東晋時代90 東晋廃帝(四) 桓温の北伐失敗 369年(1)

今回は東晋廃帝太和四年です。三回に分けます。

 

東晋廃帝太和四年

前涼沖王太清七年/前燕幽帝建熙十年/前秦天王建元五年

己巳 369年

 

[一] 『晋書・第八・海西公紀』と『資治通鑑』からです。

春三月、東晋の大司馬・桓温が徐兗二州刺史・郗愔、江州刺史・桓沖、豫州刺史・袁真等と共に前燕を伐つ許可を請いました。

 

郗愔が北府(『資治通鑑』胡三省注によると、晋は建康に都を置いてから、京口を北府、歴陽を西府とし、姑孰を南州としました)にいた時、桓温は常にこう言っていました「京口は酒を飲むことができて、兵を用いることができる(京口は酒も兵も優れている。原文「京口酒可飲,兵可用」)。」

桓温は郗愔が北府に居ることを甚だ望んでいませんでしたが(深不欲愔居之)、郗愔は事機(時勢、情勢)に対して暗かったため、桓温に牋(書信)を送り、共に王室を輔佐することを欲して、自身の兵を監督して河上に出る許可を請いました(欲共獎王室,請督所部出河上)

当時、郗愔の子・郗超は桓温の参を勤めていました。郗超は父の牋を受け取って中身を視てから、粉々に破り棄て(寸寸毀裂)、改めて郗愔の牋を書き直しました。その内容は、自分は将帥の才ではないので軍旅に堪えることができず、しかも老病(老齢病弱)なので、閒地(空地。または閑職)を求めて自分を養うことを乞い、桓温に自分が統括する部衆も併せて統領するように勧める、というものでした。

牋を得た桓温は大いに喜び、すぐに郗愔を冠軍将軍・会稽内史(『資治通鑑』胡三省注によると、会稽は王国になったので、太守を内史に改めました)に遷して、自ら徐兗二州刺史を兼任しました(自領徐兗二州刺史)

 

夏四月庚戌(初一日)、桓温が歩騎五万を率いて姑孰を発しました。

 

[二] 『資治通鑑』からです。

甲子(十五日)、前燕幽帝(燕主・慕容暐)が可足渾氏を皇后に立てました。可足渾皇后は太后の従弟に当たる尚書令・豫章公・可足渾翼の娘です。

 

[三] 『資治通鑑』からです。

東晋の大司馬・桓温が兗州から出兵して前燕を伐ちました。

郗超が「道が遠く、汴水も浅いので(『資治通鑑』胡三省注によると、汴水には泥が溜まっていましたが、兵乱のため水利を修める者がなく、水が浅くなっていました)、恐らく漕運(水運)を通すのが困難です」と言いましたが、桓温は従いませんでした。

 

六月辛丑(『二十史朔閏表』によると、この年六月は「庚戌」が朔なので、「辛丑」はありません)、桓温が金郷(金郷県は、東漢は山陽郡に属し、晋は高平郡に属しました。隋は済陰郡に、唐は兗州に、宋は済州に属します)に至りました。

この時、旱害に襲われたため、水道が絶たれました(天旱水道絶)

そこで桓温は冠軍将軍・毛虎生に鉅野で三百里を穿たせ(鑿鉅野三百里)、汶水を引いて清水に合流させました(『資治通鑑』胡三省注が汶水と清水について解説していますが、省略します)。毛虎生は毛寶の子です(毛寶は薊峻の乱で功を立てました)

桓温は舟師を率いて清水から黄河に入りました。舳艫(船舶。または船頭と船尾)が数百里に連なります。

郗超が言いました「清水から河に入ったら、通運(物資の輸送)が難しくなります(『資治通鑑』胡三省注によると、清水から黄河に入る時は逆流になっており、しかも遠回りなので、輸送が困難でした)。もしも寇(賊)が戦おうとせず、運道(輸送路)も絶たれたら、敵の物資を利用しようとしても得る物が無くなってしまうので、これは危道となります(若寇不戦,運道又絶,因敵為資,復無所得,此危道也)。それよりも、現有の衆を全て挙げて直接、鄴城に向かうべきです(不若尽挙見衆直趨鄴城)(そうすれば)彼等は公の威名を畏れて、必ず動静を聞いただけで逃走・潰滅し(望風逃潰)、北の遼・碣(遼東・碣石)に帰るでしょう。もし(彼等が)出て来て戦えるようなら、(我々は)事をすぐに決することができます(若能出戦則事可立決)。もし(彼等が)鄴の城を修築してこれを守ろうとしても、盛夏に当たる時なので、功力を為すのは難しく(労役の成果を得るのは難しく)、百姓が(労役のために)野に分布するので、全て官(東晋)が有すことになり、易水以南は必ず交臂(拱手)して命を請うようになるでしょう(若欲城鄴而守之,則当此盛夏難為功力,百姓布野尽為官有,易水以南必交臂請命矣)。ただ恐れるのは、明公がこの計を軽鋭(軽率・性急)とみなし、勝敗を判断するのは難しいので、持重(慎重)に務めようと欲することです(但恐明公以此計軽鋭,勝負難必,欲務持重)。もしそのように欲するなら、兵を河・済(黄河・済水一帯)で止めて、漕運を制御下に置き、資儲(物資の蓄え)が充備(充実)するのを待って、来夏になってから兵を進めるべきです(則莫若頓兵河済,控引漕運,俟資儲充備,至来夏乃進兵)。これでは賖遲(延期、先延ばし)するようなものですが、成功を確実にするためにそうするのです(雖如賖遅,然期於成功而已)。もしこの二策を捨てて、軍を連ねて北上したら、進んでも(積極的な態度を採っても)速決できず、退いたら(消極的になったら)必ず愆乏(失敗によって窮乏すること)することになります(進不速決,退必愆乏)。賊はこの勢(形勢、情勢)を利用して、日月を使って引き延ばすので(時間をかせぐので)、徐々に秋冬に及び、水が更に澀滞(滞留)します(賊因此勢以日月相引,漸及秋冬,水更澀滞)。しかも北土は早く寒くなるのに、(我が)三軍で裘褐の者(防寒の服を着た者)は少ないので、恐らくその時に憂いるのは、食糧がないことだけではすまないでしょう(恐於時所憂,非独無食而已)。」

桓温はこの意見にも従いませんでした。

『資治通鑑』胡三省注によると、鄴城に直接向かって一戦で勝負を決する策は危険なので、桓温はその策に従うことができませんでした。また、河・済に兵を留めて翌年を待つ策は、前燕に準備をさせてしまうことになるので、やはり採用しませんでした。

 

桓温が建威将軍・檀玄を派遣して湖陸(『資治通鑑』胡三省注によると、湖陸県は、西漢は湖陵といい、山陽郡に属しました。東漢章帝が湖陸に改名し、晋が山陽郡から分けて高平郡に属させました)を攻めさせ、攻略しました。前燕の寧東将軍・慕容忠を捕えます。

 

『晋書・第八・海西公紀』は「秋七月辛卯(十三日)、慕容暐の将・慕容垂が衆を率いて桓温に抵抗したが、桓温がこれを敗った」と書いています。中華書局『晋書・海西公記』校勘記は、「慕容垂」は恐らく「慕容忠」の誤り、と解説しています。

 

『資治通鑑』に戻ります。

前燕幽帝(燕主・慕容暐)が下邳王・慕容厲を征討大都督に任命し、歩騎二万を率いて黄墟(『資治通鑑』胡三省注によると、外黄県の東に黄城があり、兵乱によって城邑が丘墟(廃墟)になっていたため、「黄墟」と呼ばれました)で逆戦(迎撃)させましたが、慕容厲は兵が大敗し、単馬で奔って帰還しました。

 

高平太守・徐翻が郡を挙げて東晋に投降しました。

 

東晋の前鋒・鄧遐と朱序も林渚(地名。『資治通鑑』胡三省注が解説していますが、省略します)で前燕の将・傅顔を敗りました(『晋書・海西公紀』は九月に書いています。再述します)

 

前燕幽帝は新たに楽安王・慕容臧を派遣し、諸軍を統率して桓温を防がせました。しかし慕容臧では東晋軍に対抗できなかったため、更に散騎常侍・李鳳を派遣して、前秦に救援を求めました。

 

秋七月、桓温が武陽(『資治通鑑』胡三省注によると、この「武陽」は東武陽です。漢代は東郡に属し、魏晋は陽平郡に属しました。唐代には朝城県に改められて魏州に属します)に駐屯しました。

 

前燕の元兗州刺史・孫元がその族党を率いて兵を起こし、桓温に応じました。

桓温は枋頭に至ります。

 

前燕幽帝と太傅・慕容評は大いに懼れ、和龍に奔ることを謀りました。しかし呉王・慕容垂がこう言いました「臣がこれを撃つことを請います。もし勝てなかったら、それから走っても晩くはありません(若其不捷,走未晚也)。」

幽帝は慕容垂を楽安王・慕容臧に代えて使持節・南討大都督とし、征南将軍・范陽王・慕容徳等の衆五万を率いて桓温を防がせました。

慕容垂は上表して司徒左長史・申胤、黄門侍郎・封孚、尚書郎・悉羅騰(悉羅が氏です。『資治通鑑』胡三省注によると、悉羅騰は夷人で、部落名を氏にしたようです)を従軍させました。申胤は申鍾の子、封孚は封放の子です(申鍾は、東晋成帝咸和九年・334年の記述では「申鐘」、成帝咸康六年・340年の記述では「申鍾」と書かれています。封放は東晋穆帝永和七年・351年に登場しました)

 

幽帝は更に散騎侍郎・楽嵩を派遣して前秦に救援を請い、報いとして虎牢以西の地を譲ることに同意しました(許賂以虎牢以西之地)

前秦天王(秦王・苻堅)が群臣を招いて東堂で討議すると、皆こう言いました「昔、桓温が我々を伐ち、灞上に至った時(東晋穆帝永和十年・354年)、燕は我々を救いませんでした。今、桓温が燕を伐ちましたが、なぜ我々が(彼等を)救うのですか(我何救焉)。そのうえ、燕は我々に対して藩を称していません。我々は何のためにこれを救うのですか(我何為救之)。」

王猛が秘かに天王に言いました「燕は強大ですが、慕容評は桓温の敵ではありません。もし桓温が山東を挙げて、進んで洛邑に駐屯し、幽・冀の兵を収め、并・豫の粟(食糧)を引き入れ、崤・澠(崤山と澠池)で観兵(閲兵。武威を示すこと)したら、陛下の大事が去ってしまいます。今は燕と兵を合わせて桓温を退けた方がいいでしょう。桓温が退いた時には、燕も病んでいます(燕も疲弊しています。原文「温退,燕亦病矣」)。その後、我々が彼等の疲弊に乗じてそれを取るというのも、良計ではありませんか(然後我承其弊而取之,不亦善乎)。」

天王はこの意見に従いました。

 

八月、天王が将軍・苟池と洛州刺史・鄧羌を派遣し、歩騎二万を率いて前燕を救わせました。前秦軍は洛陽を出て潁川(『資治通鑑』胡三省注によると、潁川郡の治所は許昌です)に至ります。また、散騎侍郎・姜撫を使者として派遣し、前燕に連絡しました。

王猛を尚書令に任命しました。

 

前燕の太子太傅・封孚が申胤に問いました「桓温は衆が強くて士が整っており、(川の)流れに乗じて直進しているのに、今、大軍をいたずらに高岸で逡巡(停留、徘徊)させて、兵器が刃を接していません(戦いが起きていません。原文「兵不接刃」)。いまだに克殄の理(戦勝の道理)が見えませんが、この事はこれからどうなるでしょう(未見克殄之理,事将何如)?」

申胤が言いました「桓温の今日の声勢をもってしたら、何かを為すことができそうですが、私が観たところでは、功を成せるはずがありません(以温今日声勢似能有為,然在吾観之必無成功。)。それはなぜでしょうか(何則)。晋室が衰弱して桓温がその国を専制していますが、晋の朝臣が全て彼と同心であるとは限りません(晋之朝臣未必皆与之同心)。よって、桓温が志を得るのは、多くの人が願わないことであり、(彼等は)必ず乖阻(違反、妨害)してこの事を失敗させるはずです(故温之得志衆所不願也,必将乖阻以敗其事)。また、桓温は驕慢なうえ衆(多勢)を恃みとしていますが、臨機応変に動くことには消極的になっています(驕而恃衆,怯於応変)。大衆(大軍)が深く進入したら、まさに(その勢いに)乗じる時であるのに、逆に中流で逍遥としており、出撃して利に赴こうとせず、持久を望んで坐したまま全勝しようと欲しています(大衆深入,値可乗之会,反更逍遙中流,不出赴利,欲望持久,坐取全勝)。もしも糧廩(食糧)が予定通り入らず、情況に勢いの衰えが現れたら、必ず戦わずに自ら敗れます。これは自然の数(道理)です(若糧廩愆懸,情見勢屈,必不戰自敗,此自然之數)。」

 

桓温が前燕の降人・段思を郷導(先導)にしましたが、悉羅騰が桓温と戦って段思を生捕りにしました。

また、桓温が元趙将・李述に趙・魏を攻略させようとしましたが、悉羅騰が虎賁中郎将・染干津と共に李述を撃って斬りました(染干津は染干が氏です。『資治通鑑』胡三省注によると、悉羅と同じく夷人の姓です)

桓温の軍が士気を奪われます。

 

これ以前に桓温は豫州刺史・袁真に譙・梁(『資治通鑑』胡三省注によると、譙郡と梁国です)を攻撃させ、石門(地名)の水路を開いて水運を通じさせようとしました。

袁真は譙・梁を攻略しましたが、石門を開くことができず、水運の路が塞がれました。

 

九月、前燕の范陽王・慕容徳が騎兵一万を指揮し、蘭台侍御史・劉当(『資治通鑑』胡三省注によると、『資治通鑑』の版本によっては「蘭台侍御史」を「蘭台治書侍御史」としています)が騎兵五千を指揮して石門に駐屯し、豫州刺史・李邽(『資治通鑑』胡三省注によると、前燕の豫州刺史は許昌を治所にしました)が州兵五千を率いて桓温の糧道を断ちました。劉当は劉佩の子です(『資治通鑑』胡三省注が解説しています。劉佩は慕容皝の将で、石虎を退けたり宇文氏を攻撃して功を立てました)

 

慕容徳は将軍・慕容宙に騎兵千人を率いさせて前鋒としました。

慕容宙は東晋の兵に遭遇するとこう言いました「晋人は軽剽(軽率・性急)で、敵陣を攻略する時は臆病だが、退く敵に乗じる時は勇敢だ(怯於陷敵,勇於乗退)。餌を設けてこれを釣るべきだ(宜設餌以釣之)。」

そこでまず二百騎に戦いを挑ませ、残りの騎兵は三方に分けて埋伏させました。戦いを挑んだ者が兵器を交える前に逃走したため、晋兵が追撃します。そこを慕容宙が伏兵を指揮して攻撃しました。晋兵の死者は甚だ多数に上りました。

 

桓温は戦ってもしばしば不利になり、糧儲(食糧の蓄え)も尽きたうえに、秦兵がもうすぐ至るという情報も聞きました。

丙申(十九日)、桓温は舟を焼き、輜重・鎧仗を棄てて、陸道から奔って還りました。毛虎生を督東燕等四郡諸軍事・領東燕太守(『資治通鑑』胡三省注によると、東燕郡は江左(東晋)が濮陽を分けて立てました。祖逖が豫州にいた時に置かれたようです)に任命します。

 

桓温は東燕から倉垣に出て、井戸を掘って水を飲み、七百余里を行軍しました(『資治通鑑』胡三省注によると、汴水も済瀆(済水?)も北から南に流れており、追手の兵が上流で毒を流す恐れがあるため、井戸を掘りました)

 

前燕の諸将が争って桓温を追撃しようと欲しましたが、呉王・慕容垂がこう言いました「それはならない(不可)。桓温は退却を始めたばかりで惶恐しているので、必ず厳しく警備を設け、精鋭を選んで後拒(殿軍)としているはずだ。これを撃っても志を得られるとは限らない。よって、(追撃を)緩めるべきだ(撃之未必得志,不如緩之)。我々が至らないことを彼が幸いとしたら、必ず昼夜をかけて疾駆する。その士衆が力尽きて気を衰えさせるのを待ち、その後に(我々が)彼等を撃てば、勝てないはずがない(彼幸吾未至,必昼夜疾趨,俟其士衆力尽気衰,然後撃之,無不克矣)。」

慕容垂は八千騎を指揮してゆっくりと桓温の後を追いました。

 

果たして桓温は兼道(昼夜兼行)して進みました。

数日後、慕容垂が諸将に「桓温を撃つことができる(温可撃矣)」と告げて急追しました。襄邑(『資治通鑑』胡三省注によると、襄邑県は漢代から陳留郡に属しました)で桓温に追いつきます。

范陽王・慕容徳が勁騎(精鋭騎兵)四千を襄邑東の澗中(山谷の中)に埋伏させてから、慕容垂と共に桓温を挟撃して大破しました。燕軍が斬首した数は三万級に上ります。

 

前秦の苟池も譙で桓温を邀撃して破りました。晋軍の死者はこの戦いでも万を数えます。

孫元が武陽を占拠して前燕を拒みましたが、前燕の左衛将軍・孟高がこれを討って捕えました。

 

『晋書・第八・海西公紀』は桓温の撤退についてこう書いています「九月戊寅(初一日)、桓温の裨将・鄧遐と朱序が林渚で慕容暐の将・傅末波と遭遇し、また大破した(『資治通鑑』は六月に置いており、「傅末波」は「傅顔」としています)。戊子(十一日)、桓温が枋頭に至った。丙申(十九日)、糧運が続かなくなったため、舟を焼いて帰った。辛丑(二十四日)、慕容垂が桓温の後軍を追って襄邑で敗った。」

 

 

次回に続きます。

東晋時代91 東晋廃帝(五) 慕容垂離反 369年(2)

5 thoughts on “東晋時代90 東晋廃帝(四) 桓温の北伐失敗 369年(1)

  1. 奸臣として有名な慕容評でさえ活躍しているほど燕は戦上手が揃っているのに…。身内で内乱・クーデターが日常茶飯事とは、やはり遊牧民ゆえの実力主義の弊害でしょうか?愛新覚羅氏の爪を煎じて飲ませたいですね笑。

  2. 開府儀同三司様、コメントありがとうございます。
    この時代の北の政権って、強大な指導者が建国して勢力を拡大しても、二代目、三代目は無能で、結局、権力争いを繰り返して、滅びるべくして滅んでいる感じがしますね。確かに、ルールよりも実力、という気風が存在しており、それが弊害になったのかもしれないですね。
    まあ、そのおかげで東晋は生き延びることができたのでしょうけど。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です