東晋時代87 東晋廃帝(一) 366年

今回から東晋廃帝(海西公)の時代です。

 

廃帝

姓は司馬、名は弈、字は延齢といい、東晋成帝の子で、哀帝の同母弟です。

後に桓温に帝位を廃されて海西公になるので、皇帝としての諡号はありません。『晋書・第八・海西公紀』と『資治通鑑』は「海西公」としていますが、この「通史」では「東晋廃帝」と書きます。

 

以下、『晋書・第八・海西公紀』からです。

司馬奕は東晋成帝咸康八年(342年)に東海王に封じられました。

穆帝永和八年(352年)に散騎常侍になり、間もなくして鎮軍将軍を加えられました。

穆帝升平四年(360年)、車騎将軍に任命されました(『晋書・第八・穆帝紀』では、穆帝升平三年(359年)に車騎将軍に任命されています)

升平五年(361年。穆帝の死後)、琅邪王に改封されました。

哀帝隆和初年(362年)、侍中・驃騎大将軍・開府儀同三司に転じました。

興寧三年(365年)二月丙申(二十二日)、哀帝が死にました。

丁酉(二十三日)、哀帝に後嗣がいなかったため、皇太后が詔を発して、司馬奕が皇帝の位に即きました。

 

哀帝興寧三年(365年)の出来事は既に書いたので、再述は避けます。

 

 

東晋廃帝太和元年

前涼沖王太清四年/前燕幽帝建熙七年/前秦天王建元二年

丙寅 366年

 

[一] 『晋書・第八・海西公紀』からです。

春二月己丑(二十一日)、東晋が涼州刺史・張天錫を大将軍・都督隴右関中諸軍事・西平郡公にしました。

 

『資治通鑑』にはこの記述がなく、『晋書・列伝第五十六(張天錫伝)』では「大将軍・大都督・督隴右関中諸軍事・護羌校尉・涼州刺史・西平公」になっています。

 

[二] 『晋書・第八・海西公紀』からです。

丙申(二十八日)、東晋が宣城内史・桓祕を持節・監梁益二州征討諸軍事に任命しました。

 

[三] 『晋書・第八・海西公紀』からです。

三月辛亥(十三日)、東晋の新蔡王・司馬邈が死にました。

 

司馬邈は汝南王・司馬祐(威王)の子で、司馬祐は司馬矩(懐王)の子、司馬矩は司馬亮(八王の乱で殺された汝南文成王。司馬懿の子に当たります)の子です(東晋成帝咸和八年・333年参照)

『晋書・列伝第七・宗室伝』によると、司馬邈の跡は子の司馬晃が継ぎました。

 

[四] 『晋書・第八・海西公紀』と『資治通鑑』からです。

東晋の荊州刺史・桓豁が督護・桓羆に南鄭を攻撃させて、司馬勲を討ちました。

魏興の人・畢欽が兵を挙げて桓羆に応じました。

 

[五] 『資治通鑑』からです。

前燕の太宰・大司馬・慕容恪と太傅・司徒・慕容評が叩頭して政権を奉還し(稽首帰政)、章綬を返上して、邸宅に帰ることを請いましたが、幽帝(燕主・慕容暐)は同意しませんでした。

幽帝は東晋穆帝升平四年(360年)に十一歳で即位したので、本年(366年)は十七歳です。

 

[六] 『晋書・第八・海西公紀』からです。

夏四月、旱害に襲われました。

 

[七] 『晋書・第八・海西公紀』と『資治通鑑』からです。

五月戊寅(十二日)、東晋の皇后・庾氏が死にました。

 

[八] 『晋書・第八・海西公紀』と『資治通鑑』からです。

東晋の朱序と周楚が成都で司馬勲を撃ちました。司馬勲は部衆が潰えて破れ、その党と共に捕えられて大司馬・桓温に送られました。

桓温は司馬勲等を全て斬って首を建康に伝えました(送りました)

 

[九] 『資治通鑑』からです。

代王・拓跋什翼犍が左長史・燕鳳を派遣して、前秦に入貢させました。

 

[十] 『晋書・第八・海西公紀』と『資治通鑑』からです。

秋七月癸酉(初八日)、東晋が孝皇后(「孝」は庾皇后の諡号です)を敬平陵に埋葬しました。

 

[十一] 『資治通鑑』からです(『晋書・第八・海西公記』は十月に置いています)

前秦の輔国将軍・王猛、前将軍・楊安、揚武将軍・姚萇等が二万の衆を率いて東晋の荊州を侵し、南郷郡を攻撃したたため、荊州刺史・桓豁が救援に向かいました。

 

八月、桓豁が新野に駐軍しました。

前秦の兵は安陽の民一万余戸を奪って還りました。

『資治通鑑』胡三省注によると、漢代の安陽県は漢中郡に属しましたが、魏が魏興郡を置いて安陽を属させ、晋は安陽を廃しました。胡三省注は「秦は南郷を攻めてから退いたので、山阻(険阻な山中)に深入りして、安陽の民を奪えるはずがない」と解説しています。『晋書・載記第十三』では「漢陽(漢水の北)」としているので、「安陽」は「漢陽」が正しいようです。

 

[十二] 『晋書・第八・海西公紀』と『資治通鑑』からです。

九月甲午(二十九日)、東晋が梁・益二州で曲赦(特赦)しました。

『資治通鑑』胡三省注が解説しています。東晋は司馬勲を平定したので、その支党や脅迫されて従った者の罪を赦しました。

 

[十三] 『晋書・第八・海西公紀』はここで「冬十月辛丑(初七日)、苻堅(前秦)の将・王猛と楊安が南郷を攻めた。東晋の荊州刺史・桓豁がこれを救い、師(軍)が新野に駐留したので、王猛と楊安は退いた」と書いています。『資治通鑑』は七月から八月の事としています(上述)

 

[十四] 『晋書・第八・海西公紀』と『資治通鑑』からです。

冬十月、東晋が司徒・会稽王・司馬昱に丞相・録尚書事を加え、「入朝不趨(入朝時に宮中で小走りになる必要がないこと)」「讚拝不名(入朝等の際に直接名を呼ばれないこと)」「剣履上殿(剣を帯びて靴を履いたまま上殿できること)」の特権を与えました。

 

[十五] 『資治通鑑』からです。

前涼の張天錫が使者を派遣して前秦との国境上に至らせ、関係を絶つことを告げました(原文「告絶於秦」。前涼は東晋穆帝永和十二年・356年から前秦と通じていました)

 

[十六] 『資治通鑑』からです(『晋書・海西公紀』は年末に置いています)

前燕の撫軍将軍・下邳王・慕容厲が東晋の兗州を侵し、魯や高平等の数郡を攻略して、守宰(郡県の長官)を置いて還りました。

 

[十七] 『資治通鑑』からです。

以前、隴西の人・李儼(東晋穆帝永和十一年・355年に隴西を占拠しました)が郡を挙げて前秦に降りましたが、暫くして張天錫とも通じました。

 

十二月、羌人の斂岐(『資治通鑑』胡三省注によると、斂は羌の姓です。尚、『晋書・載記第十三』と『資治通鑑』では「斂岐」ですが、『晋書・列伝第五十六(張天錫伝)』では「廉岐」としています)が略陽の四千家を率いて前秦に叛し、李儼に対して臣を称しました。

李儼は自ら牧守を拝置(任命・配置)し、秦・涼との関係を絶ちました。

 

[十八] 『晋書・第八・海西公紀』と『資治通鑑』からです。

南陽督護・趙億(これは『資治通鑑』の記述で、『晋書・海西公紀』は「南陽の人・趙弘、趙憶等」としています)が宛城を占拠して東晋に叛し、前燕に降りました。東晋の太守・桓澹(『晋書・海西公記』『資治通鑑』とも「桓澹」ですが、『晋書・列伝第四十四(桓豁伝)』では「桓淡」です)は逃走して新野を守ります。

燕人は南中郎将・趙盤を魯陽から移動させて、宛を守らせました。

 

[十九] 『晋書・第八・海西公紀』はここで「慕容暐(前燕)の将・慕容厲が魯郡と高平を攻略した」と書いています。『資治通鑑』は十月に置いています(上述)

 

 

次回に続きます。

東晋時代88 東晋廃帝(二) 李儼平定 367年

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