東晋時代73 東晋穆帝(二十) 苻生 張祚 355年

今回は東晋穆帝永和十一年です。

 

東晋穆帝永和十一年

前涼威王和平二年 沖王太始元年/前燕景昭帝元璽四年

前秦景明帝皇始五年 前秦帝(苻生)寿光元年

乙卯 355年

 

[一] 『晋書・第八・穆帝紀』からです。

春正月甲辰(初一日)、東晋の侍中・汝南王・司馬統が死にました。

 

『晋書・列伝第二十九』によると、司馬統は司馬祐(汝南威王)の子です。司馬祐は八王の乱で死んだ司馬亮の孫で、東晋成帝咸和元年(326年)に死にました。

司馬祐の死後、司馬統が跡を継ぎましたが、南頓王・司馬宗が誅殺された事件(東晋成帝咸和元年・326年参照)がきっかけで、司馬統も廃されました。しかし、後に成帝が司馬亮一門の絶滅を哀しんだため、詔を発して再び封爵しました。

司馬統は昇格を重ねて祕書監・侍中になり、死後、光禄勳を追贈されました。諡号を恭王といいます。

子の司馬義(または「司馬羲」。中華書局『晋書・列伝第二十九』校勘記参照)が司馬統の跡を継ぎました。

 

[二] 『資治通鑑』からです。

故仇池公・楊毅の弟・楊宋奴が姑子(母の兄弟の子)・梁式王に仇池公・楊初を刺殺させました。

しかし楊初の子・楊国が梁式王および楊宋奴を誅殺して、自ら仇池公に立ちました。

 

桓温が上表して楊国を鎮北将軍・秦州刺史にしました。

 

『晋書・第八・穆帝紀』の記述は少し異なり、こう書いています「平羌校尉・仇池公・楊初がその部将・梁式(『資治通鑑』では「梁式王」です)に害された。楊初の子・楊国が位を継いだ。そこで(東晋が楊国を)鎮北将軍・秦州刺史に任命した。」

 

[三] 『晋書・第八・穆帝紀』からです。

斉公・段龕が郎山で慕容儁(前燕)の将・榮国を襲い、敗りました。

 

[四] 『資治通鑑』からです。

二月、前秦が大蝗害に襲われて百草が無くなり、牛馬が互いに毛を食べるほどになりました(大蝗,百草無遺,牛馬相噉毛)

 

[五] 『晋書・第八・穆帝紀』からです。

夏四月壬申(初一日)、霜が降りました(隕霜)

乙酉(十四日)、地震がありました。

 

[六] 『晋書・第八・穆帝紀』からです。

姚襄が衆を率いて外黄を侵しましたが、東晋の冠軍将軍・高季がこれを大破しました。

 

『資治通鑑』では五月に姚襄が外黄で高季を攻撃しており、その頃ちょうど高季が死んだため、姚襄が許昌を占拠します(再述します)

 

[七] 『資治通鑑』からです。

前燕景昭帝(燕主・慕容儁)が和龍(龍城の宮殿。穆帝永和元年・345年参照)から薊に還りました。

 

以前、景昭帝が東に遷った時(薊から和龍に遷った時の事です。『資治通鑑』胡三省注によると、和龍は薊の東に位置しました)、幽・冀の人々は互いに驚擾(恐惶・動揺)して、所在の地で屯結(集結)しました。

(景昭帝が薊に還ってから)群臣がこれを討つように請いましたが、景昭帝はこう言いました「群小は朕が東巡したので、互いに戸惑って乱を為しただけだ(故相惑為乱耳)。今、朕が既に至ったので、すぐに自ら安定するはずだ。討つには足りない(今朕既至,尋当自定,不足討也)。」

 

[八] 『資治通鑑』からです。

東晋の蘭陵太守・孫黒、済北太守・高柱、建興太守・高瓫および前秦の河内太守・王会、黎陽太守・韓高が皆、郡を挙げて前燕に降りました。

 

[九] 『資治通鑑』からです。

前秦の淮南王・苻生は幼い頃から片目がなく(幼無一目)、性格が麤暴(粗暴、暴力的)でした。

かつて、祖父の苻洪が戯れてこう言いました「私が聞いたところでは、瞎児(目が不自由な子。ここでは片目の子を指します)は一涙(片目の涙)しかないというが、本当か(吾聞瞎児一涙,信乎)?」

すると苻生は怒って佩刀を引き抜き、自ら(不自由な方の目を)刺して血を流しながら「これも一涙だ(此亦一涙也)」と言いました。

苻洪は大いに驚いて、鞭で苻生を打ちました。

苻生はこう言いました「(私は)生まれつき、刀槊には耐えられるが、鞭棰(鞭や棒)には堪えられない(性耐刀槊,不堪鞭棰)!」

苻洪が苻生の父・苻健に言いました「この子は狂悖(狂暴無道)なので早く除くべきだ。そうしなければ、必ず人の家(我々一家)を破滅させることになる(此児狂悖,宜早除之。不然,必破人家)。」

そこで、苻健が苻生を殺そうとしましたが、苻健の弟・苻雄が制止してこう言いました「子供は成長したら自ら改めるはずです。なぜそのように急ぐ必要があるのですか(児長自応改,何可遽爾)。」

 

苻生は成長すると、千鈞の物でも持ち上げられるほどの力をもち、素手で猛獣と格闘することができ、走れば奔走する馬にも追いつき、撃刺(剣や槍を使った武術)・騎射の腕が当世において冠絶しました(並ぶ者がいなくなりました。原文「力挙千鈞,手格猛獣,走及奔馬,撃刺騎射,冠絕一時」)

 

献哀太子が死ぬと(「献哀」は太子・苻萇の諡号です。前年参照)、強后は少子の晋王・苻柳を太子に立てようと欲しました。

しかし景明帝(秦主・苻健)は讖文(予言書)に「三羊五眼(三頭の羊に五つの目。三頭のうち一頭は一つ目なので、五つの目になります)」とあったことから、苻生を太子に立てました。

 

景明帝が司空・平昌王・苻菁を太尉に、尚書令・王墮を司空に、司隸校尉・梁楞を尚書令に任命しました。

 

[十] 『晋書・第八・穆帝紀』からです。

五月丁未(初六日)、また地震がありました。

 

[十一] 『資治通鑑』からです。

姚襄に属す者達の多くが北に還るように勧め、姚襄はこれに従いました。

 

姚襄が外黄(『資治通鑑』胡三省注によると、外黄県は漢代以来陳留郡に属しました)で東晋の冠軍将軍・高季を攻撃しました。

ちょうど高季が死んだため、姚襄は兵を進めて許昌を占拠しました。

 

晋書・第八・穆帝紀』では四月に高季が姚襄を大破しています(既述)

 

[十二] 『資治通鑑』からです。

六月丙子(初六)、前秦景明帝(秦主・苻健)が病に臥せました。

 

庚辰(初十日)、平昌王・苻菁(『資治通鑑』は「平昌公」といていますが、「公」は「王」が正しいはずです。上の記述では「王」になっています)が太子・苻生を殺して自ら立とうとし、兵を率いて東宮に入りました。。

この時、苻生は西宮(景明帝がいます)で侍疾(看病)していました。苻菁は景明帝が既に死んだと思って東掖門を攻撃します。

景明帝は変事を聞いて端門に登り、兵を配置して自衛しました。

苻菁の衆は景明帝を見て惶懼(恐惶)し、皆、武器を棄てて逃走四散します(捨仗逃散)

景明帝は苻菁を捕えて譴責してから殺しましたが、他の者は不問としました(余無所問)

 

壬午(十二日)、大司馬・武都王・苻安を都督中外諸軍事に任命しました(『資治通鑑』胡三省注によると、苻雄の死後(前年参照)、苻菁が都督中外諸軍(事)になりましたが、苻菁が誅殺されたため、苻安が代わりました)

 

甲申(十四日)、景明帝が太師・魚遵、丞相・雷弱児、太傅・毛貴、司空・王墮、尚書令・梁楞、左僕射・梁安、右僕射・段純、吏部尚書・辛牢等を招き、遺詔を授けて輔政させました。

景明帝が太子・苻生に言いました「六夷の酋帥および大臣で執権している者(権勢を握っている者)が、もし汝の命に従わなかったら、徐々にそれを除くべきだ(宜漸除之)。」

 

乙酉(十五日)、景明帝が死にました。『晋書・載記第十二』によると、三十九歳でした。

景明皇帝という諡号が贈られ、廟号は高祖と定められます。

 

丙戌(十六日)、太子・苻生が即位しました。

『晋書・載記第十二』によると、苻生は字を長生といいます。景明帝の第三子です。

『晋書・第八・穆帝紀』は「六月、苻健が死に、その子・苻生が偽位を継いだ」と書いています。

苻生には諡号がないので、この通史では「前秦帝(秦主・苻生)」と書きます。

 

大赦して、皇始五年から寿光元年に改元しました。

群臣が上奏して「年を越えていないのに改元するのは非礼です(礼に合いません。原文「未踰年而改元,非礼也」)」と言いましたが、前秦帝(苻生)は怒って議主を窮推(追究)し、右僕射・段純が中心になっていたと知って殺してしまいました。

 

[十三] 『晋書・第八・穆帝紀』は秋七月に「宋混と張瓘が張祚を弑し、張耀霊の弟・張玄靚を大将軍・涼州牧に立てて、使者を派遣して(東晋に)来降した」と書いていますが、『資治通鑑』では「閏月」に張祚が殺されて張玄靚が位を継ぎます。『二十史朔閏表』によると、この年は六月の後に「閏月(閏六月)」があったはずですが、『資治通鑑』は「閏月」を九月の後、十月の前に置いています(再述します)

 

[十四] 『資治通鑑』からです。

秋七月、東晋が吏部尚書・周閔を尚書左僕射に任命しました。

 

『晋書・第八・穆帝紀』では、周閔が尚書左僕射になった時、領軍将軍・王彪之が尚書右僕射になっていますが、『資治通鑑』は王彪之に触れていません。

『晋書・列伝第四十六(王彪之伝)』によると、王彪之は領軍将軍になってから尚書僕射(恐らく右僕射です)に遷されましたが、疾病のため拝命せず、太常に遷されて崇徳衛尉を兼任しました(領崇衛尉)

 

[十五] 『資治通鑑』からです。

ある人が会稽王・司馬昱にこう言いました「武陵王(司馬晞。東晋元帝・司馬睿の子)が第中(邸宅内)で大いに器仗(武器)を修めており、非常(謀反)を謀ろうとしています(将謀非常)。」

司馬昱はこれを太常・王彪之に告げました。

王彪之はこう言いました「武陵王の志は、全て畋猟(狩猟)で馳騁(駆けまわること)しようとしているだけです(尽於馳騁畋猟而已耳)。これ(讒言)を静めることで、異同の論(異なる言論。司馬晞に対する批難)を安んじることを深く願います。これ以上言及する必要はありません(深願静之,以安異同之論,勿復以為言)。」

司馬昱は王彪之の言葉を称賛しました(善之)

 

[十六] 『資治通鑑』からです。

前秦帝(秦主・苻生)が母の強氏を尊んで皇太后とし、妃の梁氏を皇后に立てました。梁氏は梁安の娘です。

嬖臣(寵臣)の太子門大夫・南安の人・趙韶(『資治通鑑』胡三省注によると、太子門大夫は二人いました。職責は郎将と同じです)を右僕射に、太子舍人・趙誨を中護軍に、著作郎・董榮を尚書に任命しました。

 

[十七] 『資治通鑑』からです。

涼王・張祚は淫虐無道だったため、上下の者が怨憤しました。

張祚は河州刺史・張瓘(『資治通鑑』胡三省注によると、河州は張駿が置きました。枹罕が治所です)の強盛を嫌ったため、張掖太守・索孚を派遣して張瓘の代わりに枹罕を守らせ、張瓘には叛胡を討たせました。同時に自分の将・易揣と張玲を派遣し、歩騎一万三千を率いて張瓘を襲わせます。

 

張掖の人・王鸞は術数(方術。卜占の術)を知っていたため、張祚にこう言いました「この軍が出たら、必ず帰ることはなく、涼国が危うくなります(此軍出,必不還,涼国将危)。」

王鸞はこれを機に張祚による三つの不道を合わせて陳述しました。

すると張祚は大いに怒って王鸞が訞言(妖言)を為しているとみなし、斬って見せしめにしました。

王鸞が刑に臨んでこう言いました「私が死んだら、軍が外で敗れて王が内で死ぬのは必至だ(我死,軍敗於外王死於内,必矣)。」

張祚は王鸞を族滅しました。

 

これらの情報を聞いた張瓘は索孚を斬り、兵を挙げて張祚を撃ちました。あわせて州郡に檄を伝え、張祚を廃して侯の身分で第(家)に還らせ、再び涼寧侯・張曜霊を立てるように呼びかけます。

 

易揣と張玲は軍が渡河したばかりでしたが、張瓘に撃破されたため、単騎で奔って還りました。

張瓘の軍がこれを追撃し、姑臧が振恐(震撼・恐惶)しました。

 

驍騎将軍・敦煌の人・宋混は、兄の宋脩と張祚の間に隙(間隙、対立)があったため、禍を懼れました。

八月、宋混が弟の宋澄と共に西に走り、一万余人の衆を集めて張瓘に応じてから、引き還して姑臧に向かいました。

 

張祚は楊秋胡を派遣して張曜霊を東苑に連れて行かせ、腰を切断して殺し(拉其腰而殺之)、沙阬(沙の穴)に埋めて、哀公という諡号を贈りました。

張曜霊は穆帝永和九年(353年)に十歳で位を継いだので、殺された時はまだ十二歳でした。

 

[十八] 『資治通鑑』からです。

前秦帝(秦主・苻生)が衛大将軍・苻黄眉を広平王に、前将軍・苻飛を新興王に封じました。どちらもかねてから前秦帝と親善な関係にあった者です。

また、大司馬・武都王・苻安を召して(『資治通鑑』胡三省注によると、景明帝(秦主・苻健)が苻安を督中外諸軍(事)に任命してから、苻安は蒲阪にいました)太尉を兼任させ(領太尉)、晋王・苻柳を征東大将軍・并州牧に任命して蒲阪を鎮守させました。

魏王・苻廋を鎮東大将軍・豫州牧に任命して陝城を鎮守させました。

 

中書監・胡文と中書令・王魚が前秦帝に言いました「最近、星孛(孛星。異星)が大角に現れ、熒惑が東井に入りました。大角は帝坐で、東井は秦分です(『資治通鑑』胡三省注が解説しています。大角は天王の坐を象徴し、東井(井宿)と輿鬼(鬼宿)は秦・雍二州の分野に当たりました)。占によるなら、三年を出ることなく国に大喪があり、大臣が戮死(殺戮されること)します。陛下が徳を修めることによって、これを禳う(祓う)ように願います(願陛下修徳以禳之)。」

前秦帝はこう言いました「皇后(梁氏)は朕と対になって天下に臨んでいるので、(皇后を殺せば)大喪(の兆)に応じることができる。毛太傅、梁車騎、梁僕射は遺命を受けて輔政しているので、(彼等を殺せば)大臣(の戮死の兆)に応じることができる。」

 

九月、前秦帝が梁后および毛貴、梁楞、梁安を殺しました。毛貴は皇后の舅(母の兄弟)です。

 

右僕射・趙韶と中護軍・趙誨はどちらも洛州刺史・趙俱の従弟で(趙俱は宜陽を鎮守しています。前年参照)、前秦帝に寵信されていました。

そこで前秦帝は趙俱を尚書令に任命しました。

しかし趙俱は病を理由に固辞し、趙韶と趙誨にこう言いました「汝等は祖宗を顧みなくなり、滅門の事(家門を滅ぼす事)を為そうと欲している。毛・梁は何の罪があって誅されたのだ。私は何の功があってそれに代わるのだ。汝等は自分の事をすればいい。私はもう死ぬだろう(汝等可自為,吾其死矣)。」

趙俱は憂死しました。

 

[十九] 『資治通鑑』からです。

前涼の宋混が武始の大沢に駐軍して張曜霊のために発哀(哀悼)しました。

『資治通鑑』胡三省注によると、張駿が狄道県を分けて武始郡を置きました。また、武威県東北に都野沢がありました。「都野」は『禹貢』の「豬野」で、その水は姑臧の武始沢から流れており、武始沢は姑臧の西にありました(この「武始沢」が、宋混が駐軍した「大沢」を指すようです)

 

閏月(『資治通鑑』は「閏月」を九月の後、十月の前に置いていますが、『二十史朔閏表』を見ると、この年の「閏月」は六月の後にあったはずです。ここは『資治通鑑』のままにしておきます)、宋混の軍が姑臧に至りました。

 

涼王・張祚が張瓘の弟・張琚とその子・張嵩を逮捕して殺そうとしましたが、張琚と張嵩はそれを聞いて、市で数百人を募り、こう揚言(宣言)しました「張祚は無道なので、我が兄の大軍が既に城東に至った。敢えて手を挙げる者(抵抗する者)は三族を誅す!」

張琚等は西門を開けて宋混の兵を迎え入れました。

 

領軍将軍・趙長等は罪を懼れたため、閣(恐らく皇宮を指します)に入り、張重華の母・馬氏を呼んで殿上に出させ、涼武侯・張玄靚を主に立てました。

しかし易揣等が兵を率いて入殿し、趙長等を捕えて殺しました。

 

張祚が剣に手を置いて殿上で大呼し、左右の者に叱咤して力戦させました。ところが、張祚はかねてから衆心を失っていたため、敢えて張祚のために闘おうとする者はなく、張祚は兵人に殺されました。

宋混等がその首を掲げて内外に宣示し、死体を道の左に曝しました(混等梟其首,宣示中外,暴尸道左)。城内の者が皆、万歳を唱えます。

張祚は庶人の礼を用いて埋葬され、二人の子も併せて殺されました。

 

宋混と張琚が張玄靚に大将軍・涼州牧・西平公の位を進上しました。

(張玄靚が位に即いてから)境内の囚人を赦免し(赦境内)、再び建興四十三年と称すことにしました(建興は西晋懐帝の年号です)

この時、張玄靚は七歳になったばかりでした。

 

張瓘が姑臧に至ると、張玄靚を涼王に推しました。張瓘自らも使持節・都督中外諸軍事・尚書令・涼州牧・張掖郡公になり、宋混を尚書僕射に任命しました。

 

隴西の人・李儼が郡を占拠し、張瓘の命を受け入れず、江東(東晋)の年号(永和)を用いました。衆人の多くが李儼に帰順します。

張瓘がその将・牛霸を派遣して李儼を討たせましたが、到着する前に、西平の人・衛綝も郡を占拠して叛しました。牛霸は兵が潰えたため、奔って還りました。

張瓘は弟の張琚を派遣して衛綝を撃たせ、これを敗りました。

 

酒泉太守・馬基も兵を起こして衛綝に応じましたが、張瓘が司馬・張姚と王国を派遣してこれを撃たせ、馬基を斬りました。

 

[二十] 『資治通鑑』からです。

冬十月、東晋が豫州刺史・謝尚を督并冀幽三州に任命して、寿春を鎮守させました。

 

『資治通鑑』胡三省注によると、東晋は北方から移住した民衆のために、江北に青・冀・并・幽の四州を置いていました(僑立青冀并幽四州)

東晋初期、祖逖が豫州刺史として譙城を治所にしましたが、元帝永昌元年(322年)に退いて寿春に駐屯しました。

成帝咸和四年(329年)、庾亮が豫州刺史として蕪湖を治所とし、咸康四年(338年)、毛寶が豫州刺史として邾城に治所を遷し、六年(340年)、庾翼が豫州刺史としてまた蕪湖を治所にしました。

穆帝永和元年(345年)、趙胤が豫州刺史として牛渚を治所にしましたが、二年(346年)、謝尚が豫州刺史として蕪湖に治所を戻し、今回、また寿春に進みました。これらの地は全て建康の西藩です。

東晋時代は、進出する時は豫州刺史が寿春に駐屯し、江を守る時は多くが歴陽か蕪湖の二カ所を治所にしました。

 

尚、『晋書・第八・穆帝紀』は「冬十月、豫州刺史・謝尚の位を督并冀幽三州諸軍事・鎮西将軍に進めて馬頭を鎮守させた」と書いています。『中国歴史地図集(第四冊)』を見ると、馬頭は寿春から少し離れた東北の地に位置しています。

『晋書・列伝第四十九(謝尚伝)』では、鎮西将軍になった時、寿陽(寿春)を鎮守しており、『資治通鑑』は「列伝」に従っています。

 

[二十一] 『資治通鑑』からです。

東晋の鎮北将軍・段龕(斉王)が前燕景昭帝(燕主・慕容儁)に書を送り、対等な中表の儀(親戚関の儀礼。原文「抗中表之表」)を使って慕容儁が帝を称したことを批判しました(『資治通鑑』胡三省注によると、慕容儁は段氏の出だったため(母が段氏だったため)、段龕は親戚間の儀礼を使いました)

 

十一月、怒った景昭帝が太原王・慕容恪を大都督・撫軍将軍に任命し、陽騖を副(副将)にして、段翕を撃たせました。

 

[二十二] 『資治通鑑』からです。

前秦が辛牢を守尚書令(尚書令代理)に、趙韶を左僕射に、尚書・董榮を右僕射に、中護軍・趙誨を司隸校尉に任命しました。

 

[二十三] 『資治通鑑』からです。

十二月、高句麗王・釗が使者を派遣して前燕を訪ねさせ、人質を納めて貢物を献上することで(納質脩貢)、母を返すように請いました(釗の母は東晋成帝咸康八年・342年に捕えられました)

 

前燕景昭帝(燕主・慕容儁)はこれに同意し、殿中将軍・刁翕を派遣して釗の母・周氏を国に送らせました。

また、釗を征東大将軍・營州刺史に任命して楽浪公に封じ、高句麗王はそのままとしました。

 

[二十四] 『晋書・第八・穆帝紀』からです。

慕容恪が衆を率いて広固を侵しました。

 

[二十五] 『資治通鑑』からです。

上党の人・馮鴦が前燕の太守・段剛を駆逐して安民城を占拠し、自ら太守を称して、使者を派遣して東晋に投降しました(『資治通鑑』胡三省注によると、前燕の上党太守は安民城を治所にしていました。安民城は襄垣県にありました。西晋永嘉年間(懐帝時代)に、劉琨が上党の民を安定させるため、張倚を派遣して城を築いたので、安民が城名になったようです)

 

尚、『晋書・第八・穆帝紀』は『資治通鑑』と少し異なり、「壬戌(二十五日)、上党の人・馮鴦が自ら太守を称して苻生(前秦)に背き、使者を派遣して(東晋に)来降した」と書いています。

 

[二十六] 『資治通鑑』からです。

前秦の丞相・雷弱児は性格が剛直でした。

当時は趙韶や董榮が政事を乱していたため、いつも朝廷でそのことに公然と言及し、彼等に会ったら常に切歯(憤懣・怨怒)していました。

そこで、趙韶と董榮が前秦帝(秦主・苻生)の前で雷弱児を讒言しました。

前秦帝は雷弱児とその九人の子および二十七人の孫を殺しました。

この後、諸羌が皆、離心(異心)を抱くようになります(『資治通鑑』胡三省注が解説しています。雷弱児は南安羌の酋だったため、諸羌が離心を抱くようになりました)

 

前秦帝は諒陰(喪中の部屋)にいましたが、平時と同じように遊飲しました。また、弓を引いたり刃を露わにして朝臣に会い(彎弓露刃以見朝臣)、錘・鉗・鋸・鑿といった人を害すことができる道具を準備して左右に置いていました。

即位して間もないのに、后妃・公卿以下、僕隸に至るまで、合わせて五百余人が殺され、截脛(足を切断すること)、拉脅(肋骨を折ること)、鋸項(鋸で首を斬ること)、刳胎(妊婦の腹を裂くこと)等の残虐な行為が次々に行われました(比比有之)

 

[二十七] 『資治通鑑』からです。

前燕景昭帝(燕主・慕容儁)は段龕が強盛になっていたため、太原王・慕容恪にこう言いました「もし、段龕が軍を派遣して河(黄河)で拒み、(我が軍が)渡れなくなったら、直接、呂護を取って還ればいい(呂護は当時、野王にいました。穆帝永和十年・354年参照)。」

 

慕容恪は軽軍を分けて派遣し、先に河上に至って舟楫(船舶)を準備させ、段龕の志趣(考え、出かた)を観察しました。

 

段龕の弟・段羆は驍勇で智謀がありました。

段羆が前燕軍の動きを見て段龕にこう言いました「慕容恪は用兵を善くし、加えて衆が盛んなので、もし渡河を許して城下まで進ませたら、恐らくたとえ投降を乞うても許可されないでしょう(若聴其済河,進至城下,恐雖乞降,不可得也)。兄は(城を)固守し、羆(私)が精鋭を率いて河でこれを拒むことを請います。幸いにも(私が)戦って勝てたら、兄は大衆(大軍)を率いて続いてください。必ず大功を立てることができます。もし(私が)勝てなかったら、早く降るべきです。そうすれば、少なくとも千戸侯の地位は失わずにすむはずです(請兄固守,羆帥精鋭拒之於河,幸而戦捷,兄帥大衆継之,必有大功。若其不捷,不若早降,猶不失為千戸侯也)。」

段龕はこの意見に従いませんでした。

しかし、段羆が頑なに請願して止まないため、段龕は怒って段羆を殺してしまいました。

 

 

次回に続きます。

東晋時代74 東晋穆帝(二十一) 前秦と前涼 356年(1)

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