東晋時代55 東晋穆帝(二) 庾翼の死 345年(2)

今回は東晋穆帝永和元年の続きです。

 

[七] 『晋書・第八・穆帝紀』からです。

五月戊寅(初十日)、東晋が大雩(雨乞いの儀式)を行いました。

 

[八] 『晋書・第八・穆帝紀』からです。

六月癸亥(二十五日)、地震がありました。

 

[九] 『晋書・第八・穆帝紀』からです。

東晋の尚書令・金紫光禄大夫・建安伯・諸葛恢が死にました。

 

[十] 『晋書・第八・穆帝紀』と『資治通鑑』からです。

東晋の都亭侯・庾翼(諡号は粛侯です)の背に疽(できもの)ができました。

庾翼は上表して子の庾爰之を行輔国将軍・荊州刺史とし、後任を委ねました。また、司馬・義陽の人・朱燾を南蛮校尉にして、千人を率いて巴陵を守らせました。

 

秋七月庚午(初三日)、庾翼が死にました。

『晋書・穆帝紀』は庾翼を「持節・都督江荊司梁雍益寧七州諸軍事・江州刺史・征西将軍・都亭侯」としていますが、『資治通鑑』は官爵を省略しています。

 

庾翼の部将・干瓉(『資治通鑑』胡三省注によると、春秋時代の宋に干犨という者がいました)、戴羲等が冠軍将軍・曹據を殺し、兵を挙げて反しましたが、安西司馬・朱燾(庾翼は安西将軍から征西将軍になったので、「安西」は「征西」とするのが正しいのではないかと思われます。次の「安西長史」も同じです)が安西長史・江虨、建武司馬・毛穆之(『資治通鑑』胡三省注によると、庾翼は子の庾方之を建武将軍にして襄陽を守らせ、毛穆之を司馬にしました。毛穆之は字を憲祖、小字(幼名)を虎生といいましたが、名が王靖后の諱(実名)を犯したため(王靖后は哀靖王皇后で、東晋哀帝の皇后・王氏です。名を穆之といいました)、字の「憲祖」を名として使うようになり、後には桓温の母の諱が「憲」だったため、更に改めて小字の「虎生」を使うようになりました)、将軍・袁真と共に曹據を誅殺しました。

江虨は江統(西晋の臣。『徙戎論』を著しました)の子です。

 

[十一] 『晋書・第八・穆帝紀』と『資治通鑑』からです。

八月、東晋の豫州刺史・路永が叛して後趙に奔りました(路永はかつて蘇峻に仕えましたが、朝廷に帰順しました)

後趙天王(趙王・石虎)は路永を寿春に駐屯させました。

 

[十二] 『晋書・第八・穆帝紀』と『資治通鑑』からです。

東晋の庾翼が死んでから、朝議は皆、諸庾が代々西藩におり、人情が安んじるところとなっているので、庾翼の請いに則って、庾爰之に庾翼の任を行わせるべきだと考えました。

しかし、何充がこう言いました「荊楚は国の西門に当たり、戸口は百万を数え、北は強胡を帯びて(後趙と接して)、西は勁蜀(強蜀)に鄰接し、地勢は険阻で周旋(周囲)は万里にわたります。人(相応しい人材)を得れば中原を定めることができますが、人を失ったら社稷を憂うることになり、これは陸抗が言った『(荊楚が)存続すれば呉も存続し、亡べば呉も亡ぶ(存則呉存,亡則呉亡)』という状態です(西晋武帝泰始十年・274年参照)。どうして白面の少年に当たらせることができるでしょう。桓温は英略が人を越えており、文武の器幹(才能)があります。西夏(中華西部)の任は、桓温よりも相応しい者はいません(西夏之任,無出温者)。」

議者が問いました「庾爰之が甘んじて桓温に譲るだろうか(肯避温乎)。もし兵を率いてこばんだら、(それによる)恥懼(国が受ける恥辱と危機)は浅くない(如令阻兵,恥懼不浅)。」

何充はこう応えました「桓温はこれを制すに足りるので、諸君が憂うる必要はない(温足以制之,諸君勿憂)。」

 

丹楊尹・劉惔はいつも桓温の才を奇としていましたが(特別視していましたが)、桓温に不臣の志があると知り、会稽王・司馬昱にこう言いました「桓温を形勝の地に居させてはなりません。その位号も常に抑えるべきです(其位号常宜抑之)。」

劉惔は司馬昱が自ら上流を鎮守するように勧めて、自分を軍司に任命するように求めましたが、司馬昱は同意しませんでした。そこで劉惔は自ら(上流に)行く許可を請いましたが、司馬昱はやはり同意しませんでした。

 

庚辰(『晋書・第八・穆帝紀』『資治通鑑』とも「庚辰」としていますが、『二十史朔閏表』によると、この年八月の朔は「戊戌」なので、「庚辰」はありません)、朝廷が徐州刺史・桓温(『晋書・穆帝紀』では「輔国将軍・徐州刺史・桓温」としていますが、『資治通鑑』は「輔国将軍」を省いています)を安西将軍・持節・都督荊司雍益梁寧六州諸軍事・領護南蛮校尉・荊州刺史に任命しました。

庾爰之は果たして敢えて争おうとはしませんでした。

また、劉惔を監沔中諸軍事・領義成太守に任命して庾方之に代わらせました。

庾方之と庾爰之は豫章に遷されました。

 

かつて桓温が雪に乗じて猟をしようと欲したことがあり、その際、まず劉惔を訪ねました。

劉惔はその装束が甚だ厳重なのを見て、「老賊はそのようにしてどうするつもりだ(老賊欲持此何為)?」と言いました。

桓温は笑ってこう応えました「私がこのようにしなかったら(軍装しなかったら)、卿はどうして坐して談論していられるのだ(劉惔は清談の士です。原文「我不為此,卿安得坐談乎」)。」

 

[十三] 『資治通鑑』からです。

成漢帝(漢主・李勢)の弟にあたる大将軍・李広(『晋書・載記第二十一』は、「大将軍・漢王・広」としています。『資治通鑑』は「漢王」を省略しています)は、成漢帝に子がいなかったため、太弟になることを求めました。

しかし成漢帝は同意しませんでした。

馬当と解思明が成漢帝を諫めて言いました「陛下は兄弟が多くないので、もしまた(李広を)廃すようなことがあったら、ますます孤危(孤立して危険な状態)になります(若復有所廃,将益孤危)。」

馬当等は頑なに同意するように請いました。しかし、成漢帝は二人が李広と共謀していると疑い、馬当と解思明を捕えて斬り、三族を皆殺しにしました(夷其三族)

また、成漢帝は太保・李奕を派遣して涪城の李広を襲わせ、李広を(漢王から)臨邛侯に降格しました。

李広は自殺しました。

 

解思明は捕えられた時、嘆いて「(今まで)国が滅びなかったのは、我々数人がいたからだ。今からは危うくなるだろう(国之不亡,以我数人在也,今其殆矣)」と言い、平然と談笑して死にました(言笑自若而死)

 

解思明は智略があり、敢えて諫諍(諫争)することができました。

馬当はかねてから人心を得ていました。

そのため、二人が死ぬと、士民で哀しまない者がいませんでした。

 

[十四] 『晋書・第八・穆帝紀』からです。

九月丙申(二十九日)、東晋の皇太后(褚氏)が詔を発しました「今は百姓が労弊(疲労疲弊)しているので、振卹の宜(救済・安撫の道理、方法)を共に詳しく思案せよ(其共思詳所以振卹之宜)。歳の常調(毎年固定された賦税)に及んでは、軍国が急いで要るものでなければ、全て停止すべきである(並宜停之)。」

 

[十五] 『資治通鑑』からです。

冬十月、燕王・慕容皝が慕容恪に高句麗を攻めさせ、南蘇(『資治通鑑』胡三省注によると、南蘇城は南陝の東に位置しました。唐が高麗を平定してから南蘇州を置きます)を攻略しました。

慕容恪は戍(守備兵)を置いて還りました。

 

[十六] 『晋書・第八・穆帝紀』からです。

十二月、李勢(成漢)の将・爨頠が東晋に来奔しました。

 

[十七] 『資治通鑑』からです。

涼州牧・張駿(前涼)が焉耆を伐って降しました。

 

この年、張駿が武威等の十一郡を分けて涼州とし、世子・張重華を刺史に任命しました。

興晋等の八郡を分けて河州とし、寧戎校尉・張瓘を刺史に任命しました。

敦煌等の三郡および西域都護の三営を分けて沙州とし、西胡校尉・楊宣を刺史に任命しました。

『晋書・志第四・地理上』によると(『資治通鑑』胡三省注も各州の解説をしていますが、ここは『晋書・地理志』に従います)、涼州は武威、武興、西平、張掖、酒泉、建康、西海、西郡、湟河、晋興、広武の十一郡、河州は興晋、金城、武始、南安、永晋、大夏、武成、漢中の八郡です。

沙州は敦煌、晋昌、高昌の三郡と西域都護、戊己校尉、玉門大護軍の三営です。

 

張駿は自ら大都督・大将軍・假涼王を称し、三州を督摂(監督・統括)しました。

始めて祭酒、郎中、大夫、舍人、謁者等の官を置き、官号は全て天朝(晋朝)に倣いましたが、名称は少しずつ変えました(微変其名)

車服・旌旗は王者の規格に則りました(擬於王者)

 

[十八] 『資治通鑑』からです。

後趙天王(趙王・石虎)が冠軍将軍・姚弋仲を持節・十郡六夷大都督・冠軍大将軍にしました。

 

姚弋仲は清倹鯁直(清廉倹朴かつ剛直)で、威儀を治めず(服飾等の外見を重視しなかったという意味だと思います。原文「不治威儀」)、発言に畏避(恐れて避けること)がなかったため、天王に甚だ重んじられました。

朝庭の大議ではいつも参決(討議・決断)に関与し、公卿が皆、姚弋仲を憚って(畏れて)へりくだりました。

 

武城左尉は天王の寵姫の弟で、かつて姚弋仲の営に入り、その部衆を侵擾(侵犯・攪乱)したことがありました(『資治通鑑』胡三省注によると、東武城県は清河郡に属しました。姚弋仲は広川清河の灄頭(地名)に営を置きました)

姚弋仲は武城左尉を捕えて譴責し、「汝は禁尉となりながら(『資治通鑑』胡三省注によると、この「禁尉」は「姦非(姦悪不法)を禁止する尉」を意味します)、小民を迫脅(逼迫して脅かすこと)した。私は大臣となったので、この目で見たことを放置するわけにはいかない(目所親見不可縦也)」と言って、左右の者に斬るように命じました。しかし尉が叩頭して血を流し、左右の者が頑なに諫めたため、やっと処刑を中止しました。

 

[十九] 『資治通鑑』からです。

燕王・慕容皝は、古の諸侯は即位してからそれぞれ元年を称したと考えました。そこで、晋の年号を使わず、燕王十二年を自称しました。

 

本年は345年なので、元年は東晋成帝咸和九年(334年)に当たります。慕容廆が死んだ翌年で、慕容皝が東晋から正式に遼東公に封じられた年です。

 

[二十] 『資治通鑑』からです。

後趙天王(趙王・石虎)が征東将軍・鄧恆に命じ、数万の兵を率いて楽安に駐屯させました。攻具を整えさせて、燕を取る計(準備)とします。

 

燕王・慕容皝は慕容霸を平狄将軍(『資治通鑑』胡三省注によると、平狄将軍は東漢光武帝が龐萌を任命したのが始めです)に任命して、徒河を守らせました。

鄧恆は畏れて、敢えて侵犯できませんでした。

 

 

次回に続きます。

東晋時代56 東晋穆帝(三) 成漢討伐 346年

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