東晋時代46 東晋成帝(二十一) 蔡謨 339年(1)

今回は東晋成帝咸康五年です。二回に分けます。

 

東晋成帝咸康五年

成漢昭文帝漢興二年/後趙天王建武五年

前涼文王太元十六年/前燕王(慕容皝)三年

己亥 339年

 

[一] 『晋書・第七・成帝紀』と『資治通鑑』からです。

春正月辛丑(二十五日)、東晋が大赦しました。

 

[二] 『晋書・第七・成帝紀』と『資治通鑑』からです。

三月乙丑(『二十史朔閏表』によると、この年三月は「丙子」が朔なので、「乙丑」はありません))、東晋の広州刺史・鄧岳(『資治通鑑』では「鄧岳」、『晋書・成帝紀』では「鄧嶽」です)が兵を率いて成漢の寧州を撃ちました。

成漢の建寧太守・孟彦が刺史・霍彪を捕えて東晋に降りました(これは『資治通鑑』の記述です。『晋書・成帝紀』は「建寧の人・孟彦が李寿の将・霍彪を捕えて降った」と書いています。成漢は東晋成帝咸和八年・333年に寧州を取り、咸和九年・334年に霍彪を寧州刺史にしました)

 

[三] 『資治通鑑』からです。

東晋の征西将軍・庾亮が中原の開復(回復)を欲しました。

そこで、上表して桓宣を都督沔北前鋒諸軍事・司州刺史に任命し、襄陽を鎮守させました。また、上表して弟の臨川太守・庾懌を監梁雍二州諸軍事・梁州刺史に任命し、魏興を鎮守させ、西陽太守・庾翼を南蛮校尉・領南郡太守に任命して江陵を鎮守させ、それぞれに符節を授けました(皆假節)

『資治通鑑』胡三省注によると、東晋明帝太寧三年(325年)に東晋の李矩が司州刺史の立場で魯陽(荊州に属します)に退き、その地で死んでから、司州の治所は荊州界内に置かれるようになりました。本年、桓宣が司州刺史として襄陽を鎮守することになり、襄陽が司州の治所に定められました。かつて、周訪が梁州を統領した時も襄陽を治所にしましたが、今回、襄陽が司州の治所になったため、梁州の治所は魏興に遷されました。

 

庾亮は自分の豫州刺史の任を解いて、征虜将軍・毛寶に授けるように請いました。

成帝は詔を発して毛寶を監揚州之江西諸軍事・豫州刺史に任命し、西陽太守・樊峻と共に精兵一万人を率いて邾城を守らせました(『資治通鑑』胡三省注によると、邾城は江北にありました。漢代の江夏郡邾県の故城です。楚宣王が邾を滅ぼして国君をこの地に遷したため、邾が地名になりました。西陽は、漢代は江夏郡に属す県でしたが、魏が分けて弋陽郡に属させ、西晋恵帝が弋陽から分けて西陽国にしました。江左(東晋)は国を廃して郡にしました)

 

建威将軍・陶称を南中郎将・江夏相に任命して沔中に入らせました。

陶称は二百人を率いて東下し、庾亮に会いに行きました(庾亮は武昌にいます)

しかし庾亮は以前から陶称の軽狡(軽率狡猾)を嫌っていたため、陶称の前後の罪悪を譴責し、捕えて斬りました(『資治通鑑』胡三省注によると、庾亮はかねてから陶侃(陶称の父)を怨んでおり、しかも陶称が庾亮と王導の関係を悪化させようとしたため(前年参照)、私忿(私怨、私憤)によって陶称を殺害しました)

 

魏興は険遠の地だったため、後に朝廷は梁州刺史・庾懌に命じて半洲(『資治通鑑』胡三省注によると、半洲は江州界内にありました。東晋康帝の時代に褚裒が江州刺史になって半洲を鎮守します)に移って駐屯させ、改めて武昌太守・陳囂を梁州刺史に任命して、漢中に向かわせました。

また、参軍・李松を派遣して、成漢の巴郡や江陽を攻撃させました。

 

夏四月、(李松が)成漢の荊州刺史・李閎と巴郡太守・黄植を捕えて建康に送りました(『資治通鑑』胡三省注によると、成漢は巴郡に荊州を置きました)

 

『晋書・第七・成帝紀』はこう書いています「夏四月辛未(二十七日)、征西将軍・庾亮が参軍・趙松を派遣して巴郡、江陽を撃たせ、石季龍(石虎)の将・李閎、黄植等を獲た。」

この記述に対して中華書局『晋書・成帝紀』校勘記は「巴郡と江陽は李氏の地であり、石氏が所有していたのではない」と指摘しており、『資治通鑑』による「漢(成漢)の荊州刺史・李閎と巴郡太守・黄植」という記述が正しいと解説しています。

 

『資治通鑑』に戻ります。

成漢昭文帝(漢主・李寿)は李奕を鎮東将軍に任命し、李閎に代わって巴郡を守らせました。

 

庾亮が上書してこう言いました「蜀は甚だ弱く、(逆に)胡がなお強いので、大衆(大軍)十万を率いて石城(『資治通鑑』胡三省注によると、沔水が石城の西を流れており、城は山を利用して守りを固めていました。西晋恵帝が江夏西部を分けて竟陵郡を置き、石城を治所にしました)に移って鎮守し、諸軍を派遣して江・沔(長江・漢水沿岸)に羅布(分布)させ、伐趙の規(趙討伐の計)を為すことを欲します。」

成帝はこの意見を群臣に下しました。

丞相・王導が庾亮に同意するように請いましたが、太尉・郗鑒が意見を述べて「資用(資財・費用)がまだ備わっていないので、大挙すべきではありません」と主張しました。

 

太常・蔡謨も反対の意見を述べてこう主張しました「時には否泰(良悪、盛衰)があり、道には屈伸があります。もし強弱を計らず軽率に行動したら、日を終わらずに滅亡が訪れます。どうして功績を立てることができるでしょう(苟不計強弱而軽動,則亡不終日,何功之有)。今の計を為すなら、威を養って時を待つより相応しいことはありません(為今之計,莫若養威以俟時)。時の可否は胡の強弱に繋がっており、胡の強弱は石虎の能否(能力があるかどうか)に繋がっています。石勒が事を挙げてから、石虎は常に爪牙となり、百戦百勝して、ついに中原を定め、占拠している地が魏世(三国時代の魏)と同等になりました(所拠之地,同於魏世)。石勒が死んだ後、石虎が嗣君を挟んで(強制して)将相を誅しましたが、内難が平定されてからは、外寇を翦削(殲滅・削除)し、一挙によって金墉(洛陽)を抜き、再戦して石生を禽(擒、虜)とし、落ちている物を拾うように石聡を誅殺し、枯木を揺するように郭権を取り(原文「誅石聡如拾遣,郭権如振槁」。「拾遣」は物を拾うこと、「振槁」は枯木を揺することで、どちらも容易に成し遂げられることを意味します)、四境の内において、尺土(一尺の土地)も失いませんでした。この状況を観るに、石虎は有能でしょうか、無能でしょうか(以是観之,虎為能乎,将不能也)。論者は、胡が以前、襄陽を攻めても抜けなかったので、石虎は何もできないとみなしていますが(謂之無能為)、百戦百勝の強(強敵)に対して一城を抜けなかったことで劣(低劣、無能)とみなすのは、射者(矢を射る者)が百発百中したのに一回だけ失敗したからといって拙(拙劣)とみなすようなものです。これが正しいことでしょうか(夫百戦百勝之強而以不拔一城為劣,譬如射者百発百中而一失,可以謂之拙乎)

そもそも、石遇は偏師(一部隊)であり、桓平北(平北将軍・桓宣)は辺将でした。争ったのは疆埸の土(国境の土地)にすぎず(『資治通鑑』の原文は「所争者疆埸之士(争ったのは疆埸の士)」ですが、「士」は恐らく「土」の誤りです。『晋書・列伝第四十七(蔡謨伝)』は「疆埸を争ったに過ぎない(争疆埸耳)」と書いています)、利があれば進み、なければ退くだけのことで、急迫した状況ではありませんでした(利則進,否則退,非所急也)。今、征西(庾亮)は重鎮名賢の立場で自ら大軍を指揮し、河南を席巻しようと欲していますが、(そうなったら)石虎も必ず自ら一国の衆を率いて勝負を決しに来ます。どうして襄陽と比べることができるでしょう(豈得以襄陽為比哉)。今、征西がこれと戦おうと欲したとして、石生と比べたらどうでしょう(今征西欲与之戦,何如石生)。もし城を包囲しようと欲したとして、金墉(洛陽。以前、前趙帝(劉曜)が洛陽を攻撃しましたが、後趙が堅守したため、攻略できませんでした)と比べたらどうでしょう(原文「若欲城守,何如金墉」。下の分を参考にして、この「守」は「包囲」と解釈しました。誤訳かもしれません)。もし沔水(漢水)で阻もうと欲したとして、大江(長江)と比べたらどうでしょう(欲阻沔水,何如大江)。もし石虎を拒もうと欲したとして、蘇峻と比べたらどうでしょう(欲拒石虎,何如蘇峻)。こういったいくつかの事を、詳しく考察する必要があります(凡此数者,宜詳校之)

石生は猛将であり、関中には精兵がいました。(石生の生前に)征西が彼と戦ったとしても、恐らく勝てなかったでしょう(石虎はその石生を擒にしました。原文「石生猛将,関中精兵,征西之戦殆不能勝也」)。金墉は険固(険阻・堅固)な城で、劉曜の十万でも抜くことができませんでした。今、征西が包囲したとしても、勝てないでしょう(原文「金墉険固,劉曜十万所不能抜,今征西之守不能勝也」。『資治通鑑』の原文はこの一文が抜けています。『晋書・列伝第四十七』を元に補いました。「守」は「包囲」と解釈しました)。また、当時においては、洛陽と関中がどちらも兵を挙げて石虎を撃っていましたが、今、この三鎮は逆に石虎に用いられており(原文「又当是時,洛陽関中皆挙兵撃虎,今此三鎮反為其用」。『資治通鑑』胡三省注によると、「三鎮」は洛陽、関中と郭権が占拠していた上邽を指します)、以前と比べたら、(石虎は)倍以上の勢力になっています(方之於前,倍半之勢也)。石生がその半分(勢力が半分だった頃の石虎)にも敵わなかったのに征西はその倍(勢力が倍になった石虎)に当たろうとしています。これは愚見において懐疑していることです(石生不能敵其半而征西欲当其倍,愚所疑也)。蘇峻の強は石虎に及ばず、沔水の険は大江に及びません。(かつて)大江があっても蘇峻を防ぐことができなかったのに、(今)沔水を利用して石虎を防ごうと欲しているのも、また(臣が)懐疑していることです(蘇峻之強不及石虎,沔水之険不及大江。大江不能禦蘇峻而欲以沔水禦石虎,又所疑也)。昔、祖士稚(祖逖)が譙にいて、城の北界で佃(農耕)しましたが、胡の来攻を憂慮したので(『資治通鑑』の原文は「胡来攻」ですが、『晋書・列伝第四十七』では「慮賊来攻」です。『資治通鑑』は「慮」が抜けているので補いました)、あらかじめ軍屯を置いて外(外敵)を防がせました(豫置軍屯以禦其外)。果たして、穀物が実ろうとした時に胡が至ったので、丁夫(壮健な成人男子)が外で戦い、老弱が内で収穫し、多くの者が炬火を持ち、危急の際は穀物を焼いて走りました(穀将熟,胡果至,丁夫戦於外,老弱穫於内,多持炬火,急則焼穀而走)。このようにして数年が経ちましたが、結局、その利を得ることはありませんでした(外地に兵を駐屯させても利益はありませんでした。原文「如此数年,竟不得其利」)。当時においては、胡は河北を占拠していただけで、今と比べたら四分の一に過ぎませんでした。士稚でもその一(今の四分の一の勢力)に対抗できなかったのに、征西はその四(当時の四倍の勢力)を防ごうと欲しています。これもまた懐疑していることです(士稚不能捍其一而征西欲以禦其四,又所疑也)

しかも、これは征西が(中原に)至った後のことを論じているだけであり、まだ道路の慮(道中の憂慮)については論じていません(然此但論征西旣至之後耳,尚未論道路之慮也)。沔(漢水)以西は、水が急で岸が高いので、(船は)魚貫(魚の群れが前後の列になる様子)して流れを遡らなければならず、首尾が百里に渡ることになります(魚貫泝流,首尾百里)。もし胡に宋襄の義(春秋時代・宋襄公の仁義。宋襄公は川を渡っている敵を攻撃しませんでした)がなく、我々が陣を構える前に攻撃したら、どうするのでしょうか。今、王土と胡は水陸が勢(形勢)を異ならせ、便習(習慣)が同じではありません(東晋は水上の戦いを得意とし、後趙は陸上の戦いを得意としています。原文「今王土与胡,水陸異勢,便習不同)。胡がもし死(命)を送りに来たとしたら、(我々が)これを敵とするには余りあります(胡が自ら攻めてくるようなら、我々は余裕をもって対抗できます)(しかし我々が)もし江を棄てて遠くに進み、我々が苦手とするところによって、彼等が得意とするところを撃ったら(陸上戦を苦手とする我々が陸上戦を得意とする敵と戦ったら)、廟勝の算(朝廷が定める必勝の計画)とはならないことを懼れます(胡若送死則敵之有余,若棄江遠進以我所短撃彼所長,懼非廟勝之算)。」

 

朝議における意見の多くが蔡謨と同じだったため、成帝は庾亮に詔を発し、鎮を移すことに同意しませんでした。

 

[四] 『資治通鑑』からです。

燕の前軍師・慕容評、広威将軍・慕容軍(『資治通鑑』胡三省注によると、広威将軍は曹魏が置きました)、折衝将軍・慕輿根、蕩寇将軍・慕輿埿が後趙の遼西を襲い、千余家を俘獲(捕虜・捕獲)して去りました。

 

後趙の鎮遠将軍・石成(『資治通鑑』胡三省注によると、鎮遠将軍は石氏が置いたようです)、積弩将軍・呼延晃、建威将軍・張支等が追撃しましたが、慕容評等が抗戦して呼延晃と張支の首を斬りました。

 

[五] 『資治通鑑』からです。

段遼が謀って燕から離叛しようとしました。

燕人は段遼とその党与の者数十人を殺し、段遼の首を後趙に送りました。

 

[六] 『資治通鑑』からです。

五月、代王・拓跋什翼犍が参合陂(『資治通鑑』胡三省注によると、参合県は西漢の代郡に属しましたが、東漢と晋が県を廃しました。後に東魏が梁城郡を置き、参合県はそこに属すことになります)で諸大人と会しました。

拓跋什翼犍が灅源川に都を置くことを討議しましたが、その母・王氏が「我々は先世以来、遷徙を業としてきました(『資治通鑑』胡三省注が解説しています。拓跋氏は、草が尽きて水が涸れたら拠点を遷してきました)。今は国家が多難の時です。もし城郭を築いて居住し、一旦にして寇(敵)が来たら、避ける場所がなくなってしまいます(吾自先世以来以遷徙為業。今国家多難,若城郭而居,一旦寇来,無所避之)」と言ったため、中止しました。

 

代人は他国の民で来附した者を全て烏桓と呼んでいました。

什翼犍はこれを二部に分けて、それぞれに大人を置いて監督させました。弟の拓跋孤が北を、子の拓跋寔君が南を監督します。

 

什翼犍が燕に婚姻を求めました。

燕王・慕容皝は什翼犍に自分の妹を娶らせました。

 

 

次回に続きます。

東晋時代47 東晋成帝(二十二) 王導と郗鑒の死 339年(2)

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