東晋時代72 東晋穆帝(十九) 北伐失敗 354年(2)

今回で東晋穆帝永和十年が終わります。

 

[十二] 『資治通鑑』からです。

戊申(『二十史朔閏表』によると、この年四月は「戊寅」が朔なので、「戊申」はありません)、前燕景昭帝(燕主・慕容儁)が撫軍将軍・慕容軍を襄陽王に、左将軍・慕容彭(前年末の記述では「左将軍・慕容彪」となっています)を武昌王に封じました。

衛将軍・慕容恪を大司馬・侍中・大都督・録尚書事に任命して太原王に封じました。

鎮南将軍・慕容評を司徒・驃騎将軍に任命して上庸王に封じました。

安東将軍・慕容霸を呉王に、左賢王・慕容友を范陽王に、散騎常侍・慕容厲を下邳王に、散騎常侍・慕容宜を廬江王に、寧北将軍・慕容度を楽浪王に封じ、弟の慕容桓を宜都王に、慕容逮を臨賀王に、慕容徽を河間王に、慕容龍を歴陽王に、慕容納を北海王に、慕容秀を蘭陵王に、慕容嶽を安豊王に、慕容徳を梁公に、慕容黙を始安公に、慕容僂を南康公に封じ、子の慕容咸(『資治通鑑』胡三省注によると、「咸」は「臧」とするのが正しいようです。穆帝升平二年・358年の記述では「慕容臧」です)を楽安王に、慕容亮を勃海王に、慕容温を帯方王に、慕容渉を漁陽王に、慕容暐を中山王に封じました。

尚書令・陽騖を司空とし、継続して尚書令の職務に当たらせました(仍守尚書令)

 

冀州刺史・呉王・慕容霸に命じて、治所を信都に遷させました(慕容霸は前年から常山を治めていました)

以前、燕王・慕容皝は慕容霸の才を奇としたため(尋常ではないと思ったため)、その名を霸とし、世子に立てようとしました。群臣が諫めたため中止しましたが、慕容霸への寵遇は世子(慕容儁)を越えるほどでした。

そのため、景昭帝(慕容儁)は慕容覇を嫌っており、かつて慕容覇が落馬して歯を折ったことがあったので、「𡙇(「缺」「欠」と同義です)」に改名させました。しかし暫くして「𡙇」の字が讖文(予言書)に応じていたため、「垂」に改名させました(原文「尋以其応讖文,更名曰垂」。「讖文」の内容はわかりません。『晋書・載記第二十三』を見ると、呉王に封じられた時は既に「慕容垂」に改名しています)

 

(本年、慕容垂に信都を鎮守させた後)侍中に遷して留台の政務を総監させ(録留台事)、鎮を龍城に遷させました。

しかし慕容垂が大いに東北の和を得たため、景昭帝はますます慕容垂を嫌って、また召喚しました。

 

[十三] 『晋書・第八・穆帝紀』と『資治通鑑』からです。

五月、江西の流民・郭敞等(「江西の流民・郭敞等」というのは『資治通鑑』の記述で、『晋書・穆帝紀』では「江西の乞活・郭敞等」、『晋書・載記第十六』では「流人・郭斁等千余人」と書かれています)が東晋の陳留内史・劉仕を捕えて叛し、姚襄に降ったため、建康が震駭(震撼・驚愕)しました。

『資治通鑑』胡三省注によると、晋が南渡してから、陳留郡は治所を譙郡長垣県に置いていました。

尚、『晋書・載記第十六』は劉仕を「堂邑内史」としています(『晋書・穆帝紀』は「陳留内史」としており、『資治通鑑』は「本紀」に従っています)

 

東晋は吏部尚書・周閔を中軍将軍に任命して中堂に駐屯させ、豫州刺史・謝尚を歴陽から呼び戻して京師を防衛させ、長江の守備を固めました(固江備守)

 

[十四] 『資治通鑑』からです。

王擢が陳倉を攻略し、前秦の扶風内史・毛難を殺しました。

 

[十五] 『資治通鑑』からです。

北海の人・王猛は若い頃から好学で、倜儻(小事に束縛されないこと。または特異・特別なこと)としていて大志があり、細かい事は気にしませんでした(不屑細務)。人々は皆、王猛を軽視しましたが、王猛は悠然自得(悠々と自由に振る舞うこと)としたまま、華陰で隠居しました。

『資治通鑑』胡三省注によると、王猛は北海劇の人で、家は魏郡にありました。徐統(恐らく後趙の徐統です。穆帝永和五年・349年参照)に召されましたが、応じず華陰山で隠居しました。華陰県は、西漢は京兆に属し、東漢と晋は弘農郡に属しました。

 

王猛は桓温が入関したと聞いて、褐(粗い布の衣服)をまとって会いに行き、蝨を搔きながら当世の務(大事、急務)について談論し、傍若無人に振る舞いました(披褐詣之,捫蝨而談當世之務,旁若無人)

桓温は王猛を異として(通常の人ではないと判断して)、こう問いました「私は天子の命を奉じ、鋭兵十万を率いて、百姓のために残賊(残虐な賊)を除きに来た。それなのに、三秦の豪傑で至る者がいないのはなぜだ?」

王猛が言いました「公は数千里の距離も遠いとはみなさず、深く敵境に入りながら、今、長安が咫尺(間近)にあるのに、灞水を渡ろうとしません(公不遠数千里,深入敵境,今長安咫尺而不渡灞水)。百姓はまだ公の心を知らないので、至らないのです。」

桓温は沈黙して応える言葉がありませんでしたが、やがてゆっくり「江東には卿と比べられる者がいない(江東無卿比也)」と言い、王猛を軍謀祭酒に任命しました。

 

桓温が前秦の丞相・苻雄等と白鹿原で戦いましたが、桓温の兵が不利になり、死者が一万余人に上りました。

桓温は元々秦の麦に頼って食糧にしようと考えていましたが、秦人が全ての麦を刈り取って、田野を何もない状態にして待機したため(清野以待之)、桓温の軍は食糧が乏しくなりました。

 

六月丁丑(初一日)、桓温が関中の三千余戸を遷して帰還しました。

 

『晋書・第八・穆帝紀』は六月に「苻健の将・苻雄が衆を悉く発して、白鹿原で桓温と戦った。王師が敗績(敗北)した」と書いています(『資治通鑑』では、五月に両軍が戦って六月初一日に桓温が撤兵しています)

 

『資治通鑑』に戻ります。

桓温は王猛を高官督護(『資治通鑑』胡三省注によると、魏晋の間、節鎮(統帥がいる重鎮や要塞)を守る部将には督護がおり、後には高官督護が置かれました。王敦が武昌を鎮守していた時には、高官督護・繆坦がいました)に任命して、共に晋に還ろうとしましたが、王猛は辞退して従いませんでした。

 

呼延毒が一万の衆を率いて撤兵する桓温に従いました。

 

前秦の太子・苻萇等が桓温の後を追って攻撃し、潼関に至りました。桓温軍が連敗して兵の失亡(損失)が万を数えます。

 

以前、桓温が灞上に駐屯した時、順陽太守・薛珍(『資治通鑑』胡三省注によると、順陽は東晋成帝時代に南郷郡に改名されましたが、暫くして元に戻されました)が桓温に対して、直接、兵を進めて長安に迫るように勧めましたが、桓温は従いませんでした。

薛珍は偏師(一部隊)を率いて単独で(灞水を)渡り、頗る獲るものがありました。

桓温が撤退すると、薛珍も引き還しましたが、自分の勇を誇って桓温の持重(慎重)を咎める発言を衆人の前で公にしたため(顕言於衆,自矜其勇而咎温之持重)、桓温に殺されました。

 

[十六] 『資治通鑑』からです。

前秦の丞相・苻雄が陳倉で司馬勳と王擢を撃ちました(『資治通鑑』胡三省注によると、司馬勳は女媧堡から移動して王擢と合流し、陳倉を攻めていたようです)

司馬勳は漢中に奔り、王擢は略陽に奔りました。

 

[十七] 『資治通鑑』からです。

前秦が光禄大夫・趙俱を洛州刺史(『資治通鑑』の原文は「洛陽刺史」ですが、洛陽は州ではないので、「洛州」が正しいはずです。胡三省注が指摘しています)に任命し、宜陽を鎮守させました。

 

[十八] 『資治通鑑』からです。

前秦の東海王・苻雄(諡号は敬武王です)が雍の喬秉(東晋穆帝永和九年・353年参照)を攻めました。

丙申(二十日)、苻雄が死にました。

 

前秦景明帝(秦主・苻健)は哀哭して血を吐き(哭之嘔血)、こう言いました「天は私が四海を平定することを欲していないのか(天不欲吾平四海邪)。なぜ私から元才(苻雄の字です)を奪うのがこのように速いのだ(何奪吾元才之速也)。」

景明帝は苻雄に魏王を追贈し、葬礼は西晋の安平献王(司馬孚。司馬懿の弟)の故事に則らせました。

 

苻雄は佐命の元勲(帝王の創業を輔佐した元勲)として権勢が人主に並びましたが、謙恭かつ汎愛(博愛)で、法度を遵奉していたため、景明帝は苻雄を重んじて常に「元才は私の周公だ(元才,吾之周公也)」と言っていました。

 

苻雄の子・苻堅が爵(東海王)を世襲しました。

苻堅は性格が至孝で、幼い頃から志度(気概と度量)があり、博学多能で、英豪(英雄・豪傑)と交わり結びました。(特に)呂婆楼、強汪および略陽の人・梁平老がそれぞれ苻堅と親善な関係になりました。

 

[十九] 『資治通鑑』からです。

前燕の楽陵太守・慕容鉤は慕容翰(慕容廆の子。慕容皝の兄)の子で、青州刺史・朱禿と共に厭次を治めていました。

ところが、慕容鉤は自分が宗室であることを恃みとし、いつも朱禿を陵侮(軽視、侮辱)していたため、朱禿は憤怒を抑えられなくなりました(不勝忿)

 

秋七月、朱禿が慕容鉤を襲って殺し、南の段龕に奔りました。

 

[二十] 『資治通鑑』からです。

前秦の太子・苻萇が雍の喬秉を攻めました。

八月、喬秉を斬って関中を悉く平定しました。

 

前秦景明帝(秦主・苻健)は桓温を防いだ功を賞して、雷弱児を丞相に、毛貴を太傅に、魚遵を太尉に、淮南王・苻生を中軍大将軍に、平昌王・苻菁を司空に任命しました。

 

景明帝は政事に勤め、しばしば公卿を招いて治道について咨講(諮問・講義)しました。また、趙人(後趙)による苛虐・奢侈の後を継いだので、寛簡(寛容簡潔)かつ節倹によって(政治や風俗を)改め、儒士を崇礼(尊重礼遇)しました。そのため、秦人が景明帝の治世を悦びました。

 

[二十一] 『資治通鑑』からです。

前燕が大いに兵衆を徴集しました。

詔を発した日を元に、「丙戌挙(丙戌の挙。「丙戌」は十一日です)」と号しました。

 

[二十二] 『資治通鑑』からです。

九月、東晋の桓温が前秦討伐から還りました。

穆帝は侍中や黄門を派遣して(『資治通鑑』胡三省注によると、侍中や黄門侍郎は、魏以来、要近の職(皇帝に侍る重要な職)になっていました)、襄陽で桓温を慰労させました。

 

『晋書・第八・穆帝紀』は、「秋九月辛酉(十七日)、桓温が、食糧が尽きたため引き還した」と書いています。

 

[二十三] 『資治通鑑』からです。

前燕で、ある者が「黄門侍郎・宋斌等が冉智(旧冉魏の太子)を奉じて主とし、背反しようと謀っている」と告発しました。

宋斌、冉智等は皆、誅に伏しました。

宋斌は宋燭(東晋成帝咸康四年・338年参照)の子です。

 

[二十四] 『資治通鑑』からです。

前秦の太子・苻萇は、桓温を防いだ時、流矢に中りました。

冬十月、苻萇が死に、献哀という諡号が贈られました。

 

[二十五] 『資治通鑑』からです。

前燕景昭帝(燕主・慕容儁)が龍城に入りました。

 

[二十六] 『資治通鑑』からです。

桓温が入関した時、王擢が使者を派遣して涼王・張祚に報告し、こう言いました「桓温は用兵を善くし、その志は謀り知ることができません(温善用兵,其志難測)。」

張祚は懼れを抱き、しかも王擢が自分に叛すことを畏れたため、人を送って王擢を刺殺しようとしました。しかし、事が漏れたため、張祚はますます懼れて大いに兵を動員しました。公には東伐すると宣言しましたが、実際は西に向かって敦煌を保とうとします。

ちょうどその時、桓温が還ったので、中止しました。

暫くして、張祚は秦州刺史・牛霸等を派遣し、兵三千を率いて王擢を撃たせ、破りました。

 

十一月、王擢が衆を率いて前秦に降りました。

前秦は王擢を尚書に任命し、上将軍・啖鉄(『資治通鑑』胡三省注によると、啖は氐の姓です)を秦州刺史に任命しました。

 

[二十七] 『資治通鑑』からです。

前秦景明帝(秦主・苻健。『資治通鑑』は「秦王・健」としていますが、「王」は「主」の誤りです)の叔父にあたる武都王・苻安が晋から還ろうとしましたが(苻安は使者として穆帝永和六年・350年に東晋に行きました)、姚襄に捕えられ、洛州刺史に任命されました。

 

十二月、苻安が逃亡して前秦に帰りました。

景明帝は苻安を大司馬・驃騎大将軍・并州刺史に任命して蒲阪を鎮守させました。

 

[二十八] 『資治通鑑』からです。

この年、前秦を大饑(飢饉)が襲い、米一升が布一匹に値するほど高騰しました。

 

 

次回に続きます。

東晋時代73 東晋穆帝(二十) 苻生 張祚 355年

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