東晋時代103 東晋孝武帝(二) 蜀の挙兵と失敗 374年

今回は東晋孝武帝寧康二年です。

 

東晋孝武帝寧康二年

前涼沖王太清十二年/前秦天王建元十年

甲戌 374年

 

[一] 『晋書・第九・孝武帝紀』と『資治通鑑』からです。

春正月癸未朔(初一日)、東晋が大赦しました。

 

[二] 『晋書・第九・孝武帝紀』からです。

東晋が故会稽世子・司馬郁に追封して臨川献王という諡号を贈りました。

 

司馬郁は簡文帝(司馬昱)が会稽王だった頃に生まれました。『晋書・列伝第三十四(司馬郁伝)』によると、幼い頃から敏慧(聡明)で、司馬昱に深く器異(器重、重視)されていましたが、十七歳で死にました。

本来、司馬昱の世子は司馬道生でしたが、品行が悪かったため廃されて死にました。そこで、司馬昱は後に司馬郁に「献世子」の諡号を贈りました。

本年、孝武帝が司馬郁を臨川王に追封したため、諡号が「献王」になりました。

 

[三] 『晋書・第九・孝武帝紀』と『資治通鑑』からです。

己酉(二十七日)、東晋の北中郎将・徐兗二州刺史・刁彝が死にました。

二月癸丑(初一日)、丹楊尹・王坦之を都督徐兗青三州諸軍事・北中郎将・徐兗二州刺史に任命して広陵を鎮守させました。

また、孝武帝が詔を発して謝安に中書を総領させました(原文「総中書」。『資治通鑑』胡三省注が解説しています。王坦之が朝廷を出たので、謝安が中書を兼総(総括)することになりました)

 

謝安は声律(音楽)を好み、期功の惨(喪中の悲痛な時。「期功」は喪服です)においても絲竹(楽器、音楽)を廃しませんでした。士大夫もこれに倣っため、それが習慣になります(遂以成俗)

王坦之がしばしば書を送って苦諫し、「天下の宝は、天下のために惜しむべきです(天下の宝は天下のために大切にすべきです。『資治通鑑』胡三省注によると、「天下の宝」は「礼法」を指します。原文「天下之宝,当為天下惜之」)」と言いましたが、謝安は従うことができませんでした。

 

[四] 『晋書・第九・孝武帝紀』からです。

丁巳(初五日)、孛星(異星。彗星の一種)が女虚(女宿と虚宿。星座名です)に現れました。

 

三月丙戌(初五日)、彗星が氐(氐宿)に現れました。

 

[五] 『資治通鑑』からです。

前秦の太尉・建寧公・李威(諡号は烈公です)が死にました。

 

[六] 『晋書・第九・孝武帝紀』からです。

夏四月壬戌(十一日)、東晋の皇太后(褚氏)が詔を発しました「最近、天象が錯乱して、上天が異(異変、異常)を表しているので、その変(異変、変化)を仰ぎ観察して、心中で震え懼れています(頃玄象或愆,上天表異,仰観斯変,震懼于懐)。変を利用して美をもたらすというのは、古からの道です。朕が専心して心を改め、その中(中庸、中正)を思わずにいられるでしょうか(夫因変致休,自古之道,朕敢不克意復心,以思厥中)

三呉は奥壌(肥沃な土地)で、股肱となる望郡(重要な郡邑)なのに、水旱が併せて至り、百姓が業を失っているので、朝から夜までただ憂いて、心中から忘れ去らせることができません。適時に拯卹(救済)してその彫困(衰落・困窮)を救うべきです(三呉奥壌股肱望郡,而水旱併臻百姓失業,夙夜惟憂不能忘懐,宜時拯卹救其彫困)。三呉の義興、晋陵および会稽といった、水害に遭遇した県の中でも特に甚だしい場所は、全て一年の租布(税として納める穀物と布)を免除し、その次は(次に被害が大きい地は)半年免除することを許可します(三呉義興晋陵及会稽遭水之県尤甚者,全除一年租布,其次聴除半年)。振貸(金銭や物資による救済)を受けるべき者に対しては、それを賜(下賜、恩賜)としなさい(原文「受振貸者即以賜之」。救済された物資の返却は必要ないという意味だと思います。誤訳かもしれません)。」

 

[七] 『晋書・第九・孝武帝紀』と『資治通鑑』からです。

五月、蜀の人・張育と楊光が兵を挙げて前秦を撃ちました。二万の衆を有し、東晋に使者を派遣して、藩(臣)と称して兵を請います。

 

前秦天王(秦王・苻堅)は鎮軍将軍・鄧羌を派遣し、甲士五万を率いてこれを討たせました。

 

東晋の益州刺史・竺瑤と威遠将軍・桓石虔が三万の衆を率いて墊江を攻撃しました。

姚萇は兵が敗れたため、退いて五城(『資治通鑑』胡三省注によると、漢代にこの地に倉を建てて、五県の民を動員して尉部(「部尉」または「都尉」の誤り?)に主管させました。西晋武帝がそれを元に五城県を置きました。広漢郡に属します。県内には五城山がありました)に駐屯しました(『晋書・孝武帝紀』では、十一月に桓石虔が墊江で姚萇を破ります。再述します)

竺瑤と桓石虔は巴東に駐屯しました。

 

張育は自ら蜀王と号し、巴獠の酋帥・張重、尹萬および一万余人と共に進軍して成都を囲みました。

 

六月、張育が黒龍に改元しました。

 

[八] 『晋書・第九・孝武帝紀』からです。

秋七月、涼州で地震があり、山が崩れました。

 

[九] 『資治通鑑』からです。

張育が張重等と権勢を争い、兵を挙げて互いに攻撃し合いました。そこを前秦の楊安と鄧羌が襲って張育を敗ります。

張育と楊光は退いて緜竹に駐屯しました。

 

『晋書・第九・孝武帝紀』は七月に「苻堅の将・鄧羌が張育を攻めてこれを滅ぼした」と書いていますが、実際に張育が滅びるのは九月の事です。

 

八月、鄧羌が涪西で晋兵を敗りました。

 

[十] 『晋書・第九・孝武帝紀』からです。

東晋が長秋を建てようとしていたため(「長秋」は皇后の宮殿です。「長秋を建てる」というのは、皇后を立てるという意味です)、暫く(民間の)婚姻を停止させました(以長秋将建権停婚姻)

 

[十一] 『資治通鑑』からです。

九月、楊安が成都南で張重と尹萬を敗りました。張重は死に、二万三千級が斬首されます。

鄧羌も緜竹で張育と楊光を撃ち、どちらも斬りました。

こうして益州が再び前秦に入りました。

 

[十二] 『晋書・第九・孝武帝紀』からです。

丁丑(二十九日)、孛星(異星。彗星の一種)が天市に現れました。

 

[十三] 『晋書・第九・孝武帝紀』からです。

冬十一月己酉(初二日)、天門(郡名)の蜑賊(「蜑」は少数民族です)が郡を攻撃し、太守・王匪が死にましたが、東晋の征西将軍・桓豁が師(軍)を派遣して討平しました。

 

[十四] 『晋書・第九・孝武帝紀』からです。

長城の人・銭歩射、銭弘等が乱を為しましたが、東晋の呉興太守・朱序がこれを討平しました。

 

[十五] 『晋書・第九・孝武帝紀』はここで「癸酉(二十六日)、鎮遠将軍・桓石虔が苻堅の将・姚萇を墊江で破った」と書いていますが、『資治通鑑』は五月に置いています(既述)。また、『資治通鑑』では、桓石虔は「鎮遠将軍」ではなく「威遠将軍」です。但し、『晋書・列伝第四十四(桓石虔伝)』を見ると、「寧遠将軍」とするのが正しいようです。

 

[十六] 『資治通鑑』からです。

十二月、ある者が前秦の明光殿に入ってこう大呼しました「甲申乙酉、魚羊が人を食う。悲しいことだ。残る者はいない(甲申乙酉魚羊食人,悲哉無復遺)。」

「甲申乙酉」は384年と385年を指します。「魚羊」は合わせると「鮮」なので、鮮卑(慕容氏)を指します。

 

前秦天王(秦王・苻堅)が大呼した者を捕えるように命じましたが、獲られませんでした。

 

祕書監・朱肜と祕書侍郎・略陽の人・趙整(『資治通鑑』胡三省注によると、晋の祕書省には丞と郎がいましたが、侍郎はいませんでした。前秦は趙整を祕書郎に任命して左右に内侍させたため、「祕書侍郎」と呼びました)が鮮卑の誅滅を頑なに請いましたが、天王は同意しませんでした。

趙整は宦官ですが、博聞強記で文章を善くし(能属文)、直言を好み、上書や面諫したことが前後して五十余事もありました。

 

慕容垂の夫人(『資治通鑑』胡三省注によると、段夫人です)が天王の寵幸を得ていたため、天王が夫人と同じ輦に乗って後庭で遊んだことがありました。すると趙整が歌を歌いました「雀が燕室(燕の巣)に入るのは見えない。ただ浮雲が白日を覆うのが見えるだけだ(不見雀来入燕室,但見浮雲蔽白日)。」

天王は様相を改めて謝り、夫人に命じて輦から降りさせました。

 

[十七] 『資治通鑑』からです。

この年、代王・拓跋什翼犍が劉衛辰を撃ち、劉衛辰は南に走りました。

 

 

次回に続きます。

東晋時代104 東晋孝武帝(三) 王猛の死 375年

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