東晋時代47 東晋成帝(二十二) 王導と郗鑒の死 339年(2)

今回で東晋成帝咸康五年が終わります。

 

[七] 『資治通鑑』からです。

秋七月、後趙天王(趙王・石虎)が太子・石宣を大単于にして、天子の旌旗を立てさせました。

 

[八] 『晋書・第七・成帝紀』と『資治通鑑』からです。

庚申(十八日)、東晋の使持節・侍中・丞相・領揚州刺史・始興公・王導(諡号は文献公です)が死にました。『晋書・列伝第三十五(王導伝)』によると、王導は六十四歳でした。

 

喪葬の礼は漢の博陸侯(西漢の霍光)や晋の安平献王(西晋安平王・司馬孚)の故事に倣い、天子の礼が参用(取り入れること)されました。

 

王導は簡素(簡潔素朴)かつ寡欲で、善く事(事勢)を利用して功を成就させ、日用の益(日々の費用における余裕、または収益の増加や日々の利益)がなくても、歳計(年間の収支)には余りがありました。

三世(東晋元帝、明帝、成帝)にわたって輔相(輔佐の大臣。宰相)となりましたが、(自分の)倉には儲穀(穀物の蓄え)がなく、衣服は帛を重ねませんでした。

 

以前、王導は庾亮と共に丹楊尹・何充を成帝に推薦して、自分の副とすることを請い、あわせてこう言いました「臣が死んだ日には、何充を内侍に入れることを願います(願引充内侍)。そうすれば、社稷に憂いがなくなります(則社稷無虞矣)。」

王導等の推薦によって、何充は吏部尚書を加えられました。

 

王導が死ぬと、成帝は庾亮を召して丞相・揚州刺史・録尚書事に任命しました。しかし、庾亮は固辞しました。

 

辛酉(十九日)、朝廷が何充を護軍将軍に任命し、庾亮の弟に当たる会稽内史・庾冰を中書監・揚州刺史に任命して、(二人に)尚書の政務を参録(参与・総領)させました(参録尚書事)

 

『晋書・第七・成帝紀』は「辛酉(十九日)、護軍将軍・何充を録尚書事にした」と書いています。『晋書・列伝第四十七(何充伝)』を見ると、何充のこれ以前の将軍号は冠軍将軍で、王導が死んでから護軍将軍に転じて、中書監・庾冰と共に参録尚書事になっています。

 

本文に戻ります。

庾冰は重任(参録尚書事)に当たってから、時務(当世の要務)を経綸(計画を立てて治めること)して昼夜とも捨てることなく(夜になっても政務を続け。原文「不捨昼夜」)、朝賢に対して賓礼を用い、後進(後輩)を升擢(昇格、抜擢)しました。

そのため、朝野がそろって庾冰を称賛し、賢相とみなしました。

 

以前、王導が輔政していた時は、いつも寛恕に基いていましたが、庾冰は頗る威刑に任せていたため、丹楊尹・殷融が諫めました。

すると庾冰はこう言いました「前相の賢があっても、やはりその弘(寛大)は堪えられなかった(原文「前相之賢,猶不堪其弘」。王導の賢才があっても、寛弘な政治が上手くできたわけではない、という意味だと思います)。私のような者ならなおさらではないか(況如吾者哉)。」

 

范汪が庾冰に言いました「最近、天文が錯度(錯乱。秩序を失うこと)した。足下は消禦の道(禍を防いで消滅させる方法)を尽くすべきだ。」

庾冰はこう言いました「どうして私が玄象(天象)を測ることができるか(私に天象は理解できない。天象を動かすことはできない。原文「玄象豈吾所測」)。ただ勤めて人事を尽くすだけである(正当勤尽人事耳)。」

 

庾冰は戸口を隠実(実態を調査すること)し、無名の一万余人(戸籍の登録がない者一万余人)を調べ出して軍実(軍事。軍隊)に充てました。

 

庾冰は好んで糾察(糾弾・検察)を行い、繁細(煩瑣)に近づきました。後にはその過ちを改めましたが、今度は寛縦(寛大放縦)を存在させるようになり(原文「後益矯違,復存寛縦」。『資治通鑑』胡三省注が解説しています。庾冰は今までの繁細を改めたものの、寛縦に流れたため、ますます正道から違えることになりました)、しかも刑法の疎密(寛大にするか厳格にするかの判断)を自分の意思に任せたため、律令の意味がなくなりました(疏密自由,律令無用矣)

 

[九] 『晋書・第七・成帝紀』と『資治通鑑』からです。

八月壬午(初十日)、東晋が再び丞相を司徒に改めました(王導が死んだためです。司徒は前年廃されて丞相府に合併されていました)

 

[十] 『晋書・第七・成帝紀』と『資治通鑑』からです。

東晋の太尉・南昌公・郗鑒(諡号は文成公です)が病を患って重くなったため、府事を長史・劉遐に委ねて、上書して引退を乞い(上疏乞骸骨)、あわせてこう言いました「臣が統領している者は錯雑(混雑、雑乱)としており、ほとんどが北人で、ある者は迫られて移住しており、ある者は新たに附いたばかりで、百姓は故郷の地を懐かしみ、皆、帰本の心(本土に帰りたいと思う心)を持っています(臣所統錯雑,率多北人,或逼遷徙,或是新附,百姓懐土,皆有帰本之心)(しかし)臣が国恩を宣布して好悪(善悪。利害)を示し、田宅を与えて住ませたので、徐々に少安を得ることができました(臣宣国恩示以好悪,処与田宅,漸得少安)(彼等が)臣の疾篤(病が重いこと)を聞いたら、衆情が駭動するので(人心が驚いて動揺するので)、もしも(彼等を)北に渡らせるようなら、必ず寇心(敵の侵犯の野心)を開くことになります(『資治通鑑』胡三省注によると、当時は、京口の鎮を移して長江を北に渡るべきだ、という意見があったため、郗鑒がこの発言をしました。京口は郗鑒の鎮所です)。太常・臣・謨は平簡貞正(平穏簡素・忠貞方正)で、かねてから人望が帰しているので(素望所帰)、思うに都督・徐州刺史にすることができます。」

 

成帝は詔を発して蔡謨を太尉軍司に任命し、侍中を加えました。

辛酉(『二十史朔閏表』によると、この年八月は「癸酉」が朔なので、「辛酉」はありません)、郗鑒が死にました。

朝廷はすぐに蔡謨を征北将軍・都督徐兗青三州諸軍事・徐州刺史・假節にしました(これは『資治通鑑』の記述です。『晋書・列伝第四十七(蔡謨伝)』では「征北将軍・都督徐兗青三州揚州之晋陵豫州之沛郡諸軍事・領徐州刺史・假節」になっています)

 

この頃、左衛将軍・陳光が後趙討伐を請いました。

そこで成帝は、詔を発して陳光を派遣し、寿陽を攻撃させました(『資治通鑑』胡三省注によると、寿陽は寿春です。後に簡文鄭太后(簡文帝の母。元帝の夫人)の諱を避けて寿陽に改められます。祖約が敗れてから、後趙に占拠されていました)

しかし蔡謨が上書してこう言いました「寿陽は城が小さいものの堅固であり(城小而固)、寿陽から琅邪に至る地は、城壁が互いに望んでいて(『資治通鑑』胡三省注によると、この琅邪は旧琅邪郡です。後趙は譙郡、彭城、下邳を取ってから寿春を得ており(琅邪の南に彭城と下邳があり、彭城の西に譙があり、その南が寿春です)、寿春から琅邪までは全て後趙に統治されていて、城壁を望み合うほどの位置にありました。南琅邪は江乗(長江南岸の地名)の蒲洲の上にありました。長江を北に渡ってから西に向かい、歴陽と合肥を経由して、やっと寿春に至ります。これらの地は全て東晋の境内にありました)、一城が攻撃されたら衆城が必ず救いに来ます。王師は路上に五十余日もおり、前駆がまだ(敵地に)至る前に声息(消息)が聞こえて久しくなってしまいます。賊の郵駅(郵便、早馬)は一日に千里を駆けるので、河北の騎が到着するには充分です(王師在路五十余日,前駆未至声息久聞,賊之郵駅一日千里,河北之騎足以来赴)

(また)白起、韓信、項籍(項羽)の勇をもってしても、なお橋を断って舟を焼き、水を背にして陣を構えました(発梁焚舟,背水而陣)。今、水渚(水辺)に船を停泊させて、兵を率いて城に向かい、前は堅敵(堅固な敵)に対しながら、顧みたら(後ろは)帰路に臨もうと欲していますが、これは兵法が誡めていることです(今欲停船水渚,引兵造城,前対堅敵,顧臨帰路,此兵法之所誡)。もし進攻しても抜けず、胡騎が突然至ったら、桓子(中行桓子。春秋時代・晋の荀林父)(敗戦して)どうすればいいか分からなくなり、舟中の指をすくうほどになった故事を繰り返すことになるのではないかと懼れます(原文「懼桓子不知所為而舟中之指可掬也」。荀林父は邲で楚軍と戦って大敗し、舟に乗って退却しました。その際、兵士が争って舟にしがみついたため、指を切り落としました。舟の中は切られた指をすくい取ることができるほどになりました)。今、陳光が率いているのは、皆、殿中の精兵なので、向かった場所では、征しても戦わないように命じるべきです(帝王の兵として征伐に向かわせても、実際には戦闘を行わないように命じるべきです。原文「宜令所向有征無戦」)。それなのに堅城の下に置いて、国の爪士(衛士)を使って寇(賊)の下邑(下級の邑)を撃たせたら(而頓之堅城之下,以国之爪士撃寇之下邑)、それを得ても利が薄いうえに敵を損なわせるには足りず、逆にそれを失ったら(失敗したら)害が重いうえに寇(賊)を益すに足りるので、懼らく、策の長者(良策)ではありません。」

成帝は後趙討伐を中止しました。

 

[十一] 『晋書・第七・成帝紀』と『資治通鑑』からです。

以前、陶侃が武昌にいた時、議者は江北に邾があるので、兵を分けてこれを守るべきだと主張しました。陶侃はいつも答えませんでしたが、同じ発言をする者が後を絶ちません。

そこで陶侃は水(川。長江)を渡って狩猟を行い、将佐を招いてこう語りました「私が険(険阻な守り)を設けて寇(賊)を防いでいるのは、まさに長江を頼りにしているのである(我所以設険而禦寇者,正以長江耳)。邾城は(川を)隔てて江北にあり、内は頼りとするものがなく、外は群夷(『資治通鑑』胡三省注によると、西陽諸蛮を指します)と接している(内無所倚,外接群夷)。夷人はその中にいて利が深いので(原文「夷中利深」。誤訳かもしれません)、晋人が(兵を置いて)利を貪ったら、夷は命に堪えられなくなり、必ず虜を招いて入寇させる。これは禍をもたらす原因であり、寇(賊)を防ぐ方法ではない(此乃致禍之由,非以禦寇也)。そもそも、呉の時はこの城を守るために三万の兵を用いた(『資治通鑑』胡三省注によると、呉は武昌を都にしたため、重兵を邾城に駐屯させました)。今、たとえ(邾城に)兵守があったとしても、江南においては益がなく、もし羯虜に対して乗じる機会があったとしても、これは助けにならない(重兵を割いて邾城を守っても、江南に対しては益がなく、後趙につけ入る機会ができたとしても、邾城の兵は役に立たない。原文「今縦有兵守亦無益於江南,若羯虜有可乗之会,此又非所資也」)。」

 

しかし、後に庾亮が武昌を鎮守するようになると、ついに毛寶と樊峻に邾城を守らせました。

後趙天王(趙王・石虎)はこれを嫌い、夔安を大都督に任命して、石鑒、石閔、李農、張貉、李菟の五将軍と兵五万人を指揮して荊・揚の北界を侵犯させ、二万騎に邾城を攻撃させました。

毛寶が庾亮に救援を求めましたが、庾亮は邾城が堅固なので、すぐには兵を派遣しませんでした。

 

九月、石閔が沔陰(沔南)で晋兵を敗り、将軍・蔡懐を殺しました。夔安と李農が沔南を攻略します(『資治通鑑』胡三省注によると、晋人は沔南に守備兵を置いて津要(要衝の地)の備えとしていたようです)

朱保も白石(地名)で晋兵を敗り、鄭豹等の五将軍を殺しました。

 

張貉が邾城を落としました。死者が六千人にのぼり、毛寶と樊峻は包囲を突破して脱出・逃走しましたが、江に赴いて溺死しました。

 

夔安が兵を進めて胡亭(『資治通鑑』胡三省注によると、汝南汝陰県の西北に胡城がありました。春秋時代に胡子の国があった地です)を占拠し、これを機に江夏と義陽を侵しました。

東晋の将軍・黄沖と義陽太守・鄭進がどちらも後趙に降りました。

 

以上は『資治通鑑』の記述です。『晋書・成帝紀』は少し異なり、こう書いています「石季龍(石虎)の将・夔安と李農が沔南を落とした。張貉が邾城を落とし、これを機に江夏と義陽を侵した。征虜将軍・毛寶、西陽太守・樊俊(『資治通鑑』の「樊峻」)、義陽太守・鄭進が共に死んだ。」

『晋書・載記第六』では晋の将軍・黄沖と歴陽(義陽の誤りです)太守・鄭進が後趙に降っており、『資治通鑑』は『載記』に従っています。

尚、「張貉」は『晋書・列伝第五十一(毛寶伝)』では「張狢渡」、『晋書・載記第六』では「張賀度」としています。

 

本文に戻ります。

夔安等は更に兵を進めて石城を包囲しました。

しかし竟陵太守・李陽が抗戦して夔安を破り、五千余級を斬首したため、夔安はやっと退きました。その際、漢東(漢水以東)で略奪を行い、七千余戸を擁して(占有して)幽・冀州に遷しました。

 

当時、庾亮はまだ上書して鎮を石城に遷すように求めていましたが、邾城が陥落したと聞いてやっと止めました。

庾亮が上表して陳謝し、自ら位を三等落として行安西将軍になりましたが(原文「自貶三等,行安西将軍」。『資治通鑑』胡三省注によると、晋の方伯(地方の長)が将軍号を帯びたら、征・鎮・安・平の四等がありました。庾亮は征西将軍から行安西将軍になったので、三等を落としたことになります。「行」は「代理、代行」の意味です)、詔によって位を戻されました。

 

東晋朝廷は輔国将軍・庾懌を豫州刺史・監宣城廬江歴陽安豊四郡諸軍事(宣城・廬江・歴陽・安豊の四郡です)に任命し、符節を授けて(假節)蕪湖を鎮撫させました。

 

[十二] 『資治通鑑』からです。

後趙天王(趙王・石虎)が貴戚(帝王の親族。貴族)の豪恣(専横放縦)を患いました。

そこで殿中御史・李巨を抜擢して御史中丞(『資治通鑑』胡三省注によると、曹魏の制では、蘭台が二御史を派遣して殿中で非法を伺察させました。これが殿中御史の始めです)に任命し、特別に親任を加えました。

その結果、内外が粛然としたので、天王がこう言いました「朕は、良臣とは猛虎のようであり、曠野を高歩(闊歩)したら豺狼が路を避けると聞いていたが、その通りだった(朕聞良臣如猛虎,高歩曠野而豺狼避路,信哉)。」

 

天王が撫軍将軍・李農を使持節・監遼西北平諸軍事・征東将軍・營州牧(『資治通鑑』胡三省注によると、後趙は營州を置いて遼西・北平の二郡を統治させました)に任命して令支を鎮守させました。

 

李農は三万の衆を率いて征北大将軍・張挙と共に燕の凡城を攻めました。

 

燕王・慕容皝は榼盧城大・悦綰(「榼盧」は地名、「城大」は城主です。『資治通鑑』胡三省注によると、悦氏は傅説(商代の賢人)の後代です)を禦難将軍に任命し、兵一千を授けて凡城を守らせました。

趙兵が至ると将吏は皆、恐れて、城を棄てて逃走しようとしましたが、悦綰がこう言いました「命を受けて寇(敵)を防ぐことになったら、死生(生命)をかけてそれを行うべきだ(受命禦寇,死生以之)。そもそも、城に拠って堅守すれば、一人で百人を敵にすることができる。敢えて妄言によって衆人を惑わす者がいたら斬る(且憑城堅守一可敵百,敢有妄言惑衆者斬)!」

この後、衆人が安定しました。

 

悦綰は士卒に率先して自ら矢石を冒しました。

張挙等が攻撃して一旬(十日)が経ちましたが、攻略できなかったため、後趙軍は退却しました。

 

後趙天王は、遼西が燕境に接近しており、しばしば攻襲(襲撃)に遭っていたため、その地の民を全て冀州の南に遷しました。

 

[十三] 『資治通鑑』からです。

成漢昭文帝(漢主・李寿)が病を患いました。

羅恆と解思明が再び晋を奉じるように建議しましたが、昭文帝は従いませんでした。

それでも李演が再び上書してこの事を語ったため、昭文帝は怒って李演を殺してしまいました。

 

昭文帝は常に漢武・魏明(西漢武帝や魏明帝)の為人を慕っており、父兄の時代の事(昭文帝の父は李驤で、李驤は李特の弟です。「父兄の時代」は、李特・李驤や李特の子・李雄(武帝)の時代を指します)を聞くのは恥じとしていました。そのため、上書する者は先世の政教に言及することができず、昭文帝自身は自分が父兄に勝っていると思っていました。

そこで、舍人・杜襲が十篇の詩を作り、應璩(魏の官員。文人)の作と偽って諷諫(婉曲に諫言すること)しました。

昭文帝はこれに応えて「詩を視て意図は理解した(省詩知意)。もし今の人が作ったのなら、賢哲の話言(「話言」は善言や道理がある言葉を指します)だが、もし古人が作ったのなら、死鬼の常辞(ありふれた言葉)に過ぎない」と言いました。

 

[十四] 『資治通鑑』からです。

燕王・慕容皝は王を称したものの晋の命を受けていないと考え、東晋に使者を送ることにしました。

 

冬、長史・劉翔と参軍・鞠運を派遣し、東晋に献捷(後趙に対する戦勝の報告をして戦利品を献上すること)・論功(功績を述べること)しました。また、権假の意(時勢に応じて暫定的に位に即いたことの心意)を報告し、併せて日時を決めて大挙し、共に中原を平定することを請いました(劉翔等は東晋成帝咸康七年・341年に建康に着きます)

 

慕容皝が高句麗を撃ちました。

兵が新城(『資治通鑑』胡三省注によると、新城は高句麗の西辺に位置します。西南は山に面し、東北は南蘇、术底(朮底)等の城に接していました)に至ると、高句麗王・釗は盟を乞いました。

 

また、子の慕容恪と慕容霸に宇文氏の別部を撃たせました。慕容霸は十三歳でしたが、勇が三軍に冠しました。

 

[十五] 『資治通鑑』からです。

張駿が辟雍(学校)と明堂(政令を発したり祭祀を行う堂)を建てて儀礼を行いました。

十一月、世子・張重華に涼州の政事を代行させました(行涼州事)

 

[十六] 『資治通鑑』からです。

十二月丁丑(初七日)、後趙の太保・桃豹が死にました。

 

[十七] 『晋書・第七・成帝紀』と『資治通鑑』からです。

丙戌(十六日)、東晋が驃騎将軍・琅邪王・司馬岳(成帝の弟。後の康帝です)を侍中・司徒にしました。

 

[十八] 『晋書・第七・成帝紀』と『資治通鑑』からです。

成漢の将・李奕が巴東を侵し、守将・勞楊が戦って敗死しました。

 

 

次回に続きます。

東晋時代48 東晋成帝(二十三) 後趙と燕 340年

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