東晋時代71 東晋穆帝(十八) 殷浩失脚 354年(1)

今回は東晋穆帝永和十年です。二回に分けます。

 

東晋穆帝永和十年

前涼威王和平元年/前燕景昭帝元璽三年/前秦景明帝皇始四年

甲寅 354年

 

[一] 『晋書・第八・穆帝紀』からです。

春正月己酉朔、東晋穆帝が臨朝しました(朝賀に臨みました)

五陵(西晋の五陵です。司馬懿、司馬師、司馬昭および武帝、恵帝の陵墓です)がまだ修復できていなかったため、楽器を懸けても演奏しませんでした(懸而不楽)

 

[二] 『資治通鑑』からです。

張祚が自ら涼王を称し、建興四十二年から和平元年に改めました(前涼は、今まで対外的には西晋懐帝の年号である「建興」を使っていました。建興元年は313年なので、本年は建興四十二年に当たります)

 

張祚は妻の辛氏を王后に、子の張太和を太子に立てました。

また、弟の張天錫を長寧侯に、子の張庭堅を建康侯(『資治通鑑』胡三省注によると、この建康郡は張氏が置いたようです。張茂が涼州に属させました)に、張曜霊(涼寧侯。前回参照)の弟・張玄靚を涼武侯に封じ、百官を置きました。

 

『晋書・列伝第五十六(張祚伝)』によると、この時、張祚は曾祖父の張軌を武王に、祖父の張寔を昭王に、従祖父の張茂(張軌の子。張寔の弟)を成王に、父の張駿を文王に、弟の張重華を明王に追尊しました(北京燕山出版社『中国歴代帝王年号』、斉魯書社『中国歴代帝王世系年表』等は張重華の諡号を「桓王」としています)

 

張祚は天地の郊祀を行い、天子の礼楽を用いました。

 

(張祚による一連の行動に対して)尚書・馬岌が切諫しましたが、罪に坐して免官されました。

郎中・丁琪が更に諫めて言いました「我々は武公(張軌の諡号です)以来、代々臣節を守り、忠誠を抱いて謙譲を実行し、五十余年になります(原文「我自武公以来,世守臣節,抱忠履謙五十余年」。『資治通鑑』胡三省注が解説しています。「履謙(謙譲の美徳を実践すること)」は今まで王を自称しなかったことを指します。西晋恵帝永寧元年・301年に張軌が涼州刺史に任命されて涼土を鎮守してから、本年で足掛け五十四年になります)。だから一州の衆によって挙世の虜(全国の敵)に対抗することができ、師徒(軍)を毎年起こしても、民が疲労を告げなかったのです(師徒歳起,民不告疲)。殿下の勲徳はまだ先公ほど高くありません。それなのに、急いで革命(天命を改めること。帝王の位に即くこと)を謀るとは、臣にはその可が見えません(正しい事には見えません。原文「亟謀革命,臣未見其可也」)。彼等士民が命を用いており(命に従っており)、四遠が帰嚮(帰心)しているのは、我々なら晋室を奉じることができるからです(彼士民所以用命,四遠所以帰嚮者,以吾能奉晋室故也)。今、あなたは自ら尊位に即きましたが、中外が離心してしまうので、どうして一隅の地をもって天下の強敵を拒むことができるでしょう(今而自尊,則中外離心,安能以一隅之地拒天下之強敵乎)。」

張祚は大いに怒って闕下で丁琪を斬りました。

『資治通鑑』胡三省注は「古より諫臣を殺戮して亡びなかった者はいない」と解説しています。

 

尚、『資治通鑑』では、張祚は涼王を称していますが、『晋書・第八・穆帝紀』は「涼州牧・張祚が帝位を僭(僭称)した」と書いています。

 

[三] 『晋書・第八・穆帝紀』と『資治通鑑』からです。

旧魏の降将・周成(穆帝永和七年・351年参照)が兵を挙げて東晋に反し、宛から洛陽を襲いました(『晋書・穆帝紀』は「宛陵から洛陽を襲った」と書いていますが、『資治通鑑』は「宛陵」を「宛」としており、中華書局『晋書・穆帝紀』校勘記が「陵の字は恐らく余分である(陵字疑衍)」と解説しています)

 

辛酉(十三日)、東晋の河南太守・戴施が鮪渚(『資治通鑑』胡三省注によると、河水が河南鞏県を通り、その北に山がありました。これを崟原丘といいます。その下に穴があり、穴の中に渚がありました。これが「鮪渚」です)に奔りました。

 

[四] 『晋書・第八・穆帝紀』からです。

丁卯(十九日)、地震があり、雷のような音が鳴りました(地震,有声如雷)

 

[五] 『資治通鑑』からです。

前秦の丞相・苻雄が司竹を攻略しました。

胡陽赤は霸城に奔って呼延毒を頼りました。

 

[六] 『晋書・第八・穆帝紀』と『資治通鑑』からです。

東晋の中軍将軍・揚州刺史・殷浩が連年北伐を行いましたが、師徒(軍)はしばしば敗れて糧械(食糧と武器)も共に尽きてしまいました。

そこで、征西将軍・桓温が朝野の怨みに乗じて上書し、殷浩の罪を数え上げて廃すように請いました。

 

二月、朝廷はやむなく殷浩を免じて庶人とし、東陽の信安(『資治通鑑』胡三省注によると、東陽郡はかつて会稽西部都尉が治めた地です。呉末帝(孫皓)が郡にしました。信安県は、東漢献帝が太末を分けて新安県を置き、西晋武帝が信安に改名しました)に遷しました。

ここから内外の大権は一切が桓温に帰すようになります。

 

殷浩は若い頃から桓温と名(名声)を並べていましたが、心中では桓温と競って下になろうとせず(心競不相下)、一方の桓温も常に殷浩を軽んじていました。

殷浩は廃黜(罷免、排斥)されてから、表面には愁怨を表しませんでしたが(愁怨不形辞色)、常に空に「咄咄怪事」という四文字を書いていました(「咄咄」は驚嘆、嘆息を意味します。「咄咄怪事」は「ああ、おかしなことだ」という嘆きの言葉です)

 

久しくして桓温が掾(属官)の郗超にこう言いました「殷浩は徳行があり、善言があったので(有徳有言)、もし令僕(尚書令・尚書僕射)になっていたら、百官の模範となるに足りた(嚮為令僕,足以儀刑百揆)。朝廷がその才を誤って用いただけだ(朝廷用違其才耳)。」

そこで桓温は殷浩を尚書令に任命しようとし、書を送ってそれを告げました。

殷浩は喜んで許諾しましたが(欣然許焉)、返答の書を送る時、謬誤(誤り)があるのではないかと憂慮して、十数回も(封書を)開いたり閉じたりしました。その結果、空函(空の封筒)を送ってしまいます。

桓温は大怒して殷浩との関係を絶ちました。

結局、殷浩は徙所(追放された場所。信安)で死にました(『晋書・列伝第四十七(殷浩伝)』によると、殷浩は穆帝永和十二年・356年に死にました)

 

朝廷は元会稽内史・王述を揚州刺史に任命しました。

 

[七] 『晋書・第八・穆帝紀』と『資治通鑑』からです。

己丑(十一日。『資治通鑑』は「二月乙丑」としていますが、『二十史朔閏表』によると、この年二月は「己卯」が朔なので、「乙丑」はありません。ここは『晋書・穆帝紀』にしたがって「己丑(十一日)」としました)、東晋の太尉・征西将軍・桓温が師(軍)を率いて関中を討伐することにしました。歩騎四万を統率して江陵を発し、水軍は襄陽から均口に入って南郷に至り、歩兵は淅川(析県。下述します)から武関に向かいます。

 

『資治通鑑』胡三省注によると、順陽郡筑陽県に渉都城があり、沔水がその東北を流れていました。均水が筑陽県で沔水に入り、そこを均口といいました。

筑陽県と南郷県は、漢代はどちらも南陽郡に属していましたが、東漢献帝建安年間に、南陽の右壤(西部)を分けて南郷郡を置き、二県を属させました。西晋武帝が順陽郡に改名しましたが、東晋成帝が南郷郡に戻しました。

析県には淅水があり、西漢は弘農郡に属し、東漢は南陽郡に属しました。春秋時代の白羽です。武関はその西百七十里の地にありました。後魏(北魏)が淅川県を置きますが、後周が内郷県に入れます。

 

桓温は同時に司馬勳にも命を発し、子午道から出兵して前秦を伐たせました『資治通鑑』胡三省注によると、桓温は司馬勳に命じて梁州から出師させました)

 

[八] 『資治通鑑』からです。

前燕の衛将軍・慕容恪が魯口を包囲しました。

三月、慕容恪が魯口を攻略しました。

呂護は野王に奔り、弟を派遣して前燕に謝罪の上表をしました。

前燕は呂護を河内太守に任命しました。

 

[九] 『資治通鑑』からです。

姚襄が使者を派遣して前燕に降りました。

 

[十] 『資治通鑑』からです。

前燕景昭帝(燕主・慕容儁。『資治通鑑』は「燕王・儁」としていますが、「王」は「主」の誤りです)が慕容評を鎮南将軍・都督秦雍益梁江揚荊徐兗豫十州諸軍事に任命し、暫定的に洛水を鎮守させました。

また、慕容強を前鋒都督・督荊徐二州緣淮諸軍事に任命し、兵を進めて河南(『資治通鑑』胡三省注によると、この「河南」は河南郡ではなく、大河(黄河)の南を指します)を占拠させました。

 

[十一] 『晋書・第八・穆帝紀』と『資治通鑑』からです。

桓温の別将が上洛を攻めて前秦の荊州刺史・郭敬を捕えました。更に兵を進めて青泥(『資治通鑑』胡三省注によると、青泥城は藍田県の南にありました)を撃ち、これを破ります。

司馬勳も前秦の西鄙を掠め、前涼の秦州刺史・王擢も陳倉を攻めて桓温に応じました。

 

前秦景明帝(秦主・苻健)は、太子・苻萇、丞相・苻雄、淮南王・苻生、平昌王・苻菁、北平王・苻碩を派遣し、五万の衆を率いて嶢柳(『資治通鑑』胡三省注によると、藍田県の南、上洛県の西北に嶢関があり、その地を嶢柳といいました。荊州に道が通じています)に駐軍させ、桓温を拒みました。

 

夏四月己亥(二十二日)、桓温が前秦の兵と藍田で戦いました(この一文は『資治通鑑』を元にしました。『晋書・第八・穆帝紀』は「桓温が苻健の子・苻萇と藍田で戦った」と書いています)

前秦の淮南王・苻生が単騎で陣に突進し、十数回出入りして(出入以十数)、東晋の将士を甚だ多数殺傷しましたが、桓温が衆兵を監督して力戦したため、秦兵は大敗しました。

東晋の将軍・桓沖も前秦の丞相・苻雄を白鹿原(『資治通鑑』胡三省注によると藍田県に白鹿原がありました)で敗りました。桓沖は桓温の弟です。

 

桓温は転戦しながら前進しました。

壬寅(二十五日)、兵を進めて灞上に至ります。

 

前秦の太子・苻萇等は退いて城南に駐屯しました。

前秦景明帝は老弱な六千人と共に長安小城を固守し、精兵三万を全て発しました。大司馬・雷弱児等を派遣して苻萇と兵を合流させ、桓温を拒みます。

 

三輔の郡県が皆、東晋に来降しました。

桓温は居民を撫諭(宣撫)し、安堵(安住)して生業を恢復させました(使安堵復業)

民は争って牛酒を携えて桓温の軍を迎え入れ、慰労しました。男女が路を挟んで見物します。耆老(老齢者)には涙を流す者もいて、「今日、また官軍を見ることができるとは思わなかった(不図今日復覩官軍)」と言いました。

 

前秦の丞相・苻雄が騎兵七千を率いて子午谷で司馬勳を襲い、これを破りました。

司馬勳は退いて女媧堡に駐屯しました。

 

 

次回に続きます。

東晋時代72 東晋穆帝(十九) 北伐失敗 354年(2)

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