東晋時代88 東晋廃帝(二) 李儼平定 367年

今回は東晋廃帝太和二年です。

 

東晋廃帝太和二年

前涼沖王太清五年/前燕幽帝建熙八年/前秦天王建元三年

丁卯 367年

 

[一] 『資治通鑑』からです。

東晋の徐兗二州刺史・庾希は后族(皇后の家族)だったため、兄弟ともに貴顕になりました。大司馬・桓温がこれを嫌います(忌之)

 

春正月、庾希が魯と高平を救えなかった罪(前年参照)に坐して免官されました。

 

『晋書・第八・海西公紀』は「春正月、北中郎将・庾希に罪があり、走って(逃走して)海に入った」と書いています。しかし『晋書・列伝第四十三(庾希伝)』を見ると、庾希は海西公(東晋廃帝)が廃されてから海陵に逃走しているので、本年は免官されただけのようです(『資治通鑑』胡三省注参照)

 

[二] 『資治通鑑』からです。

二月、前燕の撫軍将軍・下邳王・慕容厲と鎮北将軍・宜都王・慕容桓が敕勒を襲いました。

 

[三] 『資治通鑑』からです。

前秦の輔国将軍・王猛、隴西太守・姜衡、南安太守・南安の人・邵羌、揚武将軍・姚萇等が一万七千の衆を率いて斂岐(前年参照)を討ちました。

 

三月、張天錫も前将軍・楊遹を派遣して金城に向かわせ、征東将軍・常據を派遣して左南に向かわせ、游撃将軍・張統を派遣して白土に向かわせ、張天錫自ら三万人を率いて倉松に駐屯し、李儼(前年参照)を討ちました。

『資治通鑑』胡三省注によると、左南は張軌が置いた県で、晋興郡に属しました。白土県は金城郡に属しました。倉松県は漢代以来、武威郡に属しました。後涼の呂光によって昌松県に改められます。

 

斂岐の部落は以前、姚弋仲に属していたため、姚萇が至ったと聞いて、皆、投降しました。そこで、王猛が略陽を攻略し、斂岐は白馬(『資治通鑑』胡三省注によると、この白馬は武都白馬氐の地です)に奔りました。

前秦天王(秦王・苻堅)は姚萇を隴東太守にしました。

 

[四] 『晋書・第八・海西公紀』と『資治通鑑』からです。

夏四月、前燕の慕容塵が東晋の竟陵を侵しましたが、太守・羅崇が撃破しました。

 

[五] 『資治通鑑』からです。

張天錫が李儼の大夏、武始二郡を攻めて下しました(『資治通鑑』胡三省注によると、張駿が狄道県に武始郡を置き、武始、興晋、広武(の三郡)を分けて大夏郡を置きました)

更に常據が李儼の兵を葵谷で敗り、張天錫が兵を進めて左南に駐屯しました。

李儼は懼れて退き、枹罕を守りました。また、兄の子・李純を前秦に派遣して謝罪し、併せて救援を請いました。

前秦天王(秦王・苻堅)は前将軍・楊安と建威将軍・王撫に騎兵二万を率いさせ、王猛と合流して李儼を救わせました。

 

王猛は邵羌を派遣して斂岐を追撃させ、王撫に侯和を守らせ、姜衡に白石(『資治通鑑』胡三省注によると、白石県は、西漢は金城郡に属し、東漢は隴西郡に属し、張駿が永固県に改めました。ここでは「白石」としていますが、「永固」とするのが正しいはずです)を守らせてから、楊安と共に枹罕を救いに行きました。

 

張天錫が楊遹を派遣して枹罕東で前秦軍を逆戦(迎撃)させましたが、王猛がこれを大破しました。俘斬(捕虜・斬首)が一万七千級に上り、王猛が張天錫と枹罕城下で対峙します。

 

邵羌が白馬で斂岐を捕えて(王猛に)送りました。

 

王猛が張天錫に書を届けました「私は詔を受けて李儼を救ったが、涼州と戦うことは命じられていない(吾受詔救儼,不令与涼州戦)。今は壁を深くして(厚くして)塁を高くし、後の詔を聴こうとしている(今当深壁高塁,以聴後詔)。日を費やして持久したら、恐らく二家(秦と涼)共に疲弊してしまうので、良算(良計)ではない(曠日持久,恐二家俱弊,非良算也)。もし将軍が退舍(退却、退避)するなら、私は李儼を捕えて東に向い、将軍は(李儼の)民を遷して西に帰る。こうすることもできるのではないか(若将軍退舍,吾執儼而東,将軍徙民西旋,不亦可乎)。」

張天錫が諸将に言いました「王猛の書にはこのように書かれている(猛書如此)。私は元々叛した者を討伐しに来たのであって、秦と戦うために来たのではない(吾本来伐叛,不来与秦戦)。」

こうして張天錫は兵を率いて帰りました。

 

李儼は秦師を受け入れようとしませんでした。そこで王猛は白衣を着て輿に乗り(白服乗輿)、従者数十人を率いて李儼との会見を請いました。李儼は門を開いて王猛を招き入れます。すると、李儼が備えを為す前に、王猛の将士が続いて進入し、そのまま李儼を捕えました。

前秦は立忠将軍・彭越(『資治通鑑』胡三省注によると、立忠将軍は苻秦が置いた将軍号です)を平西将軍・涼州刺史に任命して枹罕を鎮守させました。

 

張天錫が西に帰った時(李儼が王猛に捕えられる前の事です)、李儼の将・賀肫が李儼を説得してこう言いました「明公の神武と将士の驍悍をもってして、なぜ人(王猛)に対して束手(抵抗を止めること。捕虜になること)するのですか(柰何束手於人)。王猛は孤軍で遠くに来ており、士卒が疲弊しています。しかも我々が救援を請うたので、必ず備えを設けていません(且以我請救,必不設備)。もしその怠(油断)に乗じてこれを撃てば、志を得ることができます。」

しかし李儼はこう言いました「難を免れるために人に救援を求めたのに、難を免れてからそれを撃ったら、天下が私をどうみなすだろう(求救於人以免難,難既免而撃之,天下其謂我何)。守りを固めて衰弱させるべきだ。そうすれば、彼は自ら退くだろう(不若固守以老之,彼将自退)。」

王猛は李儼を捕えてから、すぐに出迎えなかったことを譴責しました。すると李儼は賀肫の謀を王猛に告げました。

王猛は賀肫を斬り、李儼を連れて帰還しました。

 

李儼が長安に至ると、天王は李儼を光禄勲に任命して、帰安侯の爵位を下賜しました。

 

『晋書・第八・海西公紀』は『資治通鑑』と大きく異なり、こう書いています「苻堅(前秦)の将・王猛が涼州を寇したが(侵したが)、張天錫がこれを拒み、王猛の師が敗績(敗北)した。」

 

[六] 『資治通鑑』からです。

前燕の太原王・慕容恪(諡号は桓王です)が幽帝(燕主・慕容暐)に進言しました「呉王・垂は将相の才が臣の十倍もあります。しかし、先帝が長幼の次(序列)を用いたので、臣は彼に先んじること(彼の上になること)ができました(呉王垂将相之才十倍於臣,先帝以長幼之次,故臣得先之)。臣が死んだ後は、陛下が国を挙げて呉王(の言)を聴くことを願います(臣死之後,願陛下挙国以聴呉王)。」

 

五月壬辰(『二十史朔閏表』によると、この年五月は「壬戌」が朔なので、「壬辰」はありません)、慕容恪の病が重くなったため、幽帝が自ら見舞いに行き、後事について問いました。

慕容恪が言いました「臣が聞くに、恩に報いるには、賢人を推薦するに越したことはないと言います(臣聞報恩莫大於薦賢)。賢者ならたとえ板築にいたとしても、相になることができます(板築は土木工事です。商王・高宗が板築の人夫・傅説を抜擢して相に任命した故事を指します)。至親(極めて親しい者。近親、親族)ならなおさらでしょう(況至親乎)。呉王は文武の資質を兼ね備えており、(才が)管・蕭(管仲と蕭何)に次ぐので(文武兼資,管蕭之亜)、陛下がもし大政を任せるようなら、国家が安んじますが、(逆に)もしそうしなかったら、秦・晋が必ず窺窬の計(隙を窺って侵犯しようとする計)を抱きます。」

慕容恪は言い終ると死にました。

 

前秦天王(秦王・苻堅)は慕容恪が死んだと聞いて、秘かに前燕を図る計を抱き、可否を窺おうとしました。そこで、匈奴の曹轂(匈奴の右賢王です)に命じ、使者を発して前燕に朝貢させました(命匈奴曹轂発使如燕朝貢)。西戎主簿・郭辯を副(副使)に任命します(『資治通鑑』胡三省注によると、西晋武帝が長安に西戎校尉を置きました。前秦はこれを踏襲したようです。主簿は西戎校尉の属官です。『晋書・載記第十一』によると、前秦天王は西戎主簿・郭辯を派遣して秘かに匈奴左賢王(右賢王の誤りです)・曹轂と結び、曹轂から鄴へ使者を派遣させました。それを機に郭辯も曹轂の使者に従って前燕に入りました)

 

前燕の司空・皇甫真(『資治通鑑』胡三省注によると、皇甫真は安定の人ですが、前燕に仕えました。安定は雍州に属し、前秦の領土です)の兄に当たる皇甫腆および従子(甥、または自分より一世代下の親戚)の皇甫奮、皇甫覆は全て前秦に仕えており、中でも皇甫腆は散騎常侍になっていました。

郭辯は前燕に至ってから公卿を歴訪し、皇甫真にこう言いました「僕(私)は元々秦人でしたが、家が秦に誅されたので、曹王に命を寄せました。貴兄の常侍および奮・覆兄弟とは、かねてから互いに良く知った関係にあります(並相知有素)。」

すると皇甫真は怒ってこう言いました「臣下とは境外の交(国外の者との交流)がないものなのに、なぜそのような言を私に聞かせるのだ(臣無境外之交,此言何以及我)。君は奸人のようだが、これを機に知人のふりをしようとしているのか(または「何かを企んでいるのか」。原文「君似奸人,得無因縁假託乎」)。」

皇甫真が幽帝に報告して窮治(徹底的に追究)するように請いましたが、太傅・慕容評が同意しませんでした。

 

尚、『資治通鑑』胡三省注によると、『燕書』および『晋書・載記第十一』では、皇甫真が太尉になった後に郭辯が前燕に至っており(皇甫真は本年十二月に太尉になります。下述)、『晋春秋』では、前燕幽帝建熙十年(369年)八月の事としています。胡三省注(元は『資治通鑑考異』)は、「恐らくこれらは誤りなので、曹轂が秦に降った下(皇甫真が太尉になる前)に置いた(恐皆非是,故附曹轂降秦下)」と解説しています(曹轂は東晋哀帝興寧三年・365年七月に前秦に叛しましたが、同年八月にまた前秦に降って雁門公に封じられました。『晋書・載記第十三』によると、曹轂は前秦に降ってから暫くして死にました)

 

『資治通鑑』本文に戻ります。

郭辯が帰国してから前秦天王にこう言いました「燕の朝政は綱紀がないので、実に図ることができます。時機を観て変化を識ることができるのは、皇甫真だけです(鑒機識変,唯皇甫真耳)。」

天王が言いました「六州の衆(『資治通鑑』胡三省注によると、六州は幽・并・冀・司・兗・豫州です)をもってして、どうして(燕に)一人の智士も有させずにいられるのだ(燕に智士がいないはずがない。原文「豈得不使有智士一人哉」。『晋書・載記第十一』はこう続けています。「皇甫真も秦人だが燕が用いた。ここから関西には君子が多いことがわかる(真亦秦人而燕用之,固知関西多君子矣)」)。」

 

間もなくして曹轂が死にました。前秦はその部落を二つに分けて、二人の子にそれぞれ統領させました。これを東曹・西曹と号します。

『晋書・載記第十三』によると、天王は曹轂の部落を二つに分けて、貳城以西の二万余落(戸)を曹轂の長子・曹璽に統領させ、貳城以東の二万余落を曹轂の小子・曹寅に統領させました。曹璽は駱川侯に、曹寅は力川侯に封じられました。

 

[七] 『晋書・第八・海西公紀』と『資治通鑑』からです。

東晋の右将軍・荊州刺史・桓豁と竟陵太守・羅崇が宛の趙億(趙憶。前年参照)を撃って攻略しました。

趙億は逃走し、前燕の将・趙盤(『資治通鑑』では「趙盤」、『晋書・海西公紀』では「趙槃」です)は退いて魯陽に帰りました。

 

桓豁が兵を進めて趙盤を追撃し、雉城(『資治通鑑』胡三省注によると、雉県は漢代以来、南陽郡に属しました)で捕えて京師に送りました。

桓豁は兵を残して宛を守らせてから還りました。

 

[八] 『資治通鑑』からです。

秋七月、前燕の下邳王・慕容厲等が敕勒を破り、馬・牛数千頭を獲ました。

 

これ以前に慕容厲の兵が代の地を通った時、穄田(「穄」は穀物の一種です)を侵したため、代王・拓跋什翼犍が憤怒しました、

八月、前燕の平北将軍・武強公・慕容埿が幽州の兵を率いて雲中を守っていたので、什翼犍が雲中を攻めました。慕容埿は城を棄てて逃走し、振威将軍・慕輿賀辛が戦没しました。

 

[九] 『資治通鑑』からです。

九月、東晋が会稽内史・郗愔を都督徐兗青幽揚州之晋陵諸軍事・徐兗二州刺史に任命し、京口を鎮守させました。

『資治通鑑』胡三省注によると、西晋の永嘉の大乱によって、幽・冀・青・并・兗州および徐州淮北の流民が相継いで淮水を渡り、ある者は長江を渡って晋陵界内に住みました。また、東晋成帝時代、郗鑒が淮南にいる流民を晋陵諸県に遷しました。東晋朝廷は江南に遷った者および江北に留まった者に対して、僑郡県を立てて司牧(管理・統治)しました。徐兗二州刺史は江北の一部も治めており、その地にも幽・冀・青・并四州が僑立(僑置)されていました。

 

尚、『晋書・第八・海西公紀』では、会稽内史・郗愔を「都督徐兗青幽四州諸軍事・平北将軍・徐州刺史」に任命しています。

『晋書・列伝第三十七(郗愔伝)』は『資治通鑑』とほぼ同じで、郗愔は「都督徐兗青幽揚州之晋陵諸軍事・領徐兗二州刺史・假節」になっています。

 

[十] 『資治通鑑』からです。

前秦の淮南公・苻幼が反した時(東晋哀帝興寧三年・365年参照)、征東大将軍・并州牧・晋公・苻柳と征西大将軍・秦州刺史・趙公・苻雙も苻幼と通謀しました。しかし前秦天王(秦王・苻堅)は、苻雙は同母弟で至親(極めて近親なこと)であり、苻柳は苻健(景明帝)の愛子だったため、それを隠して不問にしました(隠而不問)

ところが、苻柳と苻雙はまた鎮東将軍・洛州刺史・魏公・苻廋や安西将軍・雍州刺史・燕公・苻武と乱を為そうと謀りました(『資治通鑑』胡三省注によると、前秦の并州刺史は蒲阪を治所に、秦州刺史は上邽を治所に、洛州刺史は陝を治所に、雍州刺史は安定を治所にしました。苻廋と苻武は苻健の子です)

鎮東主簿・南安の人・姚眺が苻廋を諫めてこう言いました「明公は周・邵の親(西周の周公や邵公のような親族関係)をもってして、方面の任を授かったので、国家に難があったら、力を尽くしてそれを除くべきです。自ら難を為すなど、もってのほかです(国家有難,当竭力除之,況自為難乎)。」

苻廋は諫言を聴きませんでした。

 

この事を聞いた天王は苻柳等を召して長安を訪ねさせました。

冬十月、苻柳が蒲阪を占拠し、苻雙が上邽を占拠し、苻廋が陝城を占拠し、苻武が安定を占拠し、皆、兵を挙げて反しました。

 

天王は使者を派遣してこう諭しました「私は卿等を遇して恩も至らせた。なぜ自ら苦難を求めて反すのだ(吾待卿等,恩亦至矣,何苦而反)。今、召喚を中止するので、卿等は兵を解散させて、それぞれ自分の地位を安定させるべきだ。そうすれば一切を今まで通りにしよう(今止不徵,卿宜罷兵,各定其位,一切如故)。」

天王は梨をかじってそれぞれに対する信物にしました(原文「各齧棃以為信」。「齧棃(梨をかじること)」は同心・協力を勧諭する行為です。『資治通鑑』胡三省注によると、棃は脆くて歯が容易に入るので、親戚が離叛したら国力が脆弱になり、敵に乗じられるということを意味しました。そのため、天王は棃をかじって使者に渡し、苻柳等に下賜して信物にしました)

しかし苻柳等は皆、従いませんでした。

 

[十一] 『晋書・第八・海西公紀』からです。

乙巳(十七日)、東晋の彭城王・司馬玄が死にました。

 

司馬玄は司馬紘(司馬懿の弟に当たる司馬馗の子孫です。東晋成帝咸和五年・330年参照)の子です。司馬紘は東晋成帝咸康八年(342年)に死に、司馬玄が跡を継いでいました。

『晋書・列伝第七(宗室伝)』によると、司馬玄の跡は子の司馬弘之が継ぎました。

 

[十二] 『資治通鑑』からです。

代王・拓跋什翼犍が劉衛辰を撃ちました(『資治通鑑』胡三省注によると、代から朔方を撃つには大河(黄河)を西に渡る必要がありました。その津(渡場)を君子津といいます)

黄河がまだ氷結していなかったので(河冰未合)、什翼犍は葦絚(葦の縄)で流澌(川を流れる冰塊)を止めるように命じました。間もなくして河水が凍りましたが、まだ堅くなっていないため、更に葦をその上に散布させました。氷が草に付着して凍りつき、浮梁(浮橋)のようになります。代の兵はそれを利用して渡河しました。

 

劉衛辰は計らずも代の兵が突然至ったため、宗族と共に西に走りました。

什翼犍はその部落の十分の六七を収めて還りました。

 

劉衛辰は前秦に奔りました。

前秦天王(秦王・苻堅)は劉衛辰を送り出して朔方に還らせ、兵を派遣して守らせました。

 

[十三] 『資治通鑑』からです。

十二月甲子(『二十史朔閏表』によると、この年十二月は「戊子」が朔なので、「甲子」はありません)、前燕の太尉・建寧公・陽騖(諡号は敬公です)が死にました。

司空・皇甫真を侍中・太尉に、光禄大夫・李洪を司空にしました。

 

 

次回に続きます。

東晋時代89 東晋廃帝(三) 前秦の内乱 368年

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