東晋時代70 東晋穆帝(十七) 殷浩と姚襄 353年

今回は東晋穆帝永和九年です。

 

東晋穆帝永和九年

前涼桓王永楽八年/前燕景昭帝元璽二年/前秦景明帝皇始三年

癸丑 353年

 

[一] 『晋書・第八・穆帝紀』と『資治通鑑』からです。

春正月乙卯朔、東晋が大赦しました。

 

[二] 『晋書・第八・穆帝紀』はここで「張重華が王擢に苻健の将・苻雄と戦わせたが、王擢の師(軍)が敗績(敗北)した」と書いていますが、『資治通鑑』は二月に置いています(下述します)

 

[三] 『晋書・第八・穆帝紀』からです。

丙寅(十二日)、東晋の皇太后(褚氏)と穆帝が共に建平陵(東晋元帝の陵墓)を拝しました。

 

[四] 『資治通鑑』からです。

二月庚子(十七日)、前燕景昭帝(燕主・慕容儁)が妃の可足渾氏(『資治通鑑』胡三省注によると、可足渾は北方の三字姓です)を皇后に、世子・慕容曄を皇太子に立てました。

皇后も皇太子も龍城から薊宮に遷りました。

 

[五] 『資治通鑑』からです(『晋書・第八・穆帝紀』は正月に置いています)

前涼の張重華が将軍・張弘と宋修を派遣して王擢と合流させ、歩騎一万五千を率いて前秦を伐たせました。

 

前秦の丞相・苻雄と衛将軍・苻菁がこれを拒み、龍黎(『資治通鑑』胡三省注によると、唐代の隴州呉山県に龍盤府と龍盤城がありました。呉山は後魏(北魏)の南由県の地です。この龍盤が「龍黎」に当たるようです)で涼兵を大いに敗りました。一万二千級を斬首して、張弘と宋修を捕虜にします。

王擢は秦州を棄てて姑臧に奔りました。

 

前秦景明帝(秦主・苻健)は領軍将軍・苻願を秦州刺史に任命して上邽を鎮守させました。

 

[六] 『晋書・第八・穆帝紀』からです。

三月、旱害に襲われました。

 

[七] 『晋書・第八・穆帝紀』と『資治通鑑』からです。

東晋の交州刺史・阮敷が林邑の范佛を日南で討ち、五十余塁を破りました。

 

『晋書・列伝第六十七(四夷伝)』によると、范佛は林邑王・范文(東晋成帝咸康二年・336年参照)の子です。

 

[八] 『資治通鑑』からです。

後趙の衛尉だった常山の人・李犢が数千人の衆を集めて前燕に叛しました。

 

[九] 『資治通鑑』からです。

西域の胡人・劉康が偽って劉曜(漢趙帝)の子と称し、平陽で衆を集めて晋王を自称しました。

 

夏四月、前秦の左衛将軍・苻飛が劉康を討って捕えました。

 

[十] 『晋書・第八・穆帝紀』と『資治通鑑』からです。

東晋が安西将軍・謝尚を尚書僕射に任命しました。

 

[十一] 『晋書・第八・穆帝紀』からです。

五月、大疫に襲われました。

 

[十二] 『資治通鑑』からです。

前涼の張重華が再び王擢を派遣し、衆二万を率いて上邽を伐たせました。秦州の多数の郡県がこれに応じます。

苻願は戦って敗れ、長安に奔りました。

 

張重華はこの機に東晋に上書して前秦討伐の許可を請いました。

東晋は詔を発して張重華の位を(涼州刺史から)涼州牧に進めました。

 

『晋書・第八・穆帝紀』は「張重華が再び王擢に秦州を襲わせてこれを取った」と書いています。

 

[十三] 『資治通鑑』からです。

前燕景昭帝(燕主・慕容儁)が衛将軍・慕容恪を派遣して李犢を討たせました。

李犢が投降したので、慕容恪はそのまま東に向かって魯口の呂護を撃ちました。

 

[十四] 『資治通鑑』からです。

六月、前秦の苻飛が仇池の氐王(仇池公)・楊初を攻めましたが、敗れました。

 

『資治通鑑』胡三省注は、「楊初が険阻な地を拠点にして秦に対抗したため(拠険以拒秦)、秦兵は強いとはいえ、楊初に敗れることになった」と解説しています。

但し、『晋書・第八・穆帝紀』は五月に「仇池公・楊初が苻雄に敗れた(仇池公楊初為苻雄所敗)」と書いています。

 

『資治通鑑』に戻ります。

前秦の丞相・苻雄と平昌王・苻菁が歩騎四万を率いて隴東に駐屯しました。

 

前秦景明帝(秦主・苻健)が張遇の継母・韓氏を納れて(娶って)昭儀にしました。

景明帝はしばしば衆人の中で張遇に「卿は私の假子だ(原文「卿,吾假子也」。「假子」は養子や義理の子を指します)」と言っており、張遇はこれを恥じとしました。

そこで張遇は、苻雄等の精兵が外に出た機会に、秘かに関中の豪傑と結び、苻氏を滅ぼしてからその地を挙げて東晋に投降しようと欲しました。

 

秋七月、張遇が黄門・劉晃と謀り、夜、景明帝を襲うことにしました。劉晃は門を開いて張遇を待つと約束します。

ところが、ちょうど景明帝が劉晃を外出させました。劉晃は固辞しましたが、やむなく外に出ます。

張遇はそれを知らず、兵を率いて門に至りましたが、結局、門は開かず、事が発覚して誅に伏しました。

 

この事件がきっかけで、孔持が池陽で挙兵し、劉珍と夏侯顕が鄠で挙兵し、喬秉が雍で挙兵し、胡陽赤が司竹で挙兵し、呼延毒が灞城で挙兵しました。部衆は数万人に上り、それぞれが東晋に使者を派遣して兵を請います。

 

『資治通鑑』胡三省注によると、池陽県は、漢代は馮翊に属し、晋代は扶風に属しました。唐が雲陽県にして京兆に属させます。鄠県は、漢代は扶風に属し、晋代は始平郡に属しました。唐代は京兆に属します。雍県は、漢代は扶風に属しました。唐が天興県に改めて鳳翔府の治所にします。霸城は漢代の霸陵県で、京兆に属しました。晋が霸城に改名しました。

尚、『晋書・載記第十二』では、「孔持」を「孔特」、「喬秉」を「喬景」としています。

 

[十五] 『晋書・第八・穆帝紀』からです。

丁酉、地震があり、雷のような音が鳴りました(地震,有声如雷)

 

『晋書・第八・穆帝紀』は日付を「秋七月丁酉」としていますが、『晋書・五行志下』では「八月丁酉」に「京都地震,有声如雷」と書いています。『二十史朔閏表』によると、この年七月は「壬子」が朔なので、「丁酉」はありません。八月は「壬午」が朔で、「丁酉」は十六日に当たります。

 

[十六] 『資治通鑑』からです。

前秦が左僕射・魚遵を司空にしました。

 

[十七] 『晋書・第八・穆帝紀』からです。

八月、東晋が兼太尉・河間王・司馬欽(東晋成帝咸和五年・330年参照)を派遣し、五陵(西晋の五陵。司馬懿、司馬師、司馬昭および武帝、恵帝の陵墓です)を修復させました。

 

[十八] 『資治通鑑』からです。

九月、前秦の丞相・苻雄が衆二万を率いて長安に還りました。

平昌王・苻菁を派遣して上洛を略定(攻略・平定)させ、豊陽川に荊州を置き、歩兵校尉・金城の人・郭敬を刺史にしました。

『資治通鑑』胡三省注によると、上洛県は、西漢は弘農郡に属し、東漢は京兆に属しましたが、西晋武帝が上洛郡を置きました。豊陽川は上洛郡界内にありました。

 

苻雄は清河王・苻法および苻飛と共に兵を分けて孔持等を討ちました。

 

[十九] 『資治通鑑』からです。

姚襄は歴陽に駐屯しましたが、燕と秦がまさに強盛な時だったため、北伐の志は抱かず、淮水を挟んで広く屯田を興し、将士を訓厲(訓練・激励)していました。

寿春にいる殷浩は姚襄の強盛を嫌ったため、姚襄の諸弟を幽囚し、しかもしばしば刺客を送って姚襄を刺殺しようとしました。しかし刺客は皆、その状況を姚襄に告げました。

 

安北将軍・魏統が死に(魏統は穆帝永和七年・351年に、冉魏から東晋に降りました)、弟の魏憬が代わって部曲を統領しました。

殷浩は秘かに魏憬を派遣し、五千の衆を率いて姚襄を襲わせましたが、逆に姚襄が魏憬を斬ってその衆を併せました。

 

殷浩はますます姚襄を憎みました。そこで、龍驤将軍・劉啓に譙を守らせてから、姚襄を梁国の蠡台(『資治通鑑』胡三省注によると、睢陽県に廬門亭があり、城内に高台がありました。これを蠡台といいます。盧門は宋城(睢陽)の南門です)に遷し、上表して梁国内史の任を授けました。

 

魏憬の子弟がしばしば寿春との間を往来していたため、姚襄はますます疑懼(猜疑と懼れ)を抱き、参軍・権翼を使者にして殷浩に派遣しました。

殷浩が権翼に言いました「この身は姚平北と共に王臣となり、休戚(歓喜と憂愁。福と禍)を同じくしている。(しかし)平北はいつも挙動が勝手で、甚だしく輔車の理を失っている(「輔車」は頬と歯茎の関係、または車体の添え板と車体の関係です。「輔車の理」は互いに助けあうという道理です)を失っている。このような状況は、どうして(我々が)望んでいることだろう(平北每挙動自専,甚失輔車之理,豈所望也)。」

権翼が言いました「平北は英姿が絶世で、数万の兵を擁していました。それなのに、遠く晋室に帰順したのは、朝廷に道があって、宰輔が明哲であるとみなしたからです。今、将軍は軽率に讒慝の言を信じており、平北との間に対立がありますが、愚見によるなら、猜嫌の端(発端)はここにあり、彼にはありません(今将軍軽信讒慝之言,与平北有隙,愚謂猜嫌之端,在此不在彼也)。」

殷浩が言いました「平北は姿性(品行、性格)が豪邁で、生殺を自由に行い(生殺自由)、また、小人を放って我々の馬を掠奪(略奪)させた(又縦小人掠奪吾馬)。王臣の体(姿、態度)とは、もとよりこのようなものなのか(王臣之体,固若是乎)。」

権翼が言いました「平北は聖朝に命を帰しました(帰順しました)。どうして妄りに無辜を殺すことができるでしょう(豈肯妄殺無辜)。姦宄(姦悪)の人とは、王法も許容しないものです。それを殺したとして、何の害があるのですか(王法も許容しない姦悪な者を殺して、何の害があるのですか。原文「姦宄之人,亦王法所不容也,殺之何害」)。」

殷浩が言いました「それでは、馬を略奪したのはなぜだ(然則掠馬何也)。」

権翼が言いました「将軍は平北が雄武で制御が難しいと考えており、最後は(姚襄を)討つことになるので、(姚襄は)馬を取って自衛しようと欲しただけです(将軍謂平北雄武難制,終将討之,故取馬欲以自衛耳)。」

殷浩は笑って「そのようになることはない(何至是也)」と言いました。

 

以前、殷浩が秘かに人を派遣して梁安と雷弱児を誘い、前秦景明帝(秦主・苻健)を殺させようとしました。見返りとして関右の任を与えることに同意します。

雷弱児は偽って賛同し、同時に自分を迎え入れるための兵を出すように請いました。

殷浩は、張遇が乱を為し(上述)、前秦景明帝の兄の子に当たる輔国将軍・苻黄眉が洛陽から西に奔ったと聞いて、梁安等の事が成功したと判断しました。

 

冬十月、殷浩が寿春を発ち、七万の衆を率いて北伐を開始しました。兵を進めて洛陽を占拠し、園陵を修復しようと欲します。

 

吏部尚書・王彪之が会稽王・司馬昱に牋(書信)を提出して「雷弱児等には、あるいは詐偽があります(容有詐偽)。殷浩はまだ軽率に進むべきではありません(浩未応軽進)」と主張しましたが、司馬昱は従いませんでした。

 

殷浩は姚襄を前駆に任命しました。

姚襄は兵を率いて北行すると、殷浩が到着する時を計って、夜の間に部衆に偽りの遁走をさせ、秘かに甲兵を伏せて待機しました。

殷浩は姚襄の兵が遁走したと聞いて、姚襄を追って山桑(『資治通鑑』胡三省注によると、山桑県は、西漢は沛郡に属し、東漢は汝南郡に属し、晋は譙郡に属しました)に至りました。そこに姚襄が兵を放って殷浩を撃ちました。殷浩は大敗して、輜重を棄てて走り、譙城を守りました。姚襄は一万余人を俘斬(捕獲・斬首)し、殷浩の資仗(資財、武器)を全て回収してから、兄の姚益に山桑を守らせ、再び淮南に入りました。

 

会稽王・司馬昱が王彪之に言いました「君の言は中らないことがない。張・陳(西漢の張良と陳平)でも(君を)越えられないだろう(君言無不中,張陳無以過也)。」

 

この出来事を『晋書・第八・穆帝紀』はこう書いています。

冬十月、中軍将軍・殷浩が兵を進めて山桑に駐軍し、平北将軍・姚襄を前鋒にしました。しかし姚襄が叛して逆に殷浩を撃ったため、殷浩は輜重を棄てて、退いて譙城を守りました。

 

[二十] 『資治通鑑』からです。

西平公・張重華(諡号は敬烈公です)が病を患いました。

子の張曜霊はまだ十歳でしたが、世子に立てられました。

 

境内の囚人を赦免しました(赦其境内)

 

張重華の庶兄に当たる長寧侯・張祚(『資治通鑑』胡三省注によると、晋代の西平郡に長寧県がありました)は、勇力と吏幹(政事の才能)があり、しかも狡猾で内外の事にうまく対処し(傾巧善事内外)、張重華の嬖臣・趙長、尉緝(尉が氏です。『資治通鑑』胡三省注によると、春秋時代、鄭の大夫に尉止がいました)等と異姓兄弟の関係を結んでいました。

都尉・常據が張祚を外に出すように請いましたが、張重華はこう言いました「私はまさに祚を周公にして幼子を輔佐させようとしているのだ。君は何を言うのだ(吾方以祚為周公,使輔幼子,君是何言也)。」

 

謝艾は枹罕の功(穆帝永和三年・347年に後趙の麻秋を破った戦いを指します)によって張重華に寵信されていました。

しかし、左右の者が嫉妬して謝艾を讒言したため、張重華は謝艾を外に出して酒泉太守に任命しました。

(張重華が病を患うと)謝艾が上書してこう伝えました「権倖(権勢があって主君に寵任されている奸臣)が政事を行っているので、やがて公室が危うくなります。臣の入侍が許可されることを乞います(権倖用事,公室将危,乞聴臣入侍)。」

また、あわせてこう言いました「長寧侯・張祚および趙長等はもうすぐ乱を為します。ことごとく駆逐すべきです(宜尽逐之)。」

 

十一月己未(初十日)、張重華の病が甚だ重くなりました。そこで、手令(直筆の命令書)によって謝艾を招き、衛将軍・監中外諸軍事に任命して輔政させることにしました。ところが張祚、趙長等はこれを隠して宣布しませんでした。

 

丁卯(十八日)、張重華が死にました。世子・張曜霊が立って大司馬・涼州刺史・西平公を称します。

趙長等は張重華の遺令と偽って、長寧侯・張祚を都督中外諸軍事・撫軍大将軍に任命し、輔政を命じました。

 

『晋書・第八・穆帝紀』は張重華の死を十月に置いており、「丁未(二十七日)、涼州牧・張重華が死に、子の張耀霊(『資治通鑑』では「張曜霊」です)が継いだ」と書いています。

また、続けて「この月(十月)、張祚が張耀霊を弑して涼州牧を自称した」と書いていますが、『資治通鑑』では、張耀霊は十二月に廃されて、二年後に殺されます。

 

[二十一] 『晋書・第八・穆帝紀』と『資治通鑑』からです。

東晋の殷浩が部将・劉啓と王彬之に山桑の姚益を攻撃させました。しかし、姚襄が淮南から東晋軍を撃ち、劉啓と王彬之はどちらも敗死しました(『晋書・穆帝紀』は「殷浩が部将・劉啓と王彬之に姚襄を討たせたが、また姚襄に敗れた」と書いています。ここは『資治通鑑』に従いました)

『資治通鑑』胡三省注によると、劉啓は劉輿(西晋の臣。西晋恵帝元康元年・291年参照)の孫です。

 

姚襄は兵を進めて芍陂を占拠しました。

 

[二十二] 『資治通鑑』からです。

後趙の末年に、楽陵の人・朱禿、平原の人・杜能、清河の人・丁嬈、陽平の人・孫元がそれぞれ兵を擁し、分かれて城邑を占拠しましたが、この頃になって、全て前燕に投降を請いました。

前燕景昭帝(燕主・慕容儁)は朱禿を青州刺史に、杜能を平原太守に、丁嬈を立節将軍に、孫元を兗州刺史に任命し、それぞれの営に留めて慰撫しました(各留撫其営)

 

[二十三] 『資治通鑑』からです。

前秦の丞相・苻雄が池陽を攻略して孔持を斬りました。

十二月、清河王・苻法と苻飛が鄠を攻略し、劉珍と夏侯顕を斬りました。

 

[二十四] 『資治通鑑』からです。

姚襄が淮水を渡って盱眙に駐屯し、流民を招掠(招いたり奪うこと)しました。その衆は七万人に上ります。

その後、姚襄は守宰を分置し、農桑(農業)を奨励・監督しました(勧課農桑)

 

姚襄は使者を建康に派遣して殷浩の罪状を述べ、併せて自ら陳謝しました。

東晋朝廷は詔を発して謝尚を都督江西淮南諸軍事・豫州刺史に任命し、歴陽を鎮守させました。

『資治通鑑』胡三省注によると、謝尚は姚襄の歓心を得ていました。そこで、朝廷は謝尚に姚襄を招撫させ、同時に備えとしました。

 

尚、『晋書・第八・穆帝紀』では、尚書僕射・謝尚に「都督豫揚江西諸軍事・領豫州刺史」を加えて、歴陽を鎮守させています。

『晋書・列伝第四十九(謝尚伝)』では「都督江西淮南諸軍事・前将軍・豫州刺史・給事中」になっており、僕射はそのまま(僕射如故)としています。

 

[二十五] 『資治通鑑』からです。

前涼の右長史・趙長等が建議してこう主張しました「当今の難はまだ平定されていないので、年長の君を立てるべきです。曜霊は沖幼(幼少)なので、長寧侯・祚を立てることを請います(時難未夷,宜立長君,曜霊沖幼,請立長寧侯祚)。」

張祚は以前から張重華の母・馬氏の幸(寵愛)を得ていたため、馬氏がこの意見に同意しました。

こうして、張曜霊は廃されて涼寧侯になり、張祚が大都督・大将軍・涼州牧・涼公に立てられました。

 

張祚は志を得ると淫虐をほしいままにするようになり、張重華の妃・裴氏や謝艾を殺しました。

 

[二十六] 『資治通鑑』からです。

前燕の衛将軍・慕容恪、撫軍将軍・慕容軍、左将軍・慕容彪(翌年四月の記述では「左将軍・慕容彭」としています)等が、しばしば「給事黄門侍郎・慕容霸(後に「慕容垂」に改名します)には命世の才があるので大任を総領させるべきだ」と推挙しました。

 

この年、景昭帝(燕主・慕容儁)が慕容霸を使持節・安東将軍・北冀州刺史に任命して、常山を鎮守させました。

『資治通鑑』胡三省注によると、冀州刺史は信都を鎮守しており、今回、常山に北冀州刺史が置かれました。

 

 

次回に続きます。

東晋時代71 東晋穆帝(十八) 殷浩失脚 354年(1)

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