東晋時代48 東晋成帝(二十三) 後趙と燕 340年

今回は東晋成帝咸康六年です。

 

東晋成帝咸康六年

成漢昭文帝漢興三年/後趙天王建武六年

前涼文王太元十七年/前燕王(慕容皝)四年

庚子 340年

 

[一] 『晋書・第七・成帝紀』と『資治通鑑』からです。

春正月庚子朔、東晋の都亭侯・庾亮(諡号は文康侯です)が死にました。

 

『資治通鑑』では単に「都亭文康侯・庾亮」としていますが、『晋書・成帝紀』では「使持節・都督江豫益梁雍交広七州諸軍事・司空・都亭侯・庾亮」です。庾亮は成帝咸和九年(334年)に「都督江荊豫益梁雍六州諸軍事」になりました。その後、荊州が省かれて、交州と広州が加えられたようです。

『晋書・列伝第四十三(庾亮伝)』によると、庾亮は五十二歳でした。

 

護軍将軍・録尚書(録尚書事)・何充を中書令にしました。

 

庚戌(十一日)、南郡太守・庾翼を都督江荊司雍梁益六州諸軍事・安西将軍・荊州刺史・假節とし、庾亮に代わって武昌を鎮守させました。

 

当時の人々は庾翼がまだ若いので(『晋書・列伝第四十三(庾翼伝)』によると、庾翼は東晋穆帝永和元年・345年に四十一歳で死ぬので、本年は三十六歳です)、兄を継ぐことはできないのではないかと疑いました。

しかし庾翼は心を尽くして政治を行い、戎政(軍務と政務)が厳明だったため、数年の間で公私(国と民)ともに充実し、人々が皆、その才を称えました。

 

[二] 『晋書・第七・成帝紀』と『資治通鑑』からです。

辛亥(十二日)、東晋が左光禄大夫・陸玩を侍中・司空にしました。

 

[三] 『資治通鑑』からです。

宇文逸豆帰は慕容翰(成帝咸康四年・338年に宇文氏に亡命しました)の才名(能力と名声)を嫉妬していました。

そこで慕容翰は狂ったふりをして酒を痛飲し(陽狂酣飲)、ある時は寝たまま糞尿を漏らし(或臥自便利)、ある時は髪を乱して歌い叫び、拝跪して食べ物を求めました(或被髪歌呼,拝跪乞食)

その結果、宇文部は国を挙げて慕容翰を賎しみ、省録(監察、注視)しなくなりました。

こうして慕容翰は自由に行動・往来できるようになったので、山川の形便(形勢・利便)を全て黙記(暗記、記憶)しました。

 

燕王・慕容皝は、慕容翰が当初は叛乱したのではなく、猜嫌(猜疑)によって出奔したのであって(成帝咸和八年・333年参照)、たとえ他国にいても常に秘かに燕のための計を為していたので(成帝咸和九年・334年参照)、商人・王車を派遣して宇文部と市を通じさせ、それを機に慕容翰の様子を窺わせました。

慕容翰は王車に会いましたが、言葉を発することなく、胸を叩いて頷いただけでした。

 

(王車の報告を聞いた)慕容皝は「翰は来たがっている(翰欲来也)」と言い、再び王車を送って迎えさせました。

 

慕容翰は三石余の弓を引くことができ、その矢は特に長大でした。

そこで、慕容皝は慕容翰の手に合う弓矢を作り(為之造可手弓矢)、王車に命じて道の傍に埋めてから、秘かに慕容翰に伝えさせました。

 

二月、慕容翰が逸豆帰の名馬を盗み、二子を連れて逃走しました。途中で弓矢を手に入れて帰ろうとします。

逸豆帰が驍騎百余に追撃させると、慕容翰は騎兵に対してこう言いました「私は客となって久しく、(故郷に)帰ることを思っていた。既に上馬(良馬)を得たのだから、(宇文部に)戻るという道理はない(吾久客思帰,既得上馬,無復還理)。私は過日、愚者のふりをして汝等を惑わしてきたが、私の故芸(旧芸。弓の技術)はそのままなので、逼迫してはならない。自ら死を選ぶことになる(吾曏日陽愚以誑汝,吾之故芸猶在,無為相逼,自取死也)。」

しかし追手の騎兵は慕容翰を軽視していたため、直接突進してきました。

慕容翰がまた言いました「私は汝等の国にいて久しくなり、悢悢(恋恋)の情があるので、汝等を殺したくはない(吾居汝国久悢悢,不欲殺汝)。汝等は私から百歩離れた場所に汝等の刀を立てよ。私がそれを射て一発で命中させたら、汝等は還るべきだ。もし命中しなかったら進んで来い(汝去我百歩立汝刀,吾射之,一発中者汝可還,不中者可来前)。」

追手の騎兵は刀を解いて立てました。

慕容翰が矢を射ると、一発でちょうど環(刀の頭部の輪になった部分)に命中します。

(それを見た)追手の騎兵は散走(四散逃走)しました。

 

慕容皝は慕容翰が至ったと聞いて大いに喜び、恩遇(恩寵・待遇)を甚だ厚くしました。

 

[四] 『晋書・第七・成帝紀』では、二月に燕王・慕容皝と石季龍(後趙)の将・石成が遼西で戦っていますが、『資治通鑑』は冬十月に書いています(後述します)

 

[五] 『晋書・第七・成帝紀』と『資治通鑑』からです。

庚辰(十一日)、孛星(異星。彗星の一種)が太微(星座)に現れました。

『資治通鑑』胡三省注によると、太微は天子の庭、五帝の坐、十二諸侯の府に当たります。

 

[六] 『晋書・第七・成帝紀』と『資治通鑑』からです。

三月丁卯(二十九日)、東晋が大赦しました。

 

[七] 『晋書・第七・成帝紀』からです。

東晋が車騎将軍・東海王・司馬沖(元帝の子)を驃騎将軍にしました。

 

[八] 『晋書・第七・成帝紀』と『資治通鑑』からです。

漢人(成漢)が丹川を攻めて攻略し、守将・孟彦、劉齊、李秋が皆死にました(孟彦は前年、建寧を挙げて東晋に投降しました。『資治通鑑』胡三省注によると、丹川は建寧界内にあったようです)

 

[九] 『資治通鑑』からです。

代王・拓跋什翼犍が始めて雲中の盛楽宮を都にしました(始都雲中之盛楽宮)

盛楽は漢代の成楽県です。代公・猗盧が盛楽に城を築いて北都にしました(西晋愍帝建興元年・313年参照)。『資治通鑑』胡三省注が盛楽について詳しく解説していますが、省略します。

 

[十] 『晋書・第七・成帝紀』からです。

秋七月乙卯(十八日)、東晋が中興の故事(東晋建国時の前例)に則って、朔望(毎月朔日と十五日)は東堂で聴政することにしました。

 

[十一] 『資治通鑑』からです。

後趙天王(趙王・石虎)が成漢昭文帝(漢主・李寿)に書を送りました。共に兵を連ねて東晋に入寇しようと欲し、江南を半分に分けることを約束します。

成漢昭文帝は大いに喜び、散騎常侍・王嘏と中常侍・王広を使者にして後趙に派遣しました。龔壮が諫めても聴き入れず、大いに舟艦を修造し、武器を整えて食糧を集めます。

 

九月、尚書令・馬当を六軍都督に任命し、士卒七万余人を徵集して舟師にしました。成都で大閲(大規模な閲兵)して、鼓譟(戦鼓の音と喚声)が江を満たします(『資治通鑑』胡三省注によると、秦の時代に蜀守・李冰が二江を成都内に穿ち、全て舟で移動できるようにしました)

昭文帝は城壁に登ってこれを観察し、江南を吞噬する志(東晋を呑み込む志)を抱きました。

しかし解思明が諫めて「我々は国が小さくて兵が弱く、呉会(呉と会稽。東晋)は険遠なので、これを図るのは容易ではありません(図之未易)」と言ったため、昭文帝は群臣に命じて大いに利害を議論させました。

龔壮が言いました「陛下が胡と通じるのと、晋と通じるのとでは、どちらが勝っているでしょうか(陛下与胡通,孰若与晋通)?胡は豺狼です。既に晋を滅ぼしたら、(我々は)北面して彼等に仕えなければならなくなります(不得不北面事之)。もし彼等と天下を争ったら、強弱が対等ではないので(強弱不敵)、危亡の勢(形勢)となります。虞・虢の事は已然の戒(既に存在する教訓)です(春秋時代、晋献公が虞に道を借りて虢を滅ぼしてから、虞も滅ぼしました)。陛下がこれを熟慮することを願います。」

群臣も皆、龔壮の言が正しいと考えたため、昭文帝は出征を中止しました。士卒がそろって万歳を唱えます。

 

龔壮は、人の行動において忠孝よりも大きなものはないと考えており、既に父叔の仇に報いることができて(成帝咸康四年・338年参照)、しかも、昭文帝を晋に仕えさせようと欲しても昭文帝が従わなかったので、偽って「耳が聞こえなくなり、手が物を操れなくなった」と称し(詐称耳聾,手不制物)、辞職して帰りました。その後は文籍(文章典籍。書の読み書き)を娯楽にして、終生、二度と成都には至りませんでした。

 

[十二] 『資治通鑑』からです。

後趙の尚書令・夔安が死にました。

 

[十三] 『晋書・第七・成帝紀』からです。

冬十月、林邑が馴象(訓練られた象)を東晋に献上しました。

 

[十四] 『資治通鑑』からです。

後趙天王(趙王・石虎)が司・冀・青・徐・幽・并・雍七州の民に命じ、五丁(五人の成人男性)ごとに三人を、四丁ごとに二人を選出させました(原文「五丁取三,四丁取二」。『資治通鑑』は省いていますが、『晋書・載記第六』を見ると、対象は「七州の兼復之家」となっています(原文「令司冀青徐幽并雍兼復之家五丁取三四丁取二」)。「兼復之家」は恐らく賦税・徭役を免除された家で、優遇されていた家庭を指すと思われます)。鄴城の旧兵と合わせて、五十万人を満たします。

また、一万艘の船をそろえて穀物千百万斛を楽安城に運びました(『資治通鑑』胡三省注によると、濡水が東南に流れて遼西海陽県を通り、更に牧城南を通ってから、二水に分かれました。北水を小濡水といい、東に流れて楽安亭北を通ってから東南に向かって海に入ります。濡水(本流)は東南に向かって楽安亭南を流れ、東に向かって新河の故瀆(古い河道)と合流しました。新河は魏太祖(曹操)が蹋頓(遼西烏桓)を征討した時に導いた河川です)

遼西・北平・漁陽の一万余戸を兗・豫・雍・洛の四州の地に遷しました(『資治通鑑』胡三省注によると、石虎は鄴に司州を置き、晋の司州を洛州に改めました)

幽州以東から白狼に至るまで、大いに屯田を興しました(『資治通鑑』胡三省注によると、白狼県は、漢代は北平郡に属しましたが、晋になって廃されました。胡三省注が「白狼水」の解説をしていますが、省略します)

民の馬を悉く探し出して奪取し、敢えて私匿する者がいたら腰斬に処しました。合わせて四万余頭の馬を得ます。

(その後)宛陽で大閲して燕を撃とうと欲しました。

『資治通鑑』胡三省注によると、漳水が西門豹祠の北から出て趙の閲馬台西を流れました。閲馬台は高さが五丈あり、その上に観(高楼)が並んでいます。石虎はその下で講武し、連なった観からそれを望むことができました(台高五丈列観其上,石虎講武於其下,列観以望之)

 

燕王・慕容皝が諸将に言いました「石虎は楽安城の防守が重複(厳重)だと思っているので、薊城南北には必ず備えを設けていない。今もし詭路(間道)からその不意に出れば、全て破ることができる。」

 

冬十月、慕容皝が諸軍を指揮して蠮螉塞から入り(『資治通鑑』胡三省注によると、龍城から西に向かう道を選んだ場合、蠮螉塞から入ることになります)、後趙を襲いました。戍将で道を塞いだ者は全て擒にして、直接、薊城に達します。

 

後趙の幽州刺史・石光は数万の兵を擁していましたが、城門を閉ざしたまま、出撃しようとしませんでした。

燕兵は進軍して武遂津(『資治通鑑』胡三省注によると、武遂県は、西漢は河間国に属し、東漢から晋は安平国に属しましたが、当時は武邑郡に属していました。易水が南を流れており、武遂津がありました)を破り、高陽に入りました。至る場所で積聚(蓄積された物資)を焼き、三万余家を奪って去ります。

『資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)によると、『燕書』は「燕・范陽二郡の男女数千口を略して(奪って)還った」と書いています。『資治通鑑』は『晋書』の『載記第六(慕容皝が幽・冀を襲い、三万余家を略して去った)』と『載記第九(幽・冀三万余戸を掠めて移した)』に従っています。

 

石光は懦弱(臆病・惰弱)の罪に坐して召還されました。

 

『資治通鑑』は燕と後趙の戦いを冬十月に書いていますが、『晋書・第七・成帝紀』は二月に「慕容皝が石季龍(石虎)の将・石成と遼西で戦い、これを破って京師(建康)に献捷した(戦勝の報告をして戦利品を献上すること)」と書いています。

 

[十五] 『資治通鑑』からです。

後趙天王(趙王・石虎)が秦公・石韜を太尉に任命し、太子・石宣と共に、日替わりで尚書の奏事を省可(確認・裁可)させました(迭日省可尚書奏事)。褒賞・刑罰を独断で決定させ、報告の必要をなくします。

 

司徒・申鍾が諫めてこう言いました「賞刑とは、人君の大柄(大権)なので、人に授けてはなりません。これは禍が微細なうちに防ぎ、徐々に大きくなる悪事を断ち、逆乱を未然に消滅させるためです(賞刑者,人君之大柄,不可以假人,所以防微杜漸,消逆乱於未然也)。太子の職は視膳(皇帝の食事に侍ること。皇帝に食事を進めること。転じて、皇帝の傍に仕えることを指します)にあり、豫政(政事に関与すること)するのは相応しくありません。庶人・石邃は豫政したために失敗を招きました(咸康三年・337年参照)。覆車(以前の教訓)はまだ遠くありません。そもそも政権を二分して禍が生まれないというのは、稀なことです(且二政分権,鮮不階禍)。これ(太子)を愛すのに道に則らなかったら、まさに(かえって)害すことになります(愛之不以道,適所以害之也)。」

天王は諫言を聴きませんでした。

 

中謁者令・申扁(『資治通鑑』胡三省注によると、宦官です)は慧悟辯給(聡明で察しが良く、弁論が得意なこと)だったため、天王に寵信されました。石宣も申扁と親しくなり、機密を管理させるようになります。

天王が政事を視なくなり、石宣と石韜も酣飲(飲酒、痛飲)や畋猟(狩猟)を好んだため、除拝(任官)や生殺は全て申扁によって裁決され、九卿以下の官員がそろって遠くから拝すようになりました(原文「自九卿已下率皆望塵而拝」。「望塵而拝」は、馬車の砂塵を眺め見ただけで拝跪するという意味で、卑屈な態度や迎合する姿を表します)

 

太子詹事・孫珍が目の病を患ったため、侍中・崔約に処方を求めました。

すると崔約は戯れて「目の中に尿をすれば治る(溺中則愈)」と言いました。

孫珍が問いました「目にどうやって尿をするのだ(目何可溺)?」

崔約が言いました「卿の目は睕睕(目が深くくぼんでいる様子)としているので、正に尿を中にしても耐えられるだろう(卿目睕睕,正耐溺中)。」

孫珍はこれを恨み、石宣に報告しました。

石宣は兄弟の中で最も胡人らしい容貌をしており、目が深くくぼんでいたため、これを聞いて憤怒し、崔約父子を誅殺しました。

この後、公卿以下の者は孫珍を畏れて側目するようになりました(正視できなくなりました)

 

燕公・石斌が辺州を督していましたが(『資治通鑑』胡三省注によると、石斌は北辺の州を監督していたようです)、やはり畋猟(狩猟)を好み、常に管(城門の鍵)を懸けて(提げて)出入りしていました(自由に外出するために常に城門の鍵を持っていました)

征北将軍・張賀度がいつも制止して諫めましたが、石斌は怒って張賀度を辱しめました。

これを聞いた天王は、主書・禮儀(『資治通鑑』胡三省注によると、東漢以来、尚書の諸曹(諸官署)にそれぞれ主書がいました。南斉・南梁の時代はその権任が甚だ重くなります。「禮儀」は禮が氏、儀が名です。春秋時代、衛の大夫に禮至がいました)に命じて、符節を持って石斌を監督させました(持節監之)

ところが石斌は禮儀を殺し、しかも張賀度も殺そうとしました。

張賀度は守りを固めてから、使者を(朝廷に)馳せさせてこれを報告しました(原文「厳衛馳白之」。あるいは、使者を馳せさせたのではなく、張賀度自身が朝廷に馳せたのかもしれません)

天王は尚書・張離を派遣し、騎兵を率いて石斌を呼び戻させました。

石斌が至ると、鞭で三百回打ってから免官して家に帰らせ、その親信十余人を誅殺しました。

 

[十六] 『資治通鑑』からです。

前涼の張駿が別駕・馬詵を派遣して後趙に入貢させましたが、上表の辞(言葉)が蹇傲(傲慢)だったため、後趙天王(趙王・石虎)は怒って馬詵を斬ろうとしました。

侍中・石璞が諫めてこう言いました「今、国家が先に除くべき者は遺晋(晋の残り。東晋)です。河西は僻陋(辺鄙で劣っていること)なので、意とするには足りません(心配はいりません。原文「不足為意」)。今、馬詵を斬ったら、必ず張駿を征討しなければならず、その場合は、兵力を二つに分けることになり、建康(東晋)がまた数年の命を延ばしてしまいます(今斬馬詵必征張駿,則兵力分而為二,建康復延数年之命矣)。」

天王は思いとどまりました。石璞は石苞(西晋開国の功臣)の曾孫です。

 

[十七] 『資治通鑑』からです。

前年、成漢の将・李閎が東晋に捕えられましたが、李閎は逃げて後趙に奔りました。

成漢昭文帝(漢主・李寿)が後趙天王(趙王・石虎)に書を送って李閎を返すように請いましたが、署(題名、宛名)に「趙王石君」と書かれていたため、天王は不快になり、この件を外(外朝、朝廷)に預けて議論させました。

中書監・王波が言いました「李閎に死をもって(命をかけて)自らこう誓わせるべきです『もし蜀に骨を帰すことができたら、宗族を集めて統率し、王化(後趙の教化、統治)と一つになります(苟得帰骨於蜀,当糾帥宗族,混同王化)。』もし実際にそうなったら、一旅(一軍)を煩わせることもなく、坐して梁・益を定めることができます(若其信也,則不煩一旅,坐定梁益)。また、もし前却(一進一退。うまくいかないこと)があっても、一人の亡命した者を失うに過ぎないので、趙においては何も損ないません(若有前却,不過失一亡命之人,於趙何損)。李寿は既に大号を僭称したので、今、制詔(皇帝の命令。詔)を与えたら、彼も必ず酬返します(こちらが詔を発したら、彼も必ず同じ形式で返答してきます)(制詔ではなく)(通常の書信)を為して与えた方がいいでしょう(不若復為書与之)。」

 

この頃、ちょうど挹婁国が後趙に楛矢と石砮を献上しました。

挹婁はかつての粛慎氏の国です。「楛矢」は楛木の矢、「石砮」は石の鏃です。『資治通鑑』胡三省注が「挹婁」「楛矢」「石砮」について詳しく解説していますが、省略します。

 

王波がこれを機に楛矢と石砮を成漢に贈るように請い、こう言いました「彼等に我々には遠方を服させることができるということを知らしめましょう(使其知我能服遠方也)。」

天王はこれに従い、李閎を送り帰して、礼(儀礼、礼物)を厚くしました。

 

李閎が成都に到着すると、成漢文昭帝が詔を下してこう言いました「羯(後趙)の使者が来庭(来朝)してその楛矢を献上した(羯使来庭,貢其楛矢)。」

これを聞いた後趙天王は怒って王波を罷免し、白衣(平民の身分)で職務を行わせることにしました(以白衣領職)

 

[十八] 『晋書・第七・成帝紀』からです。

十一月癸卯(初八日)、東晋が琅邪の賦役を除き(東晋元帝が琅邪王の出身だったためです)、待遇を漢代の豊・沛(高祖・劉邦の故郷)と同等にしました(復琅邪,比漢豊沛)

 

 

次回に続きます。

東晋時代49 東晋成帝(二十四) 土断 341年

 

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