東晋時代75 東晋穆帝(二十二) 桓温の進撃 356年(2)

今回で東晋穆帝永和十二年が終わります。

 

[十三] 『資治通鑑』からです。

六月、前秦帝(秦主・苻生)が詔を下しました「朕は皇天の命を受けて、万邦(万国)に君臨した。皇統を継いで以来、何の不善があっただろう(過失は何もない。原文「嗣統以来,有何不善」)。それなのに謗讟の音(誹謗の声)が天下を覆い満たしており(而謗讟之音,扇満天下)(朕が)殺した者は千人を超えないのに、これを残虐と言っている(殺不過千而謂之残虐)。道を行く者が肩を並べているので、まだ(人口が)少ないとみなすには足りない(行者比肩,未足為希)(よって)これからは正に刑を厳しくして罰を極めるべきである。(もしそうしたとしても)朕をどうすることができるか(刑罰を更に厳しくしても、朕に咎はないはずだ。原文「方当峻刑極罰,復如朕何」)。」

 

前年の春以来、潼関の西から長安に至る地域で、虎狼が暴を為し、昼は相継いで道に現れ、夜は家屋を破壊して、六畜を食べずに人ばかり食べていました(昼則継道,夜則発屋,不食六畜,専務食人)。虎狼に殺された者は合わせて七百余人に上ります。

そのため、民は耕桑(農業)を廃し、集まって邑居(邑を造って生活すること)しましたが、それでも害は止みませんでした。

 

秋七月、前秦の群臣が上奏して禳災(災害を除くためのお祓い)をするように請いましたが、前秦帝はこう言いました「野獣とは、飢えれば人を食い、満たされたら自ら止めるものだ。禳(お祓い)に何の意味があるのだ(野獣飢則食人,飽当自止,何禳之有)。そもそも、天は民を愛していないというのか(且天豈不愛民哉)。正に罪を犯す者が多いので、朕を助けてそれを殺しているのだ(正以犯罪者多,故助朕殺之耳)。」

 

[十四] 『資治通鑑』からです。

丙子(十二日)、前燕の献懐太子・慕容曄が死にました。

 

[十五] 『晋書・第八・穆帝紀』と『資治通鑑』からです。

姚襄が洛陽を攻めましたが、月を経ても攻略できませんでした。

長史・王亮が諫めて「明公は英名が世を覆い、兵が強くて民も附いていますが、今、堅城の下に兵を留めさせ、力が屈して威勢が挫かれているので、あるいは他寇(他の敵)に乗じられるかもしれません。これは危亡の道です(明公英名蓋世,兵強民附,今頓兵堅城之下,力屈威挫,或為他寇所乗,此危亡之道也)」と言いましたが、姚襄は従いませんでした。

 

東晋の桓温が江陵から北伐を開始しました。督護・高武を派遣して魯陽を占拠させ、輔国将軍・戴施を派遣して河上に駐屯させ、桓温自ら大兵(大軍)を率いて後に続きます。

桓温が寮属(属僚)と共に平乗楼(『資治通鑑』胡三省注によると、平乗楼は大船の楼です)に登って中原を眺め、嘆息してこう言いました「神州を沈没させて百年の丘墟としてしまった。王夷甫等の諸人がその責を負わなければならない(夷甫は西晋の王衍の字です。西晋時代、王衍等が清談を重んじて政治を疎かにしたため、中原を失うことになりました。原文「遂使神州陸沈,百年丘墟,王夷甫諸人不得不任其責」)。」

記室・陳郡の人・袁宏(『資治通鑑』胡三省注によると、晋の諸公・諸従公の府には記室がおり、表疏(上奏文)、牋記(上官に提出する文書)、書檄を管理しました)が言いました「運には興廃があります。どうして諸人の過失が原因に違いないといえるのでしょう(運有興廃,豈必諸人之過)。」

桓温が顔色を変えて言いました(作色曰)「昔、劉景升(東漢末、荊州に割拠した劉表)には千斤の大牛がおり、通常の牛の十倍に値する芻豆(飼料)を食べたが、重い荷物を背負って遠くに至らせたら、一頭の羸牸(弱った牝牛)にも及ばなかったので、魏武(曹操)が荊州に入ると、軍をもてなすために殺してしまった(劉表が飼っていた大牛は袁宏の比喩です。袁宏は俸禄だけ貪って役に立たない、という風刺の意図が込められています。原文「昔劉景升有千斤大牛,噉芻豆十倍於常牛,負重致遠,曾不若一羸牸,魏武入荊州,殺以享軍」)。」

 

八月己亥(初六日)、桓温が伊水(『資治通鑑』胡三省注によると、伊水は洛陽の城南にありました)に至りました。

姚襄は洛陽の包囲を解いて桓温を拒むことにしました。精鋭を伊水北の林中に隠してから、使者を派遣して桓温にこう伝えます「(あなたが)自ら王師を率いて来られたので、襄(私)は、今この身を奉じて命に帰します。三軍に小卻(小退。兵を少しさげること)を命じるように願います。(そうしていただければ)道左で拝伏いたします(承親帥王師以来,襄今奉身帰命,願敕三軍小卻,当拝伏道左)。」

桓温が言いました「私は中原を開復(恢復)してから、山陵を展敬(祭拝)してきただけであり、君の事とは関係がない(我自開復中原,展敬山陵,無豫君事)。来たいと欲するなら前に来ればいい。すぐ会える距離に居るので、使人(使者)を煩わせる必要はない(欲来者便前,相見在近,無煩使人)。」

 

姚襄は伊水で桓温に抵抗して戦いました。桓温が陣を構えて前進し、自ら甲冑を身に着けて督戦します(親被甲督戦)。その結果、姚襄の衆が大敗して死者が数千人に上りました。

姚襄は麾下数千騎を率いて洛陽の北山(『資治通鑑』胡三省注によると、北芒山です)に奔りました。

その夜、妻子を棄てて姚襄に従った民が五千余人いました。

姚襄は勇猛なうえに人を愛したため(勇而愛人)、たとえしばしば敗戦しても、民は姚襄の所在地を知ると、すぐに老幼の者を抱きかかえ、奔走疾駆して赴きました(輒扶老携幼,奔馳而赴之)

 

桓温の軍中では、「姚襄は負傷して既に死んだ」という噂が流れました(伝言襄病創已死)桓温に捕まった許・洛の士女で、北を望んで泣かない者はいませんでした(無不北望而泣)

 

姚襄は西に走りました。

桓温が追撃しましたが、追いつけませんでした。

 

弘農の人・楊亮が姚襄の下から桓温に奔りました。

桓温が姚襄の為人について問うと、楊亮はこう言いました「姚襄の神明器宇(精神・明智と気宇・度量)は孫策の儔(類)であり、雄武はそれを越えています(神明器宇孫策之儔,而雄武過之)。」

 

周成が衆を率いて洛陽の城を出て、桓温に降りました。

桓温は旧太極殿前に駐屯しましたが、暫くして駐屯地を金墉城に遷しました。

 

己丑(『二十史朔閏表』によると、この年八月の朔は「甲午」なので、「己丑」はありません)、桓温が諸陵を拝謁し、毀懐した場所を修復して、それぞれに陵令を置きました(『資治通鑑』胡三省注によると、漢が陵邑を築いてから、それぞれの邑に令を置きました。これが元となり、諸陵に「陵令」が置かれるようになりました。陵令は太常に属します)

 

桓温が上表して、鎮西将軍・謝尚を都督司州諸軍事に任命し、洛陽を鎮守させました。

但し、謝尚がまだ到着していないので、揚武将軍・潁川太守・毛穆之、督護・陳午、輔国将軍・河南太守・戴施を留め、二千人で洛陽を守備して山陵を護衛させました。

桓温は降民(『資治通鑑』では「降民」、『晋書・穆帝紀』では「(姚襄の)余衆」です)三千余家を江・漢の間に遷し、周成を捕えて帰りました。

 

姚襄は平陽に奔りました。

前秦の并州刺史・尹赤がまた衆を率いて姚襄に降ったため(尹赤は穆帝永和八年・352年に前秦に降りました)、姚襄は襄陵を占拠しました(『資治通鑑』胡三省注によると、襄陵県は、漢代は河東郡に属し、晋代は平陽郡に属しました。後魏(北魏)が襄陵を禽昌県に改めますが、隋・唐がまた襄陵に戻します)

 

前秦の大将軍・張平(張平は穆帝永和七年・351年に後趙から前秦に降って大将軍・冀州牧になりましたが、その翌年、前燕に降って并州刺史になりました。『資治通鑑』は前秦の官号を使っています)が姚襄を撃ち、姚襄が敗れました。

そこで、姚襄は張平と盟約して兄弟の契りを結び、それぞれ兵を収めました(襄為平所敗,乃与平約為兄弟,各罷兵)

 

[十六] 『資治通鑑』からです。

段龕が属(官属、部下)の段薀(『資治通鑑』胡三省注によると、『資治通鑑』の版本によっては「段薀」を「段蘊」としています)を派遣して東晋に救援を求めました。

 

東晋は徐州刺史・荀羨に詔を発し、段龕を救うために、兵を率いて段薀に従わせました。

ところが、荀羨は琅邪(『資治通鑑』胡三省注によると、東晋が置いた琅邪ではなく、古琅邪です)に至りましたが、燕兵の強盛を恐れて進もうとしなくなりました。

 

『晋書・第八・穆帝紀』は冬十月に「慕容恪が広固で段龕を攻めた。(東晋が)これを救うために、北中郎将・荀羨に師を率いて琅邪に駐軍させた」と書いています。

 

『資治通鑑』に戻ります。

この時、王騰が鄄城を侵しました(『資治通鑑』胡三省注によると、鄄城県は、漢代は東郡に属し、晋代は濮陽に属しました。但し、この鄄城は古くからの鄄城県ではなく、僑県(東晋が北方からの移民のために置いた県)のようです。王騰は段龕に仕えて徐州刺史に任命され、陽都に駐屯していましたが、本年二月に前燕に降り、今回、前燕のために東晋を侵しました)

荀羨は兵を進めて陽都を攻めました。

ちょうど霖雨(長雨)に遭い、城壁が崩れたため、王騰は捕まって斬られました。

 

[十七] 『晋書・第八・穆帝紀』と『資治通鑑』からです。

冬十月癸巳朔、日食がありました。

 

[十八] 『資治通鑑』からです。

前秦帝(秦主・苻生)が夜の間に棗をたくさん食べて、翌朝、体調をこわしました(夜食棗多,旦而有疾)

前秦帝が太医令・程延を召して診察させると(原文「使診之」。『資治通鑑』胡三省注は「診」を「候脈(脈を診ること)」と解説しています)、程延はこう言いました「陛下には他の病はありません。棗を食べ過ぎただけです(陛下無他疾,食棗多耳)。」

前秦帝は怒って「汝は聖人ではない。なぜ私が棗を食べたことを知っているのだ(汝非聖人,安知吾食棗)」と言い、程延を斬りました。

 

[十九] 『資治通鑑』からです。

前燕の大司馬・慕容恪が広固で段龕を包囲しており、諸将が慕容恪に対して急攻するようを請いました。

しかし、慕容恪はこう言いました「用兵の勢とは、緩めるべき時と急ぐべき時があり、それを察しないわけにはいかない(用兵之勢,有宜緩者,有宜急者,不可不察)。もし彼我の形勢が匹敵していて、外に(敵の)強い援軍がいるようなら、腹背の患いが有ることを恐れるので、これを攻めるには、急がなければならない(若彼我勢敵外有強援,恐有腹背之患,則攻之不可不急)(しかし)もし我々が強くて相手は弱く、外に(敵の)援軍もなく、力で制すに足りるようなら、羈縻(制御、牽制)してこれを包囲し、倒れるのを待つべきである(若我強彼弱,無援於外,力足制之者,当羈縻守之,以待其斃)。兵法に『十囲五攻(兵力が敵の十倍なら包囲し、五倍なら攻撃する)』とあるのは、正にこれを言っているのである。段龕の兵はなお多く(尚衆)、まだ離心していない。済南の戦い(『資治通鑑』胡三省注によると、淄水の戦いを指します)は、(段龕の)勢いが衰えたのではない(非不鋭也)。ただ段龕が兵を用いながら術(正しい戦術)がなかったので、敗戦を招いただけのことだ(但龕用之無術以取敗耳)。今は険阻な地に頼って城の守りを堅め、上下が力を合わせている(今憑阻堅城,上下戮力)。我々が精鋭を尽くしてこれを攻めれば、計るに数日で抜くことができるが、我が士卒で殺される者も必ず多くなるだろう(我尽鋭攻之,計数日可抜,然殺吾士卒必多矣)。中原で事(大事、戦争)があってから、兵には暫時の休息もないので、私はいつもこれを念じており、夜になっても眠るのを忘れるほどだ(自有事中原,兵不蹔息,吾每念之,夜而忘寐)。どうして軽率にその死(命)を用いることができるか(柰何軽用其死乎)。重要なのはこれを取ることであり、功(成功、功業)の速度を求める必要はない(要在取之,不必求功之速也)。」

諸将は皆、「(我々が)及ぶところではありません(非所及也)」と言い、軍中の人々もこれを聞いて、皆、感悦しました。

こうして、壁を高く堀を深くして包囲することになりました(於是為高牆深塹以守之)斉人が争って食糧を運んで前燕軍に提供します。

 

段龕は城に籠って守りを堅めましたが、樵采の路(柴を刈りに行く道)も絶たれて、城中は人が互いに食すほどの飢餓に陥りました(城中人相食)

そこで段龕は、全ての衆を率いて出戦しました。しかし慕容恪がこれを囲裏(包囲網の中)で破ります。

慕容恪はこれ以前に騎兵を分けて諸城門に駐屯させていました。敗れた段龕は自らそれを突破してなんとか城内に入ることができましたが(身自衝盪,僅而得入)、他の兵は全て没しました。

この後、城中では士気が喪失し、固志(固い意志、戦意)がなくなりました。

 

十一月丙子(十四日)、段龕が面縛(手を後ろに縛ること。投降の姿です)して城を出て、投降しました。

段龕と併せて朱禿(穆帝永和十年・354年に慕容鉤を殺して段龕に奔りました)も捕えられ、薊に送られます。

 

慕容恪は新たに帰順した民を撫安し、斉の地を全て平定してから、鮮卑・胡・羯の三千余戸を薊に遷しました。

 

前燕景昭帝(燕主・慕容儁)は朱禿に対して五刑を具えました(五刑を用いて殺しました。「五刑」は墨(刺青)・劓(鼻を削ぐ刑)・剕(足を切断する刑)・宫(去勢)・大辟(死刑)です)

段龕は伏順将軍に任命されました。

 

慕容恪は慕容塵を留めて広固を鎮守させ、尚書左丞・鞠殷を東莱太守に、章武太守・鮮于亮を斉郡太守に任命してから、帰還しました。

鞠殷は鞠彭(東莱から慕容廆に帰順しました。東晋元帝大興二年・319年参照)の子で、鞠彭は当時、前燕の大長秋でした。

この時、鞠彭が書を送って鞠殷を戒めました「王彌や曹嶷には必ず子孫がいる。汝は善く招撫するべきであり、旧怨を追究して乱源を増長させてはならない(汝善招撫,勿尋旧怨、以長乱源)。」

そこで鞠殷は王彌や曹嶷の子孫を探し求め、王彌の従子(一世代下の親族)・王立と曹嶷の孫・曹巖を山中で得ました。鞠殷は二人を招いて会見し、深く意分(情誼、交情)を結びます。

鞠彭も使者を派遣して彼等に車馬や衣服を贈りました。

そのため、郡民が大いに和しました。

 

荀羨(東晋の徐州刺史)は段龕が既に敗れたと聞いて、退いて下邳に還りました。将軍・諸葛攸と高平太守・劉荘を留めて、三千人を指揮して琅邪を守らせ、参軍・譙国の人・戴𨔵等に二千人を率いて泰山を守らせます。

 

前燕の将・慕容蘭が汴城(『資治通鑑』胡三省注によると、汴城は浚儀城(現在の開封)です。但し、胡三省注が「汴は卞が正しいはずだ」と指摘しており、その場合は魯国の卞県城になります)に駐屯しましたが、荀羨がこれを撃って斬りました。

 

[二十] 『晋書・第八・穆帝紀』と『資治通鑑』からです。

東晋が詔によって兼司空・散騎常侍・車灌、龍驤将軍・袁真等を派遣し、符節を持って(持節)洛陽に入らせ、五陵(司馬懿、司馬師、司馬昭と西晋武帝、恵帝の陵墓)を修築させました。

 

十二月庚戌(十九日)、五陵で事があったので(「五陵を修築したので」または、「五陵で祭祀を行ったので」。原文「以有事于五陵」)、太廟にそれを報告し、穆帝と群臣が皆、緦(麻布の服。喪服)を着て、太極殿で三日間、臨(哀哭・追悼)しました。

 

[二十一] 『資治通鑑』からです。

東晋の司州都督・謝尚が洛陽の鎮守を命じられていましたが、病のため行けなくなったため、丹陽尹・王胡之に代わらせました。

王胡之は王廙(王敦の従弟。西晋愍帝建興三年・315年参照)の子です。

『晋書・列伝第四十六(王廙伝)』によると、朝廷は河洛を安撫するために王胡之を西中郎将・司州刺史・假節に任命しましたが、王胡之は病を理由に固辞し、任に就く前に死にました(未行而卒)

 

[二十二] 『晋書・第八・穆帝紀』と『資治通鑑』からです。

この年、仇池公・楊国の従父・楊俊が楊国を殺して自ら立ちました。

 

(東晋朝廷は)楊俊を仇池公にしました(「楊俊を仇池公にした」というのは『資治通鑑』の記述で、原文は「以俊為仇池公」です(主語はありません)。『晋書・穆帝紀』には、この一文はありません)

 

楊国の子・楊安が前秦に奔りました。

 

 

次回に続きます。

東晋時代76 東晋穆帝(二十三) 姚襄の死 357年(1)

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