東晋時代91 東晋廃帝(五) 慕容垂離反 369年(2)

今回は東晋廃帝太和四年の続きです。

 

[四] 『晋書・第八・海西公紀』からです。

冬十月、大星が西に流れ、雷のような音が鳴りました(大星西流,有声如雷)

 

[五] 『晋書・第八・海西公紀』と『資治通鑑』からです。

己巳(二十二日)、東晋の大司馬・桓温が散卒(四散した兵)を収めて山陽(『資治通鑑』胡三省注によると、山陽は漢代の射陽県の地で、晋が山陽郡を置いて山陽県に改めました。唐代には楚州の治所になります)に駐屯しました。

桓温は喪敗(失敗、敗戦)を深く恥じました。そこで、罪を豫州刺史・袁真に帰す上奏をし(石門の水路を開くことができず、食糧が続かなくなったからです)、袁真を罷免して庶人に落としました。また、冠軍将軍・鄧遐の官も免じました。

 

袁真は桓温が自分を誣告したとみなして不満を抱き(真以温誣己不服)、桓温の罪状を上表しましたが、朝廷は回答しませんでした(不報)

そのため袁真は寿春(『資治通鑑』では「寿春」、『晋書・海西公紀』では「寿陽」です)を占拠して東晋に叛し、前燕に投降して、併せて救援を請いました。また、前秦にも使者を派遣しました。

 

桓温は毛虎生に淮南太守を兼任させて(領淮南太守)、歴陽を守らせました(『資治通鑑』胡三省注が解説しています。本来、淮南太守は寿春を治所にしていましたが、袁真が寿春を占拠して叛したため、毛虎生に歴陽を守らせ、外は寿春に備えて内は江南の守備にしました)

 

[六] 『資治通鑑』からです。

前燕と前秦が好を結んだため、使者が頻繁に往来するようになりました。前燕の散騎侍郎・郝晷と給事黄門侍郎・梁琛も相継いで前秦に入ります。

 

郝晷と王猛は旧交があったため、王猛は平生(通常の友人に対する態度)によって郝晷に接し、東方の事を問いました。

郝晷は前燕の政事が正されていないのに前秦は大いに治まっているのを見て(見燕政不修而秦大治)、秘かに王猛に自分を託そうと欲して、多くの実情を漏らしました(陰欲自託於猛,頗泄其実)

 

梁琛が長安に至った時、前秦天王(秦王・苻堅)はちょうど万年(『資治通鑑』胡三省注によると、万年は秦代の櫟陽で、西漢高帝が改名しました。漢代は馮翊に属し、晋代は京兆に属しました)で狩りをしていました。天王が梁琛を引見しようと欲しましたが、梁琛はこう言いました「秦使が燕に至ったら、燕の君臣は朝服を着て礼を備え、宮廷を灑掃(掃除)し、そうした後にやっと(使者に)会おうとします(然後敢見)。今、秦王は野(郊外)で会おうと欲していますが、使臣(私)には敢えて命を聞くことができません(今秦王欲野見之,使臣不敢聞命)。」

尚書郎・辛勁が梁琛に言いました「賓客が入境したら、ただ主人が処すところ(主人が居る場所。または主人の処置)に従うものだ(惟主人所以処之)。なぜ君にその礼を専制することができるのだ(君が主人の礼を勝手に決めることはできない。原文「君焉得専制其礼」)。そもそも、天子は『乗輿』と称し、至った場所は『行在所』というではないか。なぜ一定の居場所あるのだ(何常居之有)。また、『春秋』にも遇礼(の記述)がある。なぜ(郊外で会うのが)相応しくないのだ(何為不可乎)。」

「遇礼」について『資治通鑑』胡三省注が解説しています。『春秋』の「隠公四年」に、魯の隠公と宋の殤公が清邑で会見したという記述があります。この時、両国の君主は道中で遭遇した時のように簡略した礼を用いたため、これを「遇礼」といいました。

 

梁琛が言いました「晋室が綱紀を失って混乱したので、霊祚(神明による福)が徳に帰して、二方(燕と秦)が国運を継承し、共に明命を受けました(晋室不綱,霊祚帰徳,二方承運,俱受明命)。ところが桓温が猖狂(欲のままに振る舞うこと)して、我が王略(帝王の領土)を窺いました。燕が危うくなったら秦は孤立し、単独では立てなくなるので、秦主は時の患いを共に憂慮して、好を結んで援助したのです(燕危秦孤,勢不独立,是以秦主同恤時患,要結好援)(その結果)東朝(前燕)の君臣は首を延ばして西を望み、(自分達が桓温と)競えなかったために隣国の憂いを為してしまったことを慚愧して、西使(前秦の使者)が来た際には、恭敬を加えて待遇しています(東朝君臣引領西望,愧其不競以為隣憂,西使之辱敬待有加)。今、強寇が既に退き、交聘(使者の往来)がまさに始まったところなので、礼を崇めて義を厚くすることによって、二国の歓(交流による歓び、友誼)を固めるべきだと考えます(謂宜崇礼篤義以固二国之歓)。もしも使臣(私)に対して忽慢(軽視・軽慢)な態度をとるのなら、それは燕を軽視することであり、どうして修好の義(道理)なるでしょう(若忽慢使臣,是卑燕也,豈修好之義乎)

天子とは四海を家とするものなので、移動している時は(天子がいる場所を)『乗輿』といい、止まったら『行在』といいます(故行曰乗輿,止曰行在)(しかし)今は海県(神州。中国)が分裂して、天光が曜(輝き)を分けています(四海を家としているのではありません)。どうして『乗輿』『行在』を言い訳にすることができるのでしょう(安得以乗輿行在為言哉)

礼においては、約束をせずに会うことを『遇』といいます(礼不期而見曰遇)。思うに、(魯隠公と宋殤公は)事情に応じて臨機応変な行動をとったから、その礼が簡略だったのであって、どうして平時の従容としている時に、そのようにすることができるでしょう(蓋因事権行,其礼簡略,豈平居容与之所為哉)。客使が単独で訪問したら、確かに主人に屈する必要があります。しかしもし(主人が)礼に則らないようなら、やはり従うわけにはいきません(客使単行,誠勢屈於主人。然苟不以礼,亦不敢従也)。」

天王は梁琛のために行宮を設けて、百僚を陪位(参列、同席)させ、その後、客を招き入れて、燕朝の儀(前燕が使者を接見する時の儀礼)と同等にしました。

 

(接見)が終わってから、天王が梁琛のために私宴を開きました。

天王が問いました「東朝(前燕)の名臣とは誰だ(東朝名臣為誰)?」

梁琛が答えました「太傅・上庸王・評は明徳が盛んな皇族で、多方面で王室を輔佐しています(明徳茂親,光輔王室)。車騎大将軍・呉王・垂は雄略が世に冠しており、敵を撃退して侵攻を防ぎました(雄略冠世,折衝禦侮)。その他の者も、あるいは文によって(官位を)進められ、あるいは武によって用いられ、それぞれの官が全てその職責に釣り合っており、野には取り残された賢才がいません(其余或以文進或以武用,官皆称職,野無遺賢)。」

 

梁琛の従兄・梁奕は前秦で尚書郎になっていました。

天王は梁奕を典客(来客の担当)にして、梁琛を梁奕の舍(家)に泊まらせました。

しかし梁琛はこう言いました「昔、諸葛瑾(諸葛亮の兄)が呉のために蜀を聘問した時、諸葛亮とは公朝(公の朝廷)だけで会い、退いたら私面(個人的に会うこと)がありませんでした。余(私)は心中でこれを慕っています(余竊慕之)。今回、(私が秦への)使者になったところ、私室(私人の家)に置かれることになりましたが、そのようにはできません(今使之即安私室,所不敢也)。」

結局、梁琛は梁奕の舎に泊まりませんでした。

 

梁奕がしばしば梁琛の邸舍(館舎)に来て臥起(起居)を共にし、時間があれば東国の事について問いましたが(間問琛東国事)梁琛はこう答えました「今は二方が分拠して、兄弟が並んで(各国で)栄龐を蒙っているので、その本心(本意、本音)を論じるとしても、それぞれに所属する場所があります(「それぞれに所属する場所があり、立場が異なるので、私が本心を述べたいと思っても、あなたがそれを聞くことはできない」という意味だと思います。原文「論其本心,各有所在」)。琛(私)が東国の美を言おうと欲しても、恐らくそれは西国が聞きたいと欲することではなく、(私が)その悪を言おうと欲しても、それは使臣に論じられることではありません。兄はなぜ質問するのですか(兄何用問為)。」

 

天王は太子に梁琛を招かせて会見させました。

秦人は梁琛に太子を拝させようと欲し、あらかじめ示唆してこう言いました「隣国の君とは、自分の君のようなものである(猶其君也)。隣国の儲君(後嗣、太子)も、どうして(自国の太子と)異なるだろう(亦何以異乎)。」

梁琛はこう言いました「天子の子は元士(天子の士)とみなされます。これは(太子が)卑賎から高貴に登ることを欲するからです(原文「天子之子視元士,欲其由賎以登貴也」。『資治通鑑』胡三省注によると、『礼記・郊特牲』の「天子の長子は士である。天下には生まれながらに尊貴な者はいないからである(天子之元子,士也,天下無生而貴者也)」という言葉が元になっています)(天子の士にすぎない太子は)父の臣すら自分の臣とみなすことができないのですから、他国の臣ならなおさらではありませんか(尚不敢臣其父之臣,況他国之臣乎)。たとえ純敬(純粋に敬う心)がなくても、礼に則った往来があったら、情(心中)においてどうして恭敬を忘れることがあるでしょう。(太子に拝礼しないのは)ただ、(いたずらに自分の)身を落として屈した結果、面倒を招くことを恐れるからです(苟無純敬,則礼有往来,情豈忘恭,但恐降屈為煩耳)。」

結局、梁琛は太子に対して拝礼を行いませんでした。

 

王猛が梁琛を留めるように勧めましたが、天王は同意しませんでした。

 

[七] 『資治通鑑』からです。

前燕幽帝(燕主・慕容暐)が大鴻臚・温統を派遣し、袁真を使持節・都督淮南諸軍事・征南大将軍・揚州刺史に任命して宣城公に封じました。

しかし温統は淮水を越える前に死にました。

 

[八] 『資治通鑑』からです。

前燕の呉王・慕容垂が襄邑から鄴に還りました。威名が更に振るうようになったため、太傅・慕容評がますます慕容垂を嫌います。

 

慕容垂が上奏しました「(朝廷が)募った将士は自分の身を忘れて効(功)を立て(所募将士忘身立効)、将軍・孫蓋等は敵の鋭鋒を打ち砕いて陣を落としました(椎鋒陥陳)(彼等は)殊賞(特別な褒賞)を蒙るべきです。」

しかし慕容評が全ての上奏を抑えて実行しなかったため、慕容垂はしばしばこの事に言及して、慕容評と朝廷で争いました。こうして二人の怨隙がますます深くなります。

 

太后・可足渾氏はかねてから慕容垂を嫌っていました(東晋穆帝升平二年・358年参照)

そこで、慕容垂の戦功を貶めて(毀其戦功)、慕容評と共に慕容垂誅殺について密謀しました。

太宰・慕容恪の子・慕容楷と慕容垂の舅(母の兄弟)・蘭建がこの事を知り、慕容垂にこう告げました「先に行動すれば人を制すことができます(先発制人)(慕容)評および楽安王・臧を除きさえすれば、残った者には何もできません(余無能為矣)。」

しかし慕容垂はこう言いました「骨肉で害しあい、国に対して率先して乱を起こしたら、私には死があるだけだ。そのようにするのは忍びない(骨肉相残而首乱於国,吾有死而已,不忍為也)。」

暫くして二人がまたこう告げました「内意(可足渾后の意志)は既に決しました。早く行動しないわけにはいきません(不可不早発)。」

慕容垂はやはりこう言いました「どうしても間隙を補うことができないのなら、私はむしろ外に出てそれを避けよう。その他の方法は、議論することではない(必不可彌縫,吾寧避之於外,余非所議)。」

 

慕容垂は内心で憂いを抱きましたが、諸子に告げることはできませんでした。

すると世子・慕容令が恭しくこう問いました(請曰)「尊(尊父。慕容垂)は最近、憂色がありますが、主上(陛下)が幼沖(幼少)で、太傅が賢才を妬み、(あなたの)功績が高くて声望が重くなればなるほど、猜疑されるからではありませんか(尊比者如有憂色,豈非以主上幼沖,太傅疾賢,功高望重,愈見猜邪)?」

慕容垂が言いました「その通りだ(然)。私が力を尽くして命をかけることで強寇(強敵。東晋)を破ったのは、本来、家国(家と国。国家)を保全したいと欲したからだ(吾竭力致命以破強寇,本欲保全家国)。どうして功が成った後に、かえってこの身を容れる場所を無くならせてしまうことになると想像できただろう(豈知功成之後,返令身無所容)。汝は既に私の心を知った。何をもって私のために謀るか(汝が思うに、私は如何すべきだ。原文「何以為吾謀」)?」

慕容令が言いました「主上は闇弱で太傅に委任しているので、一旦に禍が発したら、疾(痛苦、または憂患)は駭機にあります(ある日、禍が発したら、対処する間もなく大きな憂患となります。原文「一旦禍発,疾於駭機」。「駭機」は弩が突発的に矢を放つことで、「突然おとずれる災難」の比喩です)。今、家族を保って自分の身を守り、大義も失いたくないと欲するなら、龍城に逃げて、辞を低くして謝罪することで、主上が察するのを待つしかありません(今欲保族全身不失大義,莫若逃之龍城,遜辞謝罪,以待主上之察)(そのようにすれば)周公が東に住んだ時と同じように、あるいは(主上が)感寤して(あなたは)還ることができるかもしれません(西周初期、即位したばかりの成王が周公を疑ったため、周公は東征に出ました。後に成王が誤りを悟って周公を迎え入れました)。これは最も幸運なことです(若周公之居東,庶幾感寤而得還,此幸之大者也)。もしそうならなかったら、内は燕・代を慰撫し、外は群夷を懐柔し、肥如の険を守ることで自分を保つべきです。これは次の方法です(原文「如其不然,則内撫燕代,外懐群夷,守肥如之険以自保,亦其次也」。『資治通鑑』胡三省注によると、「肥如の険」は盧龍の塞を指します)。」

慕容垂は「善し」と言いました。

 

十一月辛亥朔(『二十史朔閏表』によると、この年十一月は「丁丑」が朔なので、「辛亥」を「朔」とするのは誤りです)、慕容垂が大陸(『資治通鑑』胡三省注によると、かつて鉅鹿を大鹿といい、大陸沢がありました。広阿沢ともいいます)で狩猟をする許可を請い、その機に微服(庶民の服。おしのび)で鄴を出て、龍城に向かおうとしました。しかし邯鄲(『資治通鑑』胡三省注によると、邯鄲県は、漢代は趙国に属し、晋代は広平郡に属しました。後に東魏が廃しますが、隋が再び置き、唐代は磁州に属します)に至った時、少子・慕容麟がかねてから慕容垂に愛されていなかったため、逃げ還って告発しました。慕容垂の左右から多くの者が亡叛(逃亡離反)します。

 

太傅・慕容評が幽帝(燕主・慕容暐)に報告し、西平公・慕容強を派遣して、精騎を率いて慕容垂を追撃させました。

慕容強は范陽で追いつきましたが、慕容垂の世子・慕容令が後ろを断ったため(原文「世子令断後」。慕容令が慕容垂の殿軍になったという意味だと思います)、慕容強は敢えて逼ることができなくなりました。

 

ちょうど日が暮れました。

慕容令が慕容垂にこう言いました「本来は東都(龍城)を保って自分を守ろうと欲しましたが、今は事が既に漏れてしまい、計謀を設ける時間がありません(本欲保東都以自全,今事已泄,謀不及設)。秦主はまさに英傑を招き入れているので、これに帰すべきです(秦主方招延英傑,不如往帰之)。」

慕容垂が言いました「今日の計は、これを捨ててどこに行けるだろう(そうするしかない。原文「今日之計,舍此安之」)。」

慕容垂は騎兵を分散させて足跡を消し(散騎滅迹)、南山に沿って再び鄴に還り、趙の顕原陵に隠れました(『資治通鑑』胡三省注が解説しています。范陽から南山に沿って還ったというのは、中山と常山の山谷の間を通って南に還ったという意味のようです。顕原陵は後趙武帝・石虎の陵墓です)

すると俄かに数百騎の猟者が四面から接近して来ました。慕容垂は抵抗しても敵うはずがなく、逃げようとしても逃げ道がないため、為す術がなくなります(抗之則不能敵,逃之則無路,不知所為)。その時、ちょうど猟者の鷹が全て飛颺(飛翔)したため、衆騎(多数の騎馬)は分散して去って行きました。

慕容垂は(天に感謝して)白馬を殺して天を祭り、それを機に従った者達とも盟を結びました。

 

世子・慕容令が慕容垂に進言しました「太傅は賢人を嫌って能力がある者に嫉妬しており(忌賢疾能)、事を謀ってから(慕容垂誅殺の密謀を指します)、人々が更に忿恨(憤怒怨恨)しています(搆事以来,人尤忿恨)。今、鄴城の中では、尊(あなた)の居場所を知る者がなく、まるで嬰児が母を思うようであり、夷夏(異民族と漢族)がこれ(このような心情)を同じくしています(莫知尊処,如嬰児之思母,夷夏同之)。もしも衆心に順じてその無備(不備)を襲えば、これを取るのは掌を指さすように簡単でしょう(取之如指掌耳)。事が定まった後、弊害を除いて能力がある者を選び、大いに朝政を正し、そのようにして主上を輔佐し、国を安んじて家を存続させれば、大きな功績となります(事定之後,革弊簡能,大匡朝政,以輔主上,安国存家,功之大者也)。今日の便(利。機会)は誠に失うべきではありません。騎兵数人を与えられることを願います。そうすれば、これを成すに足ります(今日之便誠不可失,願給騎数人足以辦之)。」

しかし慕容垂はこう言いました「汝の謀のようにしたら、事が成功したら誠に大福となるが、成功しなかったら後悔しても及ばなくなる(如汝之謀,事成誠為大福,不成悔之何及)。西に奔ることで、万全としたほうがいい(不如西奔,可以万全)。」

 

子の馬奴(原文「子馬奴」。慕容垂の子に仕える馬夫だと思います。あるいは、慕容垂の子で、名を「慕容馬奴」というのかもしれません)が秘かに謀って逃げ帰ろうとしましたが、(慕容垂が)これを殺しました。

慕容垂が出発して河陽に至った時、津吏に(渡河を)禁じられましたが、津吏を斬って渡りました。

その後、洛陽を経由して西に向かい、段夫人、世子・慕容令、慕容令の弟・慕容宝、慕容農、慕容隆、兄の子・慕容楷、舅(母の兄弟)・蘭建、郎中令・高弼と共に前秦に奔りました。妃の可足渾氏は鄴に残されます(段夫人は慕容垂の前妃の妹で、可足渾妃は可足渾太后の妹です。東晋穆帝升平二年・358年参照。『資治通鑑』胡三省注によると、高弼は慕容垂の国卿です)

 

乙泉戍の主・呉帰が追撃して閺郷で追いつきましたが、世子・慕容令が撃退しました『資治通鑑』胡三省注によると、乙泉戍は魏該が守っていた乙泉塢のようです。宜陽県西南、洛水の北原にありました。閺郷は弘農湖県にありました)

 

 

次回に続きます。

東晋時代92 東晋廃帝(六) 前秦と前燕 369年(3)

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