東晋時代49 東晋成帝(二十四) 土断 341年

今回は東晋成帝咸康七年です。

 

東晋成帝咸康七年

成漢昭文帝漢興四年/後趙天王建武七年

前涼文王太元十八年/前燕王(慕容皝)五年

辛丑 341年

 

[一] 『資治通鑑』からです。

春正月、燕王・慕容皝が唐国内史・陽裕等(『資治通鑑』胡三省注によると、慕容廆が唐国郡(陽裕は内史なので、「唐国」は郡ではなく、国かもしれません)を置きました)に命じて柳城の北、龍山の西に城を築かせ、宗廟や宮闕を建てて、龍城と命名しました。

『晋書・載記第九』によると、ここから柳城は龍城県に改名されました。

 

[二] 『晋書・第七・成帝紀』と『資治通鑑』からです。

二月甲子朔、日食がありました。

 

[三] 『晋書・第七・成帝紀』からです。

己卯(十六日)、慕容皝が(東晋に)使者を派遣し、燕王の章璽を授けるように求めました。(東晋は)これに同意しました。

 

以下、『資治通鑑』から詳しく書きます。

燕王・慕容皝が派遣した劉翔が建康に至りました(成帝咸康五年・339年参照。下の文に「劉翔は建康に一年以上留まった」とあるので、実際に到着したのは本年ではなく、前年のはずです)

東晋成帝が劉翔を引見して慕容鎮軍(鎮軍大将軍・慕容皝)の平安(安否、情況)について問うと、劉翔は「臣が使者の命を受けた日、(慕容皝は)朝服を着て、拝して章表(上奏文)を発しました(臣受遣之日,朝服拝章)」と答え、燕王・慕容皝のために大将軍・燕王の章璽(印璽)を求めました。

 

朝議はこう考えました「故事(前例)によるなら、大将軍とは辺境にいないものであり、漢・魏以来、異姓を封じて王とすることもありませんでした。(慕容皝が)求めてきたことは、許可すべきではありません(故事,大将軍不処辺,自漢魏以来不封異姓為王。所求不可許)。」

劉翔が言いました「劉・石(前趙と後趙)が構乱してから(乱を為してから)、長江以北はそろって戎の薮(兵乱の密集地)となっており(翦為戎薮)、中華の公卿の後代において、腕をまくって戈を揮い、凶逆の者を摧破(破砕)した者が一人でもいるとは、聞いたことがありません(未聞中華公卿之冑有一人能攘臂揮戈,摧破凶逆者也)。ただ慕容鎮軍の父子だけは竭力(尽力)して心中に本朝があり(心存本朝)、寡(少数)によって衆(多数)を撃ち、しばしば強敵を殲滅して(屢殄強敵)、石虎を畏懼させ、辺陲(辺境)の民を悉く三魏に散居させました(『資治通鑑』胡三省注によると、遼西の民を移住させたことを指します。魏郡、陽平、広平が三魏です)(石虎は)蹙国(失った国土)が千里にわたり、薊城を北境としています。功烈(功績)がこのようであるのに、海北の地を惜しんで封邑しないというのは、なぜでしょうか。昔、漢高祖は韓・彭(韓信と彭越)に対して王爵を愛さなかったので(王の爵位を惜しまなかったので)、その帝業を成すことができました。項羽は印が摩耗してもそれを授けるのが忍びなかったため、最後はそのために危亡を招きました(刓印不忍授,卒用危亡)。私の至心(誠心)は、ただ自分が仕えている者(慕容皝)が尊ばれることを欲しているだけではありません。心中で、聖朝が忠義の国を疎遠にしたために、四海に勧慕(励まされて慕うこと)する所をなくさせることを惜しんでいるのです(忠義の国を大切にすれば、天下がそれに励まされて晋を慕うようになるが、逆に、忠義の国を疎遠にしたら、天下が晋を慕わなくなってしまう、という意味です。原文「吾之至心,非苟欲尊其所事,竊惜聖朝疏忠義之国,使四海無所勧慕耳」)。」

 

劉翔の姉の夫に当たる尚書・諸葛恢だけが異議を主張してこう言いました「夷狄が攻め合うのは、中国の利となります。器(礼器)と名(名号)だけは、軽率に同意してはなりません(不可軽許)。」

諸葛恢が劉翔に言いました「もし慕容鎮軍に石虎を除くことができても、また一石虎(別の石虎)を得ることになる。朝廷がどうして(慕容皝を)頼りにできるのだ(朝廷何頼焉)。」

劉翔が言いました「嫠婦(寡婦)でも宗周(東周の都・洛邑)の隕(衰落・没落)を憂慮するということを知っています(原文「嫠婦猶知恤宗周之隕」。春秋時代、鄭の子太叔が晋の士鞅に語った言葉が元になっています。子太叔は「寡婦は緯(織物の糸)が足りないことを心配しなくても、宗周の衰落は心配する(嫠不恤其緯而憂宗周之隕)」と言いました)。今、晋室は危機に面しています。君(あなた)の位は元凱(八元・八凱。帝嚳と顓頊の子で、合わせて十六人の賢人です)と等しいのに、憂国の心を抱いたことがないのですか(今晋室阽危,君位侔元凱,曾無憂国之心邪)。かつて、もしも靡・鬲の功が立たなかったら、少康はどうして夏の祭祀を継続できたでしょう(「靡」は夏王朝の臣・伯靡、「鬲」は「有鬲氏」です。夏王朝は后羿と寒浞によって滅ぼされましたが、伯靡が有鬲氏に奔り、後に夏王・少康を助けて夏王朝を復興させました。原文「嚮使靡、鬲之功不立,則少康何以祀夏」)。桓・文の戦が勝てなかったら、周人は皆、左袵になっていたでしょう(「桓・文」は春秋時代の斉桓公と晋文公です。「左袵」は襟の左側を上にすることで、異民族の風習です。斉桓公と晋文公は山戎や楚と戦って破り、中原で覇者になりました。原文「桓文之戦不捷則周人皆爲左袵矣」)。慕容鎮軍は戈を枕にして旦(日の出)を待ち、志は凶逆を殲滅することにあります(枕戈待旦,志殄凶逆)(それなのに)(あなた)はかえって邪惑の言を唱え、嫉妬によって忠臣を離間させています(君更唱邪惑之言,忌間忠臣)。四海が一つにならないのは、まさに君(あなた)のような輩が原因でしょう(四海所以未壹,良由君輩耳)。」

劉翔は建康に一年余留まりましたが、結局、衆議は決しませんでした。

 

そこで劉翔は中常侍・彧弘(『資治通鑑』胡三省注によると、「彧」は通常、「郁」と書かれます。魯の相に郁貢がいました)を説得しました「石虎は八州の地を包括し、帯甲が百万を数え、江・漢を呑み込もうと志しており、索頭(拓跋氏)、字文から諸小国に至るまで、臣服しない者はいません。(その中で)ただ慕容鎮軍だけは天子を翼戴(輔佐・奉戴)して、精(精誠、忠誠)が白日を貫いているのに、かえって殊礼の命を獲ることができずにいます。(そのため)天下が心を移して解体(崩壊)し、再び南を向く者がいなくなるのではないかと、心中で恐れています。公孫淵は呉に対して尺寸の益もありませんでしたが、呉主は(公孫淵を)燕王に封じて九錫を加えました(魏明帝青龍元年・233年参照)。今、慕容鎮軍はしばしば賊鋒を破摧し、威が秦・隴を震わせているので、石虎が繰り返し重使(重任を負った使者)を派遣して甘言厚幣を贈り、曜威大将軍・遼西王の位を授けようと欲しています(『資治通鑑』胡三省注は「劉翔は偽ってこの言を為した。但し、当時の将軍号には確かに『曜威』の号があったはずだ」と解説しています)(しかし)慕容鎮軍はそれが正(正道、正統)ではないことを嫌い、退けて受けずにいます(悪其非正卻而不受)。今、朝廷は虚名を矜惜(物惜しみすること)して忠順を沮抑(妨害・抑制)していますが、これがどうして社稷の長計なのでしょうか。後に悔やんだとしても、恐らく間に合わなくなります(後雖悔之,恐無及已)。」

彧弘が劉翔のために入宮して成帝に報告しました。

成帝も心中で同意しようと欲します。

この時、ちょうど慕容皝が上表してこう称しました「庾氏兄弟は権勢を専断して乱を招いたので(原文「擅権召乱」。『資治通鑑』胡三省注が解説しています。庾亮は蘇峻・祖約の変を招きましたが、その後も上流を拠点にしました。庾亮の死後も、庾翼が外で兵権を握り、庾冰が内で専政しています)、斥退(排斥・退去)を加えることで社稷を安んじるべきです。」

慕容皝は同時に庾冰にも書を送り、国政に当たって権勢を握りながら(当国秉権)、国のために雪恥できないことを責めました。

庾冰は甚だ懼れを抱き、絶遠にいる慕容皝は制御できる相手でもないので(慕容皝の非難を止めさせることができないので)、何充と共に上奏して、慕容皝の請いに従うように勧めました。

 

乙卯(本年二月は「甲子」が朔なので、「乙卯」はありません)、東晋が慕容皝を使持節・大将軍・都督河北諸軍事・幽州牧・大単于・燕王にして、備物・典策(「備物」は儀仗等で使う器物、「典策」は法令制度です。『資治通鑑』胡三省注は「車輅(車輌)・旂章(名分を表す旗)・弓矢・斧鉞は皆、備物とみなすことができる」と解説しています)は全て殊礼(特殊な礼)に従わせました。

また、世子・慕容儁を假節・安北将軍・東夷校尉・左賢王とし、下賜した軍資・器械は千万を数えました。

他にも封爵された諸功臣が百余人います。

劉翔を代郡太守に任命して臨泉卿侯に封じ、員外散騎常侍(『資治通鑑』胡三省注によると、魏末に置かれた官です)を加えましたが、劉翔は固辞して受け入れませんでした。

 

劉翔は、江南の士大夫が驕奢酣縦(驕奢で酒に耽ること)を尊びあっている姿を嫌い、朝廷の貴人が酒宴のために集まった機会に、何充等にこう言いました「四海が板蕩(混乱、動乱)して、瞬く間に三紀を越え(原文「四海板蕩,奄踰三紀」。「一紀」は十二年です。西晋恵帝永興元年・304年に李雄と劉淵が王を称してから、本年(341年)で三十七年になります)、宗社は墟(廃墟)となり、黎民(民衆)は塗炭の中にいます。これは廟堂の焦慮の時(朝廷が憂愁苦慮する時)であり、忠臣の畢命の秋(忠臣が命をかける時)であるのに、諸君は江沱(長江と沱水)で宴安(安逸を享受すること)して情や欲のほしいままにしており(肆情縦欲)、奢靡(奢侈浪費)を栄とし、傲誕(傲慢放誕)を賢とし、謇諤の言(直諫の言葉)は聞こえず、征伐の功も立たなくなっています。この後、どうやって主(陛下)を尊び、民を救済するのでしょうか(将何以尊主済民乎)。」

何充等は甚しく慚愧しました。

 

成帝が詔を発し、燕王に冊命を与えるため、兼大鴻臚・郭悕を派遣して、符節を持って(持節)棘城を訪ねさせることにしました。郭悕は劉翔等と共に北に向かいます。

公卿が江上で餞別すると、劉翔が諸公にこう言いました「昔、(夏王朝の)少康は一旅(一軍)を用いて有窮氏を滅ぼし(少康資一旅以滅有窮)(春秋時代の越王)句践は会稽を恃みにして強呉に報復しました(句践憑会稽以報強呉)。蔓草(蔓延した雑草)でも早く除かなければならないのですから、寇讎(仇敵、敵国)ならなおさらです。今、石虎と李寿は、互いに吞噬(併呑)することを志しています(志相吞噬)。王師が今はまだ北方を澄清(清亮)にすることができないのなら、まずは巴・蜀の事を行うべきです(王師縦未能澄清北方,且当従事巴蜀)。一旦、石虎が人に先んじて事を挙げ、李寿を併合してこれを有したら、形便の地(地形・形勢に利便がある地)を占拠して東南に臨むことになるので、たとえ智者がいたとしても、その後を善くすることはできません(対処できなくなります。原文「不能善其後矣」)。」

中護軍・謝広が「これは私の心(心意)だ」と言いました。

 

[四] 『晋書・第七・成帝紀』と『資治通鑑』からです。

三月戊戌(初五日)、東晋の皇后・杜氏が死にました。

夏四月丁卯(初五日)、恭皇后(杜皇后。「恭」は諡号です)を興平陵に埋葬しました。

 

『晋書・列伝第二・后妃下』によると、杜皇后は幼い頃から姿色(美色。優れた容姿)がありましたが、成長しても歯が生えなかったため、求婚に来た者は皆、途中であきらめました。ところが成帝が納采(婚姻における六礼の一つ。新郎側が新婦の家に礼物を贈る儀式です)した日、一夜で歯が生えそろいました。

杜皇后が死んだ時はまだ二十一歳で、子はいませんでした。

 

[五] 『晋書・第七・成帝紀』と『資治通鑑』からです。

東晋成帝が詔を発し、編戸(戸籍に登録されている民戸)の実態を確認して(実編戸)、王公以下から庶人に至るまで、全て土断・白籍を正しました。

 

「土断」と「白籍」について、『両晋南北朝史話』(中国国際広播出版社)を元に簡単に解説します。

西晋懐帝時代に起きた永嘉の乱以来、多くの漢族が北方の混乱を避けて南方に移住しました。このような移民を「僑人」といいます。

東晋初めの数十年も南に移住する人口は増え続け、僑人の総数は九十万余に上りました。北方の人口のうち約八人に一人が南に移ったことになり、南方の人口の六分の一が僑人になります。

東晋は南方での政権を安定させて、更に北方の民を吸収するため、僑州、僑郡、僑県を置いて北方から来た僑人を集中して居住させました。それらの地には原籍の地名が用いられます。例えば、琅邪の民が南下してきたら江乗県に琅邪郡を置き、南琅邪郡と称しました。兗州の民が南下してきたら京口界内に南兗州を置きました。僑州郡県の官吏は北方の人士が担当します。

僑人は、正式には当地の戸籍に入らず、臨時の戸籍を白い紙の書冊に記入しました。これを「白籍」といいます。これに対して、通常の戸籍は黄色い紙の書冊に記録されていたため、「黄籍」と呼ばれました。元から南方に住んでいる民は「黄籍」に記録されます。

朝廷は北方からの移民を奨励するため、「白籍」の者(僑人)に賦役を免除する等の優遇を与えました。

その結果、北方の大量な人口が南に移り、南方の開発が進みましたが、同時にいくつかの矛盾も生み出しました。まず、僑人(白籍)は賦役の負担がなかったため、移民が増えても国家の収入には結び付きませんでした。しかも北方から来た特権を持つ豪族が荘園を発展させようとして、部曲や佃客を大量に吸収したため、多くの民戸が私門に入ることになり、相対的に国家の収入が減少していきました。更には、僑郡、僑県が増えたことで、行政区画や戸籍制度にも混乱をもたらしました。

そこで東晋政権は、戸籍を整頓するために、僑人や流民の戸籍を改めて登録させることにしました。こうして行われたのが「土断」です。

「土断」とは、外地から移住した者を現在地の籍に登録することです。土断によって、僑州郡県の民も全て所在の地が新しい戸籍とみなされ、通常使われる黄色い書冊の戸籍に登録しなおすことになりました。僑人の白籍が取り消されて、全て黄籍に入れられます。

東晋は主に四回の土断を行いました(この通史では触れていないものもあります)。一回目は成帝咸和年間(326年から334年)の中期、二回目は成帝咸康七年(本年。341年)、三回目は哀帝興寧二年(364年)、四回目は安帝義熙八年と九年(412年と413年)です。

 

[六] 『資治通鑑』からです。

秋七月、東晋を出た郭悕、劉翔等が燕に至りました。

燕王・慕容皝は劉翔を東夷護軍・領大将軍長史に、唐国内史・陽裕を左司馬に、典書令・李洪(『資治通鑑』胡三省注によると、晋制では、王国は典書、典祠、典衛、学官の令をそれぞれ一人置きました。胡三省注が更に解説していますが、省略します)を右司馬に、中尉・鄭林を軍諮祭酒に任命しました。

 

[七] 『晋書・第七・成帝紀』と『資治通鑑』からです。

八月辛酉(初一日)、驃騎将軍・東海王・司馬沖(諡号は哀王です)が死にました。

 

司馬沖は東晋元帝の子です。西晋懐帝永嘉五年(311年)に東海王・司馬越(八王の乱で最後まで残った王)の後を継ぎました。

 

[八] 『晋書・第七・成帝紀』からです。

九月、東晋が太僕の官を廃しました。

 

[九] 『資治通鑑』からです。

代王・拓跋什翼犍が盛楽城を故城の南八里の地に築きました。

 

[十] 『資治通鑑』からです。

代王の妃・慕容氏が死にました。

 

[十一] 『資治通鑑』からです。

冬十月、匈奴の劉虎が代の西部を侵しましたが、代王・拓跋什翼犍が軍を派遣して逆撃し、大破しました。

 

劉虎が死に、子の劉務桓が立ちました。

劉務桓が使者を送って代に和を求めたため、拓跋什翼犍は劉務桓に自分の娘を娶らせました。

 

劉務桓は後趙にも朝貢しました。後趙は劉務桓を平北将軍・左賢王にしました。

 

[十二] 『資治通鑑』からです。

後趙の横海将軍・王華が舟師を率いて海道から燕の安平(『資治通鑑』胡三省注によると、この「安平」は遼東郡の西安平です)を襲い、破りました。

 

[十三] 『資治通鑑』からです。

燕王・慕容皝が慕容恪を渡遼将軍に任命して平郭を鎮守させました。

諸将の中には、慕容翰、慕容仁の後に続く有能な者がいませんでしたが、慕容恪が平郭に至ると、旧民を慰撫して新たに来た者を懐柔し(撫旧懐新)、しばしば高句麗の兵を破りました。そのため、高句麗は慕容恪を畏れ、敢えて入境できなくなりました。

 

[十四] 『晋書・第七・成帝紀』と『資治通鑑』からです。

十二月癸酉(十四日)、東晋の司空・興平伯・陸玩(諡号は康伯です)が死にました。

 

[十五] 『晋書・第七・成帝紀』からです。

東晋が楽府の雑伎(恐らく歌舞の演者)を除きました。

 

[十六] 『晋書・第七・成帝紀』からです。

東晋が安州を廃しました。

 

[十七] 『資治通鑑』からです。

成漢・昭文帝(漢主・李寿)が太子・李勢に大将軍を兼任させて、尚書の政務を主管させました(領大将軍・録尚書事)

 

かつて、成漢武帝(成主・李雄)は倹約・寛恵(寛厚仁恵)によって蜀の人心を得ました。しかし李閎と王嘏が鄴(後趙の都)から還ると(前年参照)、盛んに鄴中の繁庶(繁栄)や宮殿の壮麗を称え、しかも「趙王・石虎は刑殺によって下の者を御しているので、境内を控制(抑制)できている」と発言したため、昭文帝はこれを羨み、周辺の郡民で三丁以上の者(一家で三人目以降に当たる成人男子)を移して成都を充実させ、大いに宮室を修築して器玩(器物・玩具)を製造しました。また、人に小過(小さな過失)があっただけでもすぐに殺して威を立てました。

左僕射・蔡興や右僕射・李嶷が直諫に坐して死に(直諫が原因で罪に問われて死に)、民が賦役のために疲弊し、吁嗟(憂愁の嘆息)が道を満たして、多くの者が乱を思うようになります。

 

次回に続きます。

東晋時代50 東晋成帝(二十五) 成帝の死 342年(1)

 

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