東晋時代86 東晋哀帝(四) 洛陽陥落 365年

今回で東晋哀帝の時代が終わります。

 

東晋哀帝興寧三年

前涼沖王太清三年/前燕幽帝建熙六年/前秦天王甘露七年 建元元年

乙丑 365年

 

[一] 『晋書・第八・哀帝紀』と『資治通鑑』からです。

春正月庚申(十六日)、東晋の皇后・王氏が死にました。

 

[二] 『資治通鑑』からです。

匈奴の劉衛辰が代に叛しました(劉衛辰は東晋穆帝升平五年・361年に代に附きました)

そこで、代王・拓跋什翼犍が東に向かって河(黄河)を渡り,劉衛辰を撃って走らせました。

 

拓跋什翼犍は性格が寛厚でした。

郎中令・許謙が絹二匹を偸みましたが、什翼犍はそれを知っても隠して(知らないふりをして。原文「知而匿之」)左長史・燕鳳にこう言いました「私は許謙の顔を視るのが忍びない(原文「吾不忍視謙之面」。『資治通鑑』胡三省注によると、この後、什翼犍の言葉は「卿は慎重にしてこの事を漏らしてはならない(卿慎勿泄)」と続きますが、『資治通鑑』本文は省略しています)。もし許謙が慚愧して自殺したら、私は財物のために士を殺したことになる(若謙慙而自殺,是吾以財殺士也)。」

 

かつて西部で背叛した者を討った時、流矢が什翼犍の目に中りました。後に矢を射た者を獲たため、群臣が臠割(切り刻むこと)に処そうと欲しましたが、什翼犍は「彼等はそれぞれ自分の主のために闘っただけだ。何の罪があるのだ(彼各為其主闘耳,何罪)」と言って釈放しました。

 

[三] 『資治通鑑』からです。

東晋の大司馬・桓温が移動して姑孰を鎮守しました(『資治通鑑』胡三省注が解説しています。桓温は赭圻から東に向かって姑孰を鎮守しました)

 

二月乙未(二十一日)、桓温が弟の右将軍・桓豁を監荊州揚州之義城雍州之京兆諸軍事・領荊州刺史に任命し(『資治通鑑』胡三省注によると、義城郡(義成郡)は襄陽に置かれ(移民のために襄陽郡内に義城郡が置かれたのだと思います。下述参照)、襄陽郡は荊州に属していましたが、義城郡は「揚州淮南の平阿と下蔡を領した」とされています。かつて、桓宣が祖約に従い、退いて淮南に駐屯してから、襄陽を鎮守しました。陶侃が淮南の部曲(恐らく桓宣の部曲)を率いて穀城(襄陽北)に義成郡を置き、揚州の民(平阿と下蔡の民を指すと思われます)がいたので揚州僑県(移民の県)も穀城に住ませました。穀城は荊州領内の地なので、「荊州・揚州之義成」といいます。「義成」とは「義によって軍を成す(以義成軍)」という意味で、これが郡の名になりましたが、後の人が「成」の字に「土」を加えたため、郡を立てた時の意味が失われてしまいました。京兆郡は雍州に属しましたが、当時は同じく襄陽に僑立(僑置。移民のために、別の地に郡県等を置くこと)されていました)、江州刺史・桓沖に監江州及荊豫八郡諸軍事を加え(『資治通鑑』胡三省注によると、桓沖はもともと江州の刺史となり、西陽・譙二郡の太守を兼任していました(刺江州,領西陽・譙二郡太守)。今回、荊州に属す江夏と隨郡および豫州に属す汝南・西陽・新蔡・潁川の合わせて六郡が加えられ(西陽が重複しているので、西陽を抜いた「五郡」が正しいはずです)、鎮守している尋陽も合わせて八郡の諸軍事を監督することになりました)、共に符節を授けました(並假節)

 

『晋書・第八・哀帝紀』では、二月乙未(二十一日)に右将軍・桓豁を監荊州揚州之義城雍州之京兆諸軍事・領南蛮校尉・荊州刺史に任命し、桓沖を監江州荊州之江夏隨郡豫州之汝南西陽新蔡潁川六郡諸軍事・南中郎将・江州刺史・領南蛮校尉に任命し、共に符節を授けています(並假節)

このうち、桓豁については、「監荊州揚州之義城雍州之京兆諸軍事」は『資治通鑑』と同じですが、「領南蛮校尉・荊州刺史」が異なります。『晋書・列伝第四十四(桓豁伝)』は「監荊揚雍州軍事・領護南蛮校尉・荊州刺史・假節とし、将軍(右将軍)の職そのままにした(将軍如故)」と書いています。

桓沖の官名は、「監江州荊州之江夏隨郡豫州之汝南西陽新蔡潁川六郡諸軍事」が『資治通鑑』の「監江州及荊豫八郡諸軍事」と大きく異なり、「南中郎将・江州刺史・領南蛮校尉」は『資治通鑑』にはありません。『晋書・列伝第四十四(桓沖伝)』を見ると、桓沖はこれ以前に「振威将軍・江州刺史・領鎮蛮護軍・西陽譙二郡太守」になっています。また、領南蛮校尉は桓豁が任命されており、『資治通鑑』胡三省注が「江左(東晋)は荊州だけが南蛮を領した」と解説しています。よって、「本紀」が本年に「江州刺史・領南蛮校尉」を置いているのは誤りです。『晋書・列伝第四十四』は、本年の桓沖の任官を「監江荊豫三州之六郡軍事・南中郎将・假節に進めて、州刺史と郡太守の職はそのままにした(州郡如故)」と書いています。

 

[四] 『晋書・第八・哀帝紀』『晋書・第八・海西公紀』と『資治通鑑』からです。

東晋の司徒・司馬昱は、陳祐が洛陽を棄てたと聞いて、洌洲で大司馬・司馬温と会し、共に征討について討議しました。

 

丙申(二十二日)、哀帝が西堂(『資治通鑑』胡三省注によると、太極殿西堂です。建康の太極殿には東西の堂があり、東堂は群臣を接見する場所で、西堂は即安(休憩)の場所でした)で死にました。二十五歳でした。

哀帝が死んだため、征討の事は一時中止になりました(事遂寝)

 

丁酉(二十三日)、哀帝には後嗣がいなかったため(哀帝興寧元年363年)九月に「皇子が生まれた」という記述がありました。この皇子がどうなったのかは分かりません)、皇太后(褚氏)が詔を発して、哀帝の同母弟に当たる琅邪王・司馬奕に大統を継承させました(『資治通鑑』胡三省注は「奕」は「弈」とすべき(奕当作弈)と解説していますが、『晋書』も『資治通鑑』本文も「司馬奕」としているので、この通史も「司馬奕」と書きます)

以下、皇太后の詔です「帝は遂にその疾(病)から救うことができず、艱禍が頻繁に至っているので、残された者の心情が消沈して、哀慟が心を切り刻んでいます(帝遂不救厥疾,艱禍仍臻,遺緒泯然,哀慟切心)。琅邪王・奕は明徳が盛んで近親なので、儲嗣(後継者)となるに相応しく、祖宗を奉じて大統を継承すべきです(明徳茂親,属当儲嗣,宜奉祖宗,纂承大統)。速やかに大礼(即位の礼)を正し、そうすることによって人と神を安寧にさせなさい(便速正大礼以寧人神)。」

 

こうして、百官が琅邪第(琅邪王の邸宅)に奉迎に行き、即日、司馬奕が皇帝の位に即いて、大赦を行いました。

 

司馬奕は後に廃されて海西公になるため、皇帝としての諡号がありません。『晋書』と『資治通鑑』は「海西公」としていますが、この通史では「廃帝」と書きます。

 

[五] 『資治通鑑』からです。

前秦が大赦を行い、甘露七年から建元元年に改元しました。

 

[六] 『資治通鑑』からです。

前燕の太宰・慕容恪と呉王・慕容垂が共に洛陽を攻めました。

慕容恪が諸将に言いました「卿等は常に私が攻撃を開始しないことを患いてきた(卿等常患吾不攻)。今、洛陽は城壁が高いが、兵は弱いので、容易に攻略できる(城高而兵弱,易克也)。これ以上、畏れ臆して怠惰になる必要はない(勿更畏懦而怠惰)。」

こうして攻撃が開始され、三カ月で洛陽を攻略して東晋の揚武将軍・沈勁を捕えました。

 

沈勁の神気(精神、意気)が自若としていたため、慕容恪は(殺すのを惜しんで)釈放しようとしました。しかし中軍将軍・慕輿虔が「沈勁は奇士ですが、その志度(志気・気度)を観るに、最後まで人に用いられることはありません(燕に仕えることはありません。原文「終不為人用」)。今これを赦したら、必ず後患となります」と言ったため、殺しました。

 

慕容恪が各地を攻略して崤澠(『資治通鑑』胡三省注によると、崤谷と澠池です)に至りました。関中が大いに震撼します。

前秦天王(秦王・苻堅)は前燕に備えるため、自ら兵を率いて陝城に駐屯しました。

 

燕人は左中郎将・慕容筑を洛州刺史に任命して金墉(洛陽)を鎮守させました。

また、呉王・慕容垂を都督荊揚洛徐兗豫雍益涼秦十州諸軍事・征南大将軍・荊州牧とし、兵一万を配して魯陽を鎮守させました。

 

太宰・慕容恪が鄴に還って僚属にこう言いました「私は以前、広固を平定した時、辟閭蔚を救うことができなかった(東晋穆帝永和十二年・356年参照)。今回も洛陽を平定したが、沈勁を殺戮させてしまった。どちらも本情(本意)ではなかったが、元帥として、実に四海に対して慚愧している(雖皆非本情,身為元帥,実有愧於四海)。」

 

東晋の朝廷は沈勁の忠を嘉して東陽太守を追贈しました。

 

太宰・慕容恪は将になっても威厳を重要なこととはみなさず、専ら恩信を用いていました(不事威厳,専用恩信)。士卒を安撫し、務めて大要を治め、苛令(苛酷な命令)を為さず、人人に便安(利便・安定)を得させます。

平時の営中は寛縦(寛容放縦。自由な様子)で、(外の者には)侵犯できるように見えましたが(似若可犯)(実際には)警備が厳密だったので、敵が至っても接近できた者はなく、そのため慕容恪は負敗(失敗・敗北)したことがありませんでした。

 

[七] 『晋書・第八・海西公紀』と『資治通鑑』からです。

三月壬申(二十九日)、東晋が哀帝と静皇后(王皇后)を安平陵に埋葬しました。

『資治通鑑』は「静皇后」としていますが、『晋書・列伝第二(后妃伝下)』では「静」が「靖(哀靖王皇后)」になっています。

 

[八] 『晋書・第八・海西公紀』からです。

癸酉(三十日)、東晋の散騎常侍・河間王・司馬欽(東晋成帝咸和五年・330年参照)が死にました。

『晋書・列伝第二十九(司馬顒伝)』には、司馬欽の後嗣について書かれていませんが、『晋書・第九・孝武帝紀』の東晋孝武帝太元九年(384年)十月の記述に、「河間王・曇之が死んだ」とあるので、司馬欽の子は曇之というようです。

 

[九] 『晋書・第八・海西公紀』はここで「丙子、慕容暐(前燕)の将・慕容恪が洛陽を落とした。寧朔将軍・竺瑤が襄陽に奔り、冠軍長史・揚武将軍・沈勁が死んだ」と書いています。但し、『二十史朔閏表』によると、この年三月は甲辰が朔なので、「丙子」はありません。『資治通鑑』は洛陽陥落を二月に置いており、「二月丙子」だとしたら「初二日」に当たります。

 

[十] 『資治通鑑』からです。

夏四月壬午(初九日)、前燕の太尉・武平公・封奕(諡号は匡公です)が死にました。

 

司空・陽騖を太尉に、侍中・光禄大夫・皇甫真を司空・領中書監に任命しました。

 

陽騖は歴代の四朝(慕容廆、慕容皝、慕容儁、慕容暐を指します)に仕え、老齢で声望が重かったため(年耆望重)、太宰・慕容恪以下、皆が拝礼しました。しかし陽騖の謙恭謹厚な態度は、若い頃よりもますます顕著になっていました(過於少時)

陽騖は子孫を戒束(厳しく教育して行動を正しくさせること)しました。そのため、(一族に)朱紫(赤や紫の服。高官の服)が連なっても、敢えてその法度(陽騖が定めた規則。または前燕の法度)に違反しようとする者はいませんでした(無敢違犯其法度者)

 

[十一] 『晋書・第八・海西公紀』と『資治通鑑』からです。

六月戊子(十六日)、東晋の益州刺史・建城公・周撫(諡号は襄公です。尚、『資治通鑑』は「益州刺史・建城襄公・周撫」としていますが、『晋書・海西公紀』では「使持節・都督益寧二州諸軍事・鎮西将軍・益州刺史・建城公・周撫」としています)が死にました。

周撫は益州にいた三十余年の間、甚だ威恵(威信・恩恵)がありました(『資治通鑑』胡三省注が解説しています。東晋穆帝永和三年・347年に桓温が蜀を平定し、周撫を留めて鎮撫させました。そこから本年(365年)までは、足掛けで十九年しかありません。但し、東晋は蜀を得る前に、巴東に益州刺史を置いて周撫を刺史に任命していました。「益州にいた三十余年」というのは、巴東を鎮守した時から通算した年数のようです)

 

東晋は詔を発し、周撫の子に当たる犍為太守・周楚を周撫の代わりにしました。

 

[十二] 『晋書・第八・海西公紀』と『資治通鑑』からです。

秋七月己酉(初七日)、東晋が会稽王・司馬昱を再び琅邪王に改封しました。

 

司馬昱は東晋元帝の子で、元帝永昌元年(322年)に琅邪王に封じられましたが、成帝咸和二年(327年)に会稽王に遷されました。

成帝の跡を継いだ康帝、哀帝と、本年即位した司馬奕(廃帝)は全て琅邪王の身から大統を継承しました。司馬奕が帝位に即いて琅邪王の家系が途絶えたため、司馬昱がまた琅邪王に戻されました。

 

[十三] 『晋書・第八・海西公紀』と『資治通鑑』からです。

壬子(初十日)、東晋が妃・庾氏を皇后に立てました。庾后は庾冰の娘です。

 

[十四] 『晋書・第八・海西公紀』『晋書・第九・孝武帝紀』と『資治通鑑』からです。

甲申(『晋書・孝武帝紀』と『資治通鑑』は「甲申」としていますが、『二十史朔閏表』によると、この年七月は「癸卯」なので、「甲申」はありません。『晋書・海西公紀』は日付を書いていません)、琅邪王・司馬昱の子・司馬昌明を会稽王に立てました。

しかし司馬昱は固く辞退して、自ら会稽王を称し続けました。

 

[十五] 『資治通鑑』からです。

匈奴の右賢王・曹轂と左賢王・劉衛辰がそれぞれ前秦に叛しました。

 

曹轂が衆二万を率いて杏城を侵したため、前秦天王(秦王・苻堅)が自ら兵を指揮してこれを討ち、衛大将軍・李威と左僕射・王猛に太子・苻宏を輔佐して長安を留守させました。

 

『晋書・第八・海西公紀』は「秋七月、匈奴の左賢王・衛辰と右賢王・曹穀が衆二万を率いて苻堅の杏城を侵した」と書いています。『晋書・載記第十三』は「曹穀」を「曹轂」としており、『資治通鑑』は「載記」に従っています。

 

『資治通鑑』に戻ります。

八月、天王が曹轂を撃って破り、その弟・曹活を斬りました。曹轂は投降を請います。

前秦は曹轂の豪傑(豪族)六千余戸を長安に遷しました。

 

建節将軍・鄧羌が劉衛辰を討ち、木根山(『資治通鑑』胡三省注によると、木根山は朔方にありました)で捕らえました。

 

九月、天王が朔方に入って諸胡を巡撫しました。

 

冬十月、征北将軍・淮南公・苻幼(『資治通鑑』胡三省注によると、秦主・苻生(前秦帝)の弟です)が杏城の衆を指揮し、虚に乗じて長安を襲いましたが、李威がこれを撃って斬りました。

 

[十六] 『資治通鑑』からです。

鮮卑の禿髪椎斤が死にました。百十歳でした。

子の思復鞬が代わりにその衆を統領しました。

椎斤は樹機能の従弟・務丸の孫です(樹機能はかつて西晋の涼州を侵しました。西晋武帝咸寧五年・279年参照)

 

[十七] 『晋書・第八・海西公紀』と『資治通鑑』からです。

東晋の梁州刺史・司馬勲は為政が酷暴(苛酷・暴虐)で、治中・別駕や州の豪右(豪族)が意に逆らう言葉を発すと(言語忤意)、すぐにその席で梟斬(首を斬って曝す刑)に処し、あるいは自ら矢を射て殺してしまいました(即於坐梟斬之,或親射殺之)

司馬勲は常に拠蜀の志(蜀で割拠する志)を抱いており、今までは周撫を畏れて発する(実行する)ことができませんでしたが、本年、周撫が死んだため、遂に兵を挙げて反しました。

別駕・雍端と西戎司馬・隗粹(『資治通鑑』胡三省注によると、西戎司馬は西戎校尉の属官です)が切諫しましたが、司馬勲はどちらも殺して自ら梁益二牧・成都王を称しました。

 

十一月、司馬勲が兵を率いて剣閣に入り、涪を攻めました。

西夷校尉・毌丘暐は城を棄てて逃走しました(『資治通鑑』胡三省注によると、晋初に西夷校尉が置かれて汶山を治所にしましたが、当時は涪城が治所だったようです)

 

乙卯(十五日)、司馬勲が成都で益州刺史・周楚を包囲しました。

大司馬・桓温が上表して、鷹揚将軍・江夏相・義陽の人・朱序を征討都護に任命し、周楚を救援させました。

 

[十八] 『資治通鑑』からです。

前秦天王(秦王・苻堅)が長安に還り、李威に太尉の職を代行させて侍中を加えました(守太尉加侍中)

また、曹轂を雁門公に、劉衛辰を夏陽公にして、それぞれの部落を統率させました。

 

[十九] 『資治通鑑』からです。

十二月戊戌(二十九日)、東晋が尚書・王彪之を僕射に任命しました。

『晋書・第八・海西公紀』は「十二月戊戌(二十九日)、会稽内史・王彪之を尚書僕射にした」と書いていますが、『晋書・列伝第四十六(王彪之伝)』を見ると、王彪之はまず鎮軍将軍・会稽内史になり、散騎常侍を加えられてから、会稽内史等の官を免じられて尚書に降格となり、その後、改めて尚書僕射になっているので、「尚書・王彪之を僕射に任命した」とする『資治通鑑』の記述が正しいようです。

 

 

次回に続きます。

東晋時代87 東晋廃帝(一)  366年

 

 

 

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