東晋時代84 東晋哀帝(二) 前涼の政変 363年

今回は東晋哀帝興寧元年です。

 

東晋哀帝興寧元年

前涼沖王隆和二年 太清元年/前燕幽帝建熙四年/前秦天王甘露五年

癸亥 363年

 

[一] 『晋書・第八・哀帝紀』と『資治通鑑』からです。

春二月己亥(『二十史朔閏表』によると、この年二月は「丁巳」が朔なので、「己亥」はありません)、東晋が大赦して興寧元年に改元しました。

 

[二] 『晋書・第八・哀帝紀』と『資治通鑑』からです。

三月壬寅(十七日)、東晋の皇太妃・周氏(哀帝の母)が琅邪王邸で死にました。

癸卯(十八日)、哀帝が琅邪王邸に駆けつけて喪を治め、司徒・会稽王・司馬昱に詔して内外の衆務(諸政務)を総監させました。

 

哀帝は太妃のために三年の喪に服そうと欲しましたが、僕射・江虨が諭してこう言いました「礼によるなら、緦麻(「緦麻」は喪服の名ですが、ここでは三ヵ月の喪を意味します)に服すべきです。」

そこで哀帝は喪礼を三年から落として服朞(一年の喪に服すこと)にしようとしましたが(欲降服朞)、江虨がまた「私情を曲げて抑えるのは、祖考(祖先)を尊重するためです(厭屈私情,所以上厳祖考)」と言ったため、緦麻(三ヵ月の喪)に服しました。

『資治通鑑』胡三省注が解説しています。哀帝は琅邪王の家を出て既に大宗(皇統)に入りました。そのため江虨は、琅邪王妃だった周氏に対して哀帝が三年の喪に服すのは相応しくないと考えました。

 

[三] 『晋書・第八・哀帝紀』と『資治通鑑』からです。

夏四月、前燕の寧東将軍・慕容忠が滎陽太守・劉遠を攻めました(これは『資治通鑑』の記述で、『晋書・哀帝紀』は「慕容暐が滎陽を寇した(侵した)」と書いています)

劉遠は魯陽に奔りました。

 

[四] 『晋書・第八・哀帝紀』からです。

甲戌(十九日)、揚州で地震があり、湖瀆(湖や河川)が溢れました。

 

[五] 『晋書・第八・哀帝紀』と『資治通鑑』からです。

五月、東晋が征西大将軍・桓温に侍中・大司馬・都督中外諸軍・録尚書事を加えて黄鉞を授けました(假黄鉞)

桓温は撫軍司馬・王坦之を長史にしました。王坦之は王述(当時の揚州刺史)の子です。

また、征西掾・郗超を参軍に、王珣を主簿に任命し、事があるたびに必ず二人と謀りました。

そのため、府中の者はこう語りました「髥参軍と短主簿(鬚の参軍と背が低い主簿)は公を喜ばせることができ、公を怒らせることもできる(髥参軍,短主簿,能令公喜,能令公怒)。」

 

桓温は気概が高邁で、人を推挙することがほとんどありませんでしたが、郗超と話しをする時は、常に郗超は(その能力を)測ることができないとみなし、身を傾けて(「腰を低くして」。または「心を尽くして」)接しました(傾身待之)。郗超も自ら深く桓温と結納(交際)します。

 

王珣は王導の孫で、謝玄と共に桓温の掾になりました。謝玄は謝奕の子です(謝奕は東晋穆帝升平二年・358年に死にました)

桓温は王珣と謝玄を重んじてこう言いました「謝掾は年が四十になったら必ず旄(旗の一種)を擁して節(符節)を持つようになり、王掾は黒頭公(頭が黒い高官。若いうちに高位に就く優秀な者)になるだろう(謝掾年四十必擁旄杖節,王掾当作黒頭公)。皆、未易の才(容易には得られない賢才)である。」

 

[六] 『晋書・第八・哀帝紀』と『資治通鑑』からです。

東晋が西中郎将・袁真を都督司冀并三州諸軍事に、北中郎将・庾希を都督青州諸軍事にしました。

 

[七] 『晋書・第八・哀帝紀』と『資治通鑑』からです。

癸卯(十九日)、燕人(前燕。『資治通鑑』は「燕人」、『晋書・哀帝紀』は「慕容暐」としています)が密城(『資治通鑑』胡三省注によると、密県は、漢代は河南郡に属し、晋代は滎陽郡に属しました)を攻略しました。

滎陽太守・劉遠は江陵に奔りました。

 

[八] 『晋書・第八・哀帝紀』はここで「秋七月、張天錫が涼州刺史・西平公・張玄靚を弑して、自ら大将軍・護羌校尉・涼州牧・西平公を称した」と書いています。『資治通鑑』は閏八月に置いています(再述します)

 

[九] 『晋書・第八・哀帝紀』からです。

秋七月丁酉(十四日)、東晋が章皇太妃(哀帝の母・周氏。「章」という諡号を贈られたようです)を埋葬しました。

 

[十] 『晋書・第八・哀帝紀』と『資治通鑑』からです。

八月、孛星(異星。彗星の一種)が角亢(角宿と亢宿。星座名)に現れ、天市(星座名)に入りました。

 

[十一] 『資治通鑑』からです。

張玄靚の祖母・馬氏が死にました。

張玄靚は庶母・郭氏を尊んで太妃にしました。

 

当時は張天錫が専政していたため、郭氏が大臣・張欽等と謀って張天賜を誅殺しようとしました。しかし、事が漏れて張欽等は皆死にました。

張玄靚は懼れを抱いて位を張天錫に譲りましたが、張天錫は受けませんでした。

 

右将軍・劉粛等が張天錫に自立するように勧めました。

閏月(『二十史朔閏表』によると、閏八月です)、張天錫が劉粛等を送り、夜の間に兵を率いて入宮させ、張玄靚を弑殺しました。

張天錫は張玄靚が暴卒(突然死)したと宣言して、沖公という諡号を贈りました。

『晋書・列伝第五十六(張玄靚伝)』によると、張玄靚はこの時十四歳でした。

 

張天錫が自ら使持節・大都督・大将軍・涼州牧・西平公を称しました。この時十八歳です。

母の劉美人を尊んで太妃にしました。

 

張天錫は司馬・綸騫(綸が氏です)を派遣し、章(上奏文)を奉じて建康を訪ねさせ、東晋の命を請いました。同時に御史・兪帰を送り出して東晋に還らせました(『資治通鑑』胡三省注によると、兪帰は東晋穆帝永和三年・347年に使者として涼州に派遣され、この年、やっと帰還できました)

 

前述のとおり、『晋書・第八・哀帝紀』は秋七月に「張天錫が涼州刺史・西平公・張玄靚を弑して、自ら大将軍・護羌校尉・涼州牧・西平公を称した」と書いています。『資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)によると、『資治通鑑』は『晋春秋』に従って閏月に置いています。

 

[十二] 『晋書・第八・哀帝紀』からです(『資治通鑑』は採用していません)

九月壬戌(初十日)、東晋の大司馬・桓温が衆を率いて北伐しました。

 

[十三] 『晋書・第八・哀帝紀』と『資治通鑑』からです。

癸亥(十一日)、東晋で皇子が生まれたため(皇子の詳細は不明です)、大赦しました。

 

[十四] 『晋書・第八・哀帝紀』からです。

冬十月甲申(初三日)、東晋が陳留王の世子・曹恢を王に立てました。

 

陳留王は魏帝の子孫です。東晋穆帝升平二年(358年)に陳留王・曹勱(魏武帝(曹操)の玄孫。「曹勵」とも書きます)が死にました。曹恢は曹勱の世子だと思われます。

 

[十五] 『資治通鑑』からです。

前燕の鎮南将軍・慕容塵が長平(『資治通鑑』胡三省注によると、長平県は、西漢は汝南郡に属し、東漢から晋は陳郡に属しました)で東晋の陳留太守・袁披を攻撃しました。

 

東晋の汝南太守・朱斌(『資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)によると、『燕書』では「朱黎」です。『資治通鑑』は『晋書・哀帝紀』(下述)に従って「朱斌」としています)が虚に乗じて許昌を襲い、攻略しました。

 

『資治通鑑』はこの出来事を十月に置いていますが、『晋書・第八・哀帝紀』は「この年、慕容暐(前燕)の将・慕容塵が長平で陳留太守・袁披を攻めた。汝南太守・朱斌が虚に乗じて許昌を襲い、これを攻略した(克之)」と書いています。

 

[十六] 『資治通鑑』からです。

代王・拓跋什翼犍が高車を撃って大破し、俘獲(捕虜や戦利品)が一万余口と馬・牛・羊百余万頭に上りました。

 

『資治通鑑』胡三省注によると、高車は敕勒です。高輪の車に乗る習慣があったため、「高車部」と号しました。古赤狄の余種のようです。かつては「狄歴」と号しており、北方では「高車丁零」と呼ばれていました。水草に従って移住し、毛皮を着て肉を食べるという習慣は(衣皮食肉)、柔然と同じです。

 

[十七] 『晋書・第八・哀帝紀』と『資治通鑑』からです。

東晋が征虜将軍・桓沖を江州刺史にしました。

 

十一月、姚襄の故将・張駿(『資治通鑑』胡三省注によると、以前、桓温が姚襄を破った時、姚襄の将・張駿、楊凝等を獲て尋陽に遷しました)が江州督護・趙毗を殺し、武昌を焼いて府藏を略奪し、その徒を率いて、東晋に叛して北に向かおうとしましたが(帥其徒北叛)、桓沖がこれを討って斬りました。

 

 

次回に続きます。

東晋時代85 東晋哀帝(三) 沈勁 364年

 

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