東晋時代52 東晋康帝(一) 庾翼 343年

今回から東晋康帝の時代です。

 

康皇帝

姓は司馬、名は岳、字は世同といいます。成帝の同母弟です。

 

以下、『晋書・第七・康帝紀』からです。

司馬岳は成帝咸和元年(326年)に呉王に封じられ、翌年(327年)、琅邪王に改封されました。

咸和九年(334年)、散騎常侍に任命され、驃騎将軍を加えられました。

咸康五年(339年)、侍中・司徒になりました。

咸康八年(342年)六月庚寅(初五日)、成帝の病が重くなり、詔によって琅邪王・司馬岳が後嗣に立てられました。

癸巳(初八日)、成帝が死にました。

甲午(初九日)、琅邪王・司馬岳が皇帝の位に即き、大赦を行いました。

 

前年の出来事は既に書いたので、詳述は避けます。以下、康帝建元元年です。

 

東晋康帝建元元年

成漢昭文帝漢興六年/後趙天王建武九年

前涼文王太元二十年/前燕王(慕容皝)七年

癸卯 343年

 

[一] 『晋書・第七・康帝紀』からです。

春正月、東晋が改元し、鰥寡(配偶者を失った男女)・孤独(孤児や身寄りのない老人)を振恤(救済)しました。

 

[二] 『資治通鑑』からです。

二月、高句麗王・釗(前年参照)が弟を派遣し、燕に入朝させて臣を称しました。貢納された珍異(珍宝・異品)が千を数えます。

燕王・慕容皝は釗の父の屍を返しましたが、母はそのまま留めて質(人質)としました。

 

[三] 『資治通鑑』からです。

宇文逸豆帰がその相・莫浅渾を派遣し、兵を率いて燕を撃たせました。

燕の諸将が争って莫浅渾を撃とうと欲しましたが、燕王・慕容皝は許可しませんでした。

そのため、莫浅渾は慕容皝が自分を畏れていると思い、自由に酒を飲んだり狩猟をしたりして、備えを設けなくなりました(酣飲縦猟不復設備)

そこで慕容皝は慕容翰に出撃させました。

莫浅渾は大敗し、その身だけはなんとか逃れましたが、その衆は全て捕えられました(僅以身免,尽俘其衆)

 

[四] 『晋書・第七・康帝紀』からです。

三月、東晋が中書監・庾冰を車騎将軍にしました。

 

[五] 『晋書・第七・康帝紀』からです。

夏四月、東晋の益州刺史・周撫と西陽太守・曹據が李寿(成漢)を討伐し、その将・李恆を江陽で破りました。

 

『晋書・列伝第四十三(庾翼伝)』を見ると『晋書・康帝紀』とは異なり、康帝と庾冰の死後に(二人とも翌年(康帝建元二年・344年)に死にます)、庾翼が益州刺史・周撫と西陽太守・曹據を派遣して蜀を伐たせ、江陽で蜀将・李桓(『晋書・康帝紀』の「李恆」)を破っています。

『資治通鑑』には、周撫と曹據が李恆(李桓)を討ったという記述はありません。

 

[六] 『晋書・第七・康帝紀』からです。

五月、旱害がありました。

 

[七] 『晋書・第七・康帝紀』からです。

六月壬午(初二日)、東晋康帝がまた束帛を贈って処士・尋陽の人・翟湯と会稽の人・虞喜を召しました(翟湯は成帝咸和八年(333年)と成帝咸康元年(335年)に、虞喜は明帝太寧三年(325年)と成帝咸和八年(335年)に招かれています)

 

[八] 『晋書・第七・康帝紀』からです。

東晋の有司(官員)が上奏し、成帝の崩御から一周忌が経つので、素服(喪服)を改めて、食事も元に戻すように請いました(成帝崩一周,請改素服,御進膳如旧)

 

壬寅(二十二日)、康帝が詔を発しました「礼の降殺(降減、省略)とは、時に応じて寝興(増減、変化)するものであり、誠に常(一定の決まり)がない(礼之降殺,因時而寝興,誠無常矣)。しかし君親(君王と父母。もしくは君主)が自ら守るべき準則に至っては、名教の重(重点、核心)であり、これを改められる者はいない(至於君親相準,名教之重,莫之改也)。権制の作(便宜に応じて制度を作ること)とは、思うに近代から始まったのであり、たとえ事(時勢)に適しているといっても、実は弊薄(破壊)の始めとなっているのである(権制之作,蓋出近代,雖曰適事,実弊薄之始)。先王が尊んだことでも、後世はなお疎かにするものである。ましてや、(便宜に応じた制度や前例を)因循(踏襲)して、また軽から降すのは(既に省略された制度を更に省略するのは)、義において許されることではない(先王崇之,後世猶怠,而況因循,又従軽降,義弗可矣。)。」

 

[九] 『晋書・第七・康帝紀』はここで「石季龍(後趙・石虎)が衆を率いて慕容皝を伐ったが、慕容皝が大いにこれを敗った」と書いていますが、『資治通鑑』は採用していません。

 

[十] 『資治通鑑』からです。

東晋の庾翼は為人が忼慨(感情が激しいこと。または正気に満ちていること)で、功名を喜びました(好みました)

琅邪内史・桓温は桓彝の子で(桓彝は蘇峻の乱で殺されました。東晋成帝咸和三年・328年参照)、南康公主(『資治通鑑』胡三省注によると、東晋明帝の娘です)を娶りました。性格が豪爽で、風気(立派な風格や気概、または節操)があり、庾翼と友善な関係になって、互いに海内を寧済(安定救済)することを約束しました。

かつて、庾翼が成帝に桓温を推挙してこう言いました「桓温は英雄の才があるので、陛下が(彼を)常人として遇して、常壻(普通の壻)として養うことがないように願います(願陛下勿以常人遇之,常壻畜之)(彼には)方・邵の任を委ねるべきです(『資治通鑑』胡三省注が解説しています。「方・邵」は西周宣王の中興を助けた方叔と邵虎を指します)(そうすれば)必ず弘済艱難の勲(広く艱難から救済する勲功)を立てらてます。」

 

当時、杜乂と殷浩の才名が共に世に冠していましたが、庾翼だけは二人を重んじず、こう言いました「このような輩は高閣に束ねておいて、天下が太平になるのを待ってから、ゆっくりとその任(職責、役割)を議論するべきだ(原文「此輩宜束之高閣,俟天下太平,然後徐議其任耳」。ここから「束之高閣」という成語ができました。一方に放置して関わらないようにする、という意味です)。」

 

殷浩は官府に招聘されても辞退を繰り返しており、墓所で屏居(隠居)して、十年近く経ちました。

当時の人々は殷浩を管・葛(管仲と諸葛亮)に比しました。

 

謝鯤(東晋元帝永昌元年・322年参照)の子に当たる江夏相・謝尚と長山令・王濛(『資治通鑑』胡三省注によると、東漢献帝が烏傷を分けて長山県を置き、会稽郡に属させました。後に呉が会稽郡から分けて東陽郡に属させました。隋になって長山は金華県に改められます)は常に殷浩の出処を伺って、江左(東晋)の興亡を卜いました(殷浩が出仕するか引退するかによって、東晋の安危を予測しました)

二人はかつて殷浩に会いに行き、確然の志(確固とした意志、志向)があることを知りました。二人は帰ってから互いに「深源(殷浩の字です)が起たなかったら、蒼生(民衆)は如何するのだ(当如蒼生何)」と言いました。

 

庾翼が殷浩を司馬にする許可を請い、朝廷が詔を発して殷浩を侍中・安西軍司(『資治通鑑』胡三省注によると、「軍司」は軍司馬です。庾翼は安西将軍です)に任命しました。

しかし殷浩は応じませんでした。

庾翼が殷浩に書を送って「王夷甫(西晋の王衍)は名(名声)を立てたが、真(真実、本物)ではなく(立名非真)、道を談じたといっても、実は華競(浮華を競うこと)を増長させた(雖云談道,実長華競)。明徳の君子が会(機会)に遇って際(動くべき時)にいるのに、そのようにしていてもいいのか(功名を立てる機会に遭遇したのに、王衍のように虚名を求めていていいのか。原文「遇会処際,寧可然乎」)」と伝えましたが、殷浩はやはり起ちあがりませんでした。

 

殷羨が長沙相になってから、郡内で貪残(貪婪・残虐)を行いました。

庾冰が庾翼に書を送って託しましたが(原文「属之」。殷羨を守るように頼んだのだと思います)、庾翼はこう応えました「殷君が驕豪(驕慢放縦)なのは、恐らく佳児(優秀な子。『資治通鑑』胡三省注によると、殷浩を指します)がいるからです(殷君驕豪,亦似由有佳児)。だから弟(私。庾翼は庾冰の弟です)は物情(世情)によって譴責することがありませんでした(『資治通鑑』の原文は「弟故小令物情容之」ですが、理解が困難なので、『晋書・列伝第四十三(庾翼伝)』の「弟故不令物情難之」を参考にしました)(しかし)江東の政治を大略すると、豪強を嫗喣(養育・保護)することによって、常に民を蝕む害虫にしており、時に法を行うことがあっても、いつも寒劣(身分が低くて貧しい者)に対してだけ施されています(大較江東之政,以嫗喣豪強常為民蠹,時有行法,輒施之寒劣)。例えば、往年に石頭倉の米一百万斛を偸んだのは、皆、豪将の輩でしたが、ただ倉督監(倉庫を管理する官)だけを殺して責を塞ぎました(責任をあいまいにしました)。山遐が餘姚長(『資治通鑑』胡三省注によると、餘姚県は会稽郡に属します)になった時は、豪強が隠していた二千戸を官(政府)のために算出しましたが、衆人が共に彼を駆逐して、山遐に安席(安眠、安寧)を得られなくしました(山遐為餘姚長,為官出豪強所藏二千戸,而衆共駆之,令遐不得安席)。全て前宰(王導)の惛謬(荒唐な出来事)であるとはいえ、江東の事(大事、大勢)が去ったのは、実にこのような状態が原因なのです(実此之由)。兄弟(私達。庾冰と庾翼)は不幸にもその中に横陥しており(倒れ落ちており)、自分では風塵の外に足を抜くことができないので、共に目を光らせてこれを治めるべきです(当共明目而治之)。荊州が統括する二十余郡の中で(『資治通鑑』胡三省注によると、西晋初めの荊州は二十二郡があり、恵帝から東晋元帝に至るまでに、更に隨、新野、竟陵、新興、南河等の郡が立てられました)、ただ長沙だけが最も悪劣です(唯長沙最悪)。悪劣なのに除かなかったら、督監を殺した一件と何が異なるのでしょうか(悪而不黜,与殺督監復何異邪)。」

山遐は山簡(西晋の名士。竹林の七賢の一人である山濤の子。西晋懐帝永嘉年間参照)の子です。

 

庾翼は滅胡取蜀(後趙を滅ぼして蜀を取り戻すこと)を自分の任務としていたため、使者を派遣して、東は燕王・慕容皝と約束し、西は張駿と約束し、日時を決めて大挙することにしました。

朝議の多くは困難だと考えましたが、庾冰は庾翼と同じ意見で、桓温や譙王・司馬無忌もこれに賛成しました。司馬無忌は司馬氶(『資治通鑑』は「司馬承」としていますが、「承」は「氶」が正しいはずです。東晋元帝太興三年・320年参照)の子です。

 

秋七月、後趙の汝南太守・戴開が数千人を率い、庾翼を訪ねて投降しました。

『晋書・第七・康帝紀』は「秋七月、石季龍の将・戴開が衆を率いて(東晋に)来降した」と書いています。

 

丁巳(初八日)、康帝が詔を下して中原経略を討議させました。

『晋書・第七・康帝紀』から康帝の詔です「慕容皝が羯寇(後趙)を摧殄(砕滅)して、死没が八万余人に上ったという。これは天亡の始め(天が後趙を滅ぼそうとする前兆)であろう(将是其天亡之始也)。中原の事(中原奪還)について、籌量(計画・考慮)を加えるべきである。更に、戴開が部党を率いて既に帰順したので、慰労されるべきである(宜見慰労)。よって、ここに使者を派遣して安西(庾翼)・驃騎(何充)を訪ねさせるので、諸軍事を諮謀(商議・計画)せよ。」

 

庾翼は自分が統括する衆を全て動員して北伐しようと欲し、上表して桓宣を都督司雍梁三州荊州之四郡諸軍事(司・雍・梁の三州と荊州四郡の諸軍事です。『資治通鑑』胡三省注によると、「荊州四郡」は南陽、新野、襄陽、南郷を指します)・梁州刺史に任命して、丹水(『資治通鑑』胡三省注によると、丹水県は、西漢は弘農郡に属し、東漢は南陽郡に属し、晋代は順陽郡に属しました)に進ませました。

また、桓温を前鋒小督(『晋書・康帝紀』『資治通鑑』とも「前鋒小督」ですが、胡三省注によると、『資治通鑑』の版本によっては「小督」を「都督」としています)・假節とし、衆人を率いて臨淮に入らせました。

同時に庾翼は自分が統括する六州の奴および車・牛・驢・馬を徴発しました(庾翼は都督江荊司雍梁益六州諸軍事です)。そのため百姓が嗟怨(怨嗟)しました。

 

『晋書・第七・康帝紀』はこう書いています「輔国将軍・琅邪内史・桓温を前鋒小督・假節とし、衆を率いて臨淮に入らせた。安西将軍・庾翼を征討大都督にした。(庾翼は)襄陽に鎮を遷した。」

しかし『晋書・列伝第四十三(庾翼伝)』を見ると、庾翼は九月十九日に武昌を発って二十四日に夏口に到着し、その後、襄陽に遷って、都督征討軍事(『康帝紀』では「征討大都督」)を加えられています。『資治通鑑』は主に「列伝」を元にしており、ここでは『康帝紀』の「安西将軍・庾翼を征討大都督にした。(庾翼は)襄陽に鎮を遷した」という部分を省略しています。

 

[十一] 『晋書・第七・康帝紀』からです。

庚申(十一日)、東晋の晋陵と呉郡で火災がありました。

 

[十二] 『資治通鑑』からです。

代王・拓跋什翼犍が再び燕に婚姻を求めました。

燕王・慕容皝が礼物として馬千頭を納めさせましたが、什翼犍はそれを与えず、しかも倨慢(傲慢)で子壻(娘婿)としての礼がありませんでした。

 

八月、慕容皝が世子・慕容儁を派遣し、前軍師・慕容評等を率いて代を攻撃させました。

しかし拓跋什翼犍が衆を率いて避去(退去)したため、燕人は誰にも遇わずに引き還しました(無所見而還)

 

『魏書‧序紀』には「八月、慕容元真(慕容皝)(代に)使者を派遣して娘を薦める(進める。嫁がせる)ように請うた(遣使請薦女)」としか書かれていません。しかし、『資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)によると『燕書』には兵事について書かれており、『資治通鑑』は『燕書』に従っています。

 

[十三] 『資治通鑑』からです。

成漢昭文帝(漢主・李寿)が死にました。『晋書・載記第二十一』によると、四十四歳でした。

諡号は「昭文」、廟号は「中宗」と定められます。

 

太子・李勢が即位して大赦しました。

『晋書・第七・康帝紀』は「八月、李寿が死に、子の李勢が偽位(偽の帝位)を継いだ」と書いています。

『晋書・載記第二十一』によると、李勢は字を子仁といい、昭文帝の長子です。

成漢最後の皇帝となり、諡号はありません。『資治通鑑』は「漢主・勢」としていますが、この通史では、「成漢帝(漢主・李勢)」と書きます。

 

[十四] 『晋書・第七・康帝紀』はここで「石季龍がその将・劉寧に狄道を攻陥(攻略)させた」と書いていますが、『資治通鑑』は省略しています。

 

[十五] 『資治通鑑』からです。

後趙の太子・石宣が鮮卑の斛穀提を撃って大破し、三万級を斬首しました。

 

[十六] 『資治通鑑』からです。

宇文逸豆帰が段遼の弟・段蘭を捕えて後趙に送り(『資治通鑑』胡三省注によると、段蘭は東晋成帝咸康四年・338年に燕王・慕容皝に敗れてから、宇文氏に奔りました。本年、宇文逸豆帰が段蘭を捕えて後趙に送りました)、あわせて駿馬一万頭を献上しました。

後趙天王(趙王・石虎)は段蘭に命じて、段蘭に従う鮮卑五千人を率いて令支に駐屯させました(段氏は鮮卑に属します)

 

[十七] 『資治通鑑』からです(『晋書・列伝第四十三(庾翼伝)』によると、九月中旬から下旬の出来事です。上述)

東晋の庾翼が鎮(拠点)を襄陽に移そうと欲しましたが、朝廷が同意しないことを恐れたため、まずは鎮を安陸(『資治通鑑』胡三省注によると、安陸県は漢代以来、江夏郡に属しました。唐代には安州の治所になります)に移すと上奏しました(庾翼は武昌にいます。安陸は武昌の西北に位置し、襄陽は安陸の更に西北に位置します。庾翼はまず武昌から近い安陸に移ると報告しました)

康帝と朝士は皆、使者を派遣して、庾翼を諭して止めさせようとしました。しかし、庾翼は詔に違えて北行し、夏口に至った時、再び上表して襄陽に鎮を置くことを請いました。当時、庾翼は四万の衆を有しています。

康帝は詔を発して庾翼に都督征討諸軍事(『晋書・列伝第四十三』では「都督征討軍事」、『康帝紀』では「征討大都督」です。上述)を加えました。

 

[十八] 『晋書・第七・康帝紀』と『資治通鑑』からです。

東晋の車騎将軍・揚州刺史・庾冰は、以前からしばしば外地に出ることを求めていました。

 

冬十月辛巳(初三日)、朝廷が庾冰を都督荊江寧益梁交広七州豫州之四郡諸軍事(荊・江・寧・益・梁・交・広の七州と豫州四郡の諸軍事です。『資治通鑑』胡三省注によると、「豫州四郡」は宣城、歴陽、廬江、安豊を指します)・領江州刺史・假節に任命して(『晋書・康帝紀』では「都督荊江司雍益梁六州諸軍事・江州刺史」に任命しています。『晋書・列伝第四十三(庾冰伝)』は『資治通鑑』とほぼ同じで、「都督江荊寧益梁交広七州豫州之四郡軍事・領江州刺史・假節」としています)武昌を鎮守させ、庾翼の継援(後援)にしました。

また、驃騎将軍・徐州刺史・何充を召して都督揚豫徐州之琅邪諸軍事(『資治通鑑』胡三省注によると、西晋末の永嘉の乱の際、琅邪国の人々で、元帝(当時の琅邪王。司馬睿)に従って江を渡った者が千余戸もいました。東晋元帝太興(大興)三年(320年)、移民のために懐徳県が置かれました。その後も丹楊に琅邪相がいましたが、琅邪王国の地はありませんでした。桓温が琅邪内史になってから、江乗の蒲洲金城に鎮を置き、丹楊の江乗県境内を割いて郡を置くように求めました。ここでいう「徐州之琅邪」はその地(丹楊に設けられた琅邪)を指します)・領揚州刺史・録尚書事に任命し(『晋書・康帝紀』では「中書監・都督揚豫二州諸軍事・揚州刺史・録尚書事」に任命しています。『晋書・列伝第四十七(何充伝)』は『資治通鑑』とほぼ同じで「都督揚豫徐州之琅邪諸軍事・假節・領揚州刺史・将軍如故(将軍号は以前のまま)」としています)、輔政させました。

 

琅邪内史・桓温を都督青徐兗三州諸軍事・徐州刺史に、褚裒を衛将軍・領中書令に任命しました(この部分は『晋書・第七・康帝紀』『資治通鑑』とも同じです。褚裒は江州刺史でしたが、中央に招かれました)

 

[十九] 『晋書・第七・康帝紀』と『資治通鑑』からです。

冬十一月己巳(二十二日)、東晋が大赦しました。

 

[二十] 『晋書・第七・康帝紀』からです。

十二月、石季龍(後趙)が張駿を侵しましたが、張駿が将軍・謝艾に拒ませ、河西で大戦して、石季龍が敗績(敗北)しました。

 

[二十一] 『晋書・第七・康帝紀』からです。

高句驪が(東晋に)使者を派遣して朝献しました。

 

 

次回に続きます。

東晋時代53 東晋康帝(二) 宇文氏敗亡 344年

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