東晋時代76 東晋穆帝(二十三) 姚襄の死 357年(1)

今回は東晋穆帝升平元年です。二回に分けます。

 

東晋穆帝升平元年

前涼沖王建興四十五年/前燕景昭帝元璽六年 光寿元年

前秦帝(苻生)寿光三年 天王永興元年

丁巳 357年

 

[一] 『晋書・第八・穆帝紀』と『資治通鑑』からです。

春正月壬戌朔、東晋穆帝が元服し、太廟に報告しました。

穆帝は東晋康帝建元二年(344年)に二歳で即位したので、この時は十五歳です。

 

皇太后(褚氏)が詔を発して政事を奉還し、穆帝が始めて自ら万機に臨みました。

大赦して升平元年に改元し、文武百官の位を一等増やしました。

 

皇太后は崇徳宮に遷って生活することになりました。

 

[二] 『晋書・第八・穆帝紀』からです。

丁丑(十六日)、一つの隕石が槐里に墜ちました(隕石于槐里一)

 

[三] 『晋書・第八・穆帝紀』は「この月、鎮北将軍・斉公・段龕が慕容恪に陥落され、害に遇った(鎮北将軍斉公段龕為慕容恪所陥,遇害)」と書いています。『資治通鑑』では、段龕は前年に前燕に投降しており、本年六月に殺されます。

 

[四] 『晋書・第八・穆帝紀』からです。

扶南の竺旃檀が東晋に馴象(訓練された象)を献上しました。

しかし穆帝は詔を発してこう言いました「昔、先帝は、殊方(異域)の異獣が、あるいは人患を為すこともあるので、これを禁じた。今回もそれが到着する前に、本土に還らせるべきである(昔先帝以殊方異獣或為人患,禁之。今及其未至,可令還本土)。」

 

『晋書・列伝第六十七(南蛮伝)』によると、竺旃檀は人名で、穆帝時代に王を称しました。

 

[五] 『資治通鑑』からです。

前燕景昭帝(燕主・慕容儁)が幽州刺史・乙逸を召して左光禄大夫に任命しました。

乙逸夫婦は共に鹿車(鹿が一頭しか乗らない程度の小さな車)に乗っていましたが、道中で奉迎した子の乙璋は数十騎を従えており、服飾も甚だ美麗だったため、乙逸は大怒して、車を閉じたまま会話をしませんでした。

(『資治通鑑』胡三省注によると、薊城を指します。前燕は穆帝永和八年・352年に、龍城に留台を置き、乙逸に留務(留守中の政務)を統領させました。乙逸は幽州刺史として龍城を鎮守していたようです)に至ってから、乙逸が乙璋を深く譴責しましたが、乙璋は反省しませんでした(猶不悛)

乙逸は常に乙璋が失敗することになるのではないかと憂いていましたが、乙璋は逆に擢任(抜擢)されて、中書令や御史中丞を歴任しました。

乙逸が嘆いて言いました「私は若い頃から修立(修身立志)し、自分に厳しくして道を守ってきたから、なんとか罪を免れることができた(吾少自修立,克己守道,僅能免罪)。璋は節倹を治めず、専ら奢縦(奢侈・放縦)を為しており、しかも清顕(政務は複雑ではないのに、顕貴で重要な地位)に居る。これは璋だけににとっては忝幸(もったいない幸運)であっても、実は時世を陵夷させること(世道を衰落させること)になるのではないか(此豈惟璋之忝幸,実時世之陵夷也)。」

 

[六] 『資治通鑑』からです。

二月癸丑(二十三日)、前燕景昭帝(燕主・慕容儁)がその子・中山王・慕容暐を太子に立てました。

大赦して元璽六年から光寿元年に改元しました。

 

[七] 『資治通鑑』からです。

太白が東井(井宿)に入りました。

前秦の有司(官員)が上奏しました「太白は罰星であり、東井は秦の分(分野)です。必ず京師で暴兵が起きます(必有暴兵起京師)。」

しかし前秦帝(秦主・苻生)はこう言いました「太白が井(井戸)に入ったのは、自分の喉が渇いたからに過ぎない。何を怪しむ必要があるのだ(太白入井,自為渴耳,何所怪乎)。」

 

[八] 『晋書・第八・穆帝紀』からです。

三月、東晋穆帝が『孝経』を講じました(受講・講習しました)

壬申(十二日)、穆帝が自ら中堂で釈奠(先聖・先師を祭る儀式)を行いました。

 

[九] 『資治通鑑』からです。

姚襄が関中を図ろうとしました。

夏四月、姚襄が北屈から兵を進めて杏城に駐屯し、輔国将軍・姚蘭を派遣して敷城を攻略させ、曜武将軍・姚益生と左将軍・王欽盧にそれぞれ兵を率いて諸羌・胡を招納(招撫・懐柔)させました。姚蘭は姚襄の従兄で、姚益生は姚襄の兄です。

羌・胡および前秦の民で帰順した者が五万余戸に上りました。

『資治通鑑』胡三省注によると、北屈県は、漢代は河東郡に属し、晋代は平陽郡に属しました。春秋時代、晋の公子・夷吾が住んだ地です。杏城は馬蘭山の北にありました。姚襄は北屈から河を渡って杏城に駐屯したようです。

敷城は唐代の坊州鄜城県です。後魏(北魏)が敷城県を置き、隋が鄜城に改めます。

曜武将軍は後趙の石氏が置いた将軍号のようです。

 

前秦の将・苻飛龍が姚蘭を撃って捕えました。

しかし、姚襄も兵を率いて前進し、黄落を占拠しました。

前秦帝(秦主・苻生)は衛大将軍・広平王・苻黄眉、平北将軍・苻道、龍驤将軍・東海王・苻堅、建節将軍・鄧羌(『資治通鑑』胡三省注によると、漢・魏が建節中郎将を置き、後に「建節」が将軍号になりました)を派遣し、歩騎一万五千を率いて防がせました。

 

姚襄は守りを堅めて戦おうとしませんでした(堅壁不戦)

鄧羌が苻黄眉に言いました「姚襄は桓温と張平に敗れたので、鋭気を喪っています。しかしその為人は強狠(剛強で好戦的なこと)なので、もし鼓譟(戦鼓を鳴らして喚声を上げること)して旗を掲げ、直接、その塁に迫れば、彼は必ず忿恚(憤怒)して出てきます。(そうなれば)一戦するだけで擒にできます(若鼓譟揚旗,直壓其塁,彼必忿恚而出,可一戦擒也)。」

 

五月、鄧羌が騎兵三千を率いて姚襄の塁門に迫り、陣を構えました。

姚襄は怒って全ての衆を出撃させます。

鄧羌は勝てないふりをして逃走し、姚襄がそれを追って三原(『資治通鑑』胡三省注によると、三原は漢代の馮翊池陽県界内にありました)に至りました。すると鄧羌が騎兵の向きを変えて姚襄を撃ち、苻黄眉等も大軍を率いて後から到着しました(以大衆継至)。姚襄の兵が大敗します。

姚襄は黧眉騧という駿馬に乗っていましたが(「黧」は黄色を帯びた黒です。「騧」は全身が黄色で口が黒い馬です)、この時、黧眉騧が倒れてしまい、前秦の兵が姚襄を捕えて斬りました。

姚襄の弟・姚萇は衆を率いて投降しました。

 

姚襄は父・姚弋仲の柩(棺)を軍中に置いていました。前秦帝は王礼を用いて姚弋仲を孤磐(『資治通鑑』胡三省注によると、孤磐は天水冀県界内にありました)に埋葬しました。

また、公礼を用いて姚襄を埋葬しました。

 

苻黄眉等が長安に還りましたが、前秦帝は褒賞せず、逆に大衆の前でしばしば苻黄眉を辱しめました

苻黄眉は怒って前秦帝の弑殺を謀りましたが、発覚して誅に伏しました。この事件は王公・親戚を巻き込み、死者が甚だ多数に上りました。

 

『晋書・第八・穆帝紀』は「苻生の将・苻眉と苻堅が姚襄を撃ち、三原で戦って斬った」と書いています。「苻眉」は『晋書・載記第十二』『資治通鑑』とも「苻黄眉」としており、恐らく「本紀」が誤りです。

 

[十] 『晋書・第八・穆帝紀』からです。

庚午(十一日)、東晋の鎮西将軍・謝尚が死にました。

 

[十一] 『資治通鑑』からです。

戊寅(十九日)、前燕景昭帝(燕主・慕容儁)が撫軍将軍・慕容垂、中軍将軍・慕容虔、護軍将軍・慕容平熙を派遣し、歩騎八万を率いて塞北の敕勒を攻撃させました。

『資治通鑑』胡三省注によると、敕勒の先祖は匈奴に属しました。元魏(北魏)の時代に「高車部」と号し、後に「鉄勒」になります。尚、『晋書・載記第十』は「丁零敕勒」としています。

 

慕容垂等が敕勒を大いに破り、十余万人を俘斬(捕獲・斬首)して、馬十三万頭と牛羊億万頭を獲ました。

 

[十二] 『資治通鑑』からです。

匈奴単于・賀頼頭(賀頼が氏です)が部落三万五千口を率いて前燕に降りました。燕人は彼等を代郡平舒城に住ませました。

『資治通鑑』胡三省注によると、東漢以来、匈奴で塞内に入って生活していた者は十九種おり、賀頼はその一つでした。

西漢時代、代郡に平舒県があり、勃海に東平舒県がありました。東漢になると、東平舒は河間国に属し、晋代には章武国に属しました。代郡の平舒は所属する郡が変わっていません。ここで「代郡平舒城」と書いているのは、章武の平舒(東平舒)と区別するためです。

 

[十三] 『晋書・第八・穆帝紀』からです。

六月、(前秦の)苻堅が苻生を殺して自ら立ちました。

 

以下、『資治通鑑』から詳しく書きます。

ある日、前秦帝(秦主・苻生)が見た夢の中で、大魚が蒲を食べました(苻氏は元々、蒲が氏だったので、大魚が蒲を食べる夢を奇異に思いました)

また、長安でこのような謡(童謡、流行り歌)が歌われました「東海の大魚が化けて龍となり、男は皆、王になり、女は公になる(東海大魚化為龍,男皆為王女為公)。」

 

そこで、前秦帝は太師・録尚書事・広寧公・魚遵とその七子十孫を併せて誅殺しました。

 

金紫光禄大夫・牛夷が禍を懼れて荊州への赴任を求めましたが(原文「求為荊州」。『資治通鑑』胡三省注によると、前秦の荊州は豊陽川を治所にしました)、前秦帝は同意せず、中軍将軍に任命して引見しました。

前秦帝が戯れて牛夷に言いました「牛の性(性格)は遅重(穏重慎重)で、善く轅軛(車の一部。牛馬と車をつなぐ部分)を持つ(車を牽くのが得意だ)。驥足(駿馬の足。俊足)はないが、動けば百石を背負うこともできる(牛性遅重,善持轅軛。雖無驥足,動負百石)。」

牛夷が言いました「大車を制御することはできても、まだ峻壁(峻険な崖道)を通ったことがありません。重載(重い荷物。ここでは荊州の重任)を試すことを願います。そうすれば(私の)勲績(功績)を知ることができます(雖服大車,未経峻壁。願試重載,乃知勲績)。」

前秦帝が笑って言いました「何と痛快なことか(何其快也)。公は載せている物が軽いのを嫌うのか。朕は魚公の爵位を公に属させよう(公嫌所載軽乎,朕将以魚公爵位処公)。」

牛夷は(朝廷で重責を負うことに)懼れを抱き、帰ってから自殺しました。

 

前秦帝は昼夜を分けずに酒を飲み、あるいは月を連ねて外に出ることもなかったため、奏事が省みられず、往々にして寝格(放置。『資治通鑑』原文は「寝落」としていますが、胡三省注が「寝格が正しい」と指摘しています)されるようになり、あるいは酔った中で政事が裁決されました。

左右の者がそれを利用して姦を為し、賞罰に基準がなくなります。

 

前秦帝は申酉(午後三時から七時)になってから、やっと皇宮を出て視朝し、酔いに乗じて多くの殺戮を行ったこともありました。

また、前秦帝は自分が眇目(片目)だったため、「残、缺(欠)、偏、隻、少、無、不具」といった言葉を忌避しており、誤って禁忌を犯したために死んだ者は数え切れないほどいました。

好んで牛・羊・驢・馬の皮を生きたまま剥いだり、鶏・豚・鵝・鴨に熱湯をかけて毛を取り除いたりして、これらを殿前に放って数十頭(または「数十羽」)の群れを作らせたこともありました(好生剝牛羊驢馬,燖鶏豚鵝鴨,縦之殿前,数十為群)

更には人の顔の皮を剥いでから歌舞をさせ、そこに臨観して娯楽とすることもありました。

 

かつて前秦帝が左右の者にこう問いました「私が天下に臨んでから、汝は外でどのような事を聞いているか(自吾臨天下,汝外間何所聞)。」

ある者が答えました「聖明が世を主宰して賞罰が明当(明確適切)なので、天下はただ太平を謳歌しています(聖明宰世,賞罰明当,天下唯歌太平)。」

すると前秦帝は怒って「汝は私に媚びておる(汝媚我也)」と言い、引き出して斬らせました。

他の日にまた左右の者に問うと、ある者がこう答えました「陛下は刑罰が少し度を過ぎています(陛下刑罰微過)。」

前秦帝はまた怒って「汝は私を誹謗した(汝謗我也)」と言い、やはり斬らせました。

こうして勲旧・親戚も誅殺されてほとんどいなくなり、群臣は一日を保つことができたら十年を過ごしたように思いました(得保一日,如度十年)

 

 

次回に続きます。

東晋時代77 東晋穆帝(二十四) 苻堅即位 357年(2)

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