東晋時代45 東晋成帝(二十) 拓跋什翼犍 338年(3)

今回で東晋成帝咸康四年が終わります。

 

[八] 『資治通鑑』からです。

成漢で、李奕の従兄に当たる広漢太守・李乾が「大臣が皇帝の廃立を謀っている」と告発しました。

 

秋七月、昭文帝(漢主・李寿)が子の李広に命じて前殿で大臣と盟を結ばせ、李乾を漢嘉太守に移しました。

また、李閎を荊州刺史に任命して巴郡を鎮守させました。李閎は李恭(李特の将。西晋恵帝永寧元年・301年参照)の子です。

 

八月、蜀中で久しく雨が続き、百姓が饑疫に苦しんだため、昭文帝が群臣に命じて得失について極言させました(諫言を極めさせました)

龔壮が封事(密封した上書)を提出してこう称しました「陛下は起兵したばかりの時、上は星辰を指さし、明らかに天地に告げ、血をすすって衆人と盟約し、国を挙げて(晋の)藩臣を称したので、天が(陛下に)応じて人々が悦び、大功を定めることができたのです(陛下起兵之初,上指星辰,昭告天地,歃血盟衆,挙国称藩,天応人悦,大功克集)。ところが論者が諭す前に、とりあえず時勢に応じて称制(皇帝の代わりに命を出すこと)しました(而論者未諭,権宜称制)。今、淫雨(長雨)が百日も続き、饑疫も並んで至ったのは、あるいは天がこれを借りて陛下に警告を示しているのです(天其或者将以監示陛下故也)。愚見によるなら、前盟を遵守して建康を推奉するべきです。(そうすれば)(東晋)は必ず高爵・重位を愛すことなく(惜しむことなく)大功に報います。階級が一等落ちることになりますが(皇帝から王になりますが)、子孫は無窮となり、永く福祚(福禄)が保たれるので、それも素晴らしいことではありませんか(雖降階一等,而子孫無窮,永保福祚,不亦休哉)。論者のある者は、『二州(『資治通鑑』胡三省注によると、梁州と益州です)の人は晋に附けば栄えるが、六郡の人(李雄と共に入蜀した人々)はこれに仕えても便(利)がない』と言っています(論者或言二州附晋則栄,六郡人事之不便)(しかし)昔、公孫述が蜀にいた時は羈客(外地から来た者。『資治通鑑』胡三省注によると、荊邯、王元、田戎、延岑等を指します)が用事し(政事を行い)、劉備が蜀にいた時は楚士(荊州の士。『資治通鑑』胡三省注によると、龐統、黄忠、董和、劉巴、馬良兄弟、呂乂、廖立、李厳、楊儀、魏延、蒋琬、費禕、董允等を指します)の多くが貴くなりましが、呉・鄧(東漢の呉漢と魏の鄧艾)が西伐したら、国を挙げて屠滅されました。どうして客主(蜀の人と外地から来た人)の違いがあるのでしょう(寧分客主)。論者は安固の基(安定・平安の基本)(思慮が)達することなく、目先の名位を惜しみ、劉氏の守令はまさに(魏晋の)州郡に仕えたとみなしており、彼等の国が亡んで主が替わったことを理解していません(原文「論者不達安固之基,苟惜名位,以為劉氏守令方仕州郡,曾不知彼乃国亡主易」。恐らく、「論者のある者は、目先の名声や地位を惜しんでおり、蜀漢の守令は魏・晋でも州郡の任を受けることができたので、自ら晋に帰順する必要はない、と考えている。そのような者達は、蜀漢の国が亡んで主君が替わったということを理解していない」という意味だと思います)(国が亡んで主が替わることを)どうして今日の義挙(自ら晋に帰順すること)と同じにできるのでしょう。主が栄えれば、臣下も顕貴になるものです(豈同今日義挙,主栄臣顕哉)。また、論者は臣(私)が法正のようになるべきだともみなしています(原文「論者又謂臣当為法正」。『資治通鑑』胡三省注によると、法正は劉備に成都を取るように啓蒙し、龔壮も李寿に李期を取るように諭したので、論者は二人を並べました)(しかし)臣は陛下の大恩を蒙り、臣が安んじるところをほしいままにしています(臣は陛下の大恩のおかげで、自由に行動しています。原文「恣臣所安」)。栄禄に至っては、漢・晋を問わず、臣はどちらにもいないので(東晋にも成漢にも仕えていないので)、どうしてまた法正に倣うことができるでしょう(復何為效法正乎)。」

昭文帝は上書を読むと心中で慚愧し、隠して公表しませんでした。

 

[九] 『晋書・第七・成帝紀』からです。

秋八月丙午(『二十史朔閏表』によると、この年八月は「己酉」が朔なので、「丙午」はありません)、東晋が寧州を分けて安州を置きました。

 

[十] 『資治通鑑』からです。

九月、成漢の僕射・任顔が謀反して誅殺されました。任顔は任太后の弟です。

 

昭文帝(漢主・李寿)はこれをきっかけに成漢武帝(成主・李雄)の諸子を全て誅殺しました。

『資治通鑑』胡三省注が解説しています。任后は李雄の正室でした。昭文帝は任顔が諸甥(姉妹の子)を主に立てようとして反したと考えたので、李雄の諸子を全て殺すことで人々の希望を絶たせました。

 

[十一] 『資治通鑑』からです。

冬十月、東晋の光禄勲・顔含が老齢を理由に位を譲りました(以老遜位)

 

(この頃)論者がこう主張しました「王導は帝の師傅であり、名位が隆重なので、百僚は降礼(跪拝の礼)を為すべきだ。」

太常・馮懐が顔含に意見を求めると、顔含はこう言いました「王公は貴重とはいえ、理(道理)においては、偏敬(偏った敬重。過度な礼制)はないものです。降礼の言は、あるいは、諸君の事宜(為すべきこと。事の道理)ですが、鄙人(私)は老いたので、時務(時の事情、形勢)を理解することができません(鄙人老矣,不識時務)。」

この後、顔含は知人にこう言いました「私が聞くに、人の国を伐つ時は仁人に意見を求めないものだという(吾聞伐国不問仁人)。先ほど、馮祖思(祖思は馮懐の字です)が私に佞(媚び諂うこと)について質問したが、私に邪徳(奸邪な徳行)があるということだろうか(向馮祖思問佞於我,我豈有邪徳乎)。」

 

郭璞がかつて顔含に遇い、顔含のために筮(占)を行おうとしました。

しかし顔含はこう言いました「年(寿命)は天にあり、位(官位)は人にある。自分を修めても天が(長寿を)与えなかったら、それは命(天命)だ。道を守っても人が知らなかったら(人に理解されなかったら)、それは性(本性。天賦のもの)だ。自ずから性命(天賦のものと天命によって決められたもの)があるので、蓍亀(占卜に使う蓍草や亀の甲羅)を労す必要はない。」

 

顔含は致仕(引退)して二十余年後に九十三歳で死にました。

 

[十二] 『資治通鑑』からです。

代王・拓跋翳槐の弟・什翼犍は後趙で質(人質)になっていましたが(成帝咸和四年・329年参照)、翳槐が病を患ってから、諸大人に対して什翼犍を立てるように命じました。

 

翳槐が死ぬと、梁蓋等の諸大人は、大故(大喪)があったばかりなのに什翼犍は遠くにいるので、戻って来られるとは限らないと考え(来未可必)、また、到着するまでに変乱が起きる恐れもあったため、改めて新君の擁立について謀りました。

 

拓跋翳槐の次弟・拓跋屈は剛猛で詐(詐謀、欺瞞)が多く、仁厚な弟の拓跋孤に及ばなかったため、梁蓋等は共に拓跋屈を殺して拓跋孤を擁立しました。

しかし拓跋孤は同意せず、自ら鄴(後趙)を訪ねて什翼犍を迎え、自分の身を留めて質となることを請いました。

後趙天王(趙王・石虎)はこれを義とみなして二人とも送り出しました。

 

十一月、什翼犍が繁畤(『資治通鑑』胡三省注によると、繁畤県は雁門郡に属しました)の北で代王の位に即き、建国という年号を建てました。

『魏書・序紀第一』によると、什翼犍はこの時、十九歳でした。

 

什翼犍は国の半分を分けて拓跋孤に与えました。

 

代王・猗盧が死んでから(西晋愍帝建興四年・316年)、代国では多くの内難があり、部落が離散したため、拓跋氏は徐々に衰退していました。

しかし、什翼犍が立つと、雄勇で智略があり、祖業(祖先の業)を修めることができたので、国人が帰附しました。

 

代が始めて百官を置き、衆務(諸政務)を分担して掌管させました。代の人・燕鳳を長史に、許謙を郎中令に任命します。

また、始めて反逆・殺人・姦盗の法を制定しました。

什翼犍は、号令が明白、政事も清簡(清正簡潔)で、繋訊連逮の煩(「繋訊」は拘束審問、「連逮」は連帯して逮捕されることです)がなかったので、百姓が安んじました。

 

こうして代は、東は濊貊から西は破落那(国名。『資治通鑑』胡三省注によると、(唐代の)寧遠(国)は、元は抜汗那といい、または潑汗といい、元魏(北魏。拓跋氏が元氏に改姓したので、「北魏」は「元魏」ともいいます)の時代は破落那といいました。長安から八千里も離れており、西鞬城に居城にしました。真珠河の北に位置します)に及び、南は陰山に達して北は沙漠に至る全ての地がそろって帰服し、数十万人の衆を有すようになりました。

 

[十三] 『資治通鑑』からです。

十二月、段遼が密雲山から後趙に使者を派遣して、自分を迎え入れるように求めました。しかし暫くして後悔し、改めて燕に使者を派遣して迎え入れるように求めました。

 

後趙天王(趙王・石虎)が征東将軍・麻秋を派遣し、衆三万を率いて段遼を迎え入れさせました。この時、天王は麻秋に「投降を受けるのは敵を受けるのと同じだ。軽んじてはならない(受降如受敵,不可軽也)」と勅令しました。

また、尚書左丞・陽裕が段遼の旧臣だったので、麻秋の司馬に任命しました。

 

一方、燕王・慕容皝も自ら諸将を率いて段遼を迎え入れました。段遼は燕と共に秘かに趙軍の覆滅を謀ります。

慕容皝は慕容恪を派遣して、精騎七千を密雲山に伏せさせ、三藏口(『資治通鑑』胡三省注によると、「三藏」は「西藏水」「中藏水」「東藏水」の三つの川を指します)で麻秋を大いに敗りました。後趙の死者が十分の六七に上ります。麻秋は徒歩で逃走して免れましたが、陽裕は燕に捕えられました。

 

後趙の将軍・范陽の人・鮮于亮が馬を失い、歩いて山沿いに逃げましたが、進めなくなったため、そこに留まって端坐(正座。姿勢を正して坐ること)しました。

燕兵が鮮于亮を囲み、叱咤して立たせようとしましたが、鮮于亮はこう言いました「この身は貴人なので、義によって小人に屈することはない(身是貴人,義不為小人所屈)。汝等が(私を)殺せるのならすぐに殺せ。それができないのなら去れ(汝曹能殺亟殺,不能則去)。」

鮮于亮の儀観(儀容・容貌)が豊偉(壮健・魁夷)で、声気(語気・声色)が雄厲(雄偉・激烈)だったため、燕兵は恐れて殺すことができず、慕容皝に報告しました。

慕容皝は馬を連れて鮮于亮を迎えに行き、言葉を交わして大いに悦びました。そこで、鮮于亮を用いて左常侍(『資治通鑑』胡三省注によると、晋制では、諸王国のうち、大国が左・右常侍を置きました)に任命し、崔毖の娘を娶らせました。

 

慕容皝は段遼の衆を全て得ました。段遼を上賓の礼で遇し、陽裕を郎中令に任命します。

 

後趙天王は麻秋が敗れたと聞き、怒ってその官爵を削りました。

 

 

次回に続きます。

東晋時代46 東晋成帝(二十一) 蔡謨 339年(1)

 

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