東晋時代104 東晋孝武帝(三) 王猛の死 375年

今回は東晋孝武帝寧康三年です。

 

東晋孝武帝寧康三年

前涼沖王太清十三年/前秦天王建元十一年

乙亥 375年

 

[一] 『晋書・第九・孝武帝紀』と『資治通鑑』からです。

春正月辛亥(初五日)、東晋が大赦しました。

 

[二] 『晋書・第九・孝武帝紀』と『資治通鑑』からです。

夏五月丙午(初二日)、東晋の北中郎将・徐兗二州刺史・藍田侯・王坦之(諡号は献侯です)が死にました。

王坦之は臨終の際、謝安と桓沖に書を送りましたが、ただ国家を憂いとするだけで、私事には言及しませんでした。

 

[三] 『晋書・第九・孝武帝紀』と『資治通鑑』からです。

東晋の謝安にはかねてから重望がありました。そこで桓沖は謝安に揚州(刺史)の職を譲り、自分は外地に出ることを求めました(『資治通鑑』胡三省注によると、揚州刺史は京畿を統括するので、権任要重(権勢が大きくて職責が重要なこと)な官位とみなされました)。桓氏の族党は皆、これは良計ではないと考えたため(以為非計)、扼腕(自分の腕を握りしめること。憤慨を示します)・固諫しない者がなく、郗超も強く諫止しましたが、桓沖はこれらの意見を全て聴かず、平然としていました(処之澹然)

 

甲寅(初十日)、朝廷が詔を発して桓沖を都督徐豫兗青揚五州諸軍事・徐州刺史に任命し、京口を鎮守させました(この一文は『資治通鑑』に従いました。『晋書・孝武帝紀』は本年に「中軍将軍・揚州刺史・桓沖を鎮北将軍・徐州刺史にして丹徒を鎮守させた」と書いていますが、「揚州刺史」は「揚豫二州刺史」が正しいはずです(東晋孝武帝寧康元年・373年参照)。また、翌年には「中軍将軍・桓沖を車騎将軍に任命した」という記述があるので、本年に「(中軍将軍から)鎮北将軍にした」というのは誤りではないかと思われます。更に『晋書・列伝第四十四(桓沖伝)』を見ると、桓沖は本年に「鎮北将軍」ではなく「車騎将軍」になっています。『資治通鑑』は、ここでは将軍号を省略しており、翌年に「徐州刺史・桓沖を車騎将軍にした」と書いています)。同時に、尚書僕射・謝安に揚州刺史を兼任させ(領揚州刺史)、二人並んで侍中を加えました(原文「並加侍中」。桓沖は侍中になりましたが、朝廷を出て京口を鎮守しました)

 

[四] 『資治通鑑』からです。

六月、前秦の清河侯・王猛(諡号は武侯です)が病床に臥しました。

天王(秦王・苻堅)が王猛のために自ら南・北郊および宗廟と社稷で祈り、更に侍臣を分遣して、河嶽の諸神に遍く祈祷させました(『資治通鑑』胡三省注によると、「河嶽」は黄河と華嶽(華岳)を指すようです。(全国を統一していないので)四嶽全ての諸神に祈祷することはできませんでした)

 

王猛の病が少し善くなったため、天王が死罪以下の者(死罪は含まないと思われます)を赦免しました(為之赦殊死以下)

しかし王猛は上書してこう伝えました「図らずも陛下は臣の命によって天地の徳を損なってしまいました。(このようなことは)開闢以来あったことがありません(不図陛下以臣之命而虧天地之徳,開闢已来未之有也)。臣が聞くに、徳に報いるには言を尽くすに越したことはないというので、謹んで垂没の命(終わろうとしている命)をもってして、私的に最後の誠意を捧げます(臣聞報徳莫如尽言,謹以垂没之命,竊献遺款)。伏して思うに、陛下は威烈が八荒(八方の外)に振るい、声教(声望・教化)が六合(天地四方)に光り、九州百郡のうち十分の七を有し(十居其七)、燕を平らげて蜀を定め、(その過程は)(草の一種)を拾うように容易でした(有如拾芥)(しかし)善く作る者(創業の者)が必ずしも善く成せる(完成できる)とは限らず、善く始める者が必ずしも善く終われるとも限りません(原文「夫善作者不必善成,善始者不必善終」。戦国時代、楽毅の言葉が元になっています)。だから古先(古代、先代)の哲王は功業を成すことが容易ではないと知っており、戦戦兢兢として深谷に臨んだ時のように慎重だったのです(是以古先哲王知功業之不易,戦戦兢兢如臨深谷)。伏して思うに、陛下が前聖の跡を追うことができれば、天下の幸甚となります(伏惟陛下追蹤前聖天下幸甚)。」

天王は読み終わると悲慟しました。

 

秋七月、天王が自ら王猛の邸宅に至って病状を確認し、後事について尋ねました。

王猛が言いました「晋は辺遠な江南に居るとはいえ、正朔(王朝の正統な暦朔)が継承されて、上下が安和(安定和睦)しているので、臣が没した後、晋を図(計画の対象、目標)としないことを願います(晋雖僻処江南,然正朔相承上下安和,臣没之後,願勿以晋為図)。鮮卑と西羌は我々の仇敵であり、最後は人々の患となるので(終為人患)、徐々にこれを除くことで、社稷の便(利)とすべきです(宜漸除之以便社稷)。」

王猛は言い終わると死にました。『晋書・載記第十四』によると、五十一歳でした。

 

天王は納棺に及んで三回臨哭(哀哭、哀悼)(比斂三臨哭)、太子・苻宏にこう言いました「天は私に六合を平壹(統一)させたくないのか。なぜ私から景略(王猛の字です)を奪うのがこのように速いのだ(天不欲使吾平壹六合邪,何奪吾景略之速也)。」

王猛の葬(葬礼・埋葬)は西漢霍光の故事に則らせました。

 

[五] 『晋書・第九・孝武帝紀』と『資治通鑑』からです。

八月癸巳(二十日)、東晋が王氏を皇后に立てました。孝武帝は太元二十一年(396年)に三十五歳で死ぬので、本年は十四歳です。

王后は王濛(東晋成帝咸康元年・335年参照)の孫です。

 

大赦して文武諸官に位一等を加えました。

 

王后の父・晋陵太守・王蘊を光禄大夫・領五兵尚書(『資治通鑑』胡三省注によると、五兵尚書は魏が置きました。中兵・外兵・別兵・都兵・騎兵を総監します)に任命して建昌侯(『晋書・列伝第六十三(王蘊伝)』によると、県侯です)に封じましたが、王蘊は固辞して受け入れませんでした。

 

[六] 『晋書・第九・孝武帝紀』と『資治通鑑』からです。

九月、東晋孝武帝が『孝経』を講習し、始めて典籍を閲覧して、儒士を招きました。

謝安が東莞の人・徐邈を推薦して中書舍人(『資治通鑑』胡三省注によると、晋が中書侍郎を置き、また、通事と舍人を各一人置きました。上奏文や詔命を管理します。江左(東晋)になってから、舍人と通事を合わせて通事舍人とし、後に通事が省かれました)の職を補わせました。

徐邈はいつも意見を求められ、多くの匡益(正すことやためになること)がありました。

 

孝武帝は時に宴集(酒宴・集会)することがあり、酣楽(飲酒遊楽)の後、好んで詩章(詩篇、詩文)を手書きして侍臣に下賜しました(好為手詔詩章以賜侍臣)。しかしその内容は、あるいは文詞が率爾(軽率)で、発言が穢雜(汚雑。汚かったり雑乱としていること)なこともあったため、徐邈がすぐに回収して中書省に持って還り、刊削(削除改正)して全て観られるようにしてから、孝武帝の重覧(改めて閲覧・確認すること)を経て、改めて外に出しました。

当時の世論はこういったことから徐邈を称賛しました(時議以此多邈)

 

[七] 『晋書・第九・孝武帝紀』と『資治通鑑』からです。

冬十月癸酉朔、日食がありました。

 

[八] 『資治通鑑』からです。

前秦天王(秦王・苻堅)が詔を下しました「賢輔(王猛)を喪ったばかりで、(しかも)百司(百官)のある者は朕の心にかなっていない(百司或未称朕心)。よって、聴訟観を未央南に置き、朕が(自ら)五日に一回臨んで民隠(民間の苦痛、隠れた声。または民間に隠れた人材)を求めよう。今、天下はまだ大いに定まってはいないが、暫く武を休めて文を修めるべきであり、こうすることで武侯(王猛)の雅旨(優れた意旨)にそわせるつもりだ(今天下雖未大定,権可偃武修文以称武侯雅旨)。ここに儒教を増崇(尊崇・発揚)して老・荘・図讖の学を禁じ、犯した者は棄市に処すことにする。」

 

天王は学生を精選し、太子および公侯百僚の子も全て就学して授業を受けさせました。中外・四禁・二衛・四軍の長上将士にも皆、学業を受けさせます(『資治通鑑』胡三省注によると、「中外」は中軍・外軍将軍、「四禁」は前禁・後禁・左禁・右禁将軍、「二衛」は左衛・右衛将軍、「四軍」は衛軍・撫軍・鎮軍・冠軍将軍です。「長上将士」は日々宿衛に就く将士だと思われます)

二十人ごとに一人の経生(経学を伝授する教師)をつけて音句を教読させ、後宮にも典学(学官)を置いて掖庭で教育させ、閹人(宦官)や女隸の中からも敏慧(聡明)な者を選んで、博士を訪ねて経(経書、経学)を授からせました。

 

尚書郎・王佩が讖を読んで天王に殺されました。そのため、この後、讖を学ぶ者が途絶えました。

 

[九] 『晋書・第九・孝武帝紀』からです。

十二月甲申(十三日。この下に「癸未(十二日)」の記述があるので、日付に誤りがあるか、順番が逆になっているようです)、東晋の神獣門で火災がありました。

 

[十] 『晋書・第九・孝武帝紀』からです。

癸未(十二日)、東晋の皇太后(褚氏)が詔を発しました「最近、日蝕が変(変異、変事)を告げて、水旱が時節に合っていなかったので、克己して救済を思いましたが、まだ方法を尽くしていません。よって百姓で困窮している者に一人当たり五斛の米を下賜します(頃日蝕告変,水旱不適,雖克己思救,未尽其方。其賜百姓窮者米人五斛)。」

 

[十一] 『晋書・第九・孝武帝紀』からです。

癸巳(二十二日)、東晋孝武帝が中堂で釋奠(先聖・先師を祭る儀式)を行い、孔子を祀って顔回を配しました。

 

 

次回に続きます。

東晋時代105 東晋孝武帝(四) 前涼滅亡 376年(1)

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