東晋時代53 東晋康帝(二) 宇文氏敗亡 344年

今回は東晋康帝建元二年です。

 

東晋康帝建元二年

成漢(李勢)太和元年/後趙天王建武十年

前涼文王太元二十一年/前燕王(慕容皝)八年

甲辰 344年

 

[一] 『資治通鑑』からです。

春正月、後趙天王(趙王・石虎)が群臣を招いて太武殿で宴を開きました。

すると、百余の白雁が馬道の南に集まりました。

天王がそれを射るように命じましたが、一羽も獲られませんでした(皆不獲)

 

この時、諸州の兵で集まった者が百余万いました。

太史令・趙攬が秘かに天王に言いました「白雁が庭に集まったのは、宮室が空になるという象です。南に行くべきではありません。」

天王はこれを信じ、宣武観(『資治通鑑』胡三省注によると、石虎は洛都の制度に倣って、鄴に宣武観を築きました)に臨んで大閲してから、諸州の兵を解散させました。

 

[二] 『資治通鑑』からです。

成漢帝(漢主・李勢。前年即位しました)が太和元年に改元しました。

母の閻氏を尊んで皇太后とし、妻の李氏を皇后に立てました。

 

[三] 『晋書・第七・康帝紀』からです。

張駿(前涼)がその将・和驎と謝艾を派遣して闐和で南羌を討たせ、大破しました。

 

[四] 『資治通鑑』からです。

燕王・慕容皝と左司馬・高詡が宇文逸豆帰の討伐について謀りました。

高詡が言いました「宇文は強盛なので、今のうちに取らなかったら必ず国の患となりますが、(今)これを伐てば必ず克てます(伐之必克)。但し、将(将領、将軍)において不利なことが起きます(然不利於将)。」

高詡は退出してから人にこう告げました「私が行ったら必ず帰れなくなる。しかし忠臣とは(命の危険を)避けないものだ(吾往必不返,然忠臣不避也)。」

 

慕容皝は自ら逸豆帰を討伐しました。慕容翰を前鋒将軍に任命し、劉佩を副(副官、副将)にします。また、慕容軍、慕容恪、慕容霸および折衝将軍・慕輿根にそれぞれ命を与え、兵を指揮して三道から並進させました。

高詡は出征の際、妻には会わず、人を送って家事について語らせてから出発しました(使人語以家事而行)

 

宇文逸豆帰は南羅大・渉夜干(『資治通鑑』胡三省注によると、「南羅」は城名で、「大」は城大(城主)です。『晋書・載記第九』では「渉夜干」を「渉奕于」としていますが、『資治通鑑』は『燕書』に従って「渉夜干」としています)を派遣し、精兵を率いて逆戦(迎撃)させました。

慕容皝が人を馳せさせて慕容翰にこう伝えました「渉夜干は勇が三軍に冠しているので、少し避けるべきだ(宜小避之)。」

しかし慕容翰はこう言いました「逸豆帰はその国内の精兵を掃いて(かき集めて)渉夜干に属させた。渉夜干にはかねてから勇名があり、一国が頼りとするところになっている(国中に頼られている。原文「一国所頼也」)。今、私が彼に克てば、その国は攻めなくても自ら潰えるだろう。それに、私は渉夜干の為人を熟知している。(彼は)確かに虚名があるが、実は容易に与すことができる(実は容易に対処できる相手だ。原文「雖有虚名,実易与耳」)。彼を避けることで、我が兵の士気を挫くべきではない(不宜避之以挫吾兵気)。」

慕容翰は兵を進めて交戦し、自らも出撃して敵陣を衝きました。

 

渉夜干が出陣してこれに応じましたが、慕容霸が横から邀撃して渉夜干を斬りました。

宇文氏の士卒は渉夜干が死んだのを見て、戦わずに潰滅しました。

 

燕軍が勝ちに乗じて追撃し、都城(『資治通鑑』胡三省注によると、宇文氏の国は遼西紫蒙川に都を置いていました)を攻略しました。

逸豆帰は逃走して漠北で死に、宇文氏は散亡しました。

 

慕容皝は宇文氏の畜産・資貨を全て回収し、その部衆五千余落を昌黎に遷して、千余里の地を開きました。

渉夜干の居城(南羅城)を威徳城に改名して(東晋廃帝太和五年・370年に触れます)弟の慕容彪に守らせ、慕容皝は帰還しました。

 

『資治通鑑』は慕容皝が宇文氏を破った戦いを正月に書いていますが、『晋書・第七・康帝紀』は二月に置いており、こう書いています「慕容皝と鮮卑の帥・宇文帰(宇文逸豆帰)が昌黎で戦い、宇文帰は衆が大敗して、漠北に奔った。」

恐らく、宇文氏敗亡の報せが東晋朝廷に届いたのが二月だったので、『晋書・康帝紀』は二月に置いているのだと思われます。

 

『資治通鑑』に戻ります。

高詡と劉佩はどちらもこの戦いで流矢に中って死にました。

 

高詡は天文を得意としていました。

慕容皝がかつて高詡に「卿は(天文に関する)佳書があるのに見せようとしない。(そのようにしていて)なぜ忠を尽くしていると言えるのだ(卿有佳書而不見与,何以為忠尽)」と言いました。

高詡が答えました「臣は、人君とは要を執り、人臣とは職を執るものだ(人君とは要点を把握し、人臣とは具体的な職務を担うものだ。原文「人君執要,人臣執職」)と聞いています。要を執る者は安(安逸)であり、職を執る者は労(辛労)であるものです(執要者逸,執職者労)。だから后稷(周王朝の始祖)が種を播いても、帝堯は関与しなかったのです(是以后稷播種,堯不預焉)。占候(天象を元に占うこと)や天文とは、朝から夜まで甚だ辛苦するものなので(晨夜甚苦)、至尊が親しむべきこと(自ら行うべきこと)ではありません。殿下はそれを何に使うのでしょう(殿下にとって何の役に立つのでしょう。原文「殿下将焉用之」)。」

慕容皝は黙然としました(返す言葉がありませんでした)

 

以前、逸豆帰は後趙に仕えて甚だ恭敬で、貢献が路に相継ぎました。

燕人が逸豆帰を伐った時、後趙天王(趙王・石虎)は右将軍・白勝と并州刺史・王霸に命じて、甘松(『資治通鑑』胡三省注によると、甘松は濡源の東、突門嶺の西に位置します)から兵を出して救援させました。

しかし白勝等が至った時には、宇文氏は既に亡んでいました。

白勝等はこの機に威徳城を攻めましたが、克てずに還りました。

慕容彪がそれを追撃して破りました。

 

慕容翰は宇文氏と戦った時、流矢が命中したため、病に臥せるようになり、長い時が経っても門を出ませんでした。

後に徐々に良くなったので、自分の家で試しに馬に乗って駆けさせました。

するとある人が「慕容翰は病と称しているが、秘かに騎乗を練習している。変事を為そうと欲している疑いがある」と告発しました。

燕王・慕容皝は慕容翰の勇略を頼りにしていましたが、心中では常に忌み畏れていたため(中心終忌之)、慕容翰に死を賜りました(自殺を命じました)

慕容翰は「私は罪を負って出奔したが、後にまた還ることができた(慕容翰は東晋成帝咸和八年・333年に出奔して成帝咸康六年・340年に還りました)。今日死ぬのは、既に晩いくらいだ(今日死已晚矣)。しかし羯賊が中原を跨拠(占拠、占有)しているので、私は自分の力も量らず、国家のために区夏(華夏。中原)を蕩壹(平定・統一)しようと欲してきた。この志を遂げることができなくなったが、遺恨はない。これも命(天命)だろう(此志不遂,没有遺恨,命矣夫)」と言い、薬を飲んで死にました。

 

『資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)によると、『三十国春秋』は「(東晋穆帝)永和二年(346年)九月、慕容翰を殺した」と書いており、『燕書‧慕容翰伝』には「慕容翰はかつて陣に臨み(いつの戦いかは明記していません)、流矢に中ったため、病に臥して、一年間外出しなかった(歳時不出入)。後に徐々に良くなったので、馬を試した」とあります。

宇文氏を討伐した後、慕容翰は戦に参与したことがありません。建元二年(本年。344年)正月(『晋書・康帝紀』では二月)から永和二年九月までは二年が経っているので、『資治通鑑』は『三十国春秋』の記述(永和二年九月)を誤りと判断し、『晋書・載記第九』に従ってここに置いています。

 

[五] 『資治通鑑』からです。

代王・拓跋什翼犍が大人・長孫秩を派遣して燕から婦人を迎えさせました。

 

『資治通鑑』胡三省注によると、拓跋鄰が国を治めていた頃、次兄を拔拔氏としました。後に北魏の孝文帝が中原の文化を用いて少数民族の風俗を改めたため(用夏変夷)、拔拔氏も長孫氏に改められます。ここで「長孫秩」と書かれているのは、史家が後世に改められた姓を華言(中原の言葉)によって記したからです。

 

[六] 『晋書・第七・康帝紀』と『資治通鑑』からです。

夏四月、涼州(前涼)・張駿の将・張瓘が後趙の将・王擢を三交城(『資治通鑑』胡三省注によると、三交城は朔方の西にありました)で敗りました。

 

[七] 『資治通鑑』からです。

以前、後趙の領軍・王朗が天王(趙王・石虎)にこう言いました「盛冬は雪寒の季節なのに、皇太子は人に宮材を伐らせて漳水に引き入れ(漳水を使って運び)、役者(労役の者)が数万に上って吁嗟(嘆息)が道を満たしています。陛下は出游の機会にこれを中止させるべきです(陛下宜因出游罷之)。」

天王がこの意見に従ったため、太子・石宣は怒りを抱きました。

 

ちょうど、熒惑が房(房宿)を守りました(原文「熒惑守房」。「守」は久しく留まるという意味です。『資治通鑑』胡三省注によると、王となった者は熒惑が房宿と心宿に留まることを嫌いました)

そこで太子・石宣が太史令・趙攬から天王にこう言わせました「房は天王であり、今、熒惑がこれを守っています。その禍は小さくありません(其殃不細)。貴臣で王姓の者を使ってこれに当たらせるべきです(天王の代わりに、王姓の貴臣を使って禍に当たらせるべきです。原文「宜以貴臣王姓者当之」)。」

天王が問いました「誰が相応しいか(誰可者)?」

趙攬が言いました「王領軍よりも貴い者はいません(無貴於王領軍)。」

天王は心中で王朗を惜しんだため、趙攬に改めて次に相応しい者を言わせました。

趙攬は王朗を陥れる回答ができなくなったため、「その次は、中書監・王波がいるだけです(其次唯中書監王波耳)」と言いました。

そこで天王は詔を下し、王波が以前、楛矢について意見したことを遡って罪としました(東晋成帝咸康六年・340年参照)。王波の四子と共に腰斬に処して死体を漳水に投じます。

しかし、暫くして天王は王波が無罪なのに処刑されたことを憐憫し、司空を追贈して孫を侯爵に封じました。

 

[八] 『資治通鑑』からです。

後趙の平北将軍・尹農が燕の凡城を攻めましたが、克てずに還りました。

 

[九] 『資治通鑑』からです。

成漢の太史令・韓皓が上言しました「熒惑が心(心宿)を守っています。これは宗廟を修めていないことに対する譴責です(熒惑守心,乃宗廟不脩之譴)。」

 

後趙の太史は熒惑が房宿を守っているとみなし(上述)、成漢の太史は熒惑が心宿を守っているとみなしました。房宿も心宿も二十八宿の東方七宿に属します。

 

成漢帝(漢主・李勢)が群臣に命じて討議させました。

相国・董皎と侍中・王嘏がこう主張しました「景・武が創業して、献・文が承基(基礎を受け継ぐこと)しました。(四帝の血縁関係は)至親で遠くないので、疏絶するべきではありません(至親不遠,無宜疏絶)。」

『晋書・載記第二十』『載記第二十一』によると、「景」は李特です。生前は帝位に即いていませんが、成漢建国後に「景皇帝」の諡号が贈られ、廟号を「始祖」と定められました。「武」は武帝・李雄で、廟号は「太宗」です。「献」は李驤で、生前は帝位に即きませんでしたが、子の李寿が即位してから、「献皇帝」の諡号を贈られました。文は「昭文帝」で、李寿を指します。李寿は国号を成から漢に改めたため、父・李驤の廟と、李特・李雄の廟を分けて祀ることにしました(東晋成帝咸康四年・338年参照)。董皎と王嘏は、李特・李雄の廟と李驤・李寿の廟を分けるべきではないと考えました

 

成漢帝は改めて命を下し、成の始祖(李特)と太宗(李雄)を祀る時も、全て漢の先祖とみなすことにしました(更命祀成始祖太宗,皆謂之漢)

 

[十] 『晋書・第七・康帝紀』からです。

秋八月丙子(初三日)、東晋が安西将軍・庾翼の位を進めて征西将軍にしました。

 

[十一] 『資治通鑑』からです。

東晋の征西将軍・庾翼が梁州刺史・桓宣に命じて、後趙の将・李羆を丹水で撃たせましたが、桓宣は李羆に敗れました。

庾翼は桓宣の位を落として建威将軍にしました。

桓宣は慚憤(慚愧・憤懣)のため病になりました。

 

庚辰(初七日)、桓宣が死にました。

 

『晋書・第七・康帝紀』は「庚辰(初七日)、持節・都督司雍梁三州諸軍事・梁州刺史・平北将軍・竟陵公・桓宣が死んだ」としていますが、『資治通鑑』では、桓宣は「都督司雍梁三州荊州之四郡諸軍事」になっており(前年参照)、また、上述の通り、将軍号は「建威将軍」に落とされています。『晋書・列伝第五十一(桓宣伝)』を見ると、桓宣は将軍号を「平北」から「建威」に落とされましたが、死後、「鎮南将軍」を追贈されました。また、『康帝紀』は桓宣を「竟陵公」としていますが、『列伝第五十一』では「竟陵県男(男爵)」です。

 

『資治通鑑』に戻ります。

庾翼は長子・庾方之を義城太守(『資治通鑑』胡三省注は、義城の「城」は「成」とするのが正しい、と指摘しています。陶侃が桓宣に襄陽を鎮守させ、淮南の部曲によって義成郡を立てました)に任命し、桓宣に代わってその衆を統領させました。

また、司馬・應誕を襄陽太守に任命し、参軍・司馬勲を梁州刺史に任命して西城(『資治通鑑』胡三省注によると、当時の西城県は魏興郡に属していました)を守らせました。

 

[十二] 『晋書・第七・康帝紀』と『資治通鑑』からです。

東晋の衛将軍・中書令・褚裒は枢要の職を頑なに辞退していました。

閏月丁巳(中華書局『晋書・康帝紀』校勘記によると、閏八月丁巳(十四日)です)、東晋朝廷が褚裒を左将軍・都督兗州徐州之琅邪諸軍事(兗州および徐州の琅邪の諸軍事です)・兗州刺史に任命し(これは『資治通鑑』の記述で、『晋書・康帝紀』では「特進・都督徐兗二州諸軍事・兗州刺史」になっています。また、『晋書・列伝第六十三・外戚伝(褚裒伝)』では「左将軍・兗州刺史・都督兗州徐州之琅邪諸軍事・假節」になっており、金城を鎮守してから「領琅邪内史」が加えられています)、金城(『資治通鑑』胡三省注によると、金城は江乗の蒲洲にあり、琅邪僑郡の治所になっていました)を鎮守させました。

 

[十三] 『晋書・第七・康帝紀』からです。

九月、東晋の巴東太守・楊謙が李勢(成漢)と李勢の将・申陽を撃ち、これを走らせて、その将・楽高を獲ました。

 

[十四] 『晋書・第七・康帝紀』『晋書・第八・穆帝紀』と『資治通鑑』からです。

東晋康帝が病を患い、重くなりました。

庾冰と庾翼は会稽王・司馬昱(東晋元帝の子)を後嗣に立てようと欲しましたが、中書監・何充が皇子・司馬聃(『晋書・康帝紀』『晋書・穆帝紀』では「聃」、『資治通鑑』では「耼」です)を立てるように建議し、康帝はこの意見に従いました。

 

丙申(二十四日)、康帝が司馬聃を皇太子に立てました。

戊戌(二十六日)、康帝が式乾殿(『資治通鑑』胡三省注によると、建康の宮殿は全て洛都の旧名を使っていました)で死にました。二十三歳でした。

 

以下、『晋書・康帝紀』からです。

かつて成帝が病を患った時、中書令・庾冰は自分が舅氏(皇帝の母の兄弟)として朝政に当たっており、権力が人主と並んでいたので、異世の後(世代が換わった後。新帝即位後)、親族としての関係が疎遠になることを恐れ、「国には強敵がいるので、長君(年長の君主)を立てるべきです」と発言しました。

こうして康帝が後嗣に立てられました。

(康帝即位後)年号を制定して中朝(中原の朝廷)を再興しようと考え、「建元」に改元しました(制度年号再興中朝,因改元曰建元)

ある人が庾冰に言いました「郭璞(両晋の学者)の讖(予言書)は『立始の際に丘山が傾く(立始之際丘山傾)』と言っています。立は建です。始は元です。丘山は諱です康帝の諱は司馬岳で、「丘山」は「岳」を指します)。」

庾冰は瞿然(驚く様子)としましたが、暫くしてから嘆息してこう言いました「もし吉凶があるとしても、改易(年号の変更)によって救うことができるというのか(如有吉凶,豈改易所能救乎)。」

果たして、ここ(本年九月)に至って予言が現実になりました。

 

本文に戻ります。

己亥(二十七日)、何充が遺旨によって太子・司馬聃を奉じ、即位させました。

この後、庾冰と庾翼は何充を深く恨むようになります。

 

司馬聃は穆帝といいます。この時、わずか二歳でした。

 

大赦を行いました。

皇后・褚氏を尊んで皇太后にしました。

 

壬寅(三十日)、穆帝がまだ二歳だったため、褚太后が朝廷に臨んで摂政しました(『晋書・穆帝紀』では「臨朝摂政」、『資治通鑑』では「臨朝称制」です)

何充に中書監・録尚書事を加えましたが、何充は自分が既に尚書を総管することになったので、更に中書を監督するのは相応しくない(既録尚書,不宜復監中書)と述べました。朝廷はこれに同意し、改めて侍中を加えました。

 

何充は左将軍・褚裒が太后の父だったので、朝政を総攬させるべきだと考え、上書して褚裒を参録尚書に推薦しました。そこで朝廷は褚裒を侍中・衛将軍・録尚書事・持節とし、督と刺史はそのままにしました(原文「督刺史如故」。褚裒は「都督兗州徐州之琅邪諸軍事・兗州刺史」です)

しかし褚裒は近戚(皇帝と関係が近い外戚)だったため、譏嫌(誹謗や猜疑)を被ることを懼れ、上書して頑なに藩にいる許可を請いました。

朝廷は改めて褚裒に都督徐兗青三州揚州之二郡諸軍事(徐兗青三州および揚州二郡の諸軍事です。『資治通鑑』胡三省注によると、「揚州二郡」は晋陵と義興を指します)・衛将軍・徐兗二州刺史の官を授けて京口を鎮守させました。

 

尚書が上奏しました「褚裒が太后に謁見する時は、公庭では臣礼の通りとし、私覿(個人的に会うこと)では(皇太后が)父として尊ぶべきです(原文「裒見太后,在公庭則如臣礼,私覿則厳父」。「厳父」は父を尊ぶことです)。」

(太后は)これに従いました。

 

冬十月乙丑(二十三日)、東晋が康帝を崇平陵に埋葬しました。

 

[十五] 『晋書・第八・穆帝紀』と『資治通鑑』からです。

東晋の江州刺史・庾冰が病を患いました。

太后(褚氏)が庾冰を朝廷に招いて輔政させようとしましたが、庾冰は辞退しました。

 

十一月庚辰(初九日)、車騎将軍・庾冰が死にました。『晋書・列伝第四十三(庾冰伝)』によると、四十九歳でした。

 

庾翼は家国の情事(家と国の事情)に基づき、子の庾方之を留めて建武将軍とし、襄陽を守らせました(『資治通鑑』胡三省注が解説しています。庾翼は庾冰と兄弟の関係にあるので、家族の情としては、庾冰の喪に赴く必要がありましたが、国事を考えると、兵を集めて中原の收復を図る必要がありました)

庾翼は庾方之の年が若かったので、参軍・毛穆之を建武司馬にして庾方之を輔佐させました。毛穆之は毛寶の子です(毛寶は薊峻の乱で功を立て、後に邾城を守りましたが、後趙に攻められて死にました。東晋成帝時代参照)

 

庾翼は還って夏口を鎮守しました。

 

朝廷が詔を発して、庾翼に再び江州を督させ(督江州)、更に豫州刺史を兼任させました(領豫州刺史)

庾翼は豫州刺史を辞退し、鎮をまた楽郷に移そうと欲しましたが、詔(朝廷)が許可しませんでした。

庾翼は軍器(武器)を修繕し、大いに農耕を行って穀物を蓄え(大佃積穀)、後挙を図りました。

 

[十六] 『資治通鑑』からです。

後趙天王(趙王・石虎)が霊昌津(霊昌津に関しては、東晋成帝咸和三年・328年にも触れました。『資治通鑑』胡三省注によると、かつて鄭の廩延だった地を滑台といい、城下に延津がありました。その西が霊昌津です)に河橋(黄河を渡る橋)を造り、石を採掘して中済(橋の土台)を築かせました。

しかし石を河に投下しても、(河流が激しいため)すぐに流されてしまい、五百余万の功を用いたのに(原文「用功五百余万」。「五百余万」が動員された人数を指すのか物資の出費を指すのかははっきりしません)、結局、橋は完成しませんでした。

天王は怒って匠(匠工。技術者)を斬り、工事を中止しました。

 

 

次回に続きます。

東晋時代54 東晋穆帝(一) 石虎と慕容皝の政治 345年(1)

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