東晋時代50 東晋成帝(二十五) 成帝の死 342年(1)

今回は東晋成帝咸康八年です。二回に分けます。

 

東晋成帝咸康八年

成漢昭文帝漢興五年/後趙天王建武八年

前涼文王太元十九年/前燕王(慕容皝)六年

壬寅 342年

 

[一] 『晋書・第七・成帝紀』と『資治通鑑』からです。

春正月己未朔、日食がありました。

 

『晋書・天文志中』は「己未朔」ではなく「乙未朔」としていますが、この年正月の朔は「己未」です。『資治通鑑』は『晋書・成帝紀』に従って「己未朔」としています。

 

[二] 『晋書・第七・成帝紀』と『資治通鑑』からです。

乙丑(初七日)、東晋が大赦しました。

 

[三] 『資治通鑑』からです。

東晋の豫州刺史・庾懌(庾亮の弟)が江州刺史・王允之(王導の一族)に酒を贈りました。

しかし王允之は毒が入っていると思って(覚其毒)犬に飲ませました。果たして、犬が死んでしまったので(犬斃)、秘かにこの事を上奏すると、成帝はこう言いました「大舅(庾亮。舅は母の兄弟)が既に天下を乱したが、小舅もまたそのようにしようと欲するのか。」

 

二月、庾懌が鴆(毒)を飲んで死にました。

 

[四] 『晋書・第七・成帝紀』と『資治通鑑』からです。

三月、東晋が初めて武悼楊皇后(西晋武帝の皇后・楊氏。西晋恵帝元康二年・292年に賈皇后に殺されました)を武帝廟に配食(霊位を同じ廟に配すこと。合祀。『資治通鑑』では「配食」ですが、『晋書・成帝紀』では「配饗」としています。意味は同じです)しました。

 

[五] 『資治通鑑』からです。

庾翼は武昌にいましたが、しばしば妖怪(妖異・怪異な事)が発生したため、楽郷に鎮を移そうと欲しました。

征虜長史・王述が庾冰に牋(書信)を送ってこう伝えました「楽郷は武昌から千余里も離れているので、もし数万の衆を一旦にして移動させ、城壁を建立したら、公私ともに労擾(労苦・混乱)します(数万之衆,一旦移徙,興立城壁,公私労擾)。また、江州は数千里を泝流(逆流)して軍府に(物資を)供給しなければならないので、力役が増倍(倍増)します。しかも、武昌は実に江東の鎮戍の中(中心)にあり、ただ上流を扞禦(防御)するだけでなく、急事を急いで報告する際、駿馬を走らせるのが難しくありません(緩急赴告,駿奔不難)。もしも楽郷に移ったら、(楽郷は)遠く西陲(西の国境)にあるので、一朝において江渚に虞(憂慮、有事)があっても、すぐに救援することはできません(不相接救)。方嶽(地方。州郡)の重将とは、もとより要害の地において内外の形勢(内外を隔てる形勢。険要な地)となり、闚𨵦の心(隙を窺う心。外敵の野心)に向かう所を分からなくさせるものです(方嶽重将,固当居要害之地,為内外形勢,使闚𨵦之心不知所向)。昔、秦は亡胡の讖(秦は胡によって亡ぶという予言)を嫌い、結局、それが劉・項の資(助け)となりました。周は檿弧の謡(山桑の木で作った弓に関わる民謡)を嫌って褒姒の乱を成しました(原文「昔秦忌亡胡之讖卒為劉項之資。周悪檿弧之謡而成褒姒之乱」。秦始皇帝は「胡が秦を滅ぼす」という予言を嫌ったため、蒙恬に胡を撃たせ、長城を築かせました。その結果、国内を混乱させることになり、始皇帝の子・胡亥が即位してから、項羽と劉邦が秦を滅ぼしました。西周宣王の時代、「檿弧萁服(山桑の弓と箕木の矢袋)が周を滅ぼす(檿弧萁服,実亡周国)」という童謡が流行ったため、宣王が檿弧萁服を売る夫婦を殺そうとしました。しかし夫婦は逃走し、途中で女児を拾いました。この女児が後に褒姒となり、幽王に寵愛されて西周の滅亡を招きました)。このようであるので、達人(道に達した人)や君子は、直道なら進みますが、禳避(お祓いをして禍を除くこと)の道は、皆、選ばないのです(是以達人君子直道而行,禳避之道皆所不取)。ただ、人事における優れた道理を選んで、社稷の長計を思うべきです(正当擇人事之勝理,思社稷之長計耳)。」

朝議もこの意見に同意したため、庾翼は中止しました。

 

[六] 『晋書・第七・成帝紀』『晋書・第七・康帝紀』と『資治通鑑』からです。

夏五月乙卯(『二十史朔閏表』によると、この年五月は「丁巳」が朔なので、「乙卯」はありません)、東晋成帝が病を患いました(不豫)

 

六月庚寅(初五日)、成帝の病が重くなりました。

 

ある者が尚書の符(公文書の一種)を偽造し、宮門に勅令して宰相を中に入れさせないようにしました。衆人が皆、色を失います。

しかし、庾冰が「これは偽物に違いない(此必詐也)」と言って推問(審問、尋問)したため、偽造した物だということが分かりました。

 

成帝の二子である司馬丕と司馬奕はどちらも襁褓にいました(まだ幼児でした)

庾冰は兄弟で権勢を掌握して久しく日が経ちますが、易世の後(世代交代の後。新帝即位後)に皇帝との親属の関係が疎遠になって他人に乗じられることを恐れたため(原文「恐易世之後,親属愈疏為他人所間」。庾冰は明帝の皇后・庾氏(成帝の母)の兄弟だったので、権勢を握ることができました。成帝の子に当たる司馬丕や司馬奕が即位したら親属としての関係が遠くなり、外戚が増えることになります)、いつも成帝に説諭して、国には強敵(成漢と後趙)がいるので、長君(年長の君主)を立てるべきだ、と言っており、成帝の同母弟に当たる琅邪王・司馬岳を後嗣とするように請いました。成帝はこれに同意します。

 

中書令・何充が庾冰に言いました「父子が(位を)伝えるのは先王の旧典です。それを変えて乱を招かなかった者はほとんどいません(父子相伝,先王旧典,易之者鮮不致乱)。武王が聖弟に(位を)授けなかったのは、愛していなかったからではありません(原文「故武王不授聖弟,非不愛也」。西周武王は弟の周公が聖人だと知っていましたが、王位を継承させませんでした)。今、琅邪が踐阼(即位)したら、孺子は如何するのですか。」

庾冰は諫言を聴きませんでした。

 

成帝が詔を下しました「朕は眇年(幼少)によって洪緒(祖先の大業)を継ぐことができ、王公の上に託されて、今までで十八年になる(朕以眇年獲嗣洪緒,託于王公之上于茲十有八年)(しかし)政道を闡融(創建・調和)して、逋祲(「逋」は逃亡、「祲」は不祥の気です。ここでは「外敵」「流寇(各地を流動する反乱者)」、または「災禍」を指すと思われます)を翦除(廃除)することができずにいるので、朝から夜まで戦戦兢兢とし、寧処(安居)する余裕もない(未能闡融政道,翦除逋祲,夙夜戦兢,匪遑寧処)(しかも)今、病に遭遇して、恐らくもう立ち上がることはできないので、そのために心中で震悼(懼れ震えて悲痛すること)している(今遘疾殆不興,是用震悼于厥心)。千齢(千歳。寿命)とは眇眇(ささやかなこと、短いこと)としたものであり、艱難に堪えることができない(千齢眇眇,未堪艱難)

司徒・琅邪王・岳は、親(親族の関係。親しさ)においては同母弟であり、体(体現しているもの。性格や行動)においては仁長であり、人の主君となる気風は、時望(人々の希望、期待)を満足させている(親則母弟,体則仁長,君人之風,允塞時望)。よって、汝等王侯卿士はこれを輔佐し、そうすることで祖宗の明祀(重要な祭祀)を恭しく行い、内外を協和させて正しくその中(中庸)を維持せよ(肆爾王公卿士其輔之,以祗奉祖宗明祀,協和内外允執其中)。ああ、恭敬な態度でこれを行え(嗚呼,敬之哉)。祖宗の顕命(美命、大命)を墜没させてはならない(無墜祖宗之顕命)。」

こうして成帝は琅邪王・司馬岳を後嗣に立てました。

 

『資治通鑑』はここで、「司馬奕に琅邪哀王の後を継がせた」と書いていますが、『晋書・成帝紀』と『海西公紀』には記述がありません。「司馬奕」は「司馬丕」の誤りではないかと思われます。六月己亥(十四日)に、成帝の子・司馬丕が琅邪王に、司馬奕が東海王に封じられます(下述します。司馬丕は後の哀帝、司馬奕は後の廃帝・海西公です)

 

元々、琅邪王は司馬睿(東晋元帝)が封じられましたが、司馬睿が晋王になってから、子の司馬裒を琅邪王にしました(西晋愍帝建興五年・晋王(司馬睿。東晋元帝)建武元年・317年参照)。『晋書・列伝第三十四・元四王伝』によると、司馬裒の諡号は孝王です。

司馬裒は琅邪王を継いだ年に死に、子の哀王・司馬安国が立ちましたが、司馬安国も年を越えずに死にました(未踰年薨)

東晋元帝太興(大興)元年(318年)に元帝が改めて皇子・司馬煥を琅邪王に封じましたが、司馬煥もすぐに死にました。諡号は悼王といい、まだ二歳でした。

元帝永昌元年(322年)、元帝が皇子・司馬昱(後の簡文帝です)を琅邪王に封じました。

成帝咸和二年(327年)、司馬昱が会稽王に改封され、呉王だった司馬岳が琅邪王に改められました。

本年、司馬岳が大宗(皇統)に入ったので、司馬丕が琅邪哀王(司馬安国)の跡を継ぐことになりました。後に司馬丕が帝位に即くと(哀帝です)、弟の司馬奕が東海王から琅邪王に改封されます。

 

本文に戻ります。

壬辰(初七日)、中書監・庾冰、中書令・何充および武陵王・司馬晞(元帝の子)、会稽王・司馬昱(元帝の子。上述)、尚書令・諸葛恢が並んで顧命(遺命)を受けました。

癸巳(初八日)、成帝が西堂で死にました。二十二歳でした。廟号を顕宗といいます。

 

『資治通鑑』は成帝を評して「帝は幼沖(幼少)で帝位を継ぎ、自分では諸政を行わなかったが、成長してからは頗る勤倹(勤労・節倹)の徳があった」と書いています。

以下、『晋書・成帝紀』から成帝の評価です(一部は既述の内容です)

成帝は幼い頃から聡敏で、成人の量(器量、度量)がありました。

南頓王・司馬宗が誅殺された時、成帝はその事を知らず、蘇峻が平定されてから、庾亮に「常日の白頭公(往日の白頭公。いつもよく見ていた白頭公。司馬宗を指します)はどこだ(常日白頭公何在)?」と問いました。庾亮が司馬宗は謀反によって既に誅に伏したと答えると、成帝は泣いてこう言いました「舅(母の兄弟。あなた)は『人が賊(害。謀反)を為した』と言ってすぐに殺したが、もしも人が『舅が賊を為した』と言ったら、また、どうするつもりだ(舅言人作賊,便殺之。人言舅作賊,復若何)。」

庾亮は懼れて顔色を変えました(『資治通鑑』は成帝咸和元年・326年にこの事を書いています)

庾懌が江州刺史・王允之に酒を贈ったことがありました(『資治通鑑』は本年春に書いています)。しかし王允之が(酒を)犬に与えると、犬が死んでしまったため、懼れて上表しました。

成帝は怒って「大舅(庾亮)が既に天下を乱したが、小舅もまたそのようにしようと欲するのか」と言いました。

それを聞いた庾懌は薬(毒)を飲んで死にました。

(成帝はこのように聡敏でしたが)若い頃から舅氏(庾氏)に制御されており、自らは諸政を行いませんでした。成長してからは万機(国家の大事)に頗る心を留め、簡約に務めました。かつて、後園に射堂を造ろうと欲しましたが、費用を計算したところ四十金になったため、労費(労力と費用の浪費)を理由に中止しました。

雄武の度(器度)においては、前王に対して恥じるべきところがありましたが(前王よりも劣りましたが)、恭倹の徳においては、往烈(先人の功績)の跡を追うに足りました(雄武之度,雖有愧於前王,恭倹之徳,足追蹤于往烈矣)

 

本文に戻ります。

甲午(初九日)、琅邪王・司馬岳が皇帝の位に即き、大赦を行いました。

司馬岳の諡号は康帝です。建元二年(344年)に二十三歳で死ぬので、本年(342年)は二十一歳です。

 

諸屯戍(駐屯地、守備地)の文武の官および二千石の官長は、勝手に部署を離れて喪に駆けつけてはならないことにしました(不得輒離所局而来奔赴)

 

己亥(十四日)、成帝の子・司馬丕を琅邪王に、司馬奕を東海王に封じました。

 

[七] 『晋書・第七・康帝紀』と『資治通鑑』からです。

東晋康帝は喪に服している間、言葉を発することなく(亮陰不言)、政事を庾冰と何充に委ねました。

 

秋七月丙辰(初一日)、成帝を興平陵に埋葬しました。

康帝は自ら西階(堂の西側の階段。尊礼を表します)で奉奠(哀悼の儀式)しました。

発引(棺が陵墓に向けて出発すること)すると徒歩で喪(霊柩)を送り、閶闔門に至ってから、素輿(飾りがない白い車)に乗って陵所に行きました。

 

葬事が終わってから、康帝が臨軒して庾冰と何充が侍坐しました(康帝が殿前に臨んで群臣の前に姿を表し、庾冰と何充が傍に坐りました)

康帝が言いました「朕が鴻業(大業)を継ぐことができたのは、二君の力(おかげ)である。」

何充が言いました「陛下が龍飛できたのは(龍のように飛翔できたのは。即位できたのは)、臣・冰(庾冰)の力です。もし臣の議(私の意見)のようにしていたら、(陛下は)升平の世(泰平の世。晋朝の治世)を視ることができませんでした(陛下龍飛,臣冰之力也。若如臣議,不覩升平之世)。」

康帝は慙色(恥じ入った表情)を表しました。

 

己未(初四日)、中書令・何充を驃騎将軍・都督徐州揚州之晋陵諸軍事・領徐州刺史に任命し、京口を鎮守させました。庾氏を避けさせるためです。

「都督徐州揚州之晋陵諸軍事」は、徐州および揚州晋陵における諸軍事の都督です。『資治通鑑』胡三省注によると、西晋の永嘉の大乱以降、徐州や淮北の流民が相継いで淮水を渡り、ある者は更に江(長江)を渡って晋陵郡界内に住みました。成帝咸和四年(329年)には司徒・郗鑒も淮南の流民を晋陵諸県に遷し、僑郡(移民のために置いた郡)を設けて統治しました。本来の徐州は江北に位置しており、当時の東晋は広陵、堂邑、鍾離の三郡(全て江北・淮南に位置します)を統治していましたが、更に揚州境内(江南)の晋陵郡も徐州に属させました。「都督徐州揚州之晋陵諸軍事」は長江南北の徐州(江北の広陵、堂邑、鍾離と江南の晋陵郡)を管轄します。

晋陵郡は三国時代・呉の毗陵郡です。呉が呉郡の無錫以西を分けて毗陵郡を置きました。後に西晋の東海国が毗陵を食邑とし、東海王・司馬越の世子を司馬毗といったため、毗陵を晋陵に改めました。

 

次回に続きます。

東晋時代51 東晋成帝(二十六) 慕容皝の高句麗進攻 342年(2)

 

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