東晋時代83 東晋哀帝(一) 洛陽遷都案 362年

今回から東晋哀帝の時代です。

 

哀皇帝

姓は司馬、名は丕、字は千齢といい、東晋成帝の長子です。

 

『晋書・第八・哀帝紀』からです。

司馬丕は成帝咸康八年(342年)に琅邪王に封じられ、穆帝永和元年(345年)に散騎常侍を拝し、十二年(356年)に中軍将軍を加えられ、升平三年(359年)に驃騎将軍に任命されました。

升平五年(361年)五月丁巳(二十二日)穆帝が死に、皇太后の令によって、庚申(二十五日)、司馬丕が皇帝の位に即きました。

 

穆帝升平五年の出来事は既に書いたので、再述は避けます。

 

以下、哀帝隆和元年の出来事です。

 

東晋哀帝隆和元年

前涼沖王隆和元年/前燕幽帝建熙三年/前秦天王甘露四年

壬戌 362年

 

[一] 『晋書・第八・哀帝紀』と『資治通鑑』からです。

春正月壬子(二十日)、東晋が大赦して、穆帝の年号である升平から隆和元年に改元しました。

 

[二] 『晋書・第八・哀帝紀』と『資治通鑑』からです。

甲寅(二十二日)、東晋が田租(田税)を減らして、一畝あたりから二升を徴収することにしました。

『資治通鑑』胡三省注が解説しています。東晋は成帝咸和五年(330年)に始めて百姓の田を調査して、一畝あたりの収穫から十分の一を収めさせることにしました。平均して一畝三升の税率になります。今回、それを減らして一畝二升にしました。

 

[三] 『資治通鑑』からです。

前燕の豫州刺史・孫興が洛陽攻撃の許可を請い、こう言いました「晋将・陳祐は弊卒(弱兵)千余で孤城を介守(独守。単独で守ること)しているので、取るのは難しくありません(不足取也)。」

燕人はこの言に従い、寧南将軍・呂護を派遣して河陰に駐屯させました。

 

『晋書・第八・哀帝紀』はこう書いています「この月(正月)、慕容暐(前燕)の将・呂護と傅末波が小塁を攻めて落とし、洛陽に迫った。」

『晋書・載記第十一』を見ると、前燕は傅顔(『哀帝紀』の「傅末波」)と呂護を派遣して河陰を占拠させています。

 

[四] 『晋書・第八・哀帝紀』と『資治通鑑』からです。

二月辛未(初十日)、東晋が輔国将軍・呉国内史・庾希(『資治通鑑』では「呉国内史・庾希」ですが、『晋書・哀帝紀』を元に「輔国将軍」を補いました)を北中郎将・徐兗二州刺史に任命して下邳を鎮守させ、前鋒監軍・龍驤将軍・袁真を西中郎将・監護豫司并冀四州諸軍事・豫州刺史に任命して汝南を鎮守させ、共に符節を授けました(並假節)。庾希は庾冰(東晋成帝、康帝時代の大臣)の子です。

『資治通鑑』胡三省注は「庾希、袁真とも符節を授かったので、職任は同じはずである。庾希も監護の職を帯びたはずだが、史書が逸した(既述を漏らした)疑いがある」と解説しています。

 

[五] 『晋書・第八・哀帝紀』と『資治通鑑』からです。

丙子(十五日)、東晋哀帝が実母の周貴人を尊んで皇太妃とし、儀服を太后に倣わせました。

 

[六] 『晋書・第八・哀帝紀』からです。

三月甲寅朔(『二十史朔閏表』によると、この年三月は「壬辰」が朔です。「甲寅」は二十三日になります)、日食がありました。

 

[七] 『晋書・第八・哀帝紀』からです。

夏四月、旱害に襲われました。

東晋哀帝が詔を発して軽繋(軽犯罪で捕まった者)を釈放し、困乏(困窮・貧困の者)を救済しました。

 

丁丑(十七日)、梁州で地震があり、浩亹で山が崩れました。

 

中華書局『晋書・哀帝紀』校勘記は、「浩亹」は涼州の地名なので、「梁州」は「涼州」の誤りと解説しています。『宋書・五行志第五』にも「隆和元年四月丁丑(十七日)、涼州で地震があり、浩亹の山が崩れた。張天錫(前涼)の降亡の象である」と書かれています。

 

[八] 『晋書・第八・哀帝紀』と『資治通鑑』からです。

前燕の呂護が洛陽を攻撃しました。

 

乙酉(二十五日)、東晋の輔国将軍・河南太守・戴施が宛に奔り(東晋穆帝永和十二年・356年に桓温が戴施を留めて洛陽を守らせました。尚、戴施は『資治通鑑』では「河南太守」ですが、『晋書・哀帝紀』では「輔国将軍・河南太守」と書かれています。本年二月の『哀帝紀』の記述では庾希が輔国将軍でした。どちらかの記述が誤りなのか、輔国将軍が複数いたのか、庾希の後に戴施が輔国将軍になったのか、詳細は分かりません)、陳祐が急を告げました。

 

五月丁巳(二十七日)、桓温が北中郎将・庾希と竟陵太守・鄧遐を派遣し、舟師三千人を率いて洛陽を守る陳祐を助けさせました。鄧遐は鄧嶽(「鄧岳」とも書きます。『資治通鑑』胡三省注が解説しています。鄧嶽は王敦の将でしたが、王敦が敗れてから朝廷に帰順し、交・広(南方の二州)で功を挙げました)の子です。

 

桓温が上書して、洛陽に遷都することと、永嘉の乱(西晋末)以来、江表(江南)に播流(流亡)した者は全て北に遷して河南を充実させることを請いました。

朝廷(恐らく哀帝を指します)は桓温を畏れていたため、異論を唱えることができませんでした(朝廷畏温,不敢為異)

また、当時の北土は蕭條(寂寥とした様子)としており、人情(人心)が疑懼(懐疑・恐惧)していたので、皆もそうするべきではないと知っていましたが、敢えて先に諫める者はいませんでした(雖並知不可,莫敢先諫)

 

散騎常侍・領著作郎・孫綽(『資治通鑑』胡三省注によると、著作郎は周代の左史の官に当たります。胡三省注が更に詳しく解説していますが、省略します)が上書しました「昔、中宗(元帝)が龍のように飛翔できたのは、ただ、信(信義を守ること)と順(道理に順じること)によって天と人の助けを得たからだけではなく、実に万里の長江に頼ることで、地を画してこれを守ったからです(昔中宗龍飛,非惟信順協於天人,実頼万里長江画而守之耳)。今、喪乱以来、六十余年が経ち(『資治通鑑』胡三省注が解説しています。賈后が廃され、趙王・司馬倫が誅殺されてすぐに諸王が兵を交え、胡・羯がそれに乗じて起ちあがり、天下が大いに乱れてから、六十余年になります)、河・洛は丘墟(荒地・廃墟)となり、函夏(中原)は蕭條としています。士民は江表(江南)に播流(流亡)して既に数世を経ており、生き残った者は子が老いて孫が成長し、死亡した者は丘隴(墳墓)が列を成し(存者老子長孫,亡者丘隴成行)、たとえ北風の思いがその素心を感じさせても(北風によって湧き起る思いが心中の本願を触発させても)、目前の哀(目前の生活における悲哀や感情という意味だと思います)が誠に切実になっています(雖北風之思感其素心,目前之哀実為交切)(また)もし遷都・旋軫(帰還)の日が来たら、中興の五陵(東晋の五陵。『資治通鑑』胡三省注が解説しています。元帝の建平陵、明帝の武平陵、成帝の興平陵、康帝の崇平陵、穆帝の永平陵を指し、全て江南にありました)も遠い遐域(辺遠の地)になってしまいます(中興五陵即復緬成遐域)。泰山の安(五陵における泰山のような安定。もしくは国家の安定)を保つのが、道理上、難しくなったら、どうして烝烝の思(孝徳の思い)が聖心に纏わりつかないでしょう(泰山のように安定させるのが困難になったら、陛下の孝徳な思いが積もって後悔することになるはずです。原文「泰山之安,既難以理保,烝烝之思,豈不纏於聖心哉」)

桓温の今回の挙は、誠に始終を大覧(総覧)して国の遠図を為そうと欲していますが、百姓は震駭(震撼・驚愕)して、共に危懼を抱いています。これは、旧地に還る喜びは遥か遠いことで、死に赴く憂いが身近に迫っているということではありませんか(豈不以反旧之楽賖,趨死之憂促哉)。なぜそうなるのでしょうか(何者)。江外(江表。江南)に根を植えて既に数十年が経つからです。一朝において急いでそれを抜き、窮荒の地に駆けさせようと欲しても、万里にわたって彼等を統率し、険阻な地を越えて深い水(川)を渡り、(人々は祖先の)墳墓から離れ、生業を棄て、田宅は売ることができず、舟車は得る術がなく、安楽の国を捨てて習乱(常乱)の郷に向かうことになるので、道中で倒れて江川で溺死し、到達できる者はわずかしかいません(一朝頓欲抜之,駆踧於窮荒之地,提挈万里,踰険浮深,離墳墓,棄生業,田宅不可復售,舟車無従而得,捨安楽之国,適習乱之郷,将頓仆道塗,飄溺江川,僅有達者)。これは、仁者なら哀矜(哀憫、憐憫)すべきことであり、国家なら深慮すべきことです(此仁者所宜哀矜,国家所宜深慮也)

臣の愚計によるなら、まずは将帥で威名・資実(資質・実力)がある者を派遣して、先に洛陽を鎮守させ、梁・許を掃平して(『資治通鑑』胡三省注が解説しています。梁は梁国、許は許昌を指し、どちらも江南から洛陽に入る要路に当たりました)、河南を清壹(平定統一)するべきです。運漕(輸送)の路が既に通り、開墾の積(食糧の貯蓄)も既に豊かになり、豺狼が遠竄して(遠くに逃げて)中夏(中原)が小康になったら、その後、ゆっくり遷徙(移転、遷都)について議すことができます。なぜ百勝の長理(優れた道理)を捨てて、天下を挙げて一擲(一挙に賭けること)する必要があるのでしょうか。」

孫綽は孫楚(西晋の官員で、魏の重臣・孫資の孫です。西晋恵帝永熙元年・290年参照)の孫です。若い頃、高尚な生活を思い求め、『遂初賦』を著して自分の志を表しました(『晋書・列伝第二十六(孫綽伝)』によると、孫綽は若い頃、高尚な志を抱いていました。そこで、会稽に住んで山水を游放しながら十余年を過ごし、『遂初賦』を書いてその志を表しました)

 

桓温は孫綽の上表を見て不快になり、こう言いました「興公(孫綽の字です)(私の)意を伝えよ(致意興公)。なぜ、君は自分の『遂初賦』を追い求めず、人の家国(家や国。国家)の事を知ろうとするのだ(何不尋君『遂初賦』,而知人家国事邪)。」

 

この時、朝廷(恐らく哀帝を指します)も遷都を憂懼したため、侍中を派遣して桓温を止めさせようとしました。

しかし揚州刺史・王述がこう言いました「桓温は虚声によって朝廷を威圧しようと欲しているだけです。(遷都の考えは)事実ではありません。ただこれに従えば、自ずから至る所がなくなります(どうすることもできなくなります。原文「但従之,自無所至」)。」

そこで哀帝は桓温に詔を発してこう告げました「昔、喪乱が起きてから、瞬く間に五紀(六十年。一紀は十二年です)が経ったが、戎狄が暴(暴乱、暴虐)をほしいままにし、(その後代も)凶悪の跡を継承しているので、西を顧みて慨嘆(感慨嘆息)が胸を満たしている(在昔喪乱,忽渉五紀,戎狄肆暴,継襲凶迹,眷言西顧,慨嘆盈懐)(あなたが)自ら三軍を指揮して、氛穢(汚れた気)を洗浄し、中畿を粛正して、旧京を光復することを欲していると知った(知欲躬帥三軍,蕩滌氛穢,廓清中畿,光復旧京)。その身を外にして国に殉じるのでなければ(自分の身を棄てて国に殉じる覚悟がなければ)、誰がそのようにできるだろう(非夫外身徇国,孰能若此)。諸々の処分(配置、段取り)は、高算(桓温の遠謀)に委ねる(諸所処分,委之高算)。ただ、河・洛の丘墟は経営する場所が広いので、開始時の勤苦は労懐(労心。神経を費やすこと)をもたらすであろう(但河洛丘墟,所営者広,経始之勤,致労懐也)。」

果たして、桓温は実行しませんでした。

 

桓温はまた洛陽の鍾虡(大鐘とその台)を移すように建議しました。

しかし王述が「永嘉が不競だったので(西晋末の朝廷が振るわなかったので)、暫く江左に都を置くことになりました。正に区宇(天下)を蕩平(平定)して、旧京に旋軫(帰還)すべきであり、もしそうしないのなら、園陵を改遷(移転)すべきです。鍾虡を優先すべきではありません(不応先事鍾虡)」と言ったため、桓温は中止しました。

 

朝廷は交・広の地が遥遠だったため(桓温は荊・司・雍・益・梁・寧・交・広の八州を都督していました。東晋穆帝永和七年・351年参照)、桓温に改めて都督并司冀三州の職を授けましたが、桓温は辞退の上表を提出して、任命を受け入れませんでした。

 

[九] 『資治通鑑』からです。

前秦天王(秦王・苻堅)が自ら太学に臨み、諸生に対して経義を考第(試験・評定)したり、博士と講論しました。この後、天王は毎月一回太学に至るようになりました(自是每月一至焉)

 

[十] 『資治通鑑』からです。

六月甲戌(十五日)、前燕の征東参軍・劉抜が征東将軍・冀州刺史・范陽王・慕容友を信都で刺殺しました。

 

[十一] 『晋書・第八・哀帝紀』と『資治通鑑』からです。

秋七月、前燕の呂護等が退いて小平津を守りました(東晋軍が至ったためです)

しかしこの時、呂護が流矢に中って死んだため、前燕の将・段崇が軍を収めて(黄河を)北に渡り、野王に駐屯しました。

 

[十二] 『晋書・第八・哀帝紀』からです。

東晋が琅邪王・司馬奕の官位を進めて侍中・驃騎大将軍・開府(将軍府を設置する権限を持つこと)にしました。

 

[十三] 『晋書・第八・哀帝紀』と『資治通鑑』からです。

東晋の鄧遐が兵を進めて新城(『資治通鑑』胡三省注によると、新城は春秋時代、戎蛮子の国でした。漢代以来は河南に属し、隋が伊闕県に改めます)に駐屯しました。

 

[十四] 『晋書・第八・哀帝紀』からです(『資治通鑑』は省いています)

庾希の部将・何謙が慕容暐(前燕)の将・劉則と檀丘で戦って破りました。

 

[十五] 『晋書・第八・哀帝紀』と『資治通鑑』からです。

八月、東晋の西中郎将・袁真が兵を進めて汝南に駐軍し、米五万斛を輸送して洛陽に送りました。

 

[十六] 『晋書・第八・哀帝紀』からです。

冬十月、東晋哀帝が貧乏な者一人当たりに五斛の米を下賜しました。

 

[十七] 『晋書・第八・哀帝紀』からです。

東晋の章武王・司馬珍が死にました。

 

司馬珍は司馬孚(司馬懿の弟)の子孫です(東晋成帝咸和六年・331年参照)

『晋書・列伝第七(宗室伝)』によると、司馬珍には後嗣がいませんでした。

東晋孝武帝太元元年(376年)に、河間王・司馬欽(東晋成帝咸和五年・330年参照)の子・司馬範之が章武王に封じられます(再述します)

 

[十八] 『資治通鑑』からです。

十一月、代王・拓跋什翼犍が女(娘)を前燕に納めました。

燕人も拓跋氏に女(娘)を娶らせました。

 

[十九] 『晋書・第八・哀帝紀』と『資治通鑑』からです。

十二月戊午朔、日食がありました。

 

東晋哀帝が詔を発しました「戎旅(軍隊)が道中におり(戎旅路次)、賦役を軽簡にすることができない。玄象(天象)が度(秩序)を失い、亢旱(大旱)が患を為している。政事が協調を失って、板築・渭濱の士が現れるということではないか(「板築」は建築の意味です。「板築の士」は、商代に低い身分から抜擢された賢人・傅説を指します。「渭濱」は渭水の辺です。「渭濱の士」は、西周の賢人・呂尚を指します。原文「豈政事未洽,将有板築渭濱之士邪」)。よって、隠滞(隠居した士人)を探して抜擢し、苛砕(苛酷・煩瑣な賦税)を廃除し、法令について詳しく討議して、全て損要(減損の大要)に従わせよ(其搜揚隠滞,蠲除苛砕,詳議法令,咸従損要)。」

 

[二十] 『晋書・第八・哀帝紀』と『資治通鑑』からです。

東晋の庾希が下邳から退いて山陽に駐屯し、袁真が汝南から退いて寿陽に駐屯しました。

『資治通鑑』胡三省注が解説しています。洛陽の兵(前燕による攻撃)が解かれたため、庾希と袁真も退きました。しかし燕兵がすぐに再び至ります。

 

 

次回に続きます。

東晋時代84 東晋哀帝(二) 前涼の政変 363年

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