡三省注によると、晋の公府諸曹には参軍、掾、属がいました)。王述は王昶(魏の司空)の曾孫です。

 

王濛は小廉(小節。小事における廉潔)を修めませんでしたが、清約によって称賛されました。沛国の人・劉惔と名を並べ、互いに友善な関係になります。

劉惔は常に「王濛の性は至通(道理に極めて通じていること)かつ自然で節がある」と称えており、王濛も「劉君は私を知っており、それは私が自分を知るよりも勝っている(劉君知我,勝我自知)」と言っていました。

当時、風流と称される者達は、劉惔と王濛を首(筆頭。模範)にしました。

 

王述は性格が沈静で、坐客(席上の客)が激しく弁論しても(辯論蠭起)、いつも恬如(平然、平穏な様子)としたまま、その場にいました。

三十歳になっても名が知られなかったため、人々は癡(痴呆)だとみなしました。しかし王導は王述の門地(門弟。優れた家門)を根拠に招聘しました(『資治通鑑』胡三省注によると、王昶の子・王湛と王湛の子・王承は世に高名が知られていました。王述は王承の子です)

王導は王述に会うと、東米の価格についてだけ問いました(『資治通鑑』胡三省注によると、王述は東呉から建康に来たようです)

王述は目を見開いて答えませんでしたが(張目不答)、王導は「王掾は癡(痴呆)ではない。人はなぜ(彼を)癡だと言うのだ(王掾不癡,人何言癡也)」と言いました。

 

かつて王述が王導に会った時、王導が発言する度に、一坐の者が全て讃美しました。しかし王述は色を正してこう言いました「人は堯・舜ではありません。なぜ毎事において善を尽くすことができるのでしょう(いつも正しいとは限りません。原文「何得每事尽善」)。」

(追従を容認していた)王導は自分の様相を改めて謝りました。

 

[九] 『晋書・第七・成帝紀』と『資治通鑑』からです。

後趙天王(趙王・石虎)が南遊し、江に臨んで還りました。

遊騎十余が歴陽に至ったため、東晋の歴陽太守・袁耽が表(上奏文)を提出しましたが、騎兵の数は報告しませんでした。東晋の朝廷が震え懼れ、司徒・王導が出討の許可を請います。

 

夏四月、東晋が王導に大司馬・假黄鉞・都督征討諸軍事を加えました。

『晋書・成帝紀』は「夏四月癸卯(初六日)、石季龍(石虎)が歴陽を侵した。司徒・王導に大司馬・假黄鉞・都督征討諸軍事を加えてこれを防御させた」と書いていますが、『資治通鑑』は「癸卯」を省いています。「癸卯」が、石勒が歴陽を侵した日なのか、王導を任官した日なのか、はっきりしないからだと思われます。

 

癸丑(十六日)、成帝が広莫門(『資治通鑑』胡三省注によると、建康城北門です。但し、中華書局『晋書・成帝紀』校勘記によると、晋代にはまだ「広莫門」がなかったので、「広陽門」とするのが正しいようです)で観兵(閲兵)し、諸将にそれぞれ命を下しました。歴陽の救援に向かわせ、併せて慈湖、牛渚、蕪湖を守備させます。

司空・郗鑒が広陵相・陳光を派遣し、兵を率いて京師に入って護衛させました。

 

暫くして、趙騎の数は極めて少なく、しかも既に去ったという情報が入りました(これは『資治通鑑』の記述です。『晋書・成帝紀』は「賊は退いて襄陽に向かった」と書いています)

 

戊午(二十一日)、東晋が戒厳を解き、王導も大司馬の職を解かれました。

袁耽は軽妄(軽率・荒唐)の罪に坐して免官されました。

 

[十] 『資治通鑑』からです。

後趙の征虜将軍・石遇が襄陽で桓宣を攻めましたが、克てませんでした。

『晋書・第七・成帝紀』は「石季龍(石勒)の将・石遇が中廬を侵し、(東晋の)南中郎将・王国が退いて襄陽を保った」と書いています。

 

[十一] 『晋書・第七・成帝紀』と『資治通鑑』からです。

大旱に襲われました。会稽餘姚(会稽郡餘姚)が最も甚だしく、米が一斗当たり五百銭に高騰して、人々が身売りするようになりました(人相売)

 

中華書局『晋書・成帝紀』校勘記は「咸和四年(329年)の大饑(大飢饉)では米が一斗あたり万銭に高騰したので(米斗万銭)、今回、五百銭になったのは貴いとはいえない(不足為貴)。『斗』は『升』とするべきではないか」と書いています。

尚、咸和四年(329年)の飢饉の記述は、『資治通鑑』は省略しています。

 

[十二] 『資治通鑑』からです。

秋七月、慕容皝が子の慕容儁を世子に立てました。

 

[十三] 『晋書・第七・成帝紀』からです。

八月、長沙と武陵で大水(洪水)がありました。

 

[十四] 『晋書・第七・成帝紀』からです。

東晋成帝が束帛(束にした帛。聘問時に贈る礼物です)を使って処士・翟湯と郭翻を召しました(翟湯は成帝咸和八年・333年にも招かれています)

 

[十五] 『資治通鑑』からです。

九月、後趙天王(趙王・石虎)が鄴に遷都し、大赦しました。

『資治通鑑』胡三省注が後趙の都について解説しています。かつて趙王・石勒(後趙明帝)は襄国を都に定めましたが、本年になって石虎が鄴に遷都しました(東晋成帝咸和五年・330年参照)

 

[十六] 『資治通鑑』からです。

以前、後趙明帝(趙主・石勒)は、天竺の僧・仏図澄が成敗を豫言して、しばしば験(成果)があったため、仏図澄に敬事していました。

天王(石虎)が位に即くと、ますます謹んで仏図澄を奉じるようになり、衣服は綾錦で作り、車は彫輦(彫刻が施された車)にしました。

朝会の日には、太子や諸公が仏図澄を扶翼して上殿させ、主者(朝会の儀礼を担当する官)が「大和尚」と唱えると、席にいる者が皆、立ち上がりました。

また、天王は司空・李農に命じて旦夕に起居を問わせ(朝夕に様子を伺う挨拶をさせ)、太子と諸公にも五日ごとに一朝(朝見)させました(『資治通鑑』胡三省注によると、諸公は石虎の諸子です。石虎は天王を称したので、諸子で封王されていた者は爵位を公に落とされました)

国人もこれに感化されて、大多数の者が仏に仕えるようになりました。仏図澄がいる場所を向いて鼻をかんだり唾を吐いたりしようとする者がいなくなります(澄之所在,無敢向其方面涕唾者)

争って寺廟が造られ、(人々が)髪を剃って出家しました。

しかし出家する者の真偽が雑糅(混乱、混沌)としており、あるいは賦役を避けるために姦宄(姦悪)を為している者もいたため(賦役を避けるために出家したふりをする者も現れるようになったため)、天王が詔を下して中書に問いました「仏は国家が奉じているものだが、里閭の小人で爵秩がない者も、仏に仕えるべきだろうか?」

著作郎・王度等(『資治通鑑』胡三省注によると、著作郎は周代の左史の任に当たります。魏明帝が著作郎を置き、中書省に属させましたが、祕書省が文籍を管理していたので、晋代になって、中書省から祕書省に移されました)が討議して言いました「王者の祭祀には典礼が具わっています(王者祭祀,典礼具存)。仏は外国の神であり、天子や諸華(中原)が祠奉(祭祀・尊奉)すべきものではありません。漢氏(漢代)にその道が伝えられたばかりの時は(東漢明帝永平八年・65年参照)、ただ西域の人が都邑に寺を建てて奉じることを許しただけで(原文「漢氏初伝其道,唯聴西域人立寺都邑以奉之」。『資治通鑑』胡三省注が「寺」について解説しています。漢代は官府を「寺」といいましたが、東漢時代、西域から白馬が経典を背負って来て、鴻臚寺(官署名)に留まったため、「寺」を名称に使って「白馬寺」を建立しました)、漢人は皆出家できず、魏の世もそうでした。今、公卿以下に禁令を出し、寺を詣でて焼香・礼拝してはならないことにして、趙人で沙門(仏僧)になった者は初めの服(華人の服装)に戻させるべきです(今宜禁公卿以下毋得詣寺焼香礼拝,其趙人為沙門者,皆返初服)。」

天王は詔を発してこう言いました「朕は辺鄙な地に生まれたが、かたじけなくも諸夏の君となった。饗祀(祭祀)に至っては、本来の習俗に従うべきである。(但し)夷・趙の百姓で喜んで仏に仕えている者は、特にこれを許可する(朕生自辺鄙,忝君諸夏,至於饗祀,応従本俗。其夷趙百姓楽事仏者,特聴之)。」

 

[十七] 『資治通鑑』からです。

後趙の章武王・石斌が精騎二万と秦・雍二州の兵を率いて薄句大(前年参照)を討ち、平定しました。

 

[十八] 『資治通鑑』からです。

成漢の太子・李班(哀帝)の舅(母の兄弟)・羅演が漢王相・天水の人・上官澹(『資治通鑑』胡三省注によると、李寿が漢王に封じられて、上官澹が国相になりました)と謀り、成漢帝(成主・李期)を殺して李班の子を立てようとしました。

しかし事が発覚したため、成漢帝が羅演、上官澹および李班の母・羅氏を殺しました。

 

成漢帝は既に自分が志を得たと思い、諸旧臣を軽んじて、尚書令・景騫、尚書・姚華、田褒、中常侍・許涪等を信任するようになりました。刑賞といった大政は全てこの数人が裁決し、公卿にはほとんど関与させなくなります(希復関公卿)

田褒には他に才がありませんでしたが、かつて武帝(成主・李雄)に対して李期を太子に立てるように勧めたことがあったため、寵任されました。

こうして成漢の紀綱が隳紊(衰敗・混乱)し、李雄の業が衰え始めました。

 

[十九] 『晋書・第七・成帝紀』と『資治通鑑』からです。

冬十月乙未朔,日食がありました。

 

[二十] 『資治通鑑』からです。

慕容仁が王斉等(東晋の使者。前年参照)を南(東晋)に送り還しました。

王斉等は海道から棘城に向かいました。

しかし風に遭遇したため、王斉は到着できませんでした。

 

十二月、徐孟等が棘城に至り、慕容皝が始めて東晋の朝命を受けました。

 

段氏と宇文氏がそれぞれ使者を派遣して慕容仁を訪ねさせました。使者は平郭城外で宿泊します。

しかし、慕容皝の帳下督・張英が百余騎を率いて間道から潜行し、これを掩撃(襲撃)しました。張英は宇文氏の使者十余人を斬り、段氏の使者を生捕りにして帰りました。

 

[二十一] 『資治通鑑』からです。

この年、東晋明帝の母・建安君・荀氏が死にました。

荀氏は禁中にいて、太后と同じように尊重されていました。

成帝が詔を発して、豫章郡君の爵位を贈りました。

 

『資治通鑑』胡三省注によると、荀氏は元帝の宮人で、明帝を生みましたが、自分の位が低いと思っており、いつも怨望を抱いていたため、元帝に譴責されて徐々に疎薄(疎遠・軽薄)にされました。明帝が即位してから、建安君に封じられて第宅(邸宅)が建てられました。太寧元年(323年)、台内(宮内)に再び迎えられ、厚く供奉(生活の世話をすること)されました。成帝が即位してからは太后と同じように尊重されました。

 

[二十二] 『資治通鑑』からです。

代王・拓跋翳槐は賀蘭藹頭(成帝咸和二年・327年および咸和四年・329年参照)が恭順ではなかったため(『資治通鑑』胡三省注が解説しています。藹頭は翳槐の舅(母の兄弟)に当たり、翳槐を擁護したうえ、紇那を逐って翳槐を立てたので、親近な関係と功績に恃んでおり、翳槐に対して恭順ではありませんでした)、招いて殺そうとしました。

その結果、諸部が皆、翳槐に叛してしまいました。

この頃、代王・紇那が宇文部から入ったため、諸部は再び紇那を奉じました。

翳槐は鄴に奔り、趙人(後趙)が翳槐を厚く遇しました。

 

[二十三] 『資治通鑑』からです。

張軌と二子の張寔、張茂は代々河右を保って拠点にしていましたが、軍旅の事がない年はありませんでした。

張駿が位を継いでから、やっと境内が徐々に安定するようになりました。

 

張駿は勤めて庶政(諸政務)を修め、文武諸官を総御(総領)し、皆にその能力を発揮させることができたので(咸得其用)、民が富んで兵が強くなり、遠近に称賛され、賢君とみなされました。

張駿が将・楊宣を派遣して亀茲と鄯善を伐たせると、西域諸国の焉耆、于窴等が皆、姑臧を訪ねて朝貢しました。

張駿は姑臧南に五殿を造りました(『資治通鑑』胡三省注によると、張駿は謙光殿を築き、四面にそれぞれ一殿を建てました。東を宜陽青殿といい、春の三カ月間、ここに住みました。南を朱陽赤殿といい、夏の三カ月間、ここに住みました。西を政刑白殿といい、秋の三か月間、ここに住みました。北を玄武黒殿といい、冬の三カ月間、ここに住みました。章服(礼服)・器物は全てそれぞれの方位の色に従いました)

官属が皆、張駿に対して臣と称すようになりました。

 

張駿には秦・雍を兼併しようという志がありました。そこで、参軍・麴護を東晋に派遣して上書し、こう主張しました「石勒と李雄は既に死にましたが、石虎と李期が逆(反逆)を受け継ぎ、兆庶(万民)が主から離れて、徐々に世を経ています(兆庶離主,漸冉経世)。先老は既に消落(凋落。没落)し、後生は(旧事を)知らないので、慕恋の心が日に日に遠くなり、日に日に忘れられています(先老消落,後生不識,慕戀之心,日遠日忘)。司空・鑒(郗鑒)、征西・亮(征西将軍・庾亮)等に勅令して江・沔に舟を浮かべさせ、(涼州の兵と共に)首尾をそろえて大挙することを乞います(乞敕司空鑒、征西亮等汎舟江沔,首尾斉挙)。」

『資治通鑑』胡三省注によると、当時、郗鑒は京口を、庾亮は武昌を鎮守していました。

 

 

次回に続きます。

東晋時代41 東晋成帝(十六) 慕容仁滅亡 336年

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