東晋時代85 東晋哀帝(三) 沈勁 364年

今回は東晋哀帝興寧二年です。

 

東晋哀帝興寧二年

前涼沖王太清二年/前燕幽帝建熙五年/前秦天王甘露六年

甲子 364年

 

[一] 『資治通鑑』からです。

春正月丙辰(初六日)、前燕が大赦しました。

 

[二] 『晋書・第八・哀帝紀』からです。
二月庚寅(初十日)、江陵で地震がありました。

 

[三] 『資治通鑑』からです。

前燕の太傅・慕容評と龍驤将軍・李洪が河南攻略に向かいました(略地河南)

 

『晋書・第八・哀帝紀』はこう書いています「慕容暐の将・慕容評が許昌を襲い、潁川太守・李福が死んだ。慕容評はそのまま汝南を侵し、太守・朱斌が寿陽(寿春)に遁走した。(慕容評は)更に進んで陳郡を囲んだ。太守・朱輔は城に籠って守りを固めた(嬰城固守)。桓温が江夏相・劉岵を派遣してこれ(慕容評)を撃退させた。」

『資治通鑑』はほぼ同じ内容を四月に置いています。但し、劉岵が前燕を撃退したという記述はありません。

 

[四] 『晋書・第八・哀帝紀』からです。

東晋が左軍将軍を遊撃将軍とし、右軍・前軍・後軍将軍、五校三将の官を廃しました(罷右軍前軍後軍将軍五校三将官)

「五校」は五校尉(屯騎・歩兵・越騎・長水・射声校尉)、「三将」は右軍・前軍・後軍の三将軍を指すと思われます。

 

[五] 『晋書・第八・哀帝紀』からです。

癸卯(二十三日)、東晋哀帝が自ら藉田(農業を奨励するために帝王が耕作する田地)を耕しました。

 

[六] 『晋書・第八・哀帝紀』と『資治通鑑』からです。

三月庚戌朔、東晋が戸口を大閲(大調査)して、所在地で土断させ、法制(『資治通鑑』では「法制」、『晋書・哀帝紀』では「法禁」です)を厳しくしました。これを『庚戌制(庚戌の法制)』といいます(「土断」に関しては、東晋成帝咸康七年・341年参照)

 

[七] 『晋書・第八・哀帝紀』と『資治通鑑』からです。

東晋哀帝はかねてから黄老(道家の思想)を好み、方士の言を信じていたため、穀物を断って薬を服食することで長生を求めました。

侍中・高崧が諫めて「これは万乗(帝王)が為すべきことではありません(此非万乗所宜為)。陛下のこの事は、実に日月の食です(原文「陛下茲事,実日月之食」。「日月の食」は日食や月食を指し、君子の過失を意味します。『論語』の子貢の言葉が元になっています。子貢はこう言いました「君子の過失とは、日月の食のようなものです。過ちを犯したら、人々が皆それを見ます。過ちを改めたら、人々が皆それを仰ぎ慕います(君子之過也,如日月之食焉。过也,人皆见之。更也,人皆仰之)」)」と言いましたが、哀帝は聴き入れませんでした。

 

辛未(二十二日)、哀帝が長生の薬を過度に服食したため、毒に中って薬発(薬物による発作)し、自ら万機に臨むことができなくなりました。

崇徳太后(褚太后です。崇徳宮に住んでいます)が再び朝廷に臨んで摂政するようになります。

 

『資治通鑑』胡三省注が解説しています。かつて、東晋穆帝が幼少で即位したため、褚太后が朝廷に臨んで称制(皇帝に代わって命令を出すこと)しましたが、升平元年(357年)に穆帝が元服したため、太后は政権を奉還しました。哀帝は年長になってから即位しましたが、病のため親政できなくなったため、太后が再び朝政に臨むことになりました。

 

[八] 『資治通鑑』からです。

夏四月甲辰(二十五日)、前燕の李洪が許昌と汝南を攻め、懸瓠(『資治通鑑』胡三省注によると、懸瓠城は汝南郡の治所です。城の西北で汝水が分かれて左に出て、西北に流れ、西から屈して東に転じ、更に西南に流れて汝水と合流しました(城之西北,汝水枝別左出,西北流,又屈西東転,又西南会汝)。その形が垂瓠(垂らした瓢箪)のようだったので、懸瓠が城の名になりました)で晋兵を敗りました。潁川太守・李福が戦死し、汝南太守・朱斌は寿春に奔り、陳郡太守・朱輔は退いて彭城を守りました。

 

大司馬・桓温が西中郎将・袁真等を派遣して前燕を防がせ、桓温自らも舟師を率いて合肥に駐屯しました。

 

燕人はそのまま許昌、汝南、陳郡を攻略し、一万余戸を幽・冀二州に遷しました。また、鎮南将軍・慕容塵を派遣して許昌に駐屯させました。

 

『晋書・第八・哀帝紀』は「夏四月甲申(初五日)、慕容暐がその将・李洪を派遣して許昌を侵した。王師が懸瓠で敗績(敗北)した。朱斌は淮南に奔り、朱輔は退いて彭城を守った」と書いています。しかし『哀帝紀』は二月にも「太守・朱斌が寿陽(寿春。淮南です)に遁走した」と書いています(上述)

また、『哀帝紀』は四月の記述に続けてこう書いています「桓温が西中郎将・袁真、江夏相・劉岵等を派遣し、楊儀道を穿って通運させた。桓温は舟師を率いて合肥に駐軍した。慕容塵がまた許昌に駐屯した。」

「楊儀道」は地名のようですが、詳細はわかりません。

 

[九] 『晋書・第八・哀帝紀』からです。

五月、東晋が陳の人を安陸に遷して前燕の進攻から避けさせました。

『晋書・哀帝紀』の原文は「遷陳人于陸以避之」ですが、意味が通じません。中華書局『晋書・哀帝紀』校勘記が「陸」の前に「安」を補って「遷陳人于安陸」としています。安陸は陳郡南にありました。

 

[十] 『晋書・第八・哀帝紀』と『資治通鑑』からです。

戊辰(二十日)、東晋が揚州刺史・王述を尚書令・衛将軍に任命し、大司馬・桓温に揚州牧・録尚書事を加えました。

壬申(二十四日)、侍中を派遣して桓温を諭し、入朝して政事に参与させようとしましたが、桓温は従わず、辞退して入相(入朝して政事を輔佐すること)しませんでした。

 

王述が官職を授かった時は、いつも虚譲(虚飾による謙譲)することなく、一度辞退したら必ず受け入れませんでした。

尚書令に任命されると、子の王坦之が王述にこう告げました「故事(前例)によるなら、謙譲するべきです(故事当譲)。」

王述が問いました「汝は私が(尚書令の任に)堪えられないと思うのか?」

王坦之が答えました「違います(非也)。ただ、謙譲できるというのは、元々美事だからそうするのです(但克譲自美事耳)。」

王述はこう言いました「(任に)堪えられると判断しながら、なぜまた謙譲するのだ(既謂堪之,何為復譲)。人は汝が私より優れていると言うが、間違いなく(汝は私に)及ばない(人言汝勝我,定不及也)。」

 

[十一] 『資治通鑑』からです。

六月、前秦天王(秦王・苻堅)が大鴻臚を派遣し、前涼の張天錫を大将軍・涼州牧・西平公にしました。

 

[十二] 『晋書・第八・哀帝紀』と『資治通鑑』からです。

秋七月丁卯(二十日)、東晋が詔を発し、再び大司馬・桓温を召還して入朝させました。

 

八月、桓温が赭圻(『資治通鑑』胡三省注によると、赭圻は宣城郡界内にありました。胡三省注が更に詳しく解説していますが、省略します)に至りましたが、朝廷は尚書・車灌に詔して桓温を止めさせました。桓温は赭圻に築城してそこに住み、内録の任(『資治通鑑』胡三省注によると、内録は録尚書事を指します)は固く謙譲して、揚州牧を遥領(官位だけ拝命して実際の任務には就かないこと)しました。

 

[十三] 『資治通鑑』からです。

前秦の汝南公・苻騰が謀反して誅に伏しました。

苻騰は秦主・苻生(故前秦帝)の弟です。当時、苻生の弟は晋公・苻柳等、まだ五人いました。

そこで王猛が天王(苻堅)に「五公を除かなければ、最後は必ず患いとなります(不去五公,終必為患)」と進言しましたが、天王は従いませんでした。

 

[十四] 『資治通鑑』からです。

前燕の侍中・慕輿龍が龍城に入り、宗廟および龍城に留めていた百官を全て鄴に遷しました。

 

[十五] 『資治通鑑』からです。

前燕の太宰・慕容恪が洛陽を取ろうとしました。まず人を派遣して士民を招納(帰順を受け入れること)します。

その結果、遠近の諸塢が皆、帰順したので、司馬・悦希を盟津に駐軍させ、豫州刺史・孫興を成皋に駐軍させました。

 

東晋の沈充の子・沈勁は、父が逆乱によって死んだので(東晋明帝太寧二年・324年参照)、功を立てることで旧恥を雪ごうと志していましたが、三十余歳になっても、刑家(刑を受けた家の者)だったため、仕官できずにいました。

呉興太守・王胡之が司州刺史になると、上書して沈勁の才行(能力と品行)を称え、禁錮を解いて自分の府事に参与させる許可を請いました。朝廷はこれに同意しましたが、ちょうど王胡之が病を患ったため、実行できませんでした。

燕人が洛陽に迫った時、冠軍将軍・陳祐が洛陽を守りましたが、その衆は二千を越えませんでした。沈勁はこれを機に自ら上表し、陳祐の下に配されて尽力する機会を求めます(勁自表求配祐效力)

そこで、朝廷は詔を発して沈勁を補冠軍長史とし、自分で壮士を募るように命じました。沈勁は千余人を得て出発します。

 

沈勁はしばしば少数の兵で燕衆(前燕の大軍)を撃ち、摧破(撃破)しました。

しかし洛陽の食糧が尽きて援軍も途絶えました。

 

九月、陳祐は洛陽を守ることができないと判断し、許昌を救うという名目で衆を率いて東に向かい、沈勁を留めて五百人で洛陽を守らせました。

沈勁は喜んでこう言いました「私の志は命を棄てることを欲しており、今、その機会を得ることができました(吾志欲致命,今得之矣)。」

陳祐は許昌が既に陥落したと聞いて新城に奔りました。

 

前燕の悦希が兵を率いて河南の諸城を攻略し、全て奪いました。

 

『晋書・第八・哀帝紀』はこう書いています「(八月)苻堅(前秦)の別帥(別将。一軍)が河南を侵し、慕容暐(前燕)が洛陽を寇した(侵した)。九月、冠軍将軍・陳祐が長史・沈勁を留めて洛陽を守らせ、(自身は)衆を率いて新城に奔った。」

『資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)によると、『十六国春秋・苻堅伝』には「苻堅の別帥が河南を侵した」という記述がなく、しかも、当時の前秦はまだ前燕と河南を争おうとしていなかったので、『晋書・哀帝紀』の記述は恐らく誤りと判断しています。

 

[十六] 『資治通鑑』からです。

前秦天王(秦王・苻堅)が公国に対してそれぞれ三卿を置くように命じ(『資治通鑑』胡三省注によると、晋制では、王国は郎中令、中尉、大農の三卿を置きました。前秦はこの制度を踏襲しました)、他の官と併せて全て各国が自分で采辟(招聘・採用)することを許可しました。但し、郎中令だけは中央が置くことにしました(并余官皆聴自采辟,独為置郎中令)

 

富商の趙掇等は車服が僭侈(身分を越えて奢侈なこと)でしたが、諸公が競って彼等を招き、卿にしました。

黄門侍郎・安定の人・程憲が天王に進言してこのような状況を治める(正す)ように請いました。

そこで、天王が詔を下してこう称しました「本来は諸公に英儒(優れた儒士)を延選(招聘・選抜)させようと欲したが、かえってこのように猥濫(氾濫・混乱)させてしまうとは(本欲使諸公延選英儒,乃更猥濫如是)。有司(官員)に推検(調査追求)させて、辟召(招聘)した対象が相応しい者でなかったら、全て爵位を落として侯にすべきである(宜令有司推検,辟召非其人者,悉降爵為侯)。今からは、国官(各国の官員)は皆、銓衡(『資治通鑑』胡三省注によると、吏部尚書です)に委ねる。(また)命士(爵位官爵を受けた士人)以上の者でなければ、車馬に乗ってはならず、京師を去って百里以内の地では、工商や皁隸(身分が低い者)は金銀・錦繍を着てはならない。犯した者は棄市に処す。」

こうして、平陽、平昌、九江、陳留、安楽の五公が爵位を侯に落とされました。

 

 

次回に続きます。

東晋時代86 東晋哀帝(四) 洛陽陥落 365年

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