東晋時代44 東晋成帝(十九) 王導と庾亮 338年(2)

今回は東晋成帝咸康四年の続きです。

 

[四] 『資治通鑑』からです。

後趙天王(趙王・石虎)は、燕王・慕容皝が趙兵と合流して段遼を攻撃せず、自らその利を独占したため、討伐しようと欲しました(『資治通鑑』胡三省注が解説しています。慕容皝は段氏の人民や畜産を奪ってから、趙軍が来るのを待たずに北に帰りました。そのため、後趙天王は慕容皝を討つことにしました)

太史令・趙攬が諫めて「歳星は燕分(燕の分野)を守っています。出師は必ず功がありません(師必無功)」と言いましたが、天王は怒って鞭で打ちました。

『資治通鑑』胡三省注によると、歳星は贏縮(進退)して命国(天命がある国)に留まりました。歳星が久しく留まっている国は徳が厚くて五穀が豊昌(豊穣)なので、伐ってはならないとされました。

 

後趙の動きを聞いた慕容皝は兵を整えて備えを設け(厳兵設備)、六卿(国相、司馬、奉常、司隸、太僕、大理)、納言、常伯、冗騎常侍といった官(前年参照)を廃しました。

 

後趙の戎卒(兵士)は数十万もいたため、燕人が震え恐れました。

慕容皝が内史・高詡に「どうするべきだ(将若之何)?」と問うと、高詡はこう答えました「趙兵は強いとはいえ、憂いるには足りません。ただ堅守してこれを拒めば、(彼等は)何をすることもできないでしょう(無能為也)。」

 

後趙天王が使者を四方に派遣して民夷(漢人と異民族)を招誘しました。

燕の成周内史・崔燾、居就令・游泓、武原令・常霸、東夷校尉・封抽、護軍・宋晃等が皆これに応じ、後趙が合わせて三十六城を得ます。游泓は游邃(慕容廆に仕えました。西晋愍帝建興元年・313年参照)の兄の子です。

 

冀陽の流寓の士(移住した人士)も共に太守・宋燭を殺して後趙に降りました。宋燭は宋晃の従兄です。

 

營丘内史・鮮于屈も使者を派遣して後趙に降ろうとしましたが、武寧令・広平の人・孫興が吏民に教え諭して共に鮮于屈を捕え、その罪を数え上げてから殺し、城門を閉じて拒守しました。

 

『資治通鑑』胡三省注によると、成周、冀陽、營丘郡は慕容廆が置きました(西晋愍帝建興二年)。居就県は、漢・晋は遼東郡に属しました。武寧は慕容氏が置いた県で、營丘郡に属しました。武原も慕容氏が置いた県のようです。

 

朝鮮令・昌黎の人・孫泳は衆を率いて後趙に抵抗しました。

大姓(大族)の王清等が秘かに謀って後趙に応じようとしましたが、孫泳が捕えて斬ったため、共謀した数百人は惶怖(恐惧)して罪を請いました(自首しました。裁きを請いました)。孫泳は全て赦して共に拒守しました。

 

楽浪太守・鞠彭 (東晋元帝太興二年・319年参照)は、境内が全て叛したため、郷里の壮士二百余人を選び、共に棘城に還りました。

『資治通鑑』胡三省注によると、この楽浪は漢が置いた古郡ではなく、慕容廆が置いた郡です(西晋愍帝建興元年・313年参照)

 

(五月)戊子(初九日)、後趙の兵が進んで棘城に迫りました。

燕王・慕容皝が出亡(出奔・逃亡)しようとしましたが、帳下将・慕輿根が諫めてこう言いました「趙は強く我々は弱いので、大王が一度足を挙げたら、趙の気勢が完成してしまいます(趙強我弱,大王一挙足則趙之気勢遂成)。趙人に国民を収略(獲得・略奪)させたら、(彼等の)兵が強くなって穀物が満たされ、二度と敵対できなくなります(使趙人収略国民,兵強穀足,不可復敵)。心中で思うに、趙人は正に大王がそのようにすること(逃亡すること)を欲しているのです。なぜ(自ら)その計中に入るのですか。今、堅城を固守すれば、勢(気勢)が百倍になるので、たとえ趙が急攻しても、なお支えるに足ります(縦其急攻,猶足枝持)。形勢を観て変化を察し、間に出て(隙を突いて)利を求めるべきです(観形察変,間出求利)。もし事が成就できなくても、まだ逃走する機会は失っていません(如事之不済,不失於走)。なぜ風を望んだだけで(動静を聞いただけで)全てを棄てて去り、必ず滅亡することになる理(道理、方法)を為すのですか(柰何望風委去,為必亡之理乎)。」

慕容皝は逃走を中止しましたが、まだ懼れが顔色に出ていました(猶懼形於色)

 

玄菟太守・河間の人・劉佩が言いました「今は強寇が外にいて、衆心が恟懼(動揺・恐惧)しており、事の安危は一人に繋がっています(大王にかかっています)。大王は、このような時において責任を委ねるべき者はおらず、自らを強くして将士を励ますべきであり、弱い姿を示してはなりません(大王此際無所推委,当自強以厲将士,不宜示弱)。事は急なので、臣が出撃することを請います。たとえ大勝できなくても、衆心を安んじるには足ります(事急矣,臣請出撃之,縦無大捷,足以安衆)。」

劉佩は敢死(命を棄てること、恐れを知らないこと)の数百騎を率いて出撃し、趙兵を撃ちました。向かう場所で趙兵が分散潰滅します(所向披靡)

こうして劉佩が趙兵を斬獲して帰還したため、士気が倍増しました。

 

慕容皝が封奕に計を問うと、封奕はこう言いました「石虎の凶虐は既に甚だしいので、民も神も共に嫌っています(民神共疾)。禍敗が至るまで、どうして何日もあるでしょう(すぐに禍敗が至ります。原文「禍敗之至,其何日之有」)。今、国を空にして遠くから来ましたが、攻守とは形勢を異ならせるものなので(攻めるのは難しく守るのは容易なので。原文「攻守勢異」)、戎馬(軍馬)がたとえ強くても、(我々に対して)患を為すことはできません。兵を留めて日を重ねたら、釁隙(間隙)が自ずから生まれます(頓兵積日,釁隙自生)(我々は)ただ堅守してそれを待つだけです。」

慕容皝の意(心)がやっと安んじました。

 

ある人が慕容皝に投降するように説きましたが、慕容皝は「孤(私)がまさに天下を取ろうとしているのに、なぜ投降を口にするのだ(孤方取天下,何謂降也)」と言いました。

 

後趙の兵が四面から蟻のように城壁を登り始めました(四面蟻附緣城)

しかし慕輿根等が昼夜力戦したため、合わせて十余日経っても、後趙の兵は城を攻略できませんでした。

壬辰(十三日)、後趙の兵が撤退を始めました(後趙の兵が棘城に迫ったのは戊子(初九日)で、撤退したのは壬辰(十三日)なので、「十余日経っても攻略できなかった」という記述と合いません。日付に誤りがあるかもしれません)

 

慕容皝は子の慕容恪を派遣し、二千騎を率いて追撃させました。後趙の兵が大敗して三万余級が斬獲されます。

後趙の諸軍は皆、甲冑を棄てて逃潰(逃走潰滅)しましたが、游撃将軍・石閔の一軍だけは安全に退却しました。

 

石閔の父・石瞻は内黄の人で(『資治通鑑』胡三省注によると、内黄県は魏郡に属しました。陳留に外黄があったため、「内」を加えました)、元の姓は冉でしたが、後趙明帝(趙主・石勒)が陳午を破った時に冉瞻を獲て、石虎に自分の子として養わせました(『晋書・載記第七』によると、冉瞻は元の名を冉良といい、石勒が冉瞻を獲た時はまだ十二歳でした。驍猛多力で、攻戦したら敵対できる者がなく、左積射将軍・西華侯に任命されました)

石閔は驍勇で戦を善くし、策略も多かったため、石虎が愛して諸孫と同じように遇しました(比於諸孫)

 

後趙天王が鄴に還りました。

劉群を中書令に、盧諶を中書侍郎に任命します。

蒲洪が功績によって使持節・都督六夷諸軍事・冠軍大将軍になり、西平郡公に封じられました。

 

石閔が天王に言いました「蒲洪は雄儁(雄俊)で、将士の死力を得ており、諸子も皆、非常の才があります。しかも強兵五万を握って近畿に屯拠(駐屯・占拠)しているので(『資治通鑑』胡三省注によると、蒲洪が駐屯している枋頭は鄴の近くにありました)、秘かにこれを除くことで、社稷を安んじるべきです。」

しかし天王は「私はまさにその父子に頼って呉・蜀を取ろうとしているのだ。なぜそれを殺すのだ(吾方倚其父子以取呉蜀,柰何殺之)」と言い、蒲洪をますます厚く遇しました。

 

燕王・慕容皝が兵を分けて叛した諸城を討たせ、全て下しました。燕が国境を拡げて凡城に至ります(『資治通鑑』胡三省注によると、盧龍東から青陘を越えて凡城に至るまでは二百里あり、凡城から東北に出て平剛故城に向かえば約百八十里あり、黄龍城に向かえば五百里ありました)

 

崔燾と常霸は鄴に奔り、封抽、宋晃、游泓は高句麗に奔りました。

 

慕容皝は鞠彭、慕輿根等を褒賞し、叛した者を全て裁きました。その結果、誅滅されるべき者が甚だ多数に上りましたが、功曹・劉翔が彼等のために申理(弁明)したため、多くの者が命を助けられました。

 

後趙が棘城を攻撃した時、燕の右司馬・李洪の弟・李普が棘城は必ず敗れると判断したため、李洪に対して、出奔して禍を避けるように勧めました。

しかし李洪はこう言いました「天の道とは幽遠であり、人の事も知るのは難しい(天道幽遠,人事難知)。しかも委任に当たっているので(責任を委ねられているので)、軽率に動いて自ら後悔するようなことをするべきではない(且当委任,勿軽動取悔)。」

それでも李普が頑なに要請して止まないため、李洪は「卿の意見が明審(精明詳細)なら、卿自身はそれを行え(卿意見明審者,当自行之)。私は慕容氏の大恩を受けたので、義において去就の選択はない(義無去就)。ここで命をかけて尽力するだけだ(当效死于此耳)」と言い、涙を流して弟と決別しました。

李普は後趙に降りましたが、趙軍に従って南に退却する時、喪乱の中で死にました。

李洪はこの一件があったため、忠篤によって名が知られるようになりました。

 

後趙天王が渡遼将軍・曹伏を派遣し、青州の衆を率いて海島を守らせました(『晋書・載記第六』によると、天王は昌黎を伐とうと謀り、渡遼将軍・曹伏を派遣して、青州の衆を率いて海を渡らせ、蹋頓城を守らせようとしました。しかし曹伏は水がなかったため帰還し、これを機に海島を守りました)。穀物三百万斛を運んで海島に支給します。

また、三百艘の船で穀物三十万斛を運んで高句麗に向かわせ、典農中郎将・王典に一万余の衆を率いて海浜で屯田させ、更に青州に命じて千艘の船を造らせました。

こうして後趙は改めて燕攻撃を謀りました。

 

[五] 『資治通鑑』からです。

後趙の太子・石宣が歩騎二万を率いて朔方の鮮卑・斛摩頭を撃ち、破って四万余級を斬首しました。

 

[六] 『資治通鑑』からです。

冀州八郡で大蝗害がありました。

後趙の司隸(『資治通鑑』胡三省注によると、後趙は鄴を都にしたので、冀州が司部になりました)が守宰(郡県の長官)の罪を問うように請いました(請坐守宰)

しかし天王(趙王・石虎)はこう言いました「これは朕の失政がもたらしたのに、守宰に咎を負わせようと欲したら、どうして罪己(自分の罪を認めて反省すること)の意といえるだろう(此朕失政所致而欲委咎守宰,豈罪己之意邪)。司隸は讜言(直言)を進めて朕の不足を輔佐しようとせず、逆に妄りに無辜(無罪)の者を陥れようと欲したので、白衣で職を領すべきである(平民の身で司隸の職を行うべきである。原文「司隸不進讜言佐朕不逮而欲妄陷無辜,可白衣領職」)。」

 

天王が襄城公・石涉帰と上庸公・石日帰に命じて、衆を指揮して長安を守らせました。

二帰(石涉帰と石日帰)が、鎮西将軍・石広は個人的に恩沢を樹立して不軌を謀っている、と告発しました。

天王は石広を呼び戻して鄴に至らせ、殺しました。

 

[七] 『晋書・第七・成帝紀』と『資治通鑑』からです。

乙未(十六日)、東晋が司徒・王導を太傅・都督中外諸軍事に、司空・郗鑒を太尉に、征西将軍・庾亮を司空に任命しました。

 

六月、王導を丞相とし、司徒の官を廃して丞相府と合併させました。

これは『資治通鑑』の記述です。『晋書・第七・成帝紀』は「六月、司徒を丞相に改め、太傅・王導をそれ(丞相)にした」と書いています。

『資治通鑑』胡三省注によると、東漢時代は司徒が丞相の職に当たりました。今回、王導が丞相になったので、司徒府を廃して丞相府と併せることになりました。王導が死んでから、また丞相を廃して司徒府に戻します。後に南宋の世祖(孝武帝・劉駿)が南郡王・劉義宣を丞相にした時は、司徒府もそのままにされました。

 

王導は性格が寛厚で、王導に委任された諸将・趙胤、賈寧等は多くが法を奉じなかったので(遵守しなかったので)、大臣が患いとしました。

庾亮が郗鑒に牋(書)を送ってこう伝えました「主上(陛下)は八九歳から成人になるまで、入ったら宮人の手中におり、出たら武官や小人がいるだけで、読書においては音句の教育を受けたことがなく、顧問(帝王が意見を求める侍従の臣)においてもいまだ君子に遇ったことがありません(主上自八九歳以及成人,入則在宮人之手,出則唯武官小人,読書無従受音句,顧問未嘗遇君子)。秦政(秦始皇帝)は自分の黔首(民衆)が暗愚になることを欲しましたが(『資治通鑑』胡三省注によると、『詩』『書』を焼いたことを指します)、天下がその誤りを知っています。自分の主が暗愚になることを欲するのは、なおさら間違っています(秦政欲愚其黔首,天下猶知不可,況欲愚其主哉)。人主は春秋が既に盛んなので(既に成長したので。旺盛な年齢になったので)、明主の政事を子(若い主君)に還すべきです(政権を陛下に還すべきです。原文「宜復子明辟」。「復子明辟」は『尚書』の言葉で、政権を返還することを意味します。西周の周公と成王の古事が元になっています)(それなのに王導は)稽首帰政することなく(叩頭して政権を奉還しようとせず)、最近、師傅の尊位に坐るようになって、無頼の士を多く養っています(不稽首帰政,甫居師傅之尊,多養無頼之士)。公(あなた)と下官(私)は並んで託付の重(先帝の遺命。幼帝を託されたという重任)を荷いました。大姦を掃き清めなかったら、どうして地下で先帝に会えるでしょう(大姦不掃,何以見先帝於地下乎)。」

庾亮は郗鑒と共に兵を挙げて王導を廃したいと思いましたが、郗鑒は同意しませんでした。

 

陶侃の子に当たる南蛮校尉・陶称(『資治通鑑』胡三省注によると、南蛮校尉は西晋武帝が襄陽に置き、後に江陵が治所になりました)が庾亮の謀を王導に語りました。

ある人が王導に対して秘かに備えを為すように勧めましたが、王導はこう言いました「私と元規(庾亮の字)の休戚(喜楽と憂慮。利害)は同じなので、悠悠の談は、智者の口から絶たせるべきだ(智者は世俗における荒唐な話を口にするべきではない。原文「吾与元規休戚是同,悠悠之談,宜絶智者之口」)。君の言葉のように、もし元規がここに来たとしても、私はすぐに角巾(頭巾の一種)を被って邸宅に還るだけだ。また何を懼れるのだ(則如君言元規若来,吾便角巾還第,復何懼哉)。」

王導は陶称にも書を送って「庾公は帝の元舅(母の兄)だ。善く彼に仕えるべきである(宜善事之)」と伝えました。

 

征西参軍・孫盛が秘かに庾亮を諫めて「王公は常に世外の懐(俗世の常人とは異なる心)があります。どうして凡人の事を為そうとするでしょう(豈肯為凡人事邪)。これは間違いなく佞邪の徒が内外を離間させようと欲しているのです(此必佞邪之徒欲間内外耳)」と言ったため、庾亮は王導廃位の謀を中止しました。

孫盛は孫楚(西晋の官員・名士。西晋恵帝永熙元年・290年参照)の孫です。

 

当時、庾亮は外鎮にいましたが、遠くから朝廷の権を統御しており、しかも上流を拠点にして強兵を擁していたため、趣勢の者(権勢になびく者)の多くが帰附していました。

王導は内心、平穏ではいられなかったため、常に西風に遭って塵が起きると、扇を挙げて自分を覆い、おもむろに「元規の塵が人を汚した」と言いました。

『資治通鑑』胡三省注が解説しています。王導は言語の間において不平の心を制御することができませんでしたが、その様子はこの程度の発言があっただけでした(導不平之心不能自禁於言語之間者,惟此而已)

 

王導が江夏の人・李充を丞相掾にしました。

李充は当時の風俗が浮虚(浮華空虚。うわべだけ飾って中身がないこと)を崇尚(尊重)していると考え、『学箴』を著してこう主張しました「老子は『仁を絶って義を棄てれば、民が孝慈に戻る(絶仁棄義,民復孝慈)』と言ったが、仁義の道が絶たれた後に、やっと孝慈が生まれるというのか(豈仁義之道絶,然後孝慈乃生哉)。思うに、(老子は)仁義を本性とする者が少なく、仁義を利とする者が多いことを患いたので、責任を聖人(仁義の思想を説いた儒家の聖人)に負わせて陳迹(過去の出来事。歴史)に関連づけたのであろう(蓋患乎情仁義者寡而利仁義者衆,将寄責於聖人而遺累乎陳迹也)。およそ人とは形(外表)を見る者が多く、道に及ぶ者は稀なので、追究が深くなればなるほど、根本から遠く離れていくのである(凡人見形者衆,及道者鮮,逐迹逾篤,離本逾遠)。」

李充はこのような考えを元に世の弊害を除こうとし、『学箴』の中でこう言いました「名(名声。外表的な評判)が明らかなら、道が廃されている。隆盛しているものが損なわれたら、衰退したものが尊重されるようになる(名之攸彰,道之攸廃。及損所隆,乃崇所替)。仁がなかったら万物を成長させることができず、義がなかったら羞恥の概念を統一させることができない(非仁無以長物,非義無以齊恥)。仁義とはもとより遠くにしてはならず、(為すべきは)仁義を害すものを去らせることだけである(仁義固不可遠,去其害仁義者而已)。」

 

 

次回に続きます。

東晋時代45 東晋成帝(二十) 拓跋什翼犍 338年(3)

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