東晋時代89 東晋廃帝(三) 前秦の内乱 368年

今回は東晋廃帝太和三年です。

 

東晋廃帝太和三年

前涼沖王太清六年/前燕幽帝建熙九年/前秦天王建元四年

戊辰 368年

 

[一] 『資治通鑑』からです。

春正月、前秦天王(秦王・苻堅)が後将軍・楊成世と左将軍・毛嵩を派遣し、それぞれ分かれて上邽(秦州)と安定(雍州)を討たせました。また、輔国将軍・王猛と建節将軍・鄧羌を派遣して蒲阪(并州)を攻めさせ、前将軍・楊安と広武将軍・張蚝を派遣して陝城(洛州)を攻めさせました。

但し、天王は蒲・陝の軍(蒲阪と陝城に派遣した軍)に対して命を下し、どちらも城から三十里離れた場所で塁壁を堅めるだけにして、戦うことは禁止し(堅壁勿戦)、秦・雍が平定されてから、力を合わせてこれらを取ることにしました。

 

[二] 『資治通鑑』からです。

以前、前燕の太宰・大司馬・慕容恪は、病を患った時慕容恪は前年に死にました。以下、生前の出来事です)、幽帝(燕主・慕容暐)が幼弱で自身では政権を掌握しておらず(政不在己)、太傅・慕容評は猜忌(猜疑・嫉妬)が多かったので、大司馬の任が相応しくない者に委ねられることを恐れ(恐大司馬之任不当其人)、幽帝の兄・楽安王・慕容臧にこう言いました「今、南には遺晋(晋の残り)がおり、西には強秦がおり、二国は常に進取の志を蓄えています。(我々を攻撃しないのは)ただ我々に隙が無いことを顧慮しているからです(顧我未有隙耳)。国の興衰とは輔相(輔政の宰相)に繋がっています。大司馬は六軍を総統するので、相応しくない人材に任せてはなりません(不可任非其人)。私が死んだ後、親疏に基いて言うなら、(大司馬に相応しい人選は)あなたと沖(慕容沖。下述)が当てはまります(以親疏言之,当在汝及沖)(しかし)あなた達は才識が明敏とはいえ、まだ年少なので、多難に堪えることができません(汝曹雖才識明敏,然年少,未堪多難)。呉王(慕容垂)は天資(天性の資質)が英傑で、智略が世の常人を超えているので(智略超世)、あなた達がもしも大司馬を辞退して彼に授けることができれば、必ず四海を混壹(統一)できます。外寇に至っては恐れるに足りません(汝曹若能推大司馬以授之,必能混壹四海,況外寇不足憚也)。利を冒して害を忘れ、国家を意としない(国家の事を考えない)というようなことは、くれぐれもあってはなりません(慎無冒利而忘害,不以国家為意也)。」

慕容恪は太傅・慕容評にも話をしました。

しかし慕容恪が死んでから、慕容評はその言葉を用いませんでした。

 

二月、車騎将軍・中山王・慕容沖を大司馬に任命しました。慕容沖は幽帝の弟です。

荊州刺史・呉王・慕容垂は侍中・車騎大将軍・儀同三司になりました。

 

[三] 『資治通鑑』からです。

前秦の魏公・苻廋が陝城を挙げて前燕に降り、兵を出して応接(呼応)するように請いました。

秦人は大いに懼れ、兵を盛んにして(大集結させて)華陰(『資治通鑑』胡三省注によると、華陰県は陝城の西に位置し、潼関の険がありました)を守りました。

 

前燕の魏尹・范陽王・慕容徳(『資治通鑑』胡三省注によると、前燕は鄴に都を置いたため、魏郡太守を魏尹にしました)が上書してこう主張しました「先帝は天に応じて命を受け、六合(天地四方)の平定を志しました。陛下は纂統したので(皇統を継承したので)、それを継いで成就させるべきです。今、苻氏は骨肉が乖離し、国が分かれて五つになり(『資治通鑑』胡三省注によると、蒲阪、陝城、上邽、安定と長安の五つです)(苻廋が)誠意を投じて救援を請い、(使者が)前後して相継いでいます(投誠請援前後相尋)。これは天が秦を燕に下賜したのです(是天以秦賜燕也)。天が与えたのにそれを取らなかったら、逆に天の殃(禍)を受けることになます。呉・越の事は観るに足ります(教訓とするに足ります。原文「天与不取,反受其殃,呉越之事,足以観矣」。春秋時代、呉は越を滅ぼす好機を活かさなかったため、逆に越に滅ぼされました)。皇甫真に命じて、并・冀の衆を率いて直接、蒲阪に向かわせ、呉王・垂に命じて、許・洛の兵を率いて馳せて苻廋の包囲を解かせ、太傅(慕容評)に京師の虎旅(勇猛な軍隊)を統べて二軍の後継とさせ、三輔に檄を伝えて禍福を示し、購賞(懸賞・褒賞)を立てて明らかにするべきです(宜命皇甫真引并冀之衆徑趨蒲阪,呉王垂引許洛之兵馳解廋囲,太傅総京師虎旅為二軍後継,伝檄三輔,示以禍福,明立購賞)(そうすれば)彼等(三輔)は必ず動静を聞いてすぐに呼応します(望風響応)。渾壹の期(統一の時)はまさにここにあります(渾壹之期於此乎在矣)。」

 

当時、燕人の中には、陝を救ってそれを機に関中を図るように請う者が多数いました。

しかし太傅・慕容評はこう言いました「秦は大国である。今は確かに難があるが、まだ容易に図ることはできない。(また)朝廷(幽帝)は英明だが、まだ先帝には及ばず、我々の智略も太宰(慕容恪)の比ではない(秦大国也。今雖有難未易可図。朝廷雖明未如先帝,吾等智略又非太宰之比)。ただ関を閉じて国境を保つことができれば充分だ。秦の平定は我々の事ではない(但能閉関保境足矣,平秦非吾事也)。」

 

魏公・苻廋が呉王・慕容垂と皇甫真に牋(書信)を送りました「苻堅や王猛は皆、人傑であり、燕に患を為そうと謀って久しくなります。今、機に乗じてこれを取らなければ、恐らく異日(後日)、燕の君臣は甬東の悔を抱くことになるでしょう(原文「恐異日燕之君臣将有甬東之悔矣」。「甬東」は越に滅ぼされた呉王・夫差が住むように命じられた地です。夫差は自殺しました。「甬東の悔」は、機会を活かさなかったために亡国を招いた後悔の念を意味します)。」

慕容垂が皇甫真に言いました「今、人の患いになるのは、間違いなく秦です。しかし、主上(陛下)は春秋に富んでおり(まだ若く)、太傅の識度(見識・度量)を観ても、どうして苻堅や王猛と匹敵できるでしょう(原文「方今為人患者必在於秦,主上富於春秋,観太傅識度,豈能敵苻堅王猛乎」。前秦とまともに戦おうとしても敵わないので、この機会を利用するべきだ、という意味だと思います)。」

皇甫真が言いました「その通りです。しかし、私がそれを知っていても、進言したところで採用されないので、どうしようもありません(『資治通鑑』の原文は「然,吾雖知之,如言不用何」ですが、「如言不用何」の理解が困難なので、『晋書・載記第十一』の「謀之不従可如何」を参考にしました)。」

 

[四] 『晋書・第八・海西公紀』と『資治通鑑』からです。

三月丁巳朔、日食がありました

 

[五] 『晋書・第八・海西公紀』と『資治通鑑』からです。

癸亥(初七日)、東晋が大赦しました。

 

[六] 『資治通鑑』からです。

前秦の楊成世が趙公・苻雙の将・苟興に敗れ、毛嵩も燕公・苻武に敗れました。二人とも奔って帰還します。

前秦天王(秦王・苻堅)は更に武衛将軍・王鑒、寧朔将軍・呂光、将軍・馮翊の人・郭将、翟傉等を派遣し、三万の衆を率いて討たせました。

 

夏四月、苻雙と苻武が勝ちに乗じて楡眉に至りました。苟興を前鋒に任命します。

これに対して王鑒は速戦を欲しましたが、呂光がこう言いました「苟興は志を得たばかりで、気勢がまさに鋭くなっているので、持重(慎重な態度)によってこれに対応するべきです(興新得志,気勢方鋭,宜持重以待之)。彼等は食糧が尽きたら必ず退きます。退いてからそれを撃てば、成功しないはずがありません(彼糧尽必退,退而撃之,蔑不済矣)。」

 

果たして、二旬(二十日間)が経つと苟興が退却を始めました。

呂光が言いました「苟興を撃つことができます(興可撃矣)。」

こうして(王鑒等が)追撃して苟興を敗りました。これを機に苻雙と苻武も撃って大破し、斬獲(斬首・捕虜)が一万五千級に上ります。

苻武は安定を棄てて、苻雙と共に上邽に奔りました。

王鑒等が兵を進めてそれを攻めました。

 

[七] 『晋書・第八・海西公紀』からです。

癸巳(初七日)、雹が降り、大風が吹いて木が倒れました(雨雹,大風折木)

 

[八] 『資治通鑑』からです。

晋公・苻柳がしばしば出撃して戦いを挑みましたが、王猛は応じませんでした。苻柳は王猛が畏れていると判断します。

五月、苻柳が世子・苻良を留めて蒲阪を守らせ、自ら二万の衆を率いて西の長安に向かいました。

しかし蒲阪から百余里離れた場所で、鄧羌が精騎七千を率いて夜襲し、苻柳を敗りました。

苻柳は軍を率いて還りましたが、王猛が邀撃してその衆を全て捕虜にしました。

苻柳は数百騎と共に入城し、王猛と鄧羌が兵を進めてこれを攻めました。

 

秋七月、王鑒等が上邽を攻略し、苻雙と苻武を斬りました。苻雙等の妻子は赦されました。

 

前秦が左衛将軍・苻雅を秦州刺史に任命しました。

八月、長楽公・苻丕を雍州刺史に任命しました。

 

[九] 『晋書・第八・海西公紀』からです。

壬寅(十八日)、東晋の尚書令・衛将軍・藍田侯・王述が死にました。

 

[十] 『資治通鑑』からです。

九月、王猛等が蒲阪を攻略し、晋公・苻柳およびその妻子を斬りました。

王猛は蒲阪に駐屯し、鄧羌を派遣して王鑒等と合流させ、共に陝城を攻撃させました。

 

[十一] 『資治通鑑』からです。

前燕の王公・貴戚は多くが民を占有して蔭戸にしていました。

「蔭戸」というのは、王公・豪族が私有する民戸です。『資治通鑑』胡三省注によると、晋制では、官品が第一から第九までの者は、それぞれの貴賎によって占田(占有地。私有地)の面積に差があり、また、官品の高低に則って親属が国から保護され(原文「蔭其親属」。「蔭」は功臣の子孫等を国が保護して官爵や特権を与えることです)、多い者は保護の対象が九族に及び、少ない者でも二世に及びました。宗室、国賓、先賢の後代および士人の子孫も同じです。また、彼等は蔭人(王公・豪族等に保護された人。国から課された賦役の免除等、特権を持ちます)を得て、衣食客(貴族・豪族に依附する者)や佃客(貴族・豪族に保護された農民)にしました。こうして「蔭戸」が形成されました。

 

王公・貴戚が蔭戸を有したため、国の戸口が私家よりも少なくなり、ついには倉庫が尽きて空になり、用度(費用)が不足するようになりました。

尚書左僕射・広信公・悦綰が言いました「今は三方(燕・晋・秦)が鼎峙(鼎立・対峙)し、それぞれに吞併の心があります。それなのに(我が国は)国家の政法が立たず(確立できず)、豪貴が恣横(放縦・専横)して、民戸を尽きさせるに至り(至使民戸殫尽)、そのため委輸(輸送した物資)(国庫に)入らず、吏が常俸(通常の俸禄)を断たれ、戦士が廩(食糧)を絶たれ、官(政府)は粟帛を貸し出して自身を救済しています(官貸粟帛以自贍給)(このような状況は)隣敵に聞かれてはならず、(国を)治める方法でもないので、諸蔭戸を一切罷断(廃除)して、全て郡県(の管理下)に戻すべきです(既不可聞於隣敵,且非所以為治,宜一切罷断諸蔭戸,尽還郡県)。」

幽帝(燕主・慕容暐)はこれに従い、悦綰に専属で蔭戸の事を治めて姦伏を糾擿(糾弾・摘発)させました。その結果、敢えて蔽匿(隠匿)しようとする者がいなくなり、二十余万戸が探し出されましたが、朝廷を挙げて悦綰を怨怒するようになりました。

悦綰は以前から疾病があり、戸籍の釐校(整理・校正)に尽力し始めてから、ますます重くなりました(疾遂亟)

冬十一月、悦綰が死にました。

 

[十二] 『資治通鑑』からです。

十二月、前秦の王猛等が陝城を攻略し、魏公・苻廋を捕えて長安に送りました。

前秦天王(秦王・苻堅)が背反した理由を問うと、苻廋はこう応えました「臣には本来、反心がありませんでした。ただ、弟兄(兄弟)がしばしば逆乱を謀り、臣も併せて殺されるのではないかと懼れたので、謀反したのです(臣本無反心,但以弟兄屢謀逆乱,臣懼并死,故謀反耳)。」

天王が泣いて言いました「汝は元から長者(徳がある人)なので、汝の心(本意)ではないことは始めからわかっていた。それに、高祖(景明帝・苻健。苻廋の父です)の後代がいなくなるわけにはいかない(汝素長者,固知非汝心也。且高祖不可以無後)。」

天王は苻廋に死を賜りましたが、七人の子は赦し、長子に魏公を世襲させ、他の子も全て県公に封じて、越厲王(苻生。苻生は廃されてから越王になりました。「厲」は苻生の諡号です。東晋穆帝升平元年・357年参照)および諸弟で跡継ぎがいない者を継がせました。

 

苟太后が問いました「廋と雙は共に反したのに、雙は後継者を置くことができませんでした。何故ですか(雙独不得置後,何也)?」

天王が言いました「天下は高祖の天下です(天下者,高祖之天下)。高祖の子は後継者がいないわけにはいきません(高祖之子不可以無後)(しかし)仲群(苻雙の字です)に至っては、太后を顧みず、宗廟を危うくしようと謀りました。天下の法は、私情によって曲げることはできません(至於仲群,不顧太后,謀危宗廟,天下之法,不可私也)。」

 

天王は范陽公・苻抑を征東大将軍・并州刺史に任命して蒲阪を鎮守させ、鄧羌を建武将軍・洛州刺史に任命して陝城を鎮守させました。また、姚眺を抜擢して汲郡太守に任命しました。

 

[十三] 『資治通鑑』からです。

東晋が大司馬・桓温に殊礼(特殊な礼遇)を加え、位を諸侯王の上にしました。

 

[十四] 『資治通鑑』からです。

この年、東晋が仇池公・楊世を秦州刺史に、楊世の弟・楊統を武都太守に任命しました。

楊世が前秦に対しても臣と称したため、前秦は楊世を南秦州刺史に任命しました。

 

 

次回に続きます。

東晋時代90 東晋廃帝(四) 桓温の北伐失敗 369年(1)

 

 

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