東晋時代51 東晋成帝(二十六) 慕容皝の高句麗進攻 342年(2)

今回は東晋成帝咸康八年の続きです。成帝は既に死に、康帝が即位しています。

 

[八] 『晋書・第七・康帝紀』からです。

八月辛丑(十七日)、東晋の彭城王・司馬紘(成帝咸和五年・330年参照)が死にました。

 

[九] 『晋書・第七・康帝紀』からです。

東晋が江州刺史・王允之を衛将軍に任命しました。

 

[十] 『晋書・第七・康帝紀』からです。

九月、東晋康帝が詔を発し、琅邪国および府の官吏(「府」は恐らく司徒府を指します。康帝・司馬岳は司徒でした)の位を、それぞれ差をつけて進めました(琅邪国及府吏進位各有差)

 

[十一] 『晋書・第七・康帝紀』からです。

冬十月甲午(十一日)、東晋の衛将軍・王允之が死にました。

 

[十二] 『資治通鑑』からです。

燕王・慕容皝が龍城(前年築城しました)に都を遷し、境内の囚人を赦免しました(赦其境内)

 

以前、慕容廆は徒河の青山に住み、後に棘城に遷りました。今回、慕容皝が更に棘城から龍城に都を遷しました。

『資治通鑑』胡三省注によると、慕容皝は柳城の北、龍山の南(前年の『資治通鑑』の記述では「柳城の北、龍山の西」に築城しています)が福徳の地だったため、都を龍城に遷し、新宮を和龍宮と号しました。

 

建威将軍・慕容翰が慕容皝に言いました「宇文が強盛になって日が久しく、しばしば国患となっています。(しかし)今、逸豆帰が簒竊(簒奪)して国を得ましたが、群情(人心)が附いていません。それに加えて(逸豆帰は)天性の見識が凡庸暗愚で(性識庸闇)、将帥もその才ではありません。(しかも)国には防衛がなく、軍には部伍(隊伍。軍の秩序)がなくなっています。(また)臣は久しくその国にいたので、地形を熟知しています(悉其地形)。たとえ(彼等が)遠くの強羯(後趙)に附いていても、声勢(声威気勢。支援)が接しないので、救援においては益がありません(後趙は彼等にとって役に立ちません)。今、もしこれを撃てば、百挙して百勝できます(百挙百克)

しかし、高句麗が我が国と密接しており(去国密邇)、常に闚𨵦の志(隙を窺おうとする野心)を抱いています。彼等は宇文が既に亡んだら禍が自分に及ぶことになると知っているので、必ず虚に乗じて深入りし、我々の不備を襲うでしょう(掩吾不備)。もし(我々が国に)留める兵を少なくしたら(国を)守る数が足りなくなり、もし留める兵を多くしたら(宇文氏の攻撃に)行く数が足りなくなります(若少留兵則不足以守,多留兵則不足以行)。彼等(高句麗)は心腹の患なので、まずこれを除くべきです。その勢力を観るに、一挙して克つことができます。宇文は自守の虜(自分を守るだけの賊)なので、利を争うために遠くから来るようなことはできません必不能遠来争利)既に高句麗を取ってから、還って宇文を取るのは、手を返すように容易なことです(如返手耳)。二国を平らげたら利が東海に尽き(東海に至る地域の利益を全て得ることができ)、国が富んで兵が強くなり、返顧の憂(後顧の憂い)がなくなるので、その後なら、中原を図ることもできます。」

慕容皝は「善し」と言いました。

 

こうして、慕容皝は高句麗を撃つことにしました。

高句麗に行くには二つの道がありました。北道は平闊で、南道は険狭です(『資治通鑑』胡三省注によると、北道は北置(地名)から進み、南道は南陝から木底城に入りました)

衆人は北道から進もうと欲しましたが、慕容翰がこう言いました「虜は常情によってこれを料り(普通の心情によって我々の行動を予測し)、必ず、大軍は北道に従う(北道に沿う)と思っているので、北を重んじて南を軽んじているはずです。王は鋭兵を指揮して、南道に従ってこれを撃つべきです。相手の不意に出れば、丸都(高句麗の都)を取るのも難しくありません(原文「出其不意,丸都不足取也」。この「不足」は「不難」の意味です)(あわせて)別に偏師(一軍)を派遣して北道に従わせます。たとえ(北道で)蹉跌(挫折、失敗)があったとしても、その腹心が既に潰えているので、四肢は何もすることができません(四支無能為也)。」

慕容皝はこの意見に従いました。

 

十一月、慕容皝が自ら勁兵(強兵)四万を率いて南道に出ました。慕容翰と慕容霸を前鋒にします。

これとは別に長史・王㝢等を派遣し、一万五千の兵を率いて北道から高句麗を伐たせました。

 

高句麗王・釗は果たして弟の武を派遣し、精兵五万を率いて北道で防がせ、自らは羸兵(弱兵)を率いて南道で備えました。

慕容翰等が先に至って釗と合戦し、慕容皝が大衆(大軍)を率いて後に続きます。

 

左常侍・鮮于亮が「臣は俘虜の身でありながら王による国士の恩を蒙ったので(咸康四年・338年参照)、報いないわけにはいかない。今日は臣が死ぬ日だ」と言い、わずか数騎と共に率先して高句麗の陣を侵しました。向かう所が摧陷(破砕・陥落)し、高句麗の陣が動揺します。

慕容皝の大衆がその機に乗じて進攻し、高句麗の兵が大敗しました。

左長史・韓寿が高句麗の将・阿佛和度加を斬ると、諸軍が勝ちに乗じて追撃し、丸都に入りました。高句麗王・釗は単騎で走ります。

軽車将軍・慕輿埿が後を追い、高句麗王の母・周氏および妻を獲て還りました。

この時、ちょうど王㝢等が北道で戦って全て敗没(覆滅、全滅)したため、慕容皝は窮追(徹底的な追撃)を止めました。

慕容皝は使者を派遣して釗を招きましたが、釗は出てきませんでした。

 

慕容皝が還ろうとした時、韓寿がこう言いました「高句麗の地は戍守(防守)できません。今、その主が逃亡して民も四散し、山谷に潜伏していますが、大軍が去ったら必ず再び鳩聚(集結)するでしょう。その余燼(燃え残り。残党を収めたら、なお患いを為すに足ります(今其主亡民散,潜伏山谷。大軍既去,必復鳩聚,收其余燼,猶足為患)。彼(高句麗王)の父の屍を車に載せ、その生母を囚禁して帰ることを請います。彼がその身を縛って自ら帰順するのを待ち、その後にこれを返せば、恩信によって慰撫することができるので、上策となります(請載其父尸、囚其生母而帰,俟其束身自帰,然後返之,撫以恩信,策之上也)。」

慕容皝はこの意見に従い、釗の父・乙弗利の墓を暴いてその屍を車に載せました。また、高句麗の府庫から累世(歴代)の宝を回収し、男女五万余口を捕虜にし、その宮室を焼き、丸都城を破壊してから帰還しました。

 

[十三] 『晋書・第七・康帝紀』からです。

十二月、東晋が文武諸官の位を二等増やしました。

 

[十四]  『晋書・第七・康帝紀』と『資治通鑑』からです。

壬子(二十九日)、東晋が妃・褚氏を皇后に立てました。

豫章太守・褚裒を朝廷に召して侍中・尚書に任命しました。

しかし褚裒は自分が皇后の父という立場にいるため、中央で大事を担当することを願わず(不願居中任事)、苦心して外に出ることを求めました。

そこで朝廷は、褚裒を建威将軍・江州刺史に任命して、半洲を鎮守させました。

 

[十五] 『資治通鑑』からです。

後趙天王(趙王・石虎)が四十余カ所の台観を鄴に築き、また、洛陽と長安の二宮を造営しました。作者(労働者)が四十余万人に上ります。

さらに、鄴から閣道(壁や屋根に囲まれた道)を造って襄国に至らせようと欲しました。

勅令を発して、河南四州に南伐の準備を整えさせ、并・朔・秦・雍に西討の資(物資)を整えさせ、青・冀・幽州に東征の計(計画、準備)を為させ、皆、三五を基準に兵卒を徴発させました(『資治通鑑』胡三省注によると、「河南四州」は洛・豫・徐・兗州です。「朔州」は石勒が朔方を平定してから置いた州です。「西討」は河西への攻撃を指し、「東征」は燕討伐を指します。徴兵に関しては、『資治通鑑』原文は「三五発卒」と書いており、胡三省注が「三丁いたら二丁を徴発し、五丁いたら三丁を徴発した(三丁発二,五丁発三)」と解説しています)

諸州の軍で武器を造る者が五十余万人に上りました(諸州軍造甲者五十余万人)

十七万人の船夫がいましたが、水没したり虎や狼に食べられた者が三分の一に上りました。

加えて公侯や牧宰(地方の長官)が競って私利を営んだため、百姓が業を失って愁困(憂愁困窮)しました。

 

貝丘の人・李弘(『資治通鑑』胡三省注によると、貝丘県は漢代以来、清河郡に属しました。北斉が清河県に合併させます)が衆心の怨恨に乗じて、自分の姓名が讖(予言書)に応じていると宣言し、党与を集結させて(連結党与)、百寮を配置しようとしました。しかし事が発覚して誅殺され、連坐した者が数千家に上りました。

 

天王は畋猟(狩猟)に限度がなく、早朝に外出して夜に帰りました(晨出夜帰)。また、微行(おしのび)も多く、自ら作役(労役の様子)を観察しました。

侍中・京兆の人・韋謏が天王を諫めて言いました「陛下は天下の重責を軽視し、軽率に斤斧(兵器)の間で行動していますが、突然、狂夫による変事があったら、たとえ智勇があっても、どうしてそれを発揮することができるでしょう(陛下忽天下之重,軽行斤斧之閒,猝有狂夫之変,雖有智勇将安所施)。また、時節に関係なく労役を興しており、民の耘穫(農耕)を廃しているので(興役無時,廃民耘穫)、吁嗟(憂愁による嘆息の声)が路を満たしています。これはおよそ仁聖が忍んで為せることではありません(仁聖の帝王にはできないことです。原文「殆非仁聖之所忍為也」)。」

天王は韋謏に穀帛を下賜しましたが、興繕(建設、修築)はますます頻繁になり、游察も自若としていました(平然と巡遊・視察しました)

 

秦公・石韜は天王に寵信されており、太子・石宣がそれを憎んでいました。

右僕射・張離が五兵尚書(『資治通鑑』胡三省注によると、三国時代の魏が五兵尚書を置きました。「五兵」は中兵、外兵、騎兵、別兵、都兵を指します)を統領しており、石宣に媚びようとして、こう説きました「今、諸侯の吏兵は限度を超えているので、徐々に裁省(削減)することで、根本を壮大にするべきです(宜漸裁省以壮本根)。」

そこで石宣は張離から(諸侯の吏兵を減らすように)上奏させました。

その結果、秦、燕、義陽、楽平の四公(『資治通鑑』胡三省注によると、秦公・石韜、燕公・石斌、義陽公・石鑒、楽平公・石苞を指します)は、吏百九十七人と帳下兵二百人の配置を許可され、それより下の者は三分の一だけを置いて、余った兵五万は全て東宮(太子宮)に配されることになりました(秦・燕・義陽・楽平四公,聴置吏一百九十七人,帳下兵二百人,自是以下三分置一,余兵五万,悉配東宮)

この後、諸公が全て怨みを抱くようになり、嫌釁(嫌隙、対立)がますます深くなりました。

 

青州が上言しました「済南平陵城(『資治通鑑』胡三省注によると、漢代は済南郡に東平陵県がありました。晋はこれを省きましたが、後に平陵県を置きました。唐が斉州全節県にします)の北にあった石の虎が一夕(一夜)で城の東南に移りました。狼狐による千余の足跡がそれに従っていて、足跡で蹊(小路)ができていました(済南平陵城北石虎一夕移於城東南,有狼狐千余迹隨之,迹皆成蹊)。」

天王が喜んで言いました「石の虎は朕だ。西北から東南に移ったというのは、天意が朕に江南を平蕩(平定)させようと欲しているのだ。よって、諸州の兵に勅令して、明年、悉く集結させることにする。朕が自ら六師を監督して天命を奉じよう(其敕諸州兵明年悉集,朕当親董六師以奉天命)。」

群臣が皆、祝賀し、『皇徳頌』を献上した者が百七人に上りました。

 

天王が制(帝王の命令)を発しました「征士(出征する兵士)五人ごとに車一乗、牛二頭、米十五斛、絹十匹を出すこと。調達できないものは斬る(征士五人出車一乗,牛二頭,米十五斛,絹十匹,調不辦者斬)。」

 

民は子を売って軍需物資を供給するようになり、それでも供給できないため、道の木で首を吊る者が相継ぎました(民至鬻子以供軍須,猶不能給,自経於道樹者相望)

 

[十六] 『資治通鑑目録(巻第九十七)』は本年(代高祖什翼犍・建国五年)に「王(代王・什翼犍)が雲中に還った」と書いています。

 

 

次回に続きます。

東晋時代52 東晋康帝(一) 庾翼 343年

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