東晋時代41 東晋成帝(十六) 慕容仁滅亡 336年

今回は東晋成帝咸康二年です。

 

東晋成帝咸康二年

成漢帝(李期)玉恒二年/後趙(石弘)建武二年/前涼文王太元十三年

丙申 336年

 

[一] 『晋書・第七・成帝紀』と『資治通鑑』からです。

春正月辛巳(十八日)、彗星が奎・婁に現れました。

『資治通鑑』胡三省注によると、西方の奎十六星は天の武庫に当たり、婁三星は天の獄に当たります。

 

[二] 『晋書・第七・成帝紀』からです。

東晋が呉国内史・虞潭を衛将軍に任命しました。

 

[三] 『資治通鑑』からです。

慕容皝が慕容仁を討とうとしました。

司馬・高詡が言いました「慕容仁は君親に叛してそれを棄てたので、民も神も共に怒っています(叛棄君親,民神共怒)。以前、この海は凍ったことがありませんでしたが、慕容仁が反して以来、連年凍ること、三回になります(連年凍者三矣)。しかも、慕容仁は専ら陸道に備えています。あるいは、天が我々に海冰に乗じて彼を襲わせようと欲しているのではないでしょうか(天其或者欲使吾乗海冰以襲之也)。」

慕容皝はこの意見に従いました。

群僚は皆、「氷を渡るのは危険な事なので、陸道に沿った方がいい(渉冰危事,不若従陸道)」と言いましたが、慕容皝は「我が計は既に決した。敢えて阻止しようとする者は斬る(吾計已決,敢沮者斬)」と言いました。

 

壬午(十九日)、慕容皝が弟の軍師将軍・慕容評等を率いて昌黎から東に向かいました。氷を踏んで進軍し、その距離は併せて三百余里にわたります。

歴林口(『資治通鑑』胡三省注によると、海浦(海浜)の口です)に至ってから、輜重を捨てて、軽兵で平郭に向かいました。

 

慕容皝の軍が城から七里離れた所まで来た時、候騎が慕容仁に報告しました。慕容仁は狼狽して出撃します。

張英(慕容皝の帳下督)が二使(宇文氏と段氏の使者)を捕えた時(前年参照)、慕容仁は張英を窮追(徹底した追撃)しなかったので、後悔していました。

今回、慕容皝が至りましたが、慕容仁は慕容皝がまた偏師(一部隊)を派遣して、軽装で寇抄(侵犯略奪)させただけだと思い、慕容皝が自ら来たとは知らなかったため、左右の者にこう言いました「今回は、彼等の一頭の馬も還ることができないようにしよう(今茲当不使其匹馬得返矣)。」

 

乙未(『二十史朔閏表』によると、この年正月は「甲子」が朔なので、「乙未」はありません)、慕容仁が全ての衆を動員して城の西北に陣を構えました。

しかし慕容軍(慕容軍は慕容皝の庶弟です。東晋成帝咸和八年・333年に、慕容仁に捕えられました)が自分の部衆を率いて慕容皝に降ったため、慕容仁の衆が沮動(士気が落ちて動揺すること)しました。

慕容皝はこの機に兵を放って攻撃させ(従而縦撃)、慕容仁を大破しました。

慕容仁は逃走しましたが、帳下の者が皆叛したため、捕えられました。

 

慕容皝はまず慕容仁のために、裏切った帳下の者を斬り、その後、慕容仁に死を賜りました。

丁衡、游毅、孫機等は皆、慕容仁に信用されていました。慕容皝は彼等を全て捕えて斬りました。

王冰は自殺しました。

慕容幼、慕容稚、佟寿、郭充、翟楷、龐鑒は皆、東に逃走しましたが、慕容幼は途中で引き還しました(慕容幼は慕容皝に降ったようです。また、『資治通鑑』は慕容稚に触れていませんが、恐らく、慕容幼と共に引き還したと思われます。二人とも慕容皝の庶弟です)

慕容皝の兵が追撃して翟楷と龐鑒に追いつき、二人を斬りました。

佟寿と郭充は高麗に奔りました。

残りの吏民で慕容仁のために詿誤した者(連座した者。巻き込まれた者)は、全て赦されました。

慕容皝は高詡を汝陽侯に封じました。

 

[四] 『資治通鑑』からです。

二月、東晋の尚書僕射・王彬が死にました。

 

[五] 『晋書・第七・成帝紀』からです。

東晋が軍用の税米を計算したところ、空懸が五十余万石あったため(「空懸」は宙に浮くことです。計算上の収入よりも実際の収入が五十余万石少なかったのだと思います)、尚書・謝褒以下の官員を罷免しました。

尚、『晋書・志第十六・食貨志』を見ると、「度田の税米(田地の面積を測って決められた税米。成帝咸和五年・330年に税率が決められました)を計算したら空懸が五十余万斛もあった」と書いています。また、罷免された尚書は「謝褒」ではなく「褚裒」となっていますが、中華書局『晋書・食貨志』校勘記は、「褚裒は康帝が即位してから始めて尚書に任命されるので、謝褒とするのが正しいようだ」と解説しています。

 

[六] 『晋書・第七・成帝紀』と『資治通鑑』からです。

辛亥(十九日)、東晋成帝が臨軒(殿前に臨むこと。朝政に臨むこと)し、使者を派遣して、六礼を備えて故当陽侯・杜乂の娘・杜陵陽を迎え入れ、皇后に立てました。

「六礼」は婚姻における儀礼で、納采、問名、納吉、納徵、請期、親迎を指します。『資治通鑑』胡三省注が詳しく解説していますが、省略します。

 

大赦を行い、文武諸官の位を一等増やしました。

群臣がそろって祝賀しました。

 

[七] 『晋書・第七・成帝紀』からです。

庚申(二十八日)、高句驪が東晋に使者を派遣して方物(地方の物産)を貢納しました。

 

[八] 『晋書・第七・成帝紀』からです。

三月、旱に襲われました。

東晋成帝が詔を発し、太官に膳(皇室の食事)を減らさせ、旱害に襲われた郡県の繇役を免じました。

戊寅(十六日)、大雩(雨乞いの儀式)を行いました。

 

[九] 『晋書・第七・成帝紀』からです。

夏四月丁巳(二十六日)、皇后が太廟を拝謁しました(見于太廟)

雹が降りました。

 

『晋書・志第十九・五行志下』では、咸康二年(本年)正月丁巳に皇后が太廟を拝謁して(見于太廟)、その夕(夜)に雹が降っています。しかし杜氏が皇后に立てられたのは二月なので、『五行志』が正月としているのは恐らく誤りです。

 

[十] 『資治通鑑』からです。

六月、段遼が中軍将軍・李詠を派遣して慕容皝を襲わせました。

李詠は武興(『資治通鑑』胡三省注によると、武興城は令支の東にありました)に向かいましたが、都尉・張萌がこれを撃って捕えました。

 

段遼が別に段蘭を派遣し、歩騎数万を率いて柳城西の回水(『資治通鑑』では「回水」ですが、『晋書・載記第九』では「曲水」です。『資治通鑑』胡三省注によると、曲水(回水)は好城の西北に位置したようです)に駐屯させました。宇文逸豆帰が安晋を攻撃して段蘭の声援(後援)になります(安晋城は東晋成帝咸安八年・333年に慕容皝が築きました)

 

しかし、慕容皝が歩騎五万を率いて柳城に向かうと、段蘭は戦わずに遁走しました。

慕容皝は兵を率いて北の安晋に向かいます。

逸豆帰も輜重を棄てて走ったので、慕容皝は司馬・封奕を派遣し、軽騎を率いて追撃させました。

封奕は逸豆帰を大破しました。

 

慕容皝が諸将に言いました「二虜は功績がないことを恥じて、必ずまた至る。柳城の左右(周辺)に伏兵を設けて待つべきだ(二虜恥無功,必将復至,宜於柳城左右設伏以待之)。」

そこで、封奕を派遣して、騎兵数千を率いて馬兜山に埋伏させました。

 

七月(『資治通鑑』の本文では「三月」ですが、「夏六月」以降の出来事なので、恐らく誤りです。胡三省注によると、『資治通鑑』の版本によっては「七月」としているので、ここは「七月」にしました)、果たして段遼が数千騎を率いて寇抄(侵犯・略奪)に来ました。

封奕が兵を放ってこれを撃ち、大破して段遼の将・榮伯保を斬りました。

 

[十一] 『晋書・第七・成帝紀』からです。

秋七月、揚州会稽が飢饉に襲われたため、東晋が倉を開いて振給(救済)しました。

 

[十二] 『資治通鑑』からです。

東晋の前廷尉・孔坦が死にました(孔坦は前年、病を理由に廷尉の職を辞しました)

孔坦の病が篤くなった時、庾冰が見舞いに行き、涙を流しました。

しかし孔坦は慨然(憤慨、激昂の様子)として「大丈夫が終わろうとしているのに、済国安民の術(国を救済して民を安んじる術)を問わず、児女子(女や子供)のように泣くのか(大丈夫将終,不問以済国安民之術,乃為児女子相泣邪)」と言いました。

庾冰は深く謝りました。

 

[十三] 『資治通鑑』からです。

九月、慕容皝が長史・劉斌と兼郎中令・遼東の人・陽景(『資治通鑑』胡三省注によると、晋制では、王国に郎中令がいました。慕容皝はまだ王になっていませんが、身分を越えてこの官を置いていました)を派遣し、徐孟等(東晋の使者)を建康に送り還しました。

 

[十四] 『晋書・第七・成帝紀』と『資治通鑑』からです。

冬十月、東晋の広州刺史・鄧岳(『資治通鑑』では「鄧岳」、『晋書・成帝紀』では「鄧嶽」です)が督護・王隨を派遣して夜郎を撃たせ、新昌太守・陶協を派遣して興古を撃たせ(『資治通鑑』胡三省注によると、西晋懐帝時代、王遜が牂柯、朱提、建寧を分けて夜郎郡を置きました。また、蜀漢の劉氏が建寧と牂柯を分けて興古郡を置きました)、どちらも攻略しました。

東晋は鄧岳に督寧州を加えました。

 

[十五] 『晋書・第七・成帝紀』からです。

東晋成帝が詔を発しました「先代を歴観するに、明祀(重大な祭祀。祖先の祭祀)を褒崇(讃美・推奨)せず、三恪(前代の帝王)に賓礼を用いなかった者はいない(歴観先代,莫不褒崇明祀,賓礼三恪)。だから杞・宋が国土を開いて、周典(周の典籍)において光り輝いた(周代になって、夏王の後代が杞に、商王の後代が宋に封じられた。原文「故杞宋啓土,光于周典」)。宗姫(姫姓の宗族。姫は周王の姓です)が衛で侯となり、漢冊(漢の史冊)に美を残した(漢代になって、周王の子孫が衛に封侯された。原文「宗姫侯衛,垂美漢冊」)。最近は喪乱(死亡禍乱)によって庶邦(諸国)が殄悴(困窮、凋落)し、周漢の後が絶えて継ぐ者がいなくなっている。よって、詳しく衛公(周王の後代)や山陽公(漢帝の後代)の近属を求める。もし節のある行動をして明徳を修めており、その祭祀を継承できる者がいたら、旧典に則って施行(実行)する(旧典に則って後を継がせる。原文「有履行修明可以継承其祀者,依旧典施行」)。」

 

[十六] 『晋書・第七・成帝紀』からです。

東晋が新たに朱雀浮桁(浮橋)を造りました。

 

[十七] 『資治通鑑』からです。

成漢帝(成主・李期)は、従子(甥。または自分より一世代下の同姓の親族)にあたる尚書僕射・武陵公・李載に雋才(俊才)があったため、それを忌み嫌い、謀反の罪を誣告して殺してしまいました。

 

[十八] 『晋書・第七・成帝紀』と『資治通鑑』からです。

十一月、東晋成帝が建威将軍・司馬勳に詔を発し、兵を率いて漢中を安集(安定・慰撫)させました。

しかし成漢の漢王・李寿がこれを撃って敗りました。

李寿はこれを機に漢中に守宰(地方の長官)を置き、南鄭に守りを設けて還りました。

 

[十九] 『資治通鑑』からです。

索頭の郁鞠が三万の衆を率いて後趙に降りました(『資治通鑑』胡三省注によると、索頭は鮮卑の種族です。「索頭郁鞠」と書いているのは、「黒匿郁鞠(東晋明帝太寧元年・323年参照)」と区別するためです。「索」には縄で縛るという意味があり、彼等は辮髪していたため、「索頭」といいました。)

 

後趙は郁鞠等十三人を親趙王に拝して、その部衆を冀・青等の六州に分散させました。

 

[二十] 『資治通鑑』からです。

後趙天王(趙王・石虎)が襄国に太武殿を造り、鄴に東・西二宮を造りました(『資治通鑑』胡三省注によると、東宮には太子・石邃が住み、西宮には石虎本人が住みました)

 

十二月、全て完成しました。

太武殿の基(土台)は高さ二丈八尺、縦六十五歩、広さ七十五歩で、模様がついた石を重ねて造られました(甃以文石)

下には伏室(地下室)を穿ち、衛士五百人を置きました。

漆で瓦を塗り(以漆灌瓦)、金璫(「璫」は屋根瓦の先端の部分です。多くが円形で、模様が描かれていたり装飾がされています)、銀楹(「楹」は柱の一種です)、珠簾、玉壁は技巧を極めました(窮極工巧)

殿上には白玉牀(床)と流蘇帳(「流蘇」は絹糸等で作られた房の飾りです)を施し、金蓮華を帳頂に冠しました(帳の上部は金の蓮の花で装飾しました)

また、顕陽殿の後ろに九殿を造り、士民の娘を選んで満たしました。珠玉を身に着けて、綺縠(絹織物)をまとった者が一万余人を数えます。

宮人(宮女)に星気の占いや馬歩射(馬上や徒歩での射術)を教えました。

女太史を置きました(『晋書・載記第六』によると、霊台に女太史を置いて災祥を観察させ、外太史(外朝の太史。男の太史)の虚実を考察させました)

雑伎工巧(様々な芸技・工芸)は全て外(男の世界)と同等にしました(『晋書・載記第六』によると、女の鼓吹(儀仗の楽隊)や羽儀(儀仗の旗)を設けて、雑伎工巧は全て外と同等にしました)

女騎千人を鹵簿(帝王に従う儀仗隊)とし、皆、紫綸巾(紫の頭巾)と熟錦袴(精製した錦で作られた袴)、金銀鏤帯(金銀で装飾された帯)、五文織成鞾(五色の模様が織られた靴)を身に着け、羽儀を持ち、鼓吹を鳴らし、天王の遊宴に従わせました。

 

当時は後趙を大旱が襲い、金一斤が粟二斗にしか値しなくなったため、百姓が嗷然(哀号の様子)としていました。

しかし天王は兵を用いて休むことなく、同時に百役も興しました。

牙門・張彌に命じて洛陽の鍾虡、九龍、翁仲、銅駝、飛廉を鄴に移させました(『資治通鑑』胡三省注によると、「鍾虡、九龍、翁仲、銅駝、飛廉」は魏明帝が鋳造しました。このうち、「鍾虡(鍾簴)、九龍、翁仲、銅駝(橐佗)」に関しては魏明帝景初元年・237年に記述があります。「飛廉」は神獣です)

これらの物は四輪の纏輞車(恐らく車輪を何かで覆って保護した車、または車輪が大きな車です)に載せられ、その轍は広さ四尺、深さ二尺もありました。

一つの鍾が河に沈んでしまったため、浮没(潜水ができる者)を三百人募って河に入らせ、鐘に竹絚(竹を編んで作った綱)を繋げて、百頭の牛を使って鹿櫨(轆轤)で引いて河から出しました。

更に万斛の舟を造って河を渡らせました。

鄴に到着すると、天王は大いに悦び、この一件を理由に二歳(年)以下の刑を受けた囚人を赦し(赦二歳刑)、百官に穀帛を贈り、民に爵一級を下賜しました。

 

また、尚方令・解飛の言を用いて、鄴南の河に石を投じ、飛橋を造ろうとしました。しかし功費が数千万億に上っても橋は完成せず、役夫の飢餓が甚だしくなったため、中止しました。

 

令長(県の長官)に命じて、民を率いて山沢に入らせ、橡(木の実)や魚を採って食糧を補充させましたが、権豪(権力者や豪族)に奪われたため、民はやはり得る物がありませんでした。

 

[二十一] 『資治通鑑』からです。

以前、日南夷の帥・范稚に范文という奴(奴僕)がいました。

范文は頻繁に商賈(商人)に従って中国を往来しました。

後に林邑に至った時、林邑王・范逸に城郭・宮室の建造や器械の製作について教えたため、范逸は范文を愛信して将にしました。

『資治通鑑』胡三省注によると、林邑国は、漢代の象林県です。漢末に県の功曹の子・區連が県令を殺して自ら王に立ち、子孫が継承しましたが、後に後嗣が途絶えたため、外孫(娘の子)の范熊が跡を継ぎました。范逸は范熊の子です。

 

范逸に寵信された范文は、范逸の諸子を讒言しました。その結果、諸子のある者は移住し、ある者は逃走しました(或徙或逃)

 

この年、范逸が死にました。

范文は偽って范逸の子を他国から迎え入れ、椰酒に毒を盛って殺し、自ら王に立ちました。

その後、兵を出して大岐界、小岐界、式僕、徐狼、屈都、乾魯、扶単等の国を攻め、全て滅しました。

こうして范文は四五万の衆を有すようになり、使者を東晋に派遣して、上表貢納しました。

 

[二十二] 『資治通鑑』からです。

後趙の左校令・成公段(成公が氏です。『資治通鑑』胡三省注によると、『姓譜』は「衛成公の後代が成公を氏にした」と解説しています。しかし胡三省は「春秋時代の魯・晋にも成公がいた。なぜ衛成公の後代だけが氏にしたと言えるのだ」と書いています)が杠末(恐らく太い木柱の先端です)に庭燎(宮廷内を照らす灯り)を作りました。高さは十余丈あり、上盤には燎(照明)が置かれ、下盤には人が置かれます。

天王(趙王・石虎)は試しにこれを使って悦びました。

 

 

次回に続きます。

東晋時代42 東晋成帝(十七) 燕王慕容皝 337年

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