東晋時代54 東晋穆帝(一) 石虎と慕容皝の政治 345年(1)

今回から東晋穆帝の時代です。

 

孝宗穆皇帝

姓は司馬、名は聃(『晋書・穆帝紀』では「聃」、『資治通鑑』では「耼」です)、字は彭子といい、康帝の子です。

 

以下、『晋書・第八・穆帝紀』からです。

司馬聃は東晋康帝建元二年(344年)九月丙申(二十四日)に皇太子に立てられました。

戊戌(二十六日)、康帝が死にました。

己亥(二十七日)、太子・司馬聃が皇帝の位に即きました。この時、わずか二歳でした。

大赦を行い、皇后(褚氏)を尊んで皇太后にしました。

壬寅(三十日)、皇太后が朝廷に臨んで摂政しました。

 

前年の出来事は既に書いたので、再述は避けます。

以下、東晋穆帝永和元年です。二回に分けます。

 

東晋穆帝永和元年

成漢(李勢)太和二年/後趙天王建武十一年

前涼文王太元二十二年/前燕王(慕容皝)九年(自称十二年)

乙巳 345年

 

[一] 『晋書・第八・穆帝紀』と『資治通鑑』からです。

春正月甲戌朔(『晋書・第八・穆帝紀』『資治通鑑』とも「甲戌朔」としていますが、『二十史朔閏表』によると、この年正月の朔は「辛未」なので、「甲戌」は初四日になります。中華書局『晋書・穆帝紀』校勘記によると、『御覧・二九』が引用する『晋起居注』には「正月辛未朔、雨のため朝会を開かず(雨,不会)。甲戌(初四日)、皇太后が太極前殿に登った」と書かれています)、東晋の皇太后(褚氏)が太極殿に白紗の帷(帳)を設けて、穆帝を抱いて臨軒しました(朝堂の殿前に臨みました)

永和元年に改元しました。

 

[二] 『晋書・第八・穆帝紀』からです。

甲申(十四日)、東晋が鎮軍将軍・武陵王・司馬晞(元帝の子)の位を進めて鎮軍大将軍・開府儀同三司とし、領軍将軍・顧衆(『晋書・穆帝紀』では「鎮軍将軍」ですが、『晋書・列伝第四十六』では「領軍将軍」なので、ここは「領軍将軍」に置き換えました。中華書局『晋書・穆帝紀』校勘記も「当時は司馬晞が既に鎮軍になっていたので、顧衆は領軍とする方が理に適っている」と解説しています)を尚書右僕射にしました。

 

[三] 『資治通鑑』からです。

後趙の義陽公・石鑒が関中を鎮守していましたが、労役が繁多で賦税が重かったため、関右の和を失いました(『資治通鑑』の原文は「役煩賦重」だけですが、『晋書・載記第六』を元に「失関右之和」を補いました)

また、文武諸官で長髪の者がいると、全て抜いて冠纓(冠の紐)を作り(輒拔為冠纓)、残った髪は宮人(宮女)に与えました。

 

長史が髪を取って(持って)天王(趙王・石虎)に報告したため、天王は石鑒を召して鄴に還らせ、代わりに楽平公・石苞に長安を鎮守させ、雍・洛(『資治通鑑』胡三省注によると、石虎は司州の河南、弘農、滎陽と兗州の陳留、東燕を分けて洛州を置きました)・秦・并州の十六万人を徴発して長安未央宮を修築させました。

 

天王は狩猟を好みましたが、晩年は体が重いため、馬に跨れなくなりました。そこで、千乗の猟車(狩猟用の車)を造り、日時を決めて校猟(禽獣がいる地域を囲んで行う狩猟)しました(刻期校獵)。霊昌津の南から滎陽東極(東の境)の陽都(『資治通鑑』胡三省注によると、陽都県は、西漢は城陽国に属し、東漢から晋は琅邪国に属しました)までを猟場とし、御史に中にいる禽獣を監察させ、(猟場を)侵犯する者がいたら、罪が大辟(死罪)に至りました。

また、御史が民間の美女や良質の牛馬を求めても得られなかったら、(拒否した民は)全て犯獣の罪(禽獣を侵犯した罪)を誣告され、その結果、死刑の判決を下された者が百余人もいました。

 

更に諸州から二十六万人を動員して洛陽宮を修築し、百姓の牛二万頭を徴発して朔州の牧官に配置し、女官を増置して二十四等とし、東宮(太子宮)は十二等、公侯の七十余国は全て九等にして、大いに民女を徴集しました。その数は三万人に上り、三等に選び分けてそれぞれに配属されます。

太子や諸公が個人的に命を下して采発(選取、徴発)した者も一万人近くに上りました。

郡県が務めて美色を求めるようになり、多くが人の妻を強奪したため、殺された夫や自殺した夫が三千余人もいました。

(各地で集められた女性が)鄴に至ると、天王が殿前に臨んで等級を分けました(臨軒簡第)。使者(各地で美女を集めた官員)で能力があるとみなされて封侯された者が十二人いました。

 

荊楚や揚徐の民が流叛(流亡・離反)してほとんど尽きてしまいました(『資治通鑑』胡三省注によると、「荊楚」はかつての楚国の地で、「揚徐」は当時の揚州と徐州です。後趙の領土では、南陽と汝南が荊楚の地に当たり、寿陽が揚州の地、彭城・下邳・東海・琅邪・東莞が徐州の地に属しました。または、ここでは後趙の荊楚や揚徐の地に住む民を指すのではなく、元々、荊楚や揚徐に住んでいた民で北界(後趙)に移住した者を指すとも解釈できます)

そのため、守令(郡県の長)の中には(民を)綏懐(安撫・懐柔)できなかった罪に坐して、獄に下されて誅殺された者もおり、その数は五十余人に上りました。

金紫光禄大夫・逯明(『資治通鑑』胡三省注によると、金紫光禄大夫は金章紫綬を加えられた光禄大夫です)が天王に侍った機に切諫しましたが、天王は大いに怒って、龍騰(龍騰中郎。『資治通鑑』胡三省注によると、石虎は驍勇の士を募って龍騰中郎に任命しました)に命じて拉殺(力をかけて押しつぶしたり捻じ曲げて殺すことだと思います)させました。

 

[四] 『資治通鑑』からです。

燕王・慕容皝が牛を貧民に貸し出して苑内(国の苑林内)で農耕させ、十分の八を税にしました(税其什之八)。自分で牛を所有している者は十分の七を税とします(税其七)

記室参軍・封裕が上書して諫めました「古は十分の一を税として徴収しました(什一而税)。これは天下の中正(適切・公正な方法)です。(時代が)降って魏・晋になると、仁政が衰薄しましたが、官田・官牛を貸し出した者でも税は十分の六を越えず、自分で牛を所有している者はその半分とされ、(仁政が衰えた当時ですら)十分の七八も取ることはありませんでした(假官田官牛者不過税其什六,自有牛者中分之,猶不取其七八也)。永嘉(西晋懐帝時代)以来、海内が蕩析(動乱離散)しましたが、武宣王(慕容廆)が徳によって安撫したので(綏之以徳)、華夷の民が万里から集まり(万里輻湊)、襁褓を背負って帰順する様子は、赤子が父母に帰す時のようでした(襁負而帰之者,若赤子之帰父母)。そのおかげで戸口が以前の十倍になりましたが、田がない者も十分の三四に上りました。殿下が継統(継承)すると、南は強趙を撃ち破り(南摧強趙)、東は高句麗を兼ね、北は宇文を取り、三千里の地を開いて、十万戸の民が増えました。今は、苑囿を全て廃して新民に与え、牛がない者には官が牛を下賜するべきであり、逆に重税を徴収するのは相応しくありません(是宜悉罷苑囿以賦新民,無牛者官賜之牛,不当更收重税也)。そもそも、殿下の民が殿下の牛を用いるのです。牛が殿下の所有するものではないとしたら、どこにいるというのでしょうか(牛非殿下之有,将何在哉)。このようにすれば、戎旗(軍旗)が南を指す日に、民の誰が食べ物や飲み物を持って王師を迎え入れないでしょう(民誰不簞食壺漿以迎王師)。誰が石虎と一緒にいようとするでしょう(石虎誰与処矣)

(また)川瀆(河川)や溝渠で廃塞したもの(放置されて塞がった場所)があったら、皆、開通させるべきです(皆応通利)。そうすれば、旱の時は灌漑ができて、潦(大雨)の時は疏泄(排水)ができます(旱則灌漑,潦則疏泄)

一夫が(田を)耕さなかったら、そのために飢える者が生まれるものです(一夫不耕,或受之飢)。游食(労働をしないのに食糧を消費する者)が万を数えたら、どうして家を豊かにして人を充足させることができるでしょう(況游食数万,何以得家給人足乎)。今は官司が猥多(過多)になっており、虚しく廩禄(俸禄)を費やしているので、もしその才が用いるに足りないようなら、全て淘汰するべきです(苟才不周用,皆宜澄汰)。工商の末利(優先する必要がない利益)に対しても、常員(固定の人数)を設けるべきです。学者で三年経っても成(成果)がない者は、いたずらに英儁(英俊)の路を塞いでいるので、皆、農(農業)に帰らせるべきです。

殿下は聖徳があって寛明で、広く芻蕘を察していますが(原文「博察芻蕘」。「芻蕘」は草を刈ったり薪を拾うことで、身分が低い者を指します。「博察芻蕘」は、身分が低い者の意見にも広く耳を傾けているという意味です)(かつて)参軍・王憲と大夫・劉明が政事について述べた内容が旨(慕容皝の意思)に逆らったため、主者(刑法を主管する者)が並んで大辟(死刑)の判決を下しました。殿下はその死を寛恕しましたが、(彼等は)なお、免官・禁錮に処されています(参軍王憲、大夫劉明並以言事忤旨,主者処以大辟,殿下雖恕其死,猶免官禁錮)。諫諍(諫争)を求めながら直言を罪とするのは、越(南)に向かおうとして北に行くようなものであり、(このようにしていたら)志していることを獲られるはずがありません(必不獲其所志矣)(また)右長史・宋該等は阿諛追従して歓心を得ており、軽率に諫士を弾劾して、自分自身には骨鯁(魚の骨。剛直な気質の比喩です)がないので、人にそれがあることを嫉妬し、(殿下の)耳目を覆い塞いでいる、不忠の甚だしい者です(阿媚苟容,軽劾諫士,己無骨鯁,嫉人有之,掩蔽耳目,不忠之甚者也)。」

 

慕容皝が令を下してこう称しました「封記室(封裕)の諫を閲覧して、孤(私)は実に懼れている。国とは民を本(根本)とし、民とは穀を命とするものである(国以民為本,民以穀為命)。よって、苑囿を全て廃して、田地を所有しない民に与えることを許可する(可悉罷苑囿以給民之無田者)。実際に貧しい者には、官が牛を与える(実貧者,官与之牛)。余力があって(更に)官の牛を得たいと願う者は、全て魏・晋の旧法に則らせる(力有余願得官牛者,並依魏晋旧法)

溝瀆(河川・水溝)でそれぞれ益があるものは、適時、修繕させる(令以時修治)

今はまさに戎事(軍事)が興きて、勲伐(勲功・功績)が多くなっているので、まだ官を減らすことはできない(今戎事方興,勲伐既多,官未可減)。中原の平壹(平定・統一)を待って、改めてゆっくり討議する(俟中原平壹,徐更議之)(但し)工商・学生は皆、裁択(削減・選択)すべきである。

人臣が人主に関言(報告・進言)するのは、至難なことなので、たとえ狂妄があったとしても、(人主は)その中から善い内容を択んで従うべきである(当択其善者而従之)。王憲、劉明は、罪が廃黜(排斥・免官)に応じているとはいえ、孤(私)に大きな度量がないことも原因なので(亦由孤之無大量也)、悉く本官を恢復し、そのまま諫司(諫言の職)に居させることを許可する(可悉復本官,仍居諫司)

封生(封裕)は蹇蹇(忠直な姿)としており、深く王臣の体を得ているので、銭五万を下賜して、内外に宣示する。孤(私)の過失を述べたいと欲する者は、貴賎に拘る必要がなく、隠し事があってもならない(有欲陳孤過者,不拘貴賎,勿有所諱)。」

 

慕容皝はかねてから文学を好み、しばしば自ら庠序(学校)に臨んで講授していました。当時は試験を受ける学徒が千余人に及びましたが、妄濫の者(能力がないのに募集に応じた者。妄りに参加した者)も多かったため、封裕は今回の上書で学者にも言及しました。

 

[五] 『晋書・第八・穆帝紀』と『資治通鑑』からです。

東晋が詔を発して衛将軍・褚裒を召還しました。揚州刺史・録尚書事に任命しようとします。

吏部尚書・劉遐と長史・王胡之が褚裒に説きました「会稽王(司馬昱。元帝の子)は令徳(美徳)と雅望(優れた声望)があり、(我が)国の周公なので、足下は大政を彼に授けるべきです。」

褚裒は二人の意見を聞いて朝廷の任を固く辞退し、藩(鎮)に還りました。

 

夏四月壬戌(二十三日)、東晋が詔によって会稽王・司馬昱を撫軍大将軍・録尚書六條事にしました。

 

西晋愍帝建興二年(314年)に、漢趙(前趙)が劉粲を丞相・録尚書事にして、劉延年を録尚書六條事にしました。「錄六條事」は「錄尚書事」の下に位置し、「六條」は吏部等の「六曹(六の官署)」を指します。『資治通鑑』胡三省注は「(録尚書六條事は)魏・晋の間に既にこの官が存在していたに違いなく、劉聡(漢趙昭武帝)はそれを継承して(漢趙にも)置いたはずだ」と解説しています。

 

以下、『資治通鑑』からです。

司馬昱は清虚(清潔・虚空)かつ寡欲で、特に玄言(老荘の言)を得意とし、常に劉惔、王濛および潁川の人・韓伯を談客にしていました。また、郗超を招聘して撫軍掾とし、謝万を招聘して従事中郎にしました。

 

郗超は郗鑒(東晋初期の名臣)の孫で、若い頃から能力が卓越していて、(他者や世俗の)拘束を受けませんでした(少卓犖不羈)

父の郗愔は簡黙(淡白で口数が少ないこと)かつ沖退(謙虚)でしたが、財に対しては吝嗇で、積銭(蓄財)が数千万に至りました。

しかし、郗愔が庫を開いて郗超に自由に取らせると、郗超は財貨を散じて親故(親族や知人)に施し、一日で全て使い果たしました。

 

謝万は謝安(東晋成帝咸和九年・334年参照)の弟で、清曠秀邁(清朗闊達で能力が秀逸なこと)だったので、やはり時名(当時における名望)がありました。

 

[六] 『資治通鑑』からです。

燕の龍山に黒龍と白龍が現れ、首を交えて遊び戯れ、角を解いて(角を落として)去りました。

燕王・慕容皝は太牢(牛・羊・豕を犠牲に使う祭祀の規格)を用いて自ら祭祀を行い、境内の囚人を赦免して(赦其境内)、自分が住む新宮に「和龍」と命名しました。

 

 

次回に続きます。

東晋時代55 東晋穆帝(二) 庾翼の死 345年(2)

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