東晋時代74 東晋穆帝(二十一) 前秦と前涼 356年(1)

今回は東晋穆帝永和十二年です。二回に分けます。

 

東晋穆帝永和十二年

前涼沖王太始二年 建興四十四年

前燕景昭帝元璽五年/前秦帝(苻生)寿光二年

丙辰 356年

 

[一] 『晋書・第八・穆帝紀』からです。

春正月丁卯朔、東晋穆帝が臨朝しました(朝会または朝賀に臨みました)

皇太后の母の喪中だったため、楽器を懸けても演奏しませんでした(懸而不楽)

 

[二] 『資治通鑑』からです。

慕容恪が兵を率いて黄河を渡りました。

広固から百余里も離れていない場所で(未至広固百余里)、段龕が三万の衆を率いて逆戦(迎撃)しました。

 

丙申(三十日)、慕容恪が淄水(『資治通鑑』胡三省注によると、濁水が広固城西を通り、東に流れて広饒に至り、巨淀(湖の名)に入ってからまた北に向かって淄水に合流しました)で段龕を大破し、段龕の弟・段欽を捕えて、右長史・袁範等を斬りました。

斉の王友・辟閭蔚(「辟閭蔚」は「辟閭」が氏です。「王友」は官名です。『資治通鑑』胡三省注によると、段龕は斉王を自称してから王友の官を置いていました)が傷を負いました。

慕容恪は辟閭蔚の賢才を聞いていたため、人を派遣して求めましたが、既に死んでいました。

段龕の士卒で投降した者は数千人に上りました。

 

段龕は脱出・逃走し、城に還って固守しました。

慕容恪が進軍してこれを包囲します。

 

『晋書・第八・穆帝紀』は『資治通鑑』の記述と大きく異なり、こう書いています「鎮北将軍・段龕が慕容恪と広固で戦い、大いにこれを敗った。慕容恪は退いて安平を拠点にした(鎮北将軍段龕及慕容恪戦于広固,大敗之,恪退拠安平)。」

 

[三] 『資治通鑑』からです。

前秦の司空・王墮は性格が剛峻(剛直厳格)でした。

右僕射・董榮と侍中・強国がどちらも佞幸(媚び諂って得た寵愛)によって位を進めたため、王墮は仇讎のように彼等を憎んでおり(疾之如讎)、朝会で董榮に会っても、常に言葉を交わしたことがありませんでした。

ある人が王墮に言いました「董君は貴幸(顕貴)を比べられる者がいません(貴幸無比)。公は少し意を抑えて彼と接するべきです(公宜小降意接之)。」

王墮はこう応えました「董龍(『資治通鑑』胡三省注によると、龍は董榮の小字です)とはどのような鶏狗であって(何の資格があって)国士に言葉を交わさせようとするのか(董龍是何雞狗而令国士与之言乎)。」

 

この頃、ちょうど天変があったため、董榮と強国が前秦帝(秦主・苻生)にこう言いました「今、天譴が甚だしく重いので、貴臣によってこれに応じるべきです。」

前秦帝が言いました「貴臣には大司馬と司空がいるだけだ。」

董榮が言いました「大司馬は国の懿親(関係が近い親族)なので、殺すことはできません(『資治通鑑』胡三省注が解説しています。大司馬は武都王・苻安で、苻生の叔父に当たります)。」

こうして王墮が殺されることになりました。

 

刑が行われる時、董榮が王墮に言いました「今日に至ってもまだ董龍を鶏狗に比すことができるか(今日復敢比董龍於鶏狗乎)?」

王墮は目を見開いて董榮を叱咤しました(瞋目叱之)

 

洛州刺史・杜郁は王墮の甥で、左僕射・趙韶に憎まれていました。

趙韶が前秦帝の前で杜郁を讒言し、晋に対して二心を抱いていると告げたため、杜郁も殺されました。

 

壬戌(『二十史朔閏表』によると、この年正月は「丁卯」が朔なので、「壬戌」はありません)、前秦帝が太極殿で群臣と宴を開き、尚書令・辛牢を酒監(酒宴の監督、責任者)にしました。

酒がまわってから(酒酣)、前秦帝が怒って言いました「なぜ人に酒を強要せず、まだ坐っている者がいるのだ(なぜ酔いつぶれていない者がいるのだ。原文「何不強人酒而猶有坐者」)!」

前秦帝は弓を引いて辛牢を射ち、殺してしまいました。

懼れた群臣は、酔わないようにしようとする者がいなくなり、倒れて冠を落とすほどでした(莫敢不酔,偃仆失冠)

前秦帝はその様子を見てやっと悦びました。

 

[四] 『資治通鑑』からです。

匈奴大人・劉務桓が死に、弟の劉閼頭が立ちました。

劉閼頭は代(拓跋氏)から離反しようとしました(劉務桓は代と婚姻関係にありました。東晋成帝咸康七年341年参照)

 

二月、代王・拓跋什翼犍が兵を率いて西巡し、河に臨みました。

劉閼頭は懼れて投降を請いました。

 

[五] 『晋書・第八・穆帝紀』からです。

辛丑(初五日)、東晋穆帝が『孝経』を講じました(講習しました)

 

[六] 『資治通鑑』からです。

前燕の太原王・慕容恪が段龕の諸城を招撫しました。

『資治通鑑』胡三省注が解説しています。慕容恪は広固を包囲しましたが、攻略できなかったため、先に段龕統治下の諸城を招撫しました。

 

己丑(『二十史朔閏表』によると、この年の二月は「丁酉」が朔なので、「己丑」はありません)、段龕が任命した徐州刺史・陽都公・王騰が衆を挙げて慕容恪に投降しました。

慕容恪は王騰に命を下し、故職(旧職。徐州刺史)のまま還って陽都に駐屯させました(『資治通鑑』胡三省注によると、段龕が琅邪陽都県に徐州を置きました)

 

[七] 『資治通鑑』からです。

前秦の征東大将軍・晋王・苻柳が参軍・閻負と梁殊を使者にして前涼に派遣し、書を届けて涼王・張玄靚に(帰順するように)説きました。

閻負と梁殊が姑臧に至ると、張瓘が二人に会って言いました「私は晋の臣下である。臣下には境外の交わりはないないものだ(国外の者とは交わらないものだ)。二君はなぜ辱めを受けに来たのだ(我,晋臣也。臣無境外之交,二君何以来辱)。」

二人が言いました「晋王(苻柳)と君は藩(封地、領土。ここでは前涼の地を指します)が隣り合っており、山河で阻絶(隔絶)されているとはいえ、風俗が共通していて道が交わっているので、修好に来たのです。君は何を怪しむのですか(晋王与君隣藩,雖山河阻絶,風通道会,故来修好,君何怪焉)。」

張瓘が言いました「我々は忠を尽くして晋に仕えて今で六世になる(原文「吾尽忠事晋,於今六世矣」。『資治通鑑』胡三省注が解説しています。前涼は張軌から始まって張寔、張茂、張駿、張重華、張曜霊と張祚で七世になります。ここで六世としているのは、張祚を一世とみなしていないからです)。もし苻征東(苻柳)と使(使者)を通じさせたら、上は先君の志に違えることになり、下は士民の節を挫くことになる。どうしてそのようなことができるか(若与苻征東通使,是上違先君之志,下隳士民之節,其可乎)。」

二人が言いました「晋室は衰微し、天命が墜失(失墜)して、もとより既に久しくなります。よって、涼の二王が北面して二趙に仕えたのは、時機を知っていたのです(原文「是以涼之二王北面二趙,唯知機也」。『資治通鑑』胡三省注が解説しています。張茂は前趙に対して藩を称し、張駿は後趙に対して藩を称しました)。今、大秦の威徳はまさに盛んなので、涼王がもし河右(河西)で自ら帝になろうと欲するのなら、秦の敵ではありません(涼王若欲自帝河右,則非秦之敵)。もし小によって大に仕えたいと欲するのなら、なぜ晋を捨てて秦に仕え、長く福禄を保とうとしないのですか(欲以小事大,則曷若捨晋事秦,長保福禄乎)。」

張瓘が言いました「中州(中原)は食言(約束を破ること)を好む。以前、石氏の使車が還ったばかりの時、戎騎が既に至っていた。だから我々は信用できないのだ(「石氏の使者の車(石氏使車)」は「前涼が後趙に送った使者の車」を意味するようです。『資治通鑑』胡三省注によると、穆帝永和二年・346年、張重華が即位したばかりの時、石虎に使者を送りましたが、石虎は王擢を派遣して侵犯させました。原文「嚮者石氏使車適返,而戎騎已至,吾不敢信也」)。」

二人が言いました「古から、帝王として中州に居る者は、政化がそれぞれ異なります(政化各殊)。趙は姦詐を為しましたが、秦は信義を敦くしています。どうして一概に扱うことができるでしょう(豈得一概待之乎)(例えば)張先と楊初はどちらも兵に恃んで服さなかったため、先帝がこれを討って擒にしましたが(原文「張先楊初皆阻兵不服,先帝討而擒之」。張先は穆帝永和六年・350年に捕えられましたが、楊初は穆帝永和十一年・355年に梁式王に殺されており、前秦には捕えられていません)(先帝は)彼等の罪戻(罪悪)を赦し、爵秩を与えて寵遇しました。よって、もとより石氏の比ではありません(赦其罪戻,寵以爵秩,固非石氏之比也)。」

張瓘が言いました「間違いなく君の言う通りであり、秦の威徳に敵がいないのなら、なぜ先に江南を取らないのだ。そうすれば、天下は全て秦が有すことになる。征東はなぜ辱命するのだ(なぜ我々に命を下すのだ。なぜ投降を勧めるのだ。原文「必如君言,秦之威徳無敵,何不先取江南,則天下尽為秦有,征東何辱命焉」)。」

二人が言いました「江南には文身の俗(刺青の風習。江南には教化が行き届いていないことを意味します)があり、道義が廃れたら先に叛すのに、教化が盛んになっても後から服します(道汚先叛,化隆後服)。主上は、江南は必ず兵によって服従させなければならないが、河右は義によって懐柔できると考えています。だから、行人(使者)を派遣して、まずは大好を表明したのです。もし、君が天命に達しないようなら、江南は数年の命を延ばすことができますが、河右は恐らく君の土地ではなくなるでしょう(主上以為江南必須兵服,河右可以義懐,故遣行人先申大好。若君不達天命,則江南得延数年之命,而河右恐非君之土也)。」

張瓘が言いました「我々は三州に跨って割拠し(『資治通鑑』胡三省注によると、三州は涼・河・沙州を指します。張茂と張駿が置いた州です)、帯甲は十万を数え、西は葱嶺を包み、東は大河に至っている(我跨拠三州帯甲十万,西苞葱嶺東距大河)。人を伐つのにも余裕があるのだから、自分を守るのならなおさらだ。なぜ秦を畏れる必要があるのだ(伐人有余,況於自守,何畏於秦)。」

二人が言いました「貴州における山河の固(固い守り)は、殽・函(殽山と函谷関の併称)と比べてどうですか(孰若殽函)。民物の饒(豊かさ)は、秦・雍と比べてどうですか(孰若秦雍)。杜洪と張琚は趙氏の成資(後趙が築いた資本)を利用し、兵が強く財も富かで、関中を囊括(包括、占領)して四海を席巻しようという志を持っていましたが、先帝の戎旗(軍旗)が西を目指すと、冰が消えて雲が散るように、旬月(十日から一月)の間で気づく間もなく主を換えました(原文「先帝戎旗西指,冰消雲散,旬月之間,不覚易主」。穆帝永和六年・350年参照)。主上がもし貴州は服さないとみなしたら、赫然(怒りの様子)と奮怒し、控弦(戦士)百万が鼓行(戦鼓を敲いて前進すること)して西に向かいます。貴州がどのようにしてこれに対処するのかが分かりません(未知貴州将何以待之)。」

張瓘が笑って言いました「この事は王によって決定されるべきだ。この身が決定することではない(茲事当決之於王,非身所了)。」

二人が言いました「涼王は英睿かつ夙成(早成)とはいえ、年がまだ幼沖(幼少)にあります(当時、張玄靚はまだ八歳です)。君は伊・霍(伊尹と霍光)の任にいるので、国家の安危は君の一挙に繋がっているのです。」

懼れを抱いた張瓘は、張玄靚の命として使者を派遣し、前秦に対して藩を称しました。

前秦はこれを機に、張玄靚が自ら称していた官爵を正式に授けました。

 

[八] 『資治通鑑』からです。

東晋の将軍・劉度が盧氏(『資治通鑑』胡三省注によると、盧氏県は、漢代は弘農郡に属し、晋代は上洛郡に属しました。唐代は虢州に属します)で前秦の青州刺史・王朗を攻めました。

 

前燕の将軍・慕輿長卿も軹関に入り、裴氏堡(西晋の永嘉の乱の際、裴氏が宗族を挙げて険阻な地を占拠し、堡塁を築いて自衛しました。後の人がそれを利用して屯戍(守備)を置いたため、堡塁に裴氏の名が使われました。河東界内にあったようです)で前秦の幽州刺史・強哲を攻撃しました。

 

前秦帝(秦主・苻生)は前将軍・新興王・苻飛を派遣して劉度を拒ませ、建節将軍・鄧羌を派遣して慕輿長卿を拒ませました。

 

苻飛が到着する前に、劉度は撤退しました。

鄧羌は慕輿長卿と戦って大破し、慕輿長卿を捕えて甲首(兵の首)二千余級を獲ました。

 

[九] 『資治通鑑』からです。

東晋の桓温が都を洛陽に遷して園陵を修復するように請い、上奏文を十余回も提出しました(章十余上)

しかし朝廷は同意せず、桓温を征討大都督・督司冀二州諸軍事に任命して、姚襄を討たせました。

 

『晋書・第八・穆帝紀』は三月に「姚襄が許昌に入った。(東晋が)太尉・桓温を征討大都督にしてこれを討たせた」と書いていますが、『資治通鑑』では前年に姚襄が許昌を占拠しています。

 

[十] 『資治通鑑』からです。

三月、前秦帝(秦主・苻生)が三輔の民を動員して渭橋を修建させました。

金紫光禄大夫・程肱が諫めて、農業の妨げになると主張しましたが、前秦帝に殺されました。

 

[十一] 『資治通鑑』からです。

夏四月、長安で大風が吹き、家の屋根が飛んで木が倒されました(発屋抜木)

前秦の宮中が驚擾(驚乱)し、ある者が「賊が至った」と称したため、昼でも宮門が閉ざされて、五日後にやっと正常に戻りました(宮門昼閉,五日乃止)

前秦帝(秦主・苻生)は賊が至ったと告げた者を追究し、心臓をえぐり出しました(推告賊者,刳出其心)

左光禄大夫・強平が諫めて言いました「天が災異を降したら、陛下は民を愛して神に仕え、刑を緩めて徳を崇めることで、それに応じるべきです。そうすれば(天災を)止めることができます(天降災異,陛下当愛民事神,緩刑崇徳以応之,乃可弭也)。」

前秦帝は怒って強平の頭頂を穿ち、殺してしまいました(鑿其頂而殺之)

 

強平は太后の弟だったため、衛将軍・広平王・苻黄眉、前将軍・新興王・苻飛、建節将軍・鄧羌が叩頭して強く諫めましたが、前秦帝はそれを聴かず、苻黄眉を左馮翊に任命し、苻飛を右扶風に任命し、鄧羌を行咸陽太守(咸陽太守代行。『資治通鑑』胡三省注によると、西漢が秦の咸陽を扶風渭城県にしましたが、東漢と晋は渭城県を省きました。永嘉の乱の後、(中原を占拠した)群胡が咸陽郡を置いたようです。咸陽郡の治所は石安県で、石勒が漢代の渭城を石安に改名しました)に任命して、三人を朝廷から出しました。

前秦帝は彼等の驍勇を惜しんだため、殺しはしませんでした。

 

五月、太后・強氏が憂恨によって死にました。諡号は明徳といいます。

 

[十二] 『資治通鑑』からです。

姚襄が許昌を出て洛陽の周成を攻撃しました(周成は穆帝永和十年・354年に洛陽を占拠しました)

 

 

次回に続きます。

東晋時代75 東晋穆帝(二十二) 桓温の進撃 356年(2)

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