東晋時代43 東晋成帝(十八) 成漢の政変 338年(1)

今回は東晋成帝咸康四年です。三回に分けます。

 

東晋成帝咸康四年

成漢帝(李期)玉恒四年 昭文帝漢興元年

後趙天王建武四年/前涼文王太元十五年/前燕王(慕容皝)二年

戊戌 338年

 

[一] 『資治通鑑』からです。

春正月、燕王・慕容皝が都尉・趙槃を派遣して後趙に入らせ、師期(出兵の時期。前回参照)について聴きました。

 

後趙天王(趙王・石虎)は段遼を撃つことにして、驍勇の者三万人を募り、全て龍騰中郎に任命しました。

『晋書・載記第六』によると、東晋成帝咸康二年(336年)に天王が直盪を龍騰に改め、冠を絳幘(赤い頭巾)にしました。「直盪」は近衛兵を指揮する官府だと思われます。

 

ちょうど段遼が派遣した段屈雲が後趙の幽州を襲いました。幽州刺史・李孟は退いて易京を守ります。

そこで天王は桃豹を横海将軍(『資治通鑑』胡三省注によると、横海将軍は石氏が置いたようです)に、王華を渡遼将軍に任命し、舟師十万を率いて漂渝津から出させ(『資治通鑑』胡三省注によると、清河が東北に流れて漂楡邑を越え、海に入りました。漂楡の故城を俗に角飛城といい、石勒が王述に命じて角飛で煮塩(塩分を含んだ水を煮て食塩を採る作業)をさせていました。この「漂楡」が「漂渝」のようです)、支雄を龍驤大将軍に、姚弋仲を冠軍将軍に任命し、歩騎七万を率いて前鋒にさせました。こうして遼討伐が始まります。

 

三月、趙槃が燕に還って棘城に至りました。

(後趙の情報を聞いて)燕王・慕容皝は兵を率いて令支以北の諸城を攻掠(攻撃・略奪)しました。

 

段遼が慕容皝を追撃しようとすると(慕容皝は令支以北を攻めただけで引き還したようです)、慕容翰がこう言いました「今は趙兵が南にいるので、力を併せてこれを防ぐべきなのに、逆に燕と闘っています(当并力禦之而更与燕闘)。燕王は自ら兵を率いて来ており、その士卒は精鋭なので、もし万が一にも利を失ったら、どうやって南の敵を防ぐのでしょうか(将何以禦南敵乎)。」

段蘭(段遼の弟)が怒って言いました「私は以前、卿のために誤ちを犯して、今日の患を成してしまった(成帝咸和九年・334年、段蘭は慕容皝に勝って追撃しようとしましたが、慕容翰が反対したため中止しました)。私は二度と卿の計中に落ちることはない(吾不復墮卿計中矣)。」

段蘭は現有する全ての衆を率いて追撃しました。

しかし慕容皝が伏兵を設けて待機しており、段蘭の兵を大破して数千級を斬首しました。

慕容皝は五千戸の民と万を数える畜産を奪って帰りました。

 

後趙天王が兵を進めて金台(『資治通鑑』胡三省注によると、涿郡故安県に金台陂があり、金台は陂(坂)の北十余歩の場所にありました。戦国時代、燕昭王が郭隗のために建てた台です)に駐屯しました。

 

支雄が長駆して薊に入ると、段遼が任命した漁陽、上谷、代郡の守相(郡国の長)が全て投降しました。支雄が四十余城を取ります。

北平相・陽裕はその民数千家を率いて燕山(『資治通鑑』胡三省注によると、燕山は北平無終県にありました)に登り、守りを固めました。

 

後趙の諸将は陽裕が後患になることを恐れて攻撃を欲しました。

しかし天王は「陽裕は儒生で、名節を惜しんでいるので、我々を迎え入れて降るのを恥じとしているだけだ。何も為すことができない(裕儒生,矜惜名節,恥於迎降耳,無能為也)」と言って通り過ぎ、徐無(『資治通鑑』胡三省注によると、徐無県も北平郡に属します)に至りました。

 

段遼は弟の段蘭が敗れたので、敢えて再び戦おうとはせず、妻子・宗族や豪大(豪族、首領。『資治通鑑』胡三省注によると、当時、東北夷は主帥を「大」、部帥を「部大」、城主を「城大」とよんでいました)千余家を率いて、令支を棄てて密雲山に奔りました。

 

尚、『晋書・第七・成帝紀』は「春二月(『資治通鑑』では三月になっています)、石季龍(石虎)が衆七万を率いて遼西で段遼を撃ち、段遼は平崗(平岡)に奔った」と書いています。

『資治通鑑』胡三省注は、『晋書・成帝紀』を元に、「密雲山は漢代の平岡県界内にあったようだ」と解説しています。

 

段遼は令支を発つ時、慕容翰の手を取り、泣いてこう言いました「卿の言を用いなかったので、自ら敗亡を招いてしまった。私はもとより(敗亡を)甘んじて受け入れているが、卿の居場所をなくならせてしまったので、深く慚愧している(不用卿言,自取敗亡。我固甘心,令卿失所,深以為愧)。」

慕容翰は北の字文氏に奔りました。

 

段遼の左右長史・劉群、盧諶、崔悦等が府庫を封鎖して後趙に投降を請いました(劉群、盧諶、崔悦の三人は東晋元帝大興元年・318年に段氏に奔りました)

 

天王は将軍・郭太と麻秋を派遣し、軽騎二万を率いて段遼を追撃させました。郭太等が密雲山に至って段遼の母と妻を捕え、三千級を斬首します。

段遼は単騎で険阻な地に走り、子の段乞特真を後趙に派遣しました。段乞特真が上表を持って名馬を献上します。

天王はこれを受け入れました。

 

天王は令支宮(『資治通鑑』胡三省注によると、段氏は令支を都にして住居を宮殿にしていました)に入り、(功臣に対して)それぞれに差をつけて論功封賞しました。

段国の民二万余戸を司・雍・兗・豫の四州に移し、士大夫で才行(才能・徳行)がある者は全て擢敍(抜擢・任用)しました。

 

陽裕が後趙の軍門を訪ねて降りました。

天王が譴責して言いました「卿は昔、奴虜(奴隷、または賎しい賊)として逃走したのに、今、士人として来た。天命を理解して、逃げ隠れしたくてもその地がなくなったのか(卿昔為奴虜走,今為士人来。豈識知天命,将逃匿無地邪)。」

陽裕が答えました「臣は昔、王公(王浚)に仕えても匡済(匡正・救済)することができず、段氏に逃げてもやはり保全させることができませんでした(臣昔事王公不能匡済,逃于段氏復不能全)。今の陛下は、天網(網のような天道。国法)が高く張って四海を籠絡しており、幽・冀の豪傑で風従(呼応、帰順)しない者はなく、臣のような者も肩を並べて次々に至っているので、臣だけが慚愧する必要はありません(今陛下天網高張,籠絡四海,幽冀豪傑莫不風従,如臣比肩,無所独愧)。生死の命(命運)は陛下が制すだけです(生死之命,惟陛下制之)。」

天王は陽裕の言葉を聞いて悦び、すぐ北平太守に任命しました。

 

[二] 『資治通鑑』からです。

夏四月癸丑(初三日)、東晋が慕容皝を征北大将軍・幽州牧・領平州刺史にしました。

 

『晋書・第七・成帝紀』は「石季龍(石虎)が慕容皝に敗れた。癸丑(初三日)、東晋が慕容皝に征北大将軍を加えた」と書いていますが、後趙と慕容皝が戦うのは後の事です。

 

[三] 『資治通鑑』からです。

成漢帝(成主・李期)は驕虐が日に日に甚だしくなりました。多数の者が誅殺され、しかもその資財や婦女が籍没(登記して没収すること)されたため、大臣の多くが不安になります。

漢王・李寿はかねてから貴重な地位におり、威名があったため、漢趙帝や建寧王・李越等が皆、李寿を忌み嫌っていました。

李寿は禍から逃れられなくなることを懼れて、入朝が必要になると、常に辺書(辺境から送られた文書)を偽造し、警急(危急)を理由に辞退しました(『資治通鑑』胡三省注によると、李寿は涪城を鎮守しています)

 

巴西の処士・龔壮は父や叔父が全て李特に殺されました。

龔壮は仇に報いようと欲していたため、年を重ねても喪を解かず(積年不除喪)、李寿がしばしば礼を用いて招聘しても応じませんでした。

しかし(この頃になって)龔壮が李寿に会いに行きました。

李寿が秘かに自安の策を問うと、龔壮はこう言いました「巴・蜀の民は本来全て晋臣です。節下(『資治通鑑』胡三省注によると、魏晋以来、符節を持って(持節、假節)地方に出た者は「節下」と呼ばれました)がもし兵を発して西の成都を取り、晋に対して藩(臣)と称すことができるなら、誰が節下のために争って腕を振るい前駆になろうとしないでいられるでしょう(誰不争為節下奮臂前駆者)。そのようになれば、福が子孫に流れ、名が不朽に垂らされます(残されます)。今日の禍から逃れられるだけのことではありません(豈徒脱今日之禍而已)。」

李寿はこの意見に納得し、秘かに長史・略陽の人・羅恆や巴西の人・解思明と成都攻撃について謀りました。

 

ところが成漢帝がこの事を詳しく聞いたため(期頗聞之)、頻繁に許涪(成漢帝が親任している中常侍です)を李寿のもとに派遣してその動静を伺いました。

また、李寿の養弟である安北将軍・李攸を鴆殺(毒殺)しました。

 

李寿は妹夫・任調の書を偽造して、成漢帝が李寿を取ろうとしている(捕えようとしている)という情報を流しました(『資治通鑑』胡三省注が解説しています。李寿は「李期が李寿を取ろうとしている」と称すことで、衆人を怒らせようとしました)。李寿の衆はこれを信じます。

そこで李寿は歩騎一万余人を率いて涪を出発し、成都を襲いました。(将兵には)褒賞として城中の財物を与えることを約束し、自分の将・李奕を前鋒に任命します。

 

成漢帝は、図らずも李寿が至ったため、まだ備えを設けていませんでした。李寿の世子・李勢が翊軍校尉を勤めており、門を開いて李寿の兵を中に入れます。

こうして李寿は成都を攻略し、兵を宮門に駐屯させました。

成漢帝は侍中を派遣して李寿を慰労しました。

 

李寿は上奏して、建寧王・李越と景騫、田褒、姚華、許涪および征西将軍・李遐、将軍・李西等が姦悪を抱いて政事を乱したことを訴え、全て捕えて殺しました。その後、兵を放って大掠(大略奪)させます。(混乱に陥った成都は)数日後にやっと安定しました。

 

李寿が偽って太后・任氏の令を発し、李期を廃して邛都県公(『資治通鑑』胡三省注によると、邛都県は越巂郡に属しました)とし、別宮に幽閉しました。

また、戾太子(李班。成帝咸和九年・334年参照)に追諡して哀皇帝としました。

 

羅恆、解思明、李奕等が李寿に進言し、鎮西将軍・益州牧・成都王を称して晋の藩臣となり、邛都公・李期を建康に送るように勧めました。

これに対して、任調や司馬・蔡興、侍中・李豔等は李寿に帝を称すように勧めます。

李寿が筮(占)をするように命じると、占者は「数年の天子になることができます(可数年天子)」と言いました。

任調が悦んで言いました「一日でも充分です。数年ならなおさらではありませんか(一日尚足,況数年乎)。」

解思明が問いました「数年の天子と百世の諸侯とではどちらが良いでしょう(数年天子孰与百世諸侯)?」

李寿はこう答えました「朝に道(道理)を聞くことができたら、夜に死んでもかまわない(朝に願いをかなえることができたら、その夜に死んでもかまわない。原文「朝聞道,夕死可矣」。『論語』の言葉です)。」

こうして李寿は皇帝の位に即きました。国号を成から漢に改め、大赦して玉恒四年から漢興元年に改元します。

 

『晋書・載記第二十一』によると、李寿は字を武考といい、李驤(李特の弟)の子です。諡号は昭文帝といいます。

『資治通鑑』では「漢主・寿」としていますが、この通史では「成漢昭文帝(漢主・李寿)」と書きます。

 

昭文帝は安車(坐って乗る小車)と束帛(帛の束)を贈って龔壮を招き、太師に任命しようとしました。しかし龔壮は出仕しないことを誓い、昭文帝が贈った物も一切受け取りませんでした。

 

昭文帝は改めて宗廟を建てて、父の李驤を追尊して献皇帝としました。

また、母の昝氏を皇太后とし、妃の閻氏を皇后に、世子の李勢を皇太子に立てました。

旧廟を改めて大成廟としました(『資治通鑑』胡三省注によると、旧廟には李特と李雄が祀られていました。李雄は国号を「成」と称したので、李特と李雄の旧廟は「大成廟」に改められました)諸制度の多くも更易(変更、改定)されます。

 

董皎を相国に、羅恆を尚書令に、解思明を広漢太守に、任調を鎮北将軍・梁州刺史に、李奕を西夷校尉に、従子(甥、または同姓で自分より下の世代の親族)・李権を寧州刺史にしました。

公卿や州郡の官は全て昭文帝の僚佐を用いて交替させました。

成氏の旧臣や近親および六郡の士人(『資治通鑑』胡三省注によると、六郡の士人は李特兄弟と共に入蜀した者を指します)は皆、疏斥(疎遠・排斥)されました。

 

邛都公・李期が嘆いて言いました「天下の主が小県の公になってしまった。死んだ方がましだ(天下主乃為小県公,不如死)。」

五月、李期が自縊して死にました。

『晋書・載記第二十一』によると、李期は二十五歳でした。

昭文帝は李期に幽公という諡号を贈り、王礼を用いて埋葬しました。

 

『晋書・第七・成帝紀』は「夏四月、李寿が李期を弑し、身分を越えて偽位(偽の皇帝の位)に即いた(僭即偽位)。国を漢と号した」と書いています。

 

 

次回に続きます。

東晋時代44 東晋成帝(十九) 王導と庾亮 338年(2)

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