東晋時代92 東晋廃帝(六) 前秦と前燕 369年(3)

今回で東晋廃帝太和四年が終わります。

 

[九] 『資治通鑑』からです。

以前、前秦天王(秦王・苻堅)は前燕の太宰・慕容恪が死んだと聞いて、秘かに燕を図る志を抱きましたが、慕容垂の威名を畏れたため、敢えて実行することができませんでした。

その慕容垂が至ったと聞くと、天王は大いに喜んで郊外まで迎えに行き、慕容垂の手をとってこう言いました「天が賢傑を生んだら、必ず一緒になって共に大功を成すものであり、これは自然の数(道理)である(天生賢傑,必相与共成大功,此自然之数也)(今はまず)卿と共に天下を定めて岱宗(泰山)に成果を報告し、その後、卿を本邦(本国。故郷)に還して、代々、幽州に封じよう(要当与卿共定天下,告成岱宗,然後還卿本邦,世封幽州)(幽州に封じることで)卿が国を去ってからも子としての孝を失わせないようにし、朕に帰してからも主君に対する忠を失わせないようにする、これもまた素晴らしいことではないか(使卿去国不失為子之孝,帰朕不失事君之忠,不亦美乎)。」

慕容垂が感謝して言いました「羇旅の臣(異郷に客居する臣)にとっては、罪から免れられただけでも幸いです。本邦の栄(故郷に封じられる栄誉)は敢えて望めることではありません(羇旅之臣,免罪為幸。本邦之栄,非所敢望)。」

 

天王は世子・慕容令と慕容楷の才も愛したため、どちらも厚く礼遇しました。二人に対する賞賜は鉅万(巨万)にのぼり、二人が進見(謁見)する度に、天王は属目(注目、注視)して観察しました。

 

関中の士民はかねてから慕容垂父子の名を聞いていたため、皆、嚮慕(思慕、仰慕)しました。

王猛が天王に言いました「慕容垂の父子は、譬えるなら龍虎のようであり、手なずけられるものではありません(譬如龍虎,非可馴之物)。もし(彼等が)風雲を借りたら、二度と制御できなくなるので、早く除くべきです(若借以風雲,将不可復制,不如早除之)。」

天王はこう言いました「私はまさに英雄を収攬して四海を清めようとしている。それなのに、なぜ彼等を殺すのだ(柰何殺之)。そもそも彼等が来たばかりの時、私は既に誠意を示して(彼等を)受け入れた(吾已推誠納之矣)。匹夫でも言(約束の言葉)を棄てないものだ。万乗(帝王)ならなおさらではないか(況万乗乎)。」

天王は慕容垂を冠軍将軍に任命して賓徒侯(『資治通鑑』胡三省注によると、賓徒は漢代の県名で遼西郡に属しました)に封じ、慕容楷を積弩将軍に任命しました。

 

前燕では、魏尹・范陽王・慕容徳が以前から慕容垂と友善な関係にあったため、車騎従事中郎・高泰と共に罪に坐して免官されました(『資治通鑑』胡三省注によると、慕容垂は前燕で車騎大将軍になり、高泰を従事中郎にしていました)

尚書右丞・申紹が太傅・慕容評に進言しました「今は呉王が出奔して外口(世論)が籍籍(紛糾、混乱の様子)としているので、王(呉王)僚屬の賢者を召して顕進(顕貴進達。任用して位を高くすること)すべきです。(そうすれば)おおよその誹謗は消すことができます(粗可消謗)。」

慕容評が問いました「誰が相応しいか(誰可者)?」

申紹が言いました「高泰は彼等の領袖(指導者。突出した者)です。」

そこで慕容評は高泰を尚書郎に任命しました。高泰は高瞻の従子(甥、または自分より一世代下の親族。高瞻は東晋元帝太興(大興)二年・319年参照)、申紹は申胤の子(『資治通鑑』胡三省注によると、『資治通鑑』の版本によっては「兄」としているものもあります)です。

 

前秦は梁琛を一月余留めてから送り帰しました。

梁琛は兼程して進みましたが(「程」は駅程(駅と駅の間の距離)です。「兼程」は通常の二倍の速度で移動するという意味です)、鄴に至った時、呉王・慕容垂が既に前秦に奔っていました。

梁琛が太傅・慕容評に言いました「秦人は日々、軍旅を閲し(閲兵・点検し)、多くの食糧を陝東に集めています。琛(私)がこれを観るに、和を為しても久しくできるはずがありません(為和必不能久)(そのうえ)今、呉王も去って(秦に)帰したので、秦には必ず窺燕の謀(前燕の隙を窺う謀)があります。これを防ぐために早く備えを為すべきです(宜早為之備)。」

しかし慕容評はこう言いました「秦はどうして敢えて叛臣を受け入れ、和好を破壊することがあるだろう(秦豈肯受叛臣而敗和好哉)。」

梁琛が言いました「今は二国が中原を分拠しており、常に相吞の志(互いに併呑しようとする志)があります。桓温が入寇した時は、彼等は計(自国のための計策)によって(我々を)救ったのであって、燕を愛したからではありません(桓温之入寇,彼以計相救,非愛燕也)。もし燕に釁(隙)があったら、彼等がどうしてその本志を忘れるでしょう。」

『資治通鑑』胡三省注は「苻堅や王猛が謀を為したことを、梁琛は既に窺い見ていた」と解説しています。

 

慕容評が問いました「秦主とはどのような人だ(秦主何如人)?」

梁琛が言いました「英明なうえに決断を善くします(明而善断)。」

慕容評が王猛について問うと、梁琛は「その名声はいたずらに得たものではありません(名不虚得)」と答えました。しかし慕容評はどの意見にも賛同しませんでした(皆不以為然)

 

梁琛は幽帝(燕主・慕容暐)にも報告しましたが、幽帝も賛同しませんでした(暐亦不然之)

 

梁琛がこの事を皇甫真に告げると、皇甫真は深く憂いて上書しました「苻堅は聘問が相継いでいるとはいえ、実は上国(前燕)を窺う心があり、(我が国の)徳義を慕って喜ぶことはできず、久要(旧約。かつての約束。虎牢以西を割いて前秦に贈ること)を忘れてもいません(苻堅雖聘問相尋,然実有窺上国之心,非能慕楽徳義,不忘久要也)。以前、(苻堅は)洛川に出兵して(『資治通鑑』胡三省注によると、苟池と鄧羌が前燕を援けた時の事です)、しかも使者が連続して至ったので、我が国の険易虚実(燕国の地形が険阻かどうか等の実情)を彼は全て得ています(前出兵洛川,及使者継至,国之険易虚実,彼皆得之矣)。今、呉王・垂も去って彼に従い、その謀主となりました。伍員の禍に備えないわけにはいきません(伍員は春秋時代の伍子胥です。伍子胥は楚王に父と兄を殺されて呉に奔ってから、呉の兵を使って楚に報復しました)。洛陽、太原、壺関は全て将を選んで兵を増やし、そうすることで(禍を)未然に防ぐべきです(以防未然)。」

 

皇甫真の上書を受けて、幽帝は太傅・慕容評を召して謀りました。ところが慕容評はこう言いました「秦は国が小さくて力が弱いので、我々の援けを恃みとしています(恃我為援)。そもそも苻堅は善道の近くにいるので(原文「苻堅庶幾善道」。『資治通鑑』胡三省注が解説しています。苻堅は純粋に善道によって隣国と交わることはできないものの、ほぼそれに近い状態にあるという意味です)、叛臣の言を採用して二国の好を絶つようなことをするはずがありません(終不肯納叛臣之言,絶二国之好)。軽率に自ら驚擾(騒擾)して寇心(敵の侵略の心)を開かせてはなりません(不宜軽自驚擾以啓寇心)。」

結局、前燕は備えを設けませんでした。

 

前秦が黄門郎・石越を派遣して前燕を聘問させました。

太傅・慕容評は豪奢な様子を示して燕の富盛を誇示しようとしましたが、高泰と太傅参軍・河間の人・劉靖が慕容評にこう進言しました「石越は言葉が荒唐で視線が遠かったので、好を求めに来たのではありません。隙を観に来たのです(越言誕而視遠,非求好也,乃観釁也)。よって、兵威を誇示することでその謀を挫くべきです。今、逆に豪奢を示したら、ますます軽視されることになるでしょう(宜耀兵以示之用折其謀。今乃示之以奢,益為其所軽矣)。」

慕容評はこの意見に従いませんでした。

高泰は病を理由に辞職して帰りました(謝病帰)

 

当時は太后・可足渾氏が国政を侵橈(侵犯・攪乱)しており、太傅・慕容評は貪婪で際限がなく(貪昧無厭)、貨賂(貨財、賄賂)は上に流れ、官員は才に応じて推挙されなかったため(貨賂上流,官非才挙)、群下が怨憤していました。

尚書左丞・申紹が上書してこう主張しました「守宰(郡県の長。地方の官員)とは、致治の本(治世をもたらす根本)です。(ところが)今の守宰はほとんどがその人(相応しい人材)ではなく(率非其人)、ある武臣は行伍(軍隊)から出ており、ある貴戚は綺紈(華美な織物。富貴な家の比喩です)で生まれ育ち、郷曲(郷里)で選ばれた人材でもなく、朝廷の職を経歴した者でもありません(既非郷曲之選,又不更朝廷之職)。このような状況に加えて、黜陟(官吏の昇降)に法がないので、貪惰な者(貪婪怠惰な者)にも刑罰の懼れがなく、清修の者(清廉で身を修めている者)にも旌賞の勧(表彰による激励)がありません(加之黜陟無法,貪惰者無刑罰之懼,清修者無旌賞之勧)。その結果、百姓が困弊し、寇盗が充斥(充満)し、綱紀が頽廃混乱しているのに(綱頽紀紊)、糾摂(監督・修正)する者もいません。また、官吏が猥多(繁多)で前世(前代)の状態を越えており、公私が紛然(雑乱の様子)としていて煩擾(雑乱、混乱)に堪えられません(官吏猥多踰於前世,公私紛然不勝煩擾)。大燕の戸口は数が二寇を兼ね(晋・秦二国の人口を合わせた数に匹敵し。原文「数兼二寇」)、弓馬の勁(強さ)は四方に及ぶ者がいないのに、最近は戦えば繰り返し敗北しています(比者戦則屢北)。これは全て、守宰の賦調(徴税)が不公平で、侵漁(他者を侵して財物を奪うこと。「漁」は魚を獲ることですが、ここでは財物を奪うという意味で使われています)が止むことなく、行留(出征する者と留まる者)ともに困窮して、敢えて命を棄てようとする者がいないからです(皆由守宰賦調不平,侵漁無已,行留俱窘,莫肯致命故也)

(また)後宮の女は四千余人を数え、僮侍・廝役(童僕・奴僕)を外しても、一日の費用は万金に値しており(僮侍廝役尚在其外,一日之費厥直万金)、士民もその気風を受けて、競って奢靡を為しています。我々の相手である秦呉は僭僻しながらも(原文「彼秦呉僭僻」。『資治通鑑』胡三省注によると、「僭僻」は、秦が帝号を僭称し、晋(呉)が一隅に退避していることを指します)、なおその部(領地)を條治(治理)できており、兼并の心を抱いています。それなのに我々は上下が惰性に任せて日々秩序を失っています(而我上下因循,日失其序)。我々が(政治を)修めないのは、彼等が願っていることです(我之不修,彼之願也)。思うに、守宰を精選し、(繁多になった)官を合併して(不要な)職を省き、士兵の家族を安撫し、公私ともに満足させ、浪費を節約して抑え、費用を愛惜し、賞は必ず功績と釣り合うようにし、罰は必ず罪過と釣り合うようにするべきです(謂宜精択守宰,併官省職,存恤兵家,使公私両遂,節抑浮靡,愛惜用度,賞必当功,罰必当罪)。このようにすれば、桓温と王猛に対してはその首を斬ることができ、(晋・秦の)二方も取ることができます(如此則温猛可梟,二方可取)。ただ国境を保って民を安んじられるだけのことではありません(豈特保境安民而已哉)

また、索頭(鮮卑。拓跋氏)の什翼犍は疲弊していて暗昏なので(疲病昏悖)、たとえ貢御(進貢、貢物)が乏しくても、患いを為すことはできません。それなのに(我が国は)兵を労して遠くを守っています。これでは、損はあっても益はありません(原文「労兵遠戍,有損無益」。『資治通鑑』胡三省注によると、前燕は雲中に守備兵を置いて代に備えていました)。それよりも、(兵を)并土(并州)に移して西河を制御し、南は壺関を堅め、北は晋陽(の守り)を重ね、西寇(前秦)が来たら拒守(抵抗、防守)し、通過したら後ろを断てるようにするべきです(不若移於并土,控制西河,南堅壺関,北重晋陽,西寇来則拒守,過則断後)。このようにするのは、孤城に守備兵を置いて無用の地を守るよりも勝っています(猶愈於戍孤城守無用之地也)。」

申紹の上書が提出されましたが、省みられませんでした。

 

[十] 『晋書・第八・海西公紀』と『資治通鑑』からです。

辛丑(二十五日)、東晋の大司馬・桓温が山陽から移動して涂中(地名)で丞相・会稽王・司馬昱と会し、後挙(今後の行動)について謀りました。

桓温の世子・桓熙を豫州刺史・假節にしました。

 

[十一] 『資治通鑑』からです。

以前、燕人は虎牢以西を割いて前秦に贈ることに同意しましたが、晋兵が退くとこれを後悔し、秦人にこう言いました「(前回の約束は)行人(使者)の失言だ。国をもち家をもつ者にとって、災害の負担を分け合って禍患から救うのは、理の常である(秦が燕を救ったのは当然な道理である。原文「行人失辞。有国有家者,分災救患,理之常也」)。」

 

前秦天王(秦王・苻堅)は大いに怒って輔国将軍・王猛、建威将軍・梁成、洛州刺史・鄧羌を派遣し、歩騎三万を率いて前燕を伐たせました。

十二月、前秦軍が洛陽に進攻しました。

 

『資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)によると、『燕少帝紀』ではこの年十二月に王猛が洛陽を攻めて翌年正月に攻略しています。『十六国』『秦春秋』では十一月に王猛が燕を攻めて慕容紀に書を送り、慕容紀が投降を請うたので、十二月に王猛が投降を受け入れて帰還しています(慕容紀は洛陽を守っていたようです。但し、『資治通鑑』本文には慕容紀に関する記述はなく、慕容筑が翌年、王猛の書を受け取って、洛陽を挙げて投降します)

『献荘紀』では、前燕幽帝建熙元年二月に慕容令が前秦から奔って鄴に還っており(本年は幽帝建熙十年・359年なので、『燕少帝紀』の「建熙元年」は「十一年」の誤りではないかと思われます。慕容令は建熙十一年・360年に前秦を去って前燕に還ります)、当時、王猛はまだ洛陽にいて、慕容紀に送った投降を勧める書にも「去年、桓温が師(兵)を起こした」と書かれています。よって、『資治通鑑』は『燕書(『燕少帝紀』)』に従っており、本年十二月に王猛が洛陽を攻めて、翌年正月に攻略します。

 

[十二] 『晋書・第八・海西公紀』と『資治通鑑』からです。

東晋の大司馬・桓温が徐・兗二州の民を動員して広陵城を築き、鎮を遷しました。

 

当時は征役が頻繁に行われており、更に疫癘(疫病)が加わったため、死者が十分の四五に上り、百姓が嗟怨(怨嗟。嘆息・怨恨)しました。

祕書監・孫盛(『資治通鑑』胡三省注が祕書監について解説していますが、省略します)が『晋春秋』を著作して、時事についてありのままに書き記しました。

それを見た大司馬・桓温は怒って孫盛の子にこう言いました「枋頭では確かに利を失うことになった(誠為失利)。しかしどうして尊君(『資治通鑑』胡三省注によると、晋代の人は、人の子の前ではその父を「尊君」「尊公」と称しました)が言うほどだっただろう(それほどひどくはなかった。原文「何至乃如尊君所言」)。もしこの史書が行き渡るようなら、自然に君の門戸が閉じられることになるだろう(家門を滅ぼすことになるだろう。原文「若此史遂行,自是関君門戸事」)。」

孫盛の子は急いで拝謝し、史書を改める機会を請いました。

当時、孫盛は老齢のため家に住んでおり、性格は方正厳格で、軌度(法度、軌範)があり、子孫が斑白になっても(髪の一部が白くなっても)、ますます厳しく接していました(待之愈峻)。この時も諸子が共に号泣・稽顙(叩頭)して、百口(家族)のために考えを改めるように請いましたが(請為百口切計)、孫盛は大いに怒って同意しませんでした。そこで、諸子は勝手に内容を改めました。ところが、孫盛はあらかじめ別の本を書写しており、それが外国に伝わることになりました。

後に東晋孝武帝が異書(珍書)を買い求めた時、遼東の人からこの書を得て、当時、東晋に存在していた本とは違う内容だったため、両方が保存されることになりました。

 

 

次回に続きます。

東晋時代93 東晋廃帝(七) 慕容令 370年(1)

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