東晋時代105 東晋孝武帝(四) 前涼滅亡 376年(1)

今回は東晋孝武帝太元元年です。二回に分けます。

 

東晋孝武帝太元元年

前涼沖王太清十四年/前秦天王建元十二年

丙子 376年

 

[一] 『晋書・第九・孝武帝紀』と『資治通鑑』からです。

春正月壬寅朔、東晋孝武帝が元服して、太廟を参拝しました。孝武帝はこの時十五歳です。

皇太后(褚氏)が詔を下して政権を返還し、再び崇徳太后と称しました。

 

甲辰(初三日)、大赦して太元元年に改元しました。

丙午(初五日)、孝武帝が始めて臨朝しました。

 

[二] 『資治通鑑』からです。

東晋が会稽内史・郗愔を鎮軍大将軍・都督浙江東五郡諸軍事(『資治通鑑』胡三省注によると、浙江東五郡は会稽、東陽、臨海、永嘉、新安を指します)に任命しました。

 

謝安は王蘊(王皇后の父)を方伯(地方の長)にさせたいと欲していたので、まず桓沖から徐州刺史の任を解くことにしました。そこで、徐州刺史・桓沖を車騎将軍・都督豫江二州之六郡諸軍事(豫州の歴陽、淮南、廬江、安豊、襄城および江州の尋陽、合わせて六郡です)に任命し、京口から戻って姑孰を鎮守させました。

 

乙卯(十四日)、朝廷が謝安に中書監・録尚書事を加えました。

 

『晋書・第九・孝武帝紀』は丙午(初五日)に孝武帝が臨朝した後、「征西将軍・桓豁を征西大将軍に、領軍将軍・郗愔を鎮軍大将軍に、中軍将軍・桓沖を車騎将軍に任命し、尚書僕射・謝安に中書監・録尚書事を加えた」と書いています。

このうち郗愔に関しては、『晋書・列伝第三十七(郗愔伝)』を見ると、「領軍将軍」ではなく「冠軍将軍」から「鎮軍(大将軍)」を加えられています。

また、桓沖の将軍号は、『晋書・孝武帝紀』では前年に「中軍将軍・揚州刺史・桓沖を鎮北将軍・徐州刺史にした」と書いているのに、本年また「中軍将軍・桓沖を車騎将軍に任命した」と書いています。『晋書・列伝第四十四(桓沖伝)』では、桓沖は前年に「中軍将軍」から「車騎将軍」になっています。いずれかの記述に誤りがあるようです(前年参照)

 

[三] 『晋書・第九・孝武帝紀』からです。

甲子(二十三日)、東晋孝武帝が建平等の四陵を参拝しました。

 

[四] 『資治通鑑』からです。

二月辛丑(二十一日)、前秦天王(秦王・苻堅)が詔を下しました「朕が聞くに、王とは賢才を求めることに辛労し、士を得たら安逸になるという(王者労於求賢,逸於得士)。この言葉はどれだけ験(実績、効果)があることだろう(斯言何其験也)。以前、丞相(王猛)を得た時は、常に帝王の事は容易に為せると思っていた。(ところが)丞相が世を違えてからは(逝去してからは)、鬚や髪の半分が白くなり、彼を思念する度に、思わず酸慟(悲痛・心痛)している(往得丞相常謂帝王易為。自丞相違世鬚髮中白,每一念之不覚酸慟)。今、天下には既に丞相がいなくなったので、あるいは政教が淪替(衰落)してしまっただろう。よって、侍臣を分遣して郡県を周巡させ、民の疾苦を問わせることにする(今天下既無丞相,或政教淪替,可分遣侍臣周巡郡県,問民疾苦)。」

 

[五] 『資治通鑑』からです。

三月、前秦の兵が南郷を侵して攻略しました。山蛮三万戸が前秦に降ります。

『資治通鑑』胡三省注によると、襄陽以西や中廬、宜城の西山には蛮人が住んでおり、これを「山蛮」といいました。胡三省注が更に詳しく解説していますが、省略します。

 

[六] 『晋書・第九・孝武帝紀』からです。

夏五月癸丑(十四日)、地震がありました。

 

[七] 『晋書・第九・孝武帝紀』と『資治通鑑』からです。

甲寅(十五日)、東晋孝武帝が詔を発しました「最近、上天が監(警告)を垂らし、譴告(譴責・警告)がしばしば明らかになっているので、朕は懼れを抱き、心中で震惕(震え畏れること)している(頃者上天垂監,譴告屢彰,朕有懼焉,震惕于心)。思うに、獄を議して死罪を緩め、過ちを赦して罪に寛大であれば、それによって大きな変化が起こり、新たに始めることができるかもしれない(思所以議獄緩死赦過宥罪,庶因大変與之更始)。」

こうして大赦を行い、文武百官の位をそれぞれ一等増やしました。

 

[八] 『晋書・第九・孝武帝紀』からです。

六月、東晋が河間王・司馬欽の子・司馬範之を章武王に封じました(東晋哀帝隆和元年・362年参照)

 

[九] 『晋書・第九・孝武帝紀』からです(『資治通鑑』は九月乙巳に書いています。再述します)

秋七月乙巳(初七日)、東晋が度田收租の制(田地面積を測って税を納めさせる制度)を除き、王公以下、一人当たりの税を米三斛と決めて、労役・兵役に就いている者は免除することにしました(王公以下,口税米三斛,蠲在役之身)

 

[十] 『資治通鑑』からです。

以前、張天錫が張邕を殺した時(東晋穆帝升平五年・361年参照)、劉粛や安定の人・梁景に功があったため、二人は張天錫に寵信されるようになりました。張天錫は二人に張氏の姓を下賜して自分の子とみなし、政事に関与させます。

 

張天錫は酒色に溺れて自ら諸政務を行うことがなく(荒于酒色不親庶務)、世子・張大懐を廃し、嬖妾・焦氏の子・張大豫を立てて焦氏を左夫人にしたため、人情(人心)が憤怨しました。

従弟の従事中郎・張憲が棺を携えて切諫しましたが(輿櫬切諫)、張天錫は聴きませんでした。

 

前秦天王(秦王・苻堅)が詔を下しました「張天錫は藩を称して(秦の)位を受けたが、臣道が未純(不純)である。よって、使持節・武衛将軍・苟萇、左将軍・毛盛、中書令・梁熙、歩兵校尉・姚萇等を派遣し、兵を率いて西河(黄河の西。涼州を指します)に臨ませる。尚書郎・閻負と梁殊は詔を奉じ、天錫を召して入朝させよ。もし王命に違えるようなら、すぐに師を進めて撲討(討伐)する(若有違王命,即進師撲討)。」

この時、前秦には歩騎十三万がいました。

軍司・段鏗が周虓(東晋孝武帝寧康元年・373年に東晋から前秦に降りました)に言いました「この大軍で戦えば、誰が敵対できるだろう(以此衆戦,誰能敵之)。」

周虓はこう言いました「戎狄の歴史においては、(これほどの大軍に敵対できた者は)今まで存在したことがない(戎狄以来,未之有也)。」

 

『晋書・列伝第二十八(周虓伝)』では、呂光が西域を征した時、苻堅(天王)が餞別して周虓に「朕の衆力(兵力)は如何だ(朕衆力何如)」と問い、周虓が「戎狄の歴史においては、(これほどの兵力は)今まで存在したことがありません(戎狄已来,未之有也)」と答えています。

しかし周虓は前秦天王建元十八年(382年)二月に謀反して朔方に遷され、翌十九年(383年)正月に呂光が長安を発して西域に出征します。『資治通鑑』は『十六国春秋』に従って涼州討伐時に周虓の言葉を書いています(胡三省注参照)

 

本文に戻ります。

天王は更に秦州刺史・苟池、河州刺史・李辯、涼州刺史・王統に三州の衆を統率させ、苟萇の後継にしました。

 

秋七月、閻負と梁殊が姑臧に至りました。

張天錫が官属と会して謀り、こう言いました「今、入朝したら、必ず還れなくなる。しかしもし従わなかったら、秦兵が必ず至る。どうすべきだ(今入朝必不返,如其不従秦兵必至,将若之何)。」

禁中録事・席仂(『資治通鑑』胡三省注によると、禁中録事は張氏が置いた官で、禁中の事を総監しました)が言いました「愛子を質(人質)にして、重宝を贈ることでその師(軍)を退かせ、その後、ゆっくり計を立てるべきです。これは屈伸の術というものです(以愛子為質,賂以重宝,以退其師,然後徐為之計。此屈伸之術也)。」

衆人が皆、怒って言いました「我々は代々晋朝に仕え、忠節が海内で明らかになっています(吾世事晋朝,忠節著於海内)。今、一旦にして賊庭に身を委ねたら、辱(恥辱)が祖宗にまで及んでしまいます。これ以上の醜(羞恥)はありません(醜莫大焉)。そもそも、河西は天険なので、百年にわたっても患いがありません(百年無虞)。もし、悉く境内の精兵を動員し、右は西域を招き、北は匈奴を引き入れてこれに対抗すれば、なぜ勝てないと分かるのですか(若悉境内精兵,右招西域北引匈奴以拒之,何遽知其不捷也)。」

張天錫が袖をめくって大言しました(攘袂大言曰)「孤(私)の計は決した。投降を語る者は斬る(言降者斬)!」

 

張天錫は人を送って閻負と梁殊にこう問いました「君等は生きて帰ることを欲するか、死んで帰ることを欲するか(君欲生帰乎,死帰乎)?」

しかし、閻負等の辞気が屈しなかったため、張天錫は怒って二人を軍門に縛り、軍士に交射(乱射)するように命じて、「矢を射ても中らなかったら、私と心を同じくする者ではない(射而不中,不与我同心者也)」と言いました。

 

(閻負と梁殊が殺されると)張天錫の母・厳氏が泣いて言いました「秦主は一州の地を元に天下を横制(広い地を制御すること)し、東は鮮卑を平らげ、南は巴・蜀を取り、兵が行軍を留めることがありません(向かうところ敵なしです。原文「兵不留行」)。汝がもしこれに降っていれば、なお数年の命を延ばすこともできたはずです。しかし今、微細な一隅をもって大国に抗衡(対抗)し、しかもその使者を殺したので、滅亡まで日がないでしょう(若降之猶可延数年之命。今以蕞爾一隅抗衡大国,又殺其使者,亡無日矣)。」

 

張天錫は龍驤将軍・馬建に命じ、衆二万を率いて前秦に抵抗させました。

 

張天錫が閻負と梁殊を殺したことを秦人が聞きました。

八月、梁熙、姚萇、王統、李辯が清石津から(黄河を)渡り、前涼の驍烈将軍・梁濟(『資治通鑑』胡三省注によると、驍烈将軍も張氏が置いたようです)を河会城で攻めて降しました。

『資治通鑑』胡三省注によると、湟河が允吾に至って大河(黄河)と合流し、允吾県には青巖山がありました。胡三省注は「清石津は青巖山の下にあり、河会城は二河が合流する場所ではないか」と書いています。

 

甲申(十七日)、苟萇が石城津(『資治通鑑』胡三省注によると、石城津は金城の西北にありました)から(黄河を)渡り、梁熙と合流して纏縮城を攻め、攻略しました。

懼れた馬建は楊非(地名)から退却して清塞に駐屯しました(『資治通鑑』胡三省注によると、逆水が允吾県の参街谷から出て、東南に流れて街亭城の南を通り、更に東南に流れて陽非亭の北を通り、広武城の西を通りました。楊非は支陽の東北三百余里の地にありました)

 

張天錫が改めて征東将軍・掌據(「掌據」は「常據」とするのが正しいようです。東晋廃帝太和二年・367年に李儼を平定した時は「常據」としています)を派遣し、三万の衆を率いて洪池に駐軍させました。張天錫も自ら余衆五万を率いて金昌城に駐軍します(『資治通鑑』胡三省注によると、洪池は山嶺の名で、姑臧の南にありました。金昌城は赤岸の西北にありました。赤岸については下述します)

 

安西将軍・敦煌の人・宋皓が張天錫に進言しました「臣は昼に人事を察し(観察し)、夜に天文を観ていますが、秦兵には敵いません。投降すべきです(秦兵不可敵也,不如降之)。」

張天錫は怒って宋皓の位を宣威護軍に落としました。

 

広武太守・辛章(『資治通鑑』胡三省注によると、張寔が金城の令居と枝陽を分けて広武郡を置きました)が言いました「馬建は隊伍の出身なので、必ず国家の用にはなりません(国のために役に立つはずがありません。原文「馬建出於行陳,必不為国家用」。馬建は兵隊出身なので、品徳がなくて信用できないという意味だと思います)。」

 

苟萇が姚萇に甲士三千を率いて前駆にさせました。

庚寅(二十三日)、馬建が一万余人を率いて秦兵を迎え入れ、投降しました。残った兵は皆、四散逃走します。

辛卯(二十四日)、苟萇が掌據(常據)と洪池で戦い、掌據の兵が敗れました。

掌據の馬が乱兵に殺されたため、属(属下、属官)の董儒が馬を授けましたが、掌據はこう言いました「私は三回諸軍を監督し、二回節鉞を持ち、八回禁旅を指揮し、十回禁兵(『資治通鑑』胡三省注によると、『資治通鑑』の版本によっては、「禁兵」を「外兵」としています)を総領して、寵任が極まった(吾三督諸軍,再秉節鉞,八将禁旅,十総禁兵,寵任極矣)。今、ついにここで困窮することになったが、ここは私の死地だ。どこに行くというのだ(卒困於此,此吾之死地也,尚安之乎)。」

掌據は帳に入って冑を脱ぎ、西を向いて稽首(叩頭)してから、剣に伏して死にました。

前秦の兵が軍司・席仂を殺しました。

 

癸巳(二十六日)、前秦の兵が清塞に入りました。

 

張天錫が司兵・趙充哲(『資治通鑑』胡三省注によると、河西の張氏が官僚を置く時は、王者(朝廷の制度)に則りながら微妙に官名を異ならせました。「司兵」は晋の五兵尚書の職に当たるようです)を派遣して、衆を率いて抵抗させましたが、秦兵が趙充哲と赤岸(『資治通鑑』胡三省注によると、河水が左南(地名)から東に流れ、赤岸の北を流れました。この地は河夾岸ともいい、枹罕にありました)で戦って大破しました。俘斬が三万八千級に上り、趙充哲は戦死します。

 

張天錫が城(金昌城)を出て自ら戦おうとしましたが、城内が叛したため、数千騎と共に奔って姑臧に還りました。

 

甲午(二十七日)、前秦の兵が姑臧に至りました。

張天錫は素車(白車)・白馬を準備し、手を後ろに縛って棺を携え(投降の姿です)、前秦の軍門に降りました(素車素馬,面縛輿櫬,降于軍門)

苟萇は張天錫の縄を解いて棺を焼き、張天錫を長安に送りました。

涼州の郡県も全て前秦に降りました。

 

こうして前涼が滅びました。

『資治通鑑』胡三省注が「(西晋)恵帝永寧元年(301年)に張軌が涼州刺史になってから、張氏が涼土を有した。合わせて九主、七十五年で亡んだ」と解説しています。

『晋書・第九・孝武帝紀』は「秋七月、苻堅の将・苟萇が涼州を落として刺史・張天錫を虜にし、その地を全て有した」と書いていますが、『資治通鑑』では八月になっています。

前涼が滅亡して、中国は北の前秦と南の東晋が対峙するようになりました。

 

九月、前秦天王(秦王・苻堅)が梁熙を涼州刺史に任命して姑臧を鎮守させました。

豪右(豪強、豪族)七千余戸を関中に遷しましたが、他の者は全て今まで通り安居させました(余皆按堵如故)

 

前秦は張天錫を帰義侯に封じて北部尚書に任命しました(『資治通鑑』胡三省注によると、前秦は北部尚書を置いて北蕃(北部の封国)を管理させました)

前秦の兵が出征した時、あらかじめ長安に張天錫が住むための邸宅を築いていたため、張天錫が長安に至ると、そこに住むことになりました。

 

前秦は、張天錫が任命した晋興太守・隴西の人・彭和正を黄門侍郎に、治中従事・武興の人・蘇膺と敦煌太守・張烈を尚書郎に、西平太守・金城の人・趙凝を金城太守に、高昌の人・楊幹を高昌太守に任命し、その他の者も全て能力に応じて抜擢・任用しました(余皆隨才擢敍)

『資治通鑑』胡三省注によると、張軌が西平を分けて晋興郡を置き、秦・雍の移民を姑臧西北に集めて武興郡を置きました。高昌は漢代車師国の高昌壁(高昌塁)です。張氏が始めて郡を置きました。後には高昌国が建てられ、唐代になってこの地に西州が置かれます。

 

梁熙は清倹で民を愛したため、河右が安定しました。

張天錫が任命した武威太守・敦煌の人・索泮が別駕に、宋皓が主簿に任命されました。

 

西平の人・郭護が兵を挙げて前秦を攻めましたが、梁熙が宋皓を折衝将軍に任命して討平させました。

 

東晋の桓沖は前秦が涼州を攻めたと聞いて、兗州刺史・朱序と江州刺史・桓石秀を派遣し、荊州督護・桓羆と共に沔・漢で遊軍(流動部隊。遊撃部隊)を組織させて、涼州の声援(後援)にしました。また、豫州刺史・桓伊を派遣して、衆を率いて寿陽に向かわせ、淮南太守・劉波を派遣して淮・泗に舟を浮かべさせ、前秦を攪乱することで前涼を救おうとしました。

しかし涼州が敗没したと聞いて、全て撤兵しました。

 

[十一] 『資治通鑑』からです。

以前、東晋哀帝が田租を減らして、一畝から二升を納めさせることにしました(東晋哀帝隆和元年・362年)

乙巳(初八日。『晋書・第九・孝武帝紀』は七月乙巳に書いています。既述)、東晋が度田收租の制(田地面積を測って税を納めさせる制度)を廃止し、王公以下、一人当たりの税を米三斛と決めて、労役・兵役に就いている者は免除することにしました(王公以下,口税米三斛,蠲在役之身)

 

 

次回に続きます。

東晋時代106 東晋孝武帝(五) 拓跋氏の内争 376年(2)

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