東晋時代69 東晋穆帝(十六) 慕容儁即位 352年(2)

今回で東晋穆帝永和八年が終わります。

 

[十三] 『資治通鑑』からです。

五月、前秦景明帝(秦主・苻健)が宜秋の張琚を攻めて斬りました。

 

[十四] 『資治通鑑』からです。

鄴中を大饑(大飢饉)が襲い、人が互いに食して(人相食)、後趙時代の宮人もほとんど食い尽くされました(故趙氏宮人被食略尽)

 

蒋幹が侍中・繆嵩と詹事・劉猗に奉表させて(上奏文を届けさせて)東晋に投降を請い、合わせて謝尚に救援を求めました。

 

庚寅(初二日)、燕王・慕容儁が広威将軍・慕容軍、殿中将軍・慕輿根、右司馬・皇甫真等を派遣し、歩騎二万を率いて慕容評の鄴攻撃を援けさせました。

 

[十五] 『資治通鑑』からです。

辛卯(初三日)、燕人が龍城で冉閔を斬りました。

ちょうど大旱と蝗害に襲われたため、燕王・慕容儁は冉閔が祟りを為したと思い、使者を派遣して祀らせ、悼武天王という諡号を贈りました。

 

[十六] 『資治通鑑』からです。

以前、東晋の謝尚が戴施に枋頭を占拠させました。

戴施は蒋幹が救援を求めていると聞いて、倉垣から棘津(『資治通鑑』胡三省注によると、石済の南津に棘津亭がありました)に移って駐屯し、蒋幹の使者(繆嵩と劉猗)を留めて伝国の璽を求めました。

劉猗は繆嵩を鄴に還らせて蒋幹にこの事を報告しました。しかし蒋幹は謝尚が鄴を救援できないのではないかと疑い、(伝国の璽を与えるかどうか)躊躇して決断できませんでした(沈吟未決)

 

六月、戴施が壮士百余人を率いて鄴に入り、蒋幹を助けて三台を守りました。

戴施が偽って言いました「今は燕寇が外におり、道路が通じていないので、敢えて璽を送ることはできない(璽未敢送也)。卿はとりあえずそれを出して私に預けよ(卿且出以付我)。私が馳せて天子に報告しよう(我当馳白天子)。璽が私の所にあると天子が聞いたら、卿の至誠を信じ、必ず兵糧を多く発して救餉(食糧の援助)するだろう(必多発兵糧以相救餉)。」

これを信じた蒋幹は璽を出して戴施に預けました。

戴施は督護・何融に食糧を迎え入れさせると宣言してから、秘かに何融に命じて、璽を隠し持って枋頭に送らせました。

『資治通鑑』胡三省注によると、江南がまだ璽を得る前、中原の人々は東晋の皇帝を「白版天子」と呼んでいました。ここにおいて伝国の璽がやっと晋に戻りました。

 

甲子(初六日)、蒋幹が鋭卒五千と晋兵を率いて出戦(出撃)しましたが、慕容評がこれを大破し、四千級を斬首しました。

蒋幹は危機から脱して逃走し、城に入りました(脱走入城)

 

[十七] 『資治通鑑』からです。

甲申(二十六日)、前秦景明帝(秦主・苻健)(宜秋から)長安に還りました。

 

[十八] 『資治通鑑』からです。

謝尚と姚襄が共に許昌で張遇を攻めました(『晋書・第八・穆帝紀』は四月に書いています。既述)

前秦景明帝(秦主・苻健)が丞相・東海王・苻雄、衛大将軍・平昌王・苻菁を派遣し、関東の地を攻略させて、歩騎二万を率いて張遇を救援させました。

 

丁亥(二十九日)、両軍が潁水の誡橋(『資治通鑑』胡三省注によると、誡橋は許昌にありました)で戦い、謝尚等が大敗して死者が一万五千人に上りました。謝尚は奔って淮南に還ります。

この時、姚襄が輜重を棄てて謝尚を芍陂に送ったため、謝尚は後事を全て姚襄に託しました。

殷浩は謝尚が敗れたと聞いて、退いて寿春に駐屯しました(こうして殷浩による北伐が終了しました)

 

秋七月、前秦の丞相・苻雄が張遇および陳・潁・許・洛の民五万余戸を関中に遷し、右衛将軍・楊群を豫州刺史に任命して許昌を鎮守させました。

 

謝尚は安西将軍から号を降して建威将軍になりました。

 

[十九] 『晋書・第八・穆帝紀』からです。

東晋が大雩(雨乞いの儀式)を行いました。

 

[二十] 『晋書・第八・穆帝紀』と『資治通鑑』からです。

後趙の元西中郎将・王擢が東晋に使者を派遣して投降を請いました。

東晋は王擢を征西将軍・秦州刺史に任命しました。

『資治通鑑』胡三省注によると、王擢は石虎の時代から秦・隴の任に当たっていました。

 

[二十一] 『晋書・第八・穆帝紀』と『資治通鑑』からです。

丁酉(十日)、東晋が鎮軍大将軍・武陵王・司馬晞(元帝の子)を太宰・撫軍大将軍に、会稽王・司馬昱(後の簡文帝)を司徒に、征西大将軍・桓温を太尉に任命しました。

 

[二十二] 『資治通鑑』からです。

丙辰(二十九日)、燕王・慕容儁が中山に入りました。

 

[二十三] 『資治通鑑』からです。

王午は冉魏が敗れたと聞いて、自ら安国王を称しました。この時、鄧恆は既に死んでいました(鄧恒は王午と共に魯口に奔っていました。東晋穆帝永和六年・350年参照)

 

八月戊辰(十一日)、燕王・慕容儁が慕容恪、封奕、陽騖を派遣して王午を攻めさせました。

王午は城門を閉じて守りを固め、冉操(冉閔の子)を燕軍に送りました。

燕人は禾稼(農作物)を奪い取って還りました。

『資治通鑑』胡三省注は「慕容恪は用兵を善くし、魯口はまだ取ることができないと知ったので、(略)禾稼を奪ってから師(軍)を保全して退いた(略)」と解説しています。

 

[二十四] 『資治通鑑』からです。

庚午(十三日)、冉魏の長水校尉・馬願等が鄴の城門を開いて燕兵を入れました。

戴施と蒋幹は縄を垂らして城壁を降り(懸縋而下)、倉垣に奔ります。

 

慕容評が冉魏の后・董氏と太子・冉智、太尉・申鍾、司空・條枚等(條が氏です。『資治通鑑』胡三省注によると、西漢の周亜夫が條侯に封じられ、その後代が條を氏にしました。「條枚」は、『晋書・載記第七』では「條攸」としています。『資治通鑑』の「條枚」は誤りではないかと思われます)および乗輿・服御を薊に送りました。

尚書令・王簡、左僕射・張乾、右僕射・郎粛は自殺しました。

 

燕王・慕容儁は偽って「董氏が伝国の璽を得て献上した」と称し、奉璽君の号を下賜しました。

また、冉智には海賓侯の爵位を下賜しました。

申鍾を大将軍右長史に任命しました。

 

慕容評に命じて鄴を鎮守させました。

 

尚、『晋書・第八・穆帝紀』は九月に「冉智がその将・馬願に捕えられ、慕容恪に降った」と書いています。『資治通鑑』では八月の事としており、鄴を攻めたのも慕容恪ではなく、慕容評です。

 

[二十五] 『晋書・第八・穆帝紀』と『資治通鑑』からです。

東晋の桓温が司馬勳(梁州刺史)に命じ、平西将軍・周撫(益州刺史)を助けて涪城の蕭敬文(穆帝永和三年・347年参照)を討たせ、これを斬りました。

 

[二十六] 『資治通鑑』からです。

東晋の謝尚が枋頭から伝国の璽を迎え入れて(伝国の璽は本年六月、何融が枋頭に運びました)建康に届けました(尚自枋頭迎伝国璽至建康)。百僚がそろって祝賀しました。

 

『晋書・列伝第四十九(謝尚伝)』によると、謝尚は振武将軍・胡彬を派遣し、騎兵三百を率いて璽を(枋頭から)迎えさせ、京師に届けました。

 

『晋書・第八・穆帝紀』はこう書いています「冉閔の子・冉智が鄴を挙げて(東晋に)降り、督護・戴施が伝国の璽を獲て(京師に)送った。文(刻印)には『受天之命,皇帝寿昌(天の命を受けて、皇帝が寿昌(長寿・隆盛)となる)』とあった。百僚が全て祝賀した。」

 

[二十七] 『資治通鑑』からです。

前秦が雷弱児を大司馬に、毛貴を太尉に、張遇を司空にしました。

 

[二十八] 『晋書・第八・穆帝紀』と『資治通鑑』からです。

東晋の殷浩が北伐した時、右軍将軍・王羲之(『資治通鑑』は王羲之を「中軍将軍」としていますが、「右軍将軍」が正しいはずです。当時の「中軍将軍」は殷浩です。『晋書・列伝第四十七(殷浩伝)』『列伝第五十(王羲之伝)』参照)が書を送って止めようとしましたが、殷浩は聴き入れませんでした。

結局、殷浩は北伐に失敗して功なく引き還しましたが、また再挙を謀りました。

王羲之が殷浩に書を送ってこう伝えました「今は区区とした江左によって、天下が心を寒くしており(『資治通鑑』胡三省注によると、人々は自分を守ることができないのではないかと恐れて、心を寒くしていました)(このような状況は)もとより既に久しくなっています(今以区区江左,天下寒心,固已久矣)。力によって武功を争うというのは、為すべきことではありません(力争武功,非所当作)。最近、内外の任にいる者は、まだ深謀遠慮がないのに、根本を疲竭(疲弊欠乏)させて、それぞれが志すことに従い(それぞれが自分の志に従って行動し)、結局、一つの功も論じることができず、ついに天下に土崩の形勢を有させています(自頃処内外之任者,未有深謀遠慮,而疲竭根本,各従所志,竟無一功可論,遂令天下将有土崩之勢)。これらの事を任された者(暗に殷浩を指しています)は、どうして四海の譴責を避けることができるでしょう(任其事者,豈得辞四海之責哉)。今は軍が外で破れて資が内で尽きたので、保淮の志は再び及ぶことではありません(淮南を守るという志は、既に力が及ばなくなっています)(江南に)還って長江を保ち、督将はそれぞれ旧鎮に戻して、長江より外の地は羈縻する(懐柔・牽制する、または、連絡を取りあう)だけとするべきです(今軍破於外,資竭於内,保淮之志,非所復及,莫若還保長江,督将各復旧鎮,自長江以外,羈縻而已)。咎を認めて自分の身を責め、改めて善治(善政)を為して、賦役を省き、民と共に更始すれば(新たに始めれば)、倒懸の急(転倒の危機)から救うこともできるでしょう(引咎責躬,更為善治,省其賦役,与民更始,庶可以救倒懸之急也)。使君(あなた)は布衣から起きて天下の重(重責)を任され、董統(都督・統領)の任に当たったのに、敗喪がここに至りました。恐らく、全朝廷の群賢において、人(あなた)とこの謗(批難、譴責)を分けようとする者はいないでしょう(恐闔朝群賢未有与人分其謗者)。前事が工(功)を為せなかったために、再び分外(度を越えた結果)を求めるようなら、たとえ宇宙が広くてもどこに身を置くことができるでしょう(若猶以前事為未工,故復求之分外,宇宙雖広自容何所)。これは私の愚かな智慧では理解できないことです(此愚智所不解也)。」

 

王羲之は会稽王・司馬昱にも牋(書)を送りました「人臣となったら、その主を尊んで、(主が)前世と並ぶくらい隆盛することを願わない者がいるでしょうか(為人臣誰不願尊其主,比隆前世)。得難い時運に遇った時ならなおさらです(況遇難得之運哉)。しかし、力が及ばないところがあるようなら、どうして軽重を量らずに行動できるでしょう(顧力有所不及,豈可不権軽重而処之也)。今は確かに可喜の会(喜ぶべき機会)がありますが、内を向いて自分を顧みたら、憂いるべきことが喜ぶべきことよりも重くなっています(内求諸己,而所憂乃重於所喜)。功績はまだ期待できず、遺黎(残った民)は殲尽(殲滅)し、労役には際限がなく、徵求(徴収、徴発)が日に日に重くなっているのに、区区とした呉越によって天下の十分の九を経緯(計画)したら、滅亡の他に何を待つのでしょうか(功未可期,遺黎殲尽,労役無時,徵求日重,以区区呉越経緯天下十分之九,不亡何待)。それなのに、自分の徳も力も量らず、疲弊しなければ止めようとしない、これは封内(国内)が心を痛めて嘆悼(嘆息・哀悼)していることなのに、敢えて誠(誠実、実直な言葉)を吐こうとする者もいません(而不度徳量力,不弊不已,此封内所痛心歎悼而莫敢吐誠者也)。過去は諫めることができませんが、将来は追うことができるものです(将来は変えることができるものです。原文「往者不可諫,来者猶可追」。『論語』の言葉です)。殿下が改めて三思を垂らすことを願います(再三思案することを願います。原文「願殿下更垂三思」)。まずは(敵が我々に)勝てなくなるような基礎を作り、根が立って勢いが挙がるのを待ってから、それ(北伐)を謀っても晩くはありません(先為不可勝之基,須根立勢挙,謀之未晚)。そうしなかったら、麋鹿(鹿)が遊ぶのは林や薮の中だけではなくなるでしょう(国都も廃墟になり、林や藪のように麋鹿が遊ぶようになるでしょう。原文「若不行,恐麋鹿之游,将不止林藪而已」)。殿下が暫くは虚遠の懐(広遠すぎて実情に合わない思い)を廃すことで倒懸の急から救うことを願います。(そのようにすれば、殿下は)(滅亡の危機)をもって存(生存、存続)と為し、禍を転じて福と為した、ということができます(可謂以亡為存,転禍為福也)。」

(殷浩と司馬昱は)王羲之の意見に従いませんでした。

 

九月、中軍将軍・殷浩が衆を率いて北伐を開始し、泗口に駐屯しました。河南太守・戴施を派遣して石門を拠点にさせ、滎陽太守・劉遯(「劉遯」は『資治通鑑』の記述で、『晋書・穆帝紀』では「辶」に「彖」です)を派遣して倉垣を守らせます。

殷浩は軍興(軍事行動を起こすこと。または軍用のために物資を徴収すること)を理由に、太学の生徒を解散させました(罷遣太学生徒)。ここから学校が廃されました(原文「学校由此遂廃」。太学は晋王(司馬睿。東晋元帝)建武元年(317年)に建てられましたが、ここにおいてまた廃されることになりました)

 

冬十月、謝尚が冠軍将軍・王俠を派遣して許昌を攻めさせ、攻略しました。

前秦の豫州刺史・楊群が退いて弘農に駐屯しました。

 

東晋朝廷は謝尚を召して給事中に任命し、石頭を守らせました。

 

[二十九] 『資治通鑑』からです。

丁卯(十一日)、燕王・慕容儁が薊に還りました。

 

[三十] 『資治通鑑』からです。

後趙の旧将で兵を擁して州郡を割拠していた者達が、それぞれ使者を派遣して燕に降りました。

燕王・慕容儁は王擢を益州刺史に、夔逸を秦州刺史に、張平を并州刺史に、李歴を兗州刺史に、高昌を安西将軍に、劉寧を車騎将軍に任命しました。

 

[三十一] 『晋書・第八・穆帝紀』と『資治通鑑』からです(『資治通鑑』は本年の最後に置いていますが、『晋書・穆帝紀』では「冬十月」の事としているので、ここに置きます)

前秦の丞相・苻雄が隴西で東晋の秦州刺史・王擢を攻めました。王擢は逼迫して涼州に奔ります。

苻雄は引き還して隴東(『資治通鑑』胡三省注によると、隴東は漢代の汧県の地です)に駐屯しました。

 

前涼の張重華は王擢を征虜将軍・秦州刺史に任命し、特別に寵待(寵遇)しました。

 

[三十二] 『資治通鑑』からです。

慕容恪が安平(『資治通鑑』胡三省注によると、安平県は、西漢は涿郡に属し、東漢は安平国に属し、晋は博陵郡に属しました。唐は深州に属します)に駐屯し、食糧を蓄えて攻具を整え(積糧治攻具)、王午を討とうとしました。

 

丙戌(『二十史朔閏表』によると、この年十月は「丁巳」が朔で、「乙酉」が晦日です。「丙戌」は「乙酉」の翌日なので、「閏十月朔」になります)、中山の人・蘇林が無極(『資治通鑑』胡三省注によると、無極県は、漢代は中山国に属しましたが、晋になって廃されました。「無」は本来「毋」と書かれており、唐代になって武后が「無」に改めたので、ここは「毋極」とするのが正しいはずです)で兵を起こして天子を自称しました。

慕容恪は魯口から引き還して蘇林を討ちました。

 

閏月戊子(閏十月初三日)、燕王・慕容儁が広威将軍・慕輿根を派遣し、慕容恪を助けて蘇林を攻撃させました。蘇林は斬られました。

 

王午はその将・秦興に殺されましたが、呂護が秦興を殺してまた安国王を自称しました。

 

[三十三] 『資治通鑑』からです。

燕の群僚が燕王・慕容儁に対して共に尊号を進上しました。慕容儁はこれに同意します。

 

十一月丁卯(十二日)、慕容儁が始めて百官を置きました。国相・封奕を太尉に、左長史・陽騖を尚書令に、右司馬・皇甫真を尚書左僕射に、典書令・張悕を右僕射に任命します。その他の文武諸官も、それぞれの官位を拝受しました(拝授有差)

 

戊辰(十三日)、慕容儁が皇帝の位に即いて大赦しました。自分が伝国の璽を獲たと称して、元璽元年に改元します。

武宣王(慕容廆)を追尊して高祖武宣皇帝とし、文明王(慕容皝)を追尊して太祖文明皇帝としました。

 

慕容儁の国は歴史上「前燕」と呼ばれており、慕容儁の諡号は「景昭帝」といいます。『資治通鑑』は慕容儁を「燕主・儁」としていますが、この通史では「前燕景昭帝(燕主・慕容儁)」と書きます。

 

この時、晋の使者がちょうど前燕に至りました。

景昭帝は使者にこう言いました「汝は還って汝の天子に報告せよ(汝還白汝天子)。私は人々が困窮しているのを受けて(または「人々に主がいない状況を受けて」)、中国(中原)に推されて既に帝になった(我承人乏,為中国所推,已為帝矣)。」

 

景昭帝は司州を中州に改め、龍都に留台(留守中の政府)を建てました(『資治通鑑』胡三省注が解説しています。司州は後趙が鄴に置きました。龍城はかつての燕の都で、当時は薊に遷都していたため、龍城に留台を建てて龍都とよびました)

玄菟太守・乙逸を尚書に任命して留務(留台の政務)の全権を委ねました。

 

 

次回に続きます。

東晋時代70 東晋穆帝(十七) 殷浩と姚襄 353年

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