東晋時代68 東晋穆帝(十五) 冉魏滅亡 352年(1)

今回は東晋穆帝永和八年です。二回に分けます。

 

東晋穆帝永和八年

前涼桓王永楽七年/前燕王(慕容儁)四年 景昭帝元璽元年

冉魏帝(冉閔)三年/前秦景明帝皇始二年

壬子 352年

 

[一] 『晋書・第八・穆帝紀』と『資治通鑑』からです。

春正月辛卯(初一日)、日食がありました。

 

[二] 『資治通鑑』からです。

前秦の丞相・苻雄等が秦天王・苻健に尊号を正すように請い、漢・晋の旧(旧制)に倣うべきであって、石氏の初(初期。始め)に倣う必要はないと進言しました(天王を名乗る必要はなく、皇帝を称すべきだ、と進言しました。『資治通鑑』胡三省注が解説しています。後趙の石氏はまず天王を称し、後に皇帝の位に即きました)

苻健はこれに従い、皇帝の位に即いて大赦しました。

 

『晋書・第八・穆帝紀』は「苻健が長安で帝号を僭(僭称)した」と書いています。

苻健は諡号を景明帝といいます。『資治通鑑』は「秦主・健」としていますが、この通史では「景明帝(秦主・苻健)」と書きます。

 

景明帝は、諸公の爵位を進めて、皆、王にしました。

 

苻雄等はまたこう言いました「単于は百蛮を統一するものなので、天子が領す(兼任する)べきものではありません(単于所以統壹百蛮,非天子所宜領)。」

そこで単于の任を太子・苻萇に授けました。

 

[三] 『資治通鑑』からです。

東晋の司馬勳が漢中に還ってから、杜洪と張琚が宜秋(『資治通鑑』胡三省注によると、鄭渠が中山の西瓠口から東に流れて宜秋城の北を通り、更に東に流れて中山の南を通り、池陽県故城の北を通りました)に駐屯しました。

 

杜洪は自分が右族(豪族・大族)だったため張琚を軽視していました。

そこで、張琚が杜洪を殺し、自ら秦王に立って、建昌元年に改元しました。

 

[四] 『資治通鑑』からです。

劉顕(前年参照)が常山を攻めました。

冉魏帝(魏主・冉閔)は大将軍・蒋幹を留め、太子・冉智を輔佐して鄴を守らせると、自ら八千騎を率いて常山を救いに行きました。

劉顕の大司馬・清河王・劉寧が棗強(棗強県は、西漢は清河郡に属しました。東漢と晋は省きましたが、後にまた置かれて信都郡に属しました)を挙げて冉魏に降りました。

 

冉魏帝が劉顕を撃って敗り、奔走する敵を追って襄国に至りました。

劉顕の大将軍・曹伏駒が城門を開いて冉魏帝を迎え入れます。

冉魏帝は劉顕および公卿以下百余人を殺し、襄国の宮室を焼いて、その民を鄴に遷しました。

 

『資治通鑑』では、劉顕は前年七月に帝を称していますが、『晋書・第八・穆帝紀』は本年正月に「劉顕が襄国で帝号を僭(僭称)した。冉閔が撃破してこれを殺した」と書いています。

また、『資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)によると、劉顕の死を『十六国春秋鈔』は二月に置いており、『燕書』は三月己酉(二十日)の事としていますが、『資治通鑑』は『晋書・穆帝紀』に従って本年正月に置いています。

 

後趙の汝陰王・石琨が妻妾を連れて東晋に来奔しましたが、建康の市で斬られました。

こうして石氏が絶滅しました。

 

[五] 『晋書・第八・穆帝紀』からです。

二月、峻平・崇陽の二陵(景帝・司馬師と文帝・司馬昭の陵墓)が崩れました。

戊辰(初九日)から三日間、東晋穆帝が臨(哀悼)(帝臨三日)、殿中都尉・王恵を派遣して洛陽に入らせ、五陵(西晋の五陵です。司馬懿、司馬師、司馬昭および武帝、恵帝の陵墓です)を衛護させました。

 

[六] 『晋書・第八・穆帝紀』と『資治通鑑』からです。

東晋の尚書左丞・孔厳が(殷浩と桓温の関係を憂慮して)殷浩にこう言いました「最近の衆情(衆人の心情、情緒)は誠に心を寒くさせていますが、使君(あなた)がどのようにしてこれを鎮めようとしているのかが分かりません(比来衆情,良可寒心,不知使君当何以鎮之)。愚見によるなら、受任の方(それぞれが受けた責任の内容、方向)を明らかにするべきです(愚謂宜明受任之方)(西漢時代)韓・彭(韓信と彭越)は征伐を専らにし、蕭・曹(蕭何と曹参)は管籥を守り(「管籥」は鍵ですが、ここでは城内・朝廷内を意味します)、内外の任にそれぞれ主管する者がいました。廉・藺による屈身の義(戦国時代、趙の藺相如が自らの身を低くして廉頗との対立を解いた故事。刎頸の交わりの出典です)や、平・勃による交歓の謀(西漢時代、呂氏を除くために陳平が周勃と親しく交わって謀を立てた故事)を深く思い、(殷浩と桓温の関係を)穆然(和睦、平静な様子)とさせて間隙を無くすべきです(令穆然無間)。そのようにすれば、大(高位)を保って功を定めることができます(然後可以保大定功也)。近日、降附した徒(『資治通鑑』胡三省注によると、段龕、張遇、姚襄等を指します)を観ると、皆、人面獣心で、貪婪なうえに親(親しみ。親愛の心)がないので、恐らく義によって感化させるのは困難です(観近日降附之徒,皆人面獣心,貪而無親,恐難以義感也)。」

殷浩は孔厳の意見に従いませんでした。孔厳は孔愉(東晋初期の名臣)の従子(自分より一世代下の親族)です。

 

殷浩が上書して、北の許・洛に出兵する許可を求めました。

朝廷は詔によってこれに同意しました。

そこで殷浩は、安西将軍・謝尚と北中郎将・荀羨を督統にして(『資治通鑑』胡三省注によると、四中郎将は全て東漢が置きました。魏・晋にもこの職があり、江左(東晋)になってから職責が重くなりました。当時、謝尚は寿春を鎮守し、荀羨は京口を鎮守していました。殷浩は両道から進軍させようとしたため、二人を督統にして、それぞれの兵を統率させました)(殷浩自ら)寿春に進屯(進軍・駐屯)しました。

 

謝尚は鎮西将軍・張遇を撫尉(安撫・慰労)できませんでした。怒った張遇は許昌を占拠して叛し、その将・上官恩に洛陽を占拠させました。楽弘も倉垣で督護・戴施を攻撃したため、殷浩の軍が進めなくなります(張遇と楽弘は前年参照)

 

三月、殷浩が荀羨に命じて淮陰を鎮守させました。

間もなくして、監青州諸軍事を加え、また、兗州刺史を兼任させて(領兗州刺史)、下邳を鎮守させました。

 

[七] 『晋書・第八・穆帝紀』からです。

苻健(前秦)の別帥(別将。一軍の将)が東晋の順陽を侵しましたが、太守・薛珍が撃破しました。

 

[八] 『資治通鑑』からです。

乙巳(十六日)、燕王・慕容儁が(龍城から)薊に還り、軍中の文武(諸官)や兵民の家属を少数だけ薊に遷しました(稍徙軍中文武兵民家属於薊)

 

『資治通鑑』胡三省注が解説しています。慕容儁は官員や兵民の家属を北から南に遷すことにしましたが、人々が故居を懐かしんで移住を喜ばないことを恐れたため(恐其懐居而無楽遷之心)、少しずつ移動させました。

 

[九] 『資治通鑑』からです。

姚弋仲には四十二人の子がいました。

姚弋仲が病を患った時、諸子にこう言いました「石氏は私を厚く遇したから、私は元々石氏のために尽力したいと思っていた(石氏待吾厚,吾本欲為之尽力)。今は石氏が既に滅び、中原には主がいない。私が死んだら、汝等は速やかに自ら晋に帰順せよ(我死,汝亟自帰於晋)。臣節を堅持するべきであって、不義を為してはならない(当固執臣節,無為不義也)。」

 

姚弋仲の死後、子の姚襄はその死を隠して喪を発さず(秘不発喪)、六万戸を率いて南下し、陽平、元城、発干を攻め破って、碻磝津に駐屯しました。

『資治通鑑』胡三省注によると、姚襄は灄頭から南下しました。

元城県は、漢代は魏郡に属し、晋代は陽平郡に属しました。発干県は、漢代は東郡に属し、晋代は陽平郡に属しました。漢代の東郡茌平県の故城を碻磝城といい、その西南に河津があって、碻磝津といいました。後魏(北魏)が碻磝城に済州を置きます。

 

姚襄は太原の人・王亮を長史に、天水の人・尹赤を司馬に、太原の人・薛瓉と略陽の人・権翼(『資治通鑑』胡三省注によると、権氏は顓頊の後代です。楚武王が鬬緡を権(地名)の尹にしたため、そこから権が氏になりました(鬬氏は楚王と同族で、顓頊の子孫といわれています)。または、殷(商)武丁の子が権に封じられ、周が衰えてからその後代が楚に入り、権を氏にしました)を参軍にしました。

 

姚襄は前秦の兵と戦って敗れ、三万余戸を亡くしました。

その後も更に南下して滎陽に至り、やっと喪を発します。

 

再び秦将・高昌、李歴と麻田で戦いましたが(『資治通鑑』胡三省注によると、高昌と李歴は後趙の将でしたが、当時は秦に附いていました。滎・洛の間には豆田や麻田という地名がありました。人々がそれらの物を栽培していたことからつけられた地名です)、馬が流矢に中って倒れました。

弟の姚萇が姚襄に馬を授けると、姚襄が「汝はどうやって逃れるのだ(汝何以自免)」と問いました。

姚萇が答えました「ただ兄を救うことができれば、豎子(敵)には萇(私)を害せるはずがありません(但令兄済,豎子必不敢害萇)。」

ちょうどこの時、救援が到着したため、二人とも難を免れました。

 

尹赤が前秦に奔りました。

前秦は尹赤を并州刺史に任命して蒲阪を鎮守させました。

 

姚襄はついに衆を率いて晋に帰順し、五人の弟を送って質(人質)にしました。

東晋は詔を発して姚襄を譙城に駐屯させました。

 

姚襄は単騎で淮水を渡って、寿春で謝尚に会いました。

謝尚はその名を聞いて(または「謝尚はその名を以前から聞いていたので」。原文「尚聞其名」)、仗衛に去るように命じ、幅巾(頭巾。普段の服装)で遇して、旧友と交わるように楽しみました(歓若平生)

姚襄は博学で談論を善くしたため、江東の人士が皆重んじました。

 

[十] 『晋書・第八・穆帝紀』と『資治通鑑』からです。

冉魏帝(魏主・冉閔)は襄国を攻略してから、それを機に常山や中山の諸郡で遊食(巡遊・飲食)しました。

 

後趙の立義将軍・段勤が胡・羯一万余人を集め、繹幕(繹幕県は、漢代以来、清河郡に属しました)を守って拠点とし、自ら趙帝を称しました。

 

夏四月甲子(初五日)、燕王・慕容儁が慕容恪等を派遣して冉魏を撃たせ、慕容霸等を派遣して段勤を撃たせました。

 

冉魏帝が燕と戦おうとしましたが、大将軍・董閏と車騎将軍・張温が諫めてこう言いました「鮮卑は勝ちに乗じて勢いが鋭く(乗勝鋒鋭)、しかも彼等の兵は多くて我々は少ないので(彼衆我寡)、とりあえずはこれを避けるべきです。(敵が)驕惰(驕慢怠惰)になるのを待ち、その後、兵を増やして撃つべきです(俟其驕惰,然後益兵以撃之)。」

冉魏帝が怒って言いました「私はこの衆を使って幽州を平定し、慕容儁を斬ろうと欲している(吾欲以此衆平幽州斬慕容儁)。今、慕容恪に遇ったのにそれを避けたら、人は私をどう言うか(今遇恪而避之,人謂我何)。」

 

司徒・劉茂と特進・郎闓が互いに「我が君の今回の出兵は、必ず還ることができない。我々はなぜ坐して戮辱(殺戮・屈辱)を待つのだ(吾君此行,必不還矣,吾等何為坐待戮辱)」と言って自殺しました。

 

冉魏帝が安喜(『資治通鑑』胡三省注によると、安喜県は、西漢は安険といい、中山郡に属しました。東漢章帝が安喜に改名しましたが、唐がまた安険県に戻して安州に属させます。尚、後に定州の治所となる安喜県は漢代の盧奴県に当たります)に駐軍しました。

慕容恪が兵を率いて冉魏帝の後に従います。

 

冉魏帝が常山に向かうと、慕容恪もそれを追いました。

丙子(十七日。『資治通鑑』原文には「丙子」の二字がありませんが、胡三省注を元に補いました)、慕容恪が魏昌の廉台(『資治通鑑』胡三省注によると、魏昌県は中山郡に属します。かつては苦陘といい、東漢章帝が漢昌に改め、魏文帝が魏昌に改めました。後に唐が定州唐昌県にします。廉台は本来、中山の毋極県にありましたが、晋が無極県(毋極県)を省いたため、魏昌界内に属すようになったようです)で冉魏帝に追いつきました。

 

冉魏帝が燕兵と十戦し、燕兵は全て勝てませんでした。冉魏帝はかねてから勇名があり、率いている兵も精鋭だったため、燕人が恐れを抱きます。

そこで慕容恪が陣内を巡視し、将士にこう言いました「冉閔は勇猛だが智謀がないので、一夫に匹敵するだけだ(冉閔勇而無謀,一夫敵耳)。その士卒も飢疲しているので、たとえ甲兵(甲冑・兵器)が精良でも、実際は用いるのが困難だ。破るのは難しくない(其士卒飢疲,甲兵雖精,其実難用,不足破也)。」

 

冉魏帝は自分が率いている兵の多くが歩卒で、燕は全て騎兵だったため、兵を率いて林の中に向かおうとしました。

慕容恪の参軍・高開が言いました「我々の騎兵は平地において利があります(吾騎兵利平地)。もし冉閔が林に入ることができたら、(我々は冉閔を)制御できなくなります(若閔得入林,不可復制)。すぐに軽騎を派遣して邀撃し、交戦してから敗走するふりをして、平地に誘い至らせるべきです(宜亟遣軽騎邀之,既合而陽走,誘致平地)。その後なら撃つことができます。」

慕容恪はこの意見に従いました。

 

冉魏の兵が戻って平地に至りました。

慕容恪は軍を三部に分けて諸将にこう言いました「冉閔の性は軽鋭(軽率で鋭気が盛んなこと)で、しかも自分の衆(兵)が少ないと思っているので、必ず命を棄てて我々にかかってくる(閔性軽鋭,又自以衆少,必致死於我)。私は中軍の陣を厚集(兵を集めて厚くすること)にしてこれを待とう(我厚集中軍之陳以待之)。合戦を待って卿等が横から撃てば、勝てないはずがない(俟其合戦,卿等従旁撃之,無不克矣)。」

慕容恪は射術を善くする鮮卑の五千人を選び、鉄鎖でその馬を連ね、方陣を構えて前に置きました。

 

冉魏帝が乗っている駿馬は朱龍といい、一日に千里を行くことができました。

冉魏帝は左手で両刃矛を操り、右手で鉤戟を持ち、燕兵を撃って三百余級を斬首すると、大幢(大旗)を眺め見てそこに中軍がいると知り、直接突撃しました。

すると、燕の両軍が横から挟撃しました。燕兵が冉魏の兵を大破して冉魏帝を数重に包囲します。

冉魏帝は包囲を壊して東に二十余里走りましたが、朱龍が突然倒れて死んでしまい(忽斃)、燕兵に捕えられました。

燕人は冉魏の僕射・劉群を殺し、董閔(『資治通鑑』胡三省注が、「董閔」は「董閏」とするのが正しい、と指摘しています)と張温を捕え、冉閔と一緒に薊に送りました。

 

こうして冉魏が滅亡しました。穆帝永和六年(350年)に冉閔が即位してから、わずか三年という短命の政権でした。東晋十六国時代の十六国には数えられていません。

 

冉閔の子・冉操は魯口に奔りました。

高開は傷を負って死にました。

 

慕容恪が兵を進めて常山に駐屯しました。

慕容儁は慕容恪に命じて中山を鎮守させました。

 

己卯(二十日)、冉閔が薊に至り、慕容儁が大赦を行いました。

慕容儁が冉閔を立たせて譴責しました「汝は奴僕の下才だ。どうして妄りに帝を称すことができるか(何得妄称帝)。」

冉閔が言いました「天下が大いに乱れて、汝等のような夷狄禽獣の類でも帝を称している。私は中土(中原)の英雄だ。なぜ帝を称すことができないのだ(天下大乱,爾曹夷狄禽獣之類猶称帝,況我中土英雄,何得不称帝邪)。」

慕容儁は怒って鞭で三百回打ってから龍城に送りました。

 

慕容霸の軍が繹幕に至り、段勤と弟の段思聡が城を挙げて降りました。

 

甲申(二十五日)、慕容儁が慕容評と中尉・侯龕を派遣し、精騎一万を率いて鄴を攻撃させました。

癸巳(『二十史朔閏表』によると、この年四月は「庚申」が朔なので、「癸巳」はありません。「五月癸巳」だとしたら、初五日に当たります)、燕軍が鄴に至りました。

冉魏の蒋幹と太子・冉智が城門を閉じて拒守(守備・抵抗)しましたが、城外は全て燕に降り、劉寧と弟の劉崇も胡騎三千を率いて晋陽に奔りました(劉寧は劉顕の旧将です。本年正月、棗強を挙げて冉魏に降りました)

 

[十一] 『資治通鑑』からです。

前秦が張遇を征東大将軍・豫州牧にしました。

 

[十二] 『晋書・第八・穆帝紀』は四月に「慕容儁が中山で帝号を僭(僭称)し、(国を)燕と称した。安西将軍・謝尚が姚襄を率いて許昌の誡橋で張遇と戦ったが、王師が敗績(敗北)した。苻健が弟の苻雄に張遇を襲わせて、虜にした」と書いています。

『資治通鑑』の記述は大きく異なり、慕容儁は十一月に帝位に即きます(後述します)

また、『資治通鑑』では、四月に前秦が張遇を征東大将軍・豫州牧に任命し(上述)、六月に東晋の謝尚と姚襄が共に張遇を攻めて敗れます(後述します)

 

『晋書・載記第十二』は『晋書・穆帝紀』に近く、こう書いています「(苻健が)苻雄と苻菁を派遣し、衆を率いて関東を掠めさせ、併せて許昌で石季龍(石虎)の豫州刺史・張遇を援けさせた。(苻雄等は)晋の鎮西将軍・謝尚と潁水の上で戦い、王師(晋軍)が敗績した。苻雄は勝ちに乗じて敗北した兵を追い(乗勝逐北)、塁門に至り、太半を殺傷した。こうして張遇およびその衆を虜とし、長安に帰った(苻雄は張遇を援けたはずなのに、捕虜にしています。そのため、『資治通鑑』は「張遇を虜にした」という記述を採用していないのかもしれません。原文「遂虜遇及其衆帰于長安」)(前秦は)張遇を司空・豫州刺史に任命して許昌を鎮守させた。」

 

 

次回に続きます。

東晋時代69 東晋穆帝(十六) 慕容儁即位 352年(2)

4 thoughts on “東晋時代68 東晋穆帝(十五) 冉魏滅亡 352年(1)

  1. いつも楽しみにしています。自分は古代中国、特に春秋戦国時代、五胡十六国、南北朝あたりに興味があるのですが、なるべく詳しいおすすめの書籍はありますでしょうか。何冊か読みましたが内容が薄くて、どれもいまいち不満足でしたので…

  2. あいしんかくら様、ありがとうございます。
    最近、更新のスピードが鈍くなっていてすみません。お言葉、とても励みになります。

    確かに、日本で出ている中国史系の書籍は三国志の時代に偏っていて、それ以外の時代は内容が薄いうえに、どれも似たような感じがしますね(といっても、私が知っている日本の書籍は十年以上前のものなので、今は変わっているかもしれませんが)。
    私の場合、それが物足りなくて漢籍(正史や資治通鑑)を読むようにしました。なので最新の史学会での研究成果などに関してはほとんど無知です。

    歴史の世界に深入りしたい場合は、やはり古典に触れるのが一番ですかねえ。

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