東晋時代77 東晋穆帝(二十四) 苻堅即位 357年(2)

今回で東晋穆帝升平元年が終わります。

 

[十三(続き)] 東海王・苻堅はかねてから時誉(当時における称賛)があり、姚襄の参軍だった薛讃や権翼と善い関係にありました。

薛讃と権翼が秘かに苻堅を説得しました「主上は猜忍暴虐(猜疑心が強くて残忍暴虐)なので、中外が離心しています。当今において、秦祀(前秦の祭祀・社稷)を主宰すべき者は、殿下の他に誰がいるでしょう(方今宜主秦祀者,非殿下而誰)。早く計を為すように願います。他の姓の者に(秦祀を)得させてはなりません(勿使他姓得之)。」

苻堅が尚書・呂婆楼に意見を求めると、呂婆楼はこう言いました「僕(私)は刀鐶上の人に過ぎないので、大事を行うには足りません(原文「僕刀鐶上人耳,不足以辦大事」。「刀鐶」は刀の柄の先端部分です。『資治通鑑』胡三省注によると、魏・晋の時代は刀鐶で人を撃ち殺したので、呂婆楼が自分を「刀鐶上の人」と言ったのは、間もなく苻生に殺されるはずだ、ということを意味します。あるいは、刀とは鋒刃を使うものであり、刀鐶は役に立たない場所なので、ここは呂婆楼が自分を「役に立たない者」として「刀鐶」に比喩したのかもしれません)。僕の里舍(故郷・同郷の人)に王猛という者がおり、その人の謀略はこの世にまたとないほど優れているので、殿下は招いて教えを求めるべきです(僕里舍有王猛,其人謀略不世出,殿下宜請而咨之)。」

苻堅は呂婆楼を通して王猛を招きました。

すると二人は一見して旧友のようになり、談論が時事に及ぶと、苻堅は大いに悦んで、劉玄徳(劉備)が諸葛孔明(諸葛亮)に出逢った時のようだと思いました(自謂如劉玄徳之遇諸葛孔明也)

 

六月、太史令・康権(『資治通鑑』胡三省注によると、康氏は周代の衛康叔の後代、または西胡の姓です)が前秦帝に進言しました「昨夜、三つの月が並び出て、孛星(異星)が太微に入り、東井(井宿)に連なりました(昨夜三月並出,孛星入太微,連東井)(また)去月(先月)の上旬から沈陰(雲が積もって曇天が続くこと)としているのに雨が降らず、今に至っています。下の人が上を謀る禍が起きるでしょう。」

『資治通鑑』胡三省注によると、この予言は『洪範五行伝』が根拠になっています。

 

前秦帝は怒って妖言とみなし、康権を撲殺してしまいました。

 

特進・領御史中丞・梁平老等が符堅に言いました「主上が徳を失い、上下が嗷嗷(衆人が悲鳴や哀号の声をあげること)として、人々が異志を抱き(人懐異志)、燕・晋の二方が隙を伺って動こうとしています。恐らく、禍が発した日には、家も国も共に亡びるでしょう。これは殿下の事です。早く図るべきです。」

苻堅は心中で納得しましたが、前秦帝の趫勇(敏捷勇猛)を畏れたため、敢えて行動することができませんでした。

 

夜、前秦帝が侍婢に言いました「阿法兄弟も信じることはできない(「阿法」は苻堅の兄・苻法を指します)。明日、彼等を除こう(明当除之)。」

婢はこれを苻堅と苻堅の兄・清河王・苻法に告げました。

そこで、苻法と梁平老および特進光禄大夫・強汪が壮士数百人を率いて雲龍門(『資治通鑑』胡三省注によると、魏明帝が洛陽宮を建築した時、宮城の正南門を雲龍門と命名しました。苻氏も長安を占拠してから、宮城の正南門を雲龍門としました)に潜入し、苻堅と呂婆楼も麾下の三百人を率いて鼓譟(戦鼓を敲いて喚声を上げること)しながら後に続きました。

宿衛の将士は皆、仗(武器)を捨てて苻堅に帰順します。

 

前秦帝はまだ酔って眠っていました。

苻堅の兵が至ると、前秦帝が驚いて左右の者に問いました「彼等は何者だ(此輩何人)?」

左右の者は「賊です(賊也)!」と答えました。

前秦帝が(苻堅の兵に)「なぜ拝さない(何不拜之)!」と言いましたが、苻堅の兵が皆笑ったので、前秦帝がまた「なぜ速やかに拝さない!拝さない者は斬る(何不速拝,不拝者斬之)!」と大言しました

しかし苻堅の兵は前秦帝を引き連れて別室に置き、廃して越王にしてから、間もなくして殺しました。苻生の諡号は厲王といい、『晋書・載記第十二』によると二十三歳でした。

 

苻堅が位を苻法に譲りましたが、苻法はこう言いました「汝は嫡嗣であり、しかも賢(賢才)なので、(汝が)立つべきだ。」

『資治通鑑』胡三省注によると、苻堅の母は苟氏といい、苻雄の元妃(正妻)でした。

苻堅が言いました「兄が年長なので立つべきです。」

苻堅の母・苟氏も泣いて群臣にこう言いました「社稷の事は重く、小児(息子)は自分に能力がないことを知っています(小児自知不能)。他日、後悔することになったら、過失は諸君の身にあります(他日有悔,失在諸君)。」

それでも群臣は皆、頓首して苻堅が立つように請いました。

そこで苻堅は皇帝の号を除き、大秦天王と称しました。太極殿で位に即きます。

『晋書・載記第十三』によると、苻堅は苻雄(前秦景明帝・苻健の弟)の子で、字を永固、一名を文玉といいます。

『資治通鑑』は「秦王・堅」と書いていますが、この通史では「前秦天王(秦王・苻堅)」と書きます。

 

前秦天王は苻生の倖臣(寵臣)だった中書監・董榮、左僕射・趙韶等、二十余人を誅殺し、大赦して光寿三年から永興元年に改元しました。

父・苻雄を追尊して文桓皇帝とし、母・苟氏を皇太后に、妃・苟氏を皇后に、世子・苻宏を皇太子にしました(『晋書・載記第十三』でも、苻雄が文桓皇帝に、母の苟氏が皇太后に、妻の苟氏が皇后に、子の苻宏が皇太子になっていますが、苻堅は「天王」になったので、「皇后」と「皇太子」の「皇」は「王(または「天王」)」の誤りではないかと思われます)

 

清河王・苻法を都督中外諸軍事・丞相・録尚書事・東海公とし、諸王も皆、爵位を降して公にしました。

従祖(祖父の兄弟)に当たる右光禄大夫・永安公・苻侯を太尉に、晋公・苻柳を車騎大将軍・尚書令に任命しました。

弟の苻融を陽平公に、苻雙を河南公に、子の苻丕を長楽公に、苻暉を平原公に、苻熙を広平公に、苻叡を鉅鹿公に封じました。

漢陽の人・李威を左僕射に(『資治通鑑』胡三省注によると、李威は苻堅の母との間に辟陽の寵(男寵としての寵愛)があったため抜擢されました。下述します)、梁平老を右僕射に、強汪を領軍将軍に、呂婆楼を司隸校尉に、王猛を中書侍郎に任命しました。

 

苻融は文学を好み、明晰さが常人を越えていて(明辨過人)、耳で聞いたことは暗唱でき、目を通したことは忘れることがなく(耳聞則誦,過目不忘)、しかも力は百夫に匹敵し、騎射・撃刺を善くして、若い頃から令誉(美誉。名声)がありました。

そのため天王は苻融を愛重し、いつも共に国事を議しました。

苻融が内外を経綜(経営・治理)すると、刑政が修められて明らかになり、才能がある者が進められて隠れていた者が挙げられ(薦才揚滞)、多大な益をもたらしました(補益弘多)

 

苻丕も文武の才幹(才能)があり、治民や断獄(裁判)における業績は全て苻融に次ぎました(皆亜於融)

 

李威は苟太后の姑子(父の姉妹の子)で、かねてから魏王・苻雄(天王・苻堅の父。生前は東海王でしたが、死後、魏王を追贈されました)と友善な関係にありました。以前、苻生がしばしば苻堅を殺そうとしましたが、李威の営救(援助、救援)があったおかげで、苻堅は禍を免れることができました。

李威は苟太后の寵幸を受けており、天王(苻堅)も父のように仕えました。

 

李威は王猛の賢を知り、常に天王に対して国事を任せるように勧めました。

天王が王猛に言いました「李公が君を理解している様子は、鮑叔牙が管仲を理解していた故事(管鮑の交わり)のようだ(李公知君,猶鮑叔牙之知管仲也)。」

王猛は李威に兄事しました。

 

[十四] 『資治通鑑』からです。

前燕景昭帝(燕主・慕容儁)が段龕を殺し、その徒三千余人を阬(生き埋め)に処しました。

 

[十五] 『晋書・第八・穆帝紀』からです。

東晋が軍司・謝奕を使持節・都督・安西将軍・豫州刺史に任命しました。

 

[十六] 『晋書・第八・穆帝紀』と『資治通鑑』からです。

秋七月、前秦の大将軍・冀州牧・張平が東晋に使者を派遣し、并州を挙げて投降することを請いました。

東晋は張平を并州刺史に任命しました。

 

[十七] 『晋書・第八・穆帝紀』と『資治通鑑』からです。

八月丁未(十九日)、東晋穆帝が何氏を皇后に立てました。

何后は元散騎侍郎・廬江の人・何準の娘です。

 

(立皇后の)礼は咸康に則りましたが、祝賀は行いませんでした(「咸康」は東晋成帝の年号です。咸康二年(336年)に杜氏が皇后に立てられた時は、群臣が祝賀しました)

『資治通鑑』は省略していますが、『晋書・穆帝紀』によると、穆帝が何氏を皇后に立てた時、大赦を行い、孝悌・鰥寡(配偶者を失った男女)に一人当たり五斛の米を下賜しました。また、逋租宿債(滞納した租税や借金)は全て徴収しないことにして、三日間の大酺(国を挙げて行う宴)を行いました。

 

[十八] 『資治通鑑』からです。

前秦天王(秦王・苻堅)が権翼を給事黄門侍郎に、薛讃を中書侍郎に任命し、王猛と並んで機密(重要な政務)を掌握させました。

九月、遡って太師・魚遵等の官を恢復し、礼を用いて改葬しました。魚遵等の子孫で生存している者は、全て才に応じて擢敍(抜擢・任命)されました。

 

[十九] 『資治通鑑』からです。

東晋に降った張平が新興、雁門、西河、太原、上党、上郡の地を占拠しました。壁塁の数は三百余に上り、擁する民は夷・夏十余万戸に上ります。

『資治通鑑』胡三省注によると、当時は乱離に遭っていたため、豪望(豪族)が自分を守るために民を集めて壁塁を築いていました。張平は後趙時代に并州刺史を勤めたため、東晋に降ってから、その地と民を有しました。

 

(一大勢力となった)張平は自ら征・鎮(各地を守る軍の長官)を任命し、燕・秦と敵国(敵対する国、または対等な国)の関係になろうとしました(欲与燕秦為敵国)

『資治通鑑』胡三省注が解説しています。石氏(後趙)が敗れてから、張平は燕と秦の双方に附きましたが(両附燕秦)、今、その強盛を恃みにして、燕・秦と敵国の関係になろうとしました。

 

冬十月、張平が前秦の国境を寇略(侵略)しました。

前秦天王(秦王・苻堅)は晋公・苻柳を都督并冀州諸軍事に任命して并州牧を加え、蒲阪を鎮守して張平を防がせました。

 

[二十] 『晋書・第八・穆帝紀』からです。

東晋の皇后(何氏)が太廟を拝謁しました(見於太廟)

 

[二十一] 『晋書・第八・穆帝紀』からです。

十一月、雷が落ちました。

 

[二十二] 『資治通鑑』からです。

癸酉(十七日)、前燕景昭帝(燕主・慕容儁)が薊から鄴に遷都しました。

 

[二十三] 『資治通鑑』からです。

前秦の太后・苟氏が宣明台で遊んだ時、東海公・苻法の第門(邸宅の門)に車馬が輻湊(人や物が集中すること)しているのを見て、最終的には天王(秦王・苻堅)に対して不利になるのではないかと恐れました。

そこで、李威と謀って苻法に死を賜らせました。

天王は苻法と東堂で訣別し、慟哭して血を吐きました。

苻法には献哀公という諡号が贈られ、苻法の子・苻陽が東海公に、苻敷が清河公に封じられました。

 

[二十四] 『資治通鑑』からです。

十二月乙巳(十九日)、前燕景昭帝(燕主・慕容儁)が鄴宮に入って大赦し、再び銅雀台を造りました。

『資治通鑑』胡三省注が解説しています。魏武(曹操)が鄴に建国した時、銅雀台を築き、石氏がそれを増修しましたが、兵乱によって破壊されたため、慕容儁が再び造って元に戻しました。

 

[二十五] 『晋書・第八・穆帝紀』と『資治通鑑』からです。

東晋が太常・王彪之を尚書左僕射にしました。

 

[二十六] 『資治通鑑』からです。

前秦天王(秦王・苻堅)が巡行して尚書に至った時、文案(文書)が治められていなかったため(整理されていなかったため。管理されていなかったため)、左丞・程卓の官を免じて王猛を代わりにしました。

天王は異才を任用し(挙異材)、廃職(必要ない官位。職責に釣り合わない官位)を整理し(修廃職)、農桑(農業)を奨励し(課農桑)、困窮した者を救済し(恤困窮)、百神に対して礼を用い(礼百神)、学校を建て、節義がある者を表彰し(旌節義)、世系が断たれた家も後代を探して跡を継がせたため(継絶世)、秦民が大いに悦びました。

 

 

次回に続きます。

東晋時代78 東晋穆帝(二十五) 張平 馮鴦 358年(1)

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