東晋時代42 東晋成帝(十七) 燕王慕容皝 337年

今回は東晋成帝咸康三年です。

 

東晋成帝咸康三年

成漢帝(李期)玉恒三年/後趙天王建武三年

前涼文王太元十四年/前燕王(慕容皝)元年

丁酉 337年

 

[一] 『資治通鑑』からです。

春正月庚辰(『二十史朔閏表』によると、この年正月は「戊子」が朔なので、「庚辰」はありません)、後趙の太保・夔安等、文武諸官五百余人が入朝して居摂趙天王(趙王・石虎)に尊号(帝号)を上じました(勧めました)

この時、庭燎(前回参照)の油が下盤に注ぎ、死亡した者が二十余人もいました(『晋書・載記第六』では死者の数を「七人」としていますが、『資治通鑑』胡三省注によると、『三十国春秋』が「二十余人」としており、『資治通鑑』は『三十国春秋』に従っています)

居摂趙天王はこれを憎悪して成公段を腰斬に処しました。

 

辛巳(この年正月は「辛巳」もないはずです)、居摂趙天王が殷・周の制度に則って大趙天王を称しました。南郊で即位して大赦を行います。

 

(王后。正妻)の鄭氏を天王皇后に、太子・石邃を天王皇太子に立ててました(『資治通鑑』胡三省注はこう解説しています「古では、王を称したら后は王后を称し、皇帝を称したら后は皇后を称した。これまでに『天王皇后』という称号はなかった。」また、「古の王はその嫡長を世子とよんだ。秦・漢は皇帝を称したので皇太子を立てた。これまでに『天王皇太子』という称号はなかった」)

諸子で王になっていた者は皆、郡公に落とし、宗室で王になっていた者は県侯に落としました。

百官もそれぞれ差をつけて封署(封爵・配置)しました。

 

[二] 『晋書・第七・成帝紀』と『資治通鑑』からです。

江左(江東)が日に日に安寧になったので、東晋の国子祭酒・袁瓌と太常・馮懐が学校を興すように請いました。袁瓌は袁渙(東漢末、劉備によって茂才に挙げられ、後に曹操に仕えました)の曾孫です。

成帝はこれに従いました。

 

辛卯(初四日)、太学を建てて生徒を招き集めました。

しかし、当時の士大夫は老・荘を尊ぶことが習慣になっていたため、結局、儒術は振るいませんでした。

 

[三] 『資治通鑑』からです。

三月、慕容皝が乙連城の東に好城を築き、乙連に迫りました(『資治通鑑』胡三省注によると、乙連城は段氏の国の東境に位置しました。曲水の西です)折衝将軍・蘭勃を留めて好城を守らせます。

 

夏四月、段遼が数千輌の車で粟を輸送して乙連に送ろうとしましたが、蘭勃がこれを撃って奪いました。

 

六月、段遼がまた従弟の揚威将軍・段屈雲を派遣し、精騎を率いて夜の間に興国城(『資治通鑑』胡三省注によると、興国城は慕容氏が築いたようです)の慕容遵を襲わせました。慕容遵は慕容皝の子です。

しかし慕容遵が段屈雲を撃破しました。

 

以前、北平の人・陽裕は段疾陸眷に仕えてから段遼まで五世に及び、代々、尊礼(尊重・礼遇)を受けてきました(『資治通鑑』胡三省注が解説しています。段疾陸眷から段渉復辰、段末柸、段牙を経て段遼まで合わせて五世になります。また、『晋書・載記第九』によると、陽裕は段疾陸眷に仕えて郎中令・中軍将軍に任命され、上卿の位に置かれました)

段遼がしばしば慕容皝と攻撃し合ったため、陽裕が諫めて言いました「『仁徳がある者と親しみ、鄰人との関係を善くする、これは国の宝である(原文「親仁善鄰,国之宝也」。『春秋左氏伝』の言葉です)』といいます。そもそも、慕容氏と我々は代々婚姻しており、交互に甥舅(娘婿と岳父の関係)になっています(原文「慕容氏與我世婚,迭為甥舅」。『資治通鑑』胡三省注によると、慕容廆も慕容皝も段氏から妻を娶りました。慕容氏から段氏に嫁いだ者もいたようです)(しかも)慕容皝には才徳があります。それなのに、我々は彼等と怨恨を結びました(而我与之搆怨)(その結果)戦をして虚月がなく(戦がない月はなく。原文「戦無虚月」)、百姓が彫弊(凋落疲弊)し、(戦の)利が害を補うこともできないので、臣は社稷の憂いがここから始まるのではないかと恐れています。双方が今までの過失を反省し、以前のように好を通じさせることで、国を安んじて民を休息させることを願います(願両追前失,通好如初,以安国息民)。」

段遼はこの意見に従わず、陽裕を外に出して北平相にしました。

 

[四] 『晋書・第七・成帝紀』からです。

旱害に襲われました。

 

[五] 『資治通鑑』からです。

後趙の太子・石邃はかねてから驍勇だったため、天王(大趙天王。趙王・石虎)に愛されていました。

天王は常に群臣にこう言っていました「司馬氏の父子兄弟は自ら互いに残滅(殺傷して滅ぼすこと)した。だから朕をここに至らせることができたのだ(司馬氏父子兄弟自相残滅,故使朕得至此)。もし朕が阿鉄を殺したとしたら、道理があるか(朕が阿鉄を殺すはずがない。原文「如朕有殺阿鉄理否」。『資治通鑑』胡三省注によると、「阿鉄」は石邃の小字(幼名)です)。」

 

後に石邃は驕淫残忍になりました。美姫に妝飾(化粧・装飾)させてからその首を斬り、血を洗って盤上に置き、賓客とまわしあって観賞することを好み、また、その肉を烹して(煮て)共に食しました。

 

河間公・石宣と楽安公・石韜はどちらも天王に寵信されていたため、石邃は讎のように憎みました。

 

天王は酒色に溺れており、喜怒が安定していませんでした(荒耽酒色,喜怒無常)石邃に尚書の事を省可(確認・裁可)させていましたが、石邃に報告する事があると、天王はいつも怒って「このような小事をなぜ報告する必要があるのだ(此小事,何足白也)!」と言い、時に報告しないことがあると、また怒って「なぜ報告しないのだ(何以不白)!」と言い、譴責して笞や棒で打つことが月に再三もありました(誚責笞棰,月至再三)

石邃が秘かに中庶子・李顔等に言いました「官家の意に沿うのは難しい(原文「官家難称」。「官家」は天子を指します。『資治通鑑』胡三省注によると、天子を官家と称すのは、ここで初めて見られます。西漢は天子を「県官」といい、東漢は天子を「国家」といいました。二つを合わせた呼称が「官家」です。または、「五帝は天下を官とし、三王は天下を家とした(原文「五帝官天下,三王家天下」。五帝は天下を公のものとみなして賢人に禅譲し、三王は天下を家のものとみなして世襲した)」という言葉から、「官家」と称すようになったともいわれています)。私は冒頓の事(冒頓は西漢時代の匈奴単于です。父を殺して位に即きました)を行おうと欲するが、卿は私に従うか?」

李顔等は顔を伏せたまま、答えることができませんでした。

 

秋七月、石邃が病と称して政事を視なくなりました。

秘かに宮臣や文武の諸官五百余騎を率いて、李顔の別舍で酒を飲み、それを機に李顔等にこう言いました「私は冀州(『資治通鑑』胡三省注によると、冀州の治所は信都です)に至って河間公を殺すつもりだ。従わない者がいたら斬る!」

しかし石邃が数里進むと、騎者が皆、逃走四散してしまいました。

李顔が叩頭して頑なに石邃を諫め、石邃自身も昏酔していたため、結局、引き還しました。

母の鄭氏がこの事を聞いて、秘かに中人(宦官)を送って石邃を誚譲(譴責)しましたが、石邃は逆に怒って中人を殺してしまいました。

 

かつて仏図澄が天王に「陛下はしばしば東宮に行くべきではありません」と言いました。

天王は石邃の病を視に行こうとしましたが、仏図澄の言葉を思い出して引き還しました。

しかし暫くして、目を見開いて大声でこう言いました「私は天下の主となったのに、父子が互いに信じあえないのか(我為天下主,父子不相信乎)!」

そこで天王は親しく信任している女尚書に命じて観察しに行かせました。

ところが石邃は女尚書を前に呼んで言葉を交わすと、それを機に、剣を抜いて女尚書を撃ちました。

怒った天王は李顔等を逮捕して詰問しました。李顔が詳しく石邃の状況を語ります。

天王は李顔等三十余人を殺し、石邃を東宮に幽閉しました。

 

暫くして、天王が石邃を赦して太武東堂(『資治通鑑』胡三省注によると、魏武(曹操)が鄴に住んで北宮を造り、北宮には文昌殿がありました。石氏は文昌殿があった場所に東・西の太武二殿を建てました)で引見しましたが、石邃は入朝したものの、謝罪することなくすぐに退出しました。

天王が使者を送ってこう伝えました「太子は中宮(皇后)に朝見するべきだ。なぜすぐに去るのだ(太子応朝中宮,豈可遽去)。」

石邃は振り返らずにそのまま出て行きました。

天王は大いに怒り、石邃を廃して庶人にしました。

その夜、石邃とその妃・張氏を殺し、男女二十六人を合わせて一つの棺で埋葬しました。また、石邃の宮臣・支党二百余人も誅殺しました。

 

鄭后を廃して東海太妃にしました。

天王の子・石宣を天王皇太子に、石宣の母・杜昭儀を天王皇后に立てました。

 

『資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)によると、『燕書‧文明紀』は石邃の死を咸康四年(翌年)四月に書いています(胡三省注が『燕書』の記述を紹介していますが、省略します)。しかし『十六国』と『晋春秋』がどちらも石邃の誅殺を咸康三年(本年)に置いているので、『資治通鑑』は『燕書』に誤りがあると判断して、本年に書いています。

 

[六] 『資治通鑑』からです。

安定の人・侯子光が自ら仏太子と称し、「(自分は)大秦国から来た。小秦国で王になるべきだ」と言って、杜南山(『資治通鑑』胡三省注によると、京兆杜陵県の南山です)で数千人の衆を集めました。

大黄帝を自称して龍興元年に改元します。

しかし後趙の石広がこれを討って斬りました。

 

[七] 『晋書・第七・成帝紀』と『資治通鑑』からです。

九月、鎮軍左長史・封奕等(『資治通鑑』胡三省注によると、東晋成帝が慕容皝を鎮軍大将軍に任命し、慕容皝が封奕を左長史にしました)が慕容皝に燕王を称すように勧めました。

慕容皝はこれに従い、まず群司(各官署)を備え置いて、封奕を国相に、韓寿を司馬に、裴開を奉常に、陽騖を司隸に、王㝢を太僕に、李洪を大理に、杜群を納言令に、宋該、劉睦、石琮を常伯に、皇甫真、陽協を冗騎常侍に、宋晃、平熙、張泓を将軍に、封裕を記室監に任命しました(『資治通鑑』胡三省注によると、納言令は晋の尚書令に、常伯は晋の侍中に、冗騎常侍は晋の散騎常侍に当たります)

李洪は李臻(西晋懐帝永嘉三年・309年参照)の孫、宋晃は宋奭(西晋愍帝建興元年・313年参照)の子です。

 

冬十月丁卯(十四日)、慕容皝が自ら燕王の位に即いて大赦しました。

 

十一月甲寅(『二十史朔閏表』によると、この年十一月は「癸未」が朔なので、「甲寅」はありません)、武宣公(慕容廆)を追尊して武宣王とし、慕容廆の夫人・段氏を武宣后としました。

慕容皝の夫人・段氏を王后に、世子・慕容儁を王太子に立てて、魏武(曹操)・晋文(司馬昭)が輔政した故事に倣いました。

 

慕容皝が建てた政権は、歴史上「前燕」とよばれています。後に慕容皝の子・慕容儁が帝を名乗ってから、慕容皝に「文明皇帝」という諡号を贈りますが、慕容皝は生前、帝位に即いていないので、この通史では「燕王・慕容皝」と書きます。

 

[八] 『資治通鑑』からです。

段遼がしばしば後趙の辺境を侵しました。

 

燕王・慕容皝が揚烈将軍・宋回を後趙に派遣して藩(臣)と称し、段遼を討つために出師を乞いました。慕容皝自ら国中の衆を率いて後趙軍に合流することを願い出て、併せて弟の寧遠将軍・慕容汗を質(人質)として送ります。

後趙天王(趙王・石虎)は大いに悦び、厚く慰答(慰問・答礼)を加えました。質(人質)は辞して送り還します。

双方は秘かに翌年の出兵を約束しました(密期以明年)

 

[九] 『資治通鑑』からです。

この年、後趙の将・李穆が拓跋翳槐を大甯に入れました(拓跋翳槐は成帝咸康元年・335年に後趙に奔りました)旧部落の多くが翳槐に帰順します。

 

代王・紇那が燕(慕容皝)に奔ったため、代の国人は再び翳槐を奉じて王とし、盛楽に築城してそこに住みました。

 

[十] 『資治通鑑』からです。

仇池氐王・楊毅の族兄(同世代で自分より年上の親族)・楊初が楊毅を襲って殺し、その衆を併合して自ら仇池公に立ちました。

楊初は後趙に対して臣と称しました。

 

 

次回に続きます。

東晋時代43 東晋成帝(十八) 成漢の政変 338年(1)

 

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