東晋時代106 東晋孝武帝(五) 拓跋氏の内争 376年(2)

今回で東晋孝武帝太元元年が終わります。

 

[十二] 『晋書・第九・孝武帝紀』と『資治通鑑』からです。

冬十月、東晋が淮北の民(『資治通鑑』では「淮北の民」、『晋書・孝武帝紀』では「淮北の流人(流民)」です)を淮南に遷しました。

『資治通鑑』胡三省注によると、前秦を畏れたため、民を遷しました

 

[十三] 『資治通鑑』からです。

劉衛辰が代に逼迫されたため、前秦に救援を求めました。

前秦天王(秦王・苻堅)は幽州刺史・行唐公・苻洛を北討大都督に任命し、幽・冀の兵十万を率いて代を撃たせました。

また、并州刺史・俱難、鎮軍将軍・鄧羌、尚書・趙遷、李柔、前将軍・朱肜、前禁将軍・張蚝、右禁将軍・郭慶に歩騎二十万を率いさせ、東は和龍から出させ、西は上郡から出させ、皆、苻洛と合流させました。劉衛辰を郷導(先導)にします。

苻洛は苻菁(東晋穆帝時代参照)の弟です。

 

苟萇が涼州を伐った時、揚武将軍・馬暉と建武将軍・杜周を派遣し、張天錫を走路(退路)で邀撃させるために八千騎を率いて西の恩宿から出させ、期日を決めて姑臧で合流することにしました。

ところが、馬暉等は沢の中を行軍している時に、ちょうど大水に遭ったため、期日に間に合いませんでした(値水失期)。法に基づけば斬首に当たるので、有司(官員)が馬暉等を召して獄に下すように上奏します。

しかし天王はこう言いました「水とは春冬に耗竭(枯渇)して秋夏に盛漲(膨脹)するものだ。これは苟萇の量事(計算、計画)が宜(道理)を失ったのであって、馬暉等の罪ではない。(それに)今、天下はまさに有事なので、過失に対しては寛大に対処して、(彼等に)功績を立てさせるべきだ(宜宥過責功)。」

こうして天王は馬暉等に引き返して北軍に赴くように命じ、索虜(『資治通鑑』胡三省注によると、代は本来、鮮卑の索頭種なので、索虜と呼ばれました)を撃つことで自ら贖罪させました。

衆人は皆、万里から将を招いたら迅速に応じることができないと考えましたが、天王はこう言いました「馬暉等は死から免れられることを喜んでいる(喜於免死)。常事(常識)を用いて疑ってはならない(不可以常事疑也)。」

果たして、馬暉等は二倍の速度で疾駆し(倍道疾駆)、東軍に追いつきました。

 

[十四] 『晋書・第九・孝武帝紀』と『資治通鑑』からです。

十一月己巳朔(『晋書・孝武帝紀』『資治通鑑』とも「十一月己巳朔」としていますが、『二十史朔閏表』によると、この年十一月の朔は「丁酉」です)、日食がありました。

孝武帝が太官に詔を発して御膳を少なくさせました(徹膳)

 

[十五] 『資治通鑑』からです。

代王・拓跋什翼犍が白部と独孤部を南下させて前秦の兵を防ごうとしましたが、どちらも勝てませんでした(『資治通鑑』胡三省注によると、白部は鮮卑に属します。東漢時代、鮮卑の中で白山に住む者が最も強盛になり、白部と呼ばれるようになりました。独孤部に関しては、魏氏(拓跋氏。後に北魏を開くので、魏氏といいます)の初期に三十六部があり、その中で伏留屯という者が魏と共に興起して部落の大人となり、独孤部を形成しました)

拓跋什翼犍は改めて南部大人・劉庫仁を送り、十万騎を率いて前秦を防がせました。しかし、劉庫仁は秦兵と石子嶺(『資治通鑑』胡三省注によると、石子嶺は雲中盛楽の西南に位置します)で戦って大敗しました。

劉庫仁は劉衛辰と同族で、什翼犍の甥にあたります。

 

什翼犍は病を患っており、自ら兵を指揮することができなかったため、諸部を率いて陰山の北に奔りました。

ところが、高車(東晋哀帝興寧元年・363年参照)の雑種(各部族)がことごとく叛して四面から寇鈔(侵犯略奪)しました。

什翼犍は芻牧(放牧)ができなくなり、更に漠南に移動しました。

十二月、什翼犍は秦兵が徐々に退いたと聞いて、雲中に還りました。

 

以前、什翼犍は国の半分を分けて弟の拓跋孤に授けました(東晋成帝咸康四年・338年参照)

拓跋孤の死後、子の拓跋斤は失職したため怨望(怨恨)を抱いていました(『資治通鑑』胡三省注によると、拓跋斤は拓跋孤が授かった領地を継承できなかったため、什翼犍を怨みました)

 

当時、什翼犍の世子・拓跋寔(東晋廃帝太和六年・371年参照)とその弟・拓跋翰は早くに死に、拓跋寔の子・拓跋珪はまだ幼く、慕容妃(『資治通鑑』胡三省注によると、東晋康帝建元二年・344年に前燕から娶った女性です)の子・閼婆、寿鳩、紇根、地干、力真、窟咄は皆、成長していましたが、継嗣(後継者)がまだ決まっていませんでした。

 

この時、秦兵がまだ君子津(『資治通鑑』胡三省注によると、河水(黄河)が南に流れて雲中楨陵県の西北に入り、また南に流れて赤城の東を通り、定襄桐過県の西を通りました。河水は二県の間を流れ、その津(渡口)に「君子」の名がありました。かつて東漢桓帝が西の楡中を行幸し、東に向かって代の地を行幸した時、洛陽の大賈(大商人)が金貨を携えて桓帝の後に従いました。夜、賈人が道に迷って津長を頼りました。この津長を子封といいます。子封は賈人を送って渡河させましたが、賈人が突然死んでしまったため埋葬しました。賈人の子が父の喪(霊柩)を求めて、墓を発掘して屍を取り出したところ、資貨(資財、金銭)が一切損なわれていませんでした。そこで、子が金銭を全て津長に与えようとしましたが、津長は受け取りませんでした。この事を聞いた帝が「君子だ」と言ったため、この津は「君子津」と命名されました)にいたため、諸子が毎晩、武器を持って警衛していました。

 

拓跋斤がこれを機に什翼犍の庶長子・拓跋寔君を説得してこう言いました「王は慕容妃の子を立てようとしており、先に汝を殺そうと欲しています。だから最近、諸子が每夜、戎服(軍服)を着て、兵を率いて廬帳(帳幕の住居)を囲んでいるのです(故頃来諸子每夜戎服以兵遶廬帳)。便を伺ってもうすぐ行動するでしょう(伺便将発耳)。」

拓跋寔君はこれを信じて諸弟を殺し、併せて什翼犍も弑殺しました。『魏書・卷一・序紀』によると、什翼犍は五十七歳でした。

 

尚、『晋書・第九・孝武帝紀』は「十二月、苻堅がその将・苻洛に代を攻めさせ、代王・渉翼犍(什翼犍)を捕えた」と書いています。

しかし、『魏書・卷一・序紀』は「十二月、(什翼犍が)雲中に至り、十二日後に死んだ(旬有二日帝崩)」と書いており、『魏書・昭成子孫列伝(列伝第三)』にも「寔君が(略)その属を率いて諸皇子を全て害した。昭成(什翼犍)も暴崩(突然死)した」とあるので、什翼犍は前秦に捕えられたのではなく、死亡したようです。

 

『資治通鑑』に戻ります。

什翼犍が死んだ夜、諸子の婦人および部人が秦軍に奔って内情を報告しました。

前秦の李柔と張蚝が兵を率いて雲中に向かうと、拓跋氏の部衆は逃走潰滅しました。国中が大乱に陥ります。

拓跋珪の母・賈氏は拓跋珪を連れて逃走し、賀訥を頼りました。賀訥は賀野干(東晋廃帝太和六年・371年参照)の子です。

 

前秦天王(秦王・苻堅)が代の長史・燕鳳を召して乱をもたらした原因を問いました。

燕鳳が答えて詳しく状況を述べると、天王は「天下の悪は一つである(天下が憎む者は共通している。原文「天下之悪一也」)」と言って拓跋寔君と拓跋斤を捕えさせ、長安に至ってから車裂に処しました。

 

天王が拓跋珪を長安に遷そうとしました。しかし燕鳳が頑なにこう請いました「代王は亡んだばかりで、群下が叛散(離反・四散)して、遺孫(残された孫)も沖幼(幼少)なので、統摂(統轄、統領)する者がいません。別部の大人・劉庫仁は勇猛で智略もあり(勇而有智)、鉄弗の衛辰は狡猾多変なので(『資治通鑑』胡三省注によると、劉衛辰は匈奴の鉄弗種(族)に属しました。鉄弗は南単于の苗裔で、劉衛辰は左賢王・去卑の玄孫に当たります。北人は父が胡(匈奴)、母が鮮卑の者を鉄弗とよんだため、それが氏になりました)、どちらかの一人に任せるべきではありません(皆不可独任)。諸部を二つに分けて、この両人に統領させるべきです。両人は元から深讎があるので、今の形勢では、どちらも敢えて先に発しようとはしないでしょう(互いに牽制しあうので、どちらも前秦に対して兵を用いることができない、という意味だと思います。原文「両人素有深讎,其勢莫敢先発」)。その孫(拓跋氏の孫。拓跋珪)がもう少し長じるのを待って、招いてこれを立てれば、陛下は代に対して存亡継絶の徳(亡んだ国を復興させて、絶たれた家系を継続させた徳)ができ、その子子孫孫を永く不侵不叛の臣とすることができます。これが安辺の良策(辺境を安定させる良策)です。」

天王はこの意見に従い、代の民を二部に分けました。河から東は劉庫仁に属させ、河から西は劉衛辰に属させ、それぞれに官爵を与えてその衆を統率させます。

 

賀氏は拓跋珪を連れて独孤部に帰附し、南部大人・長孫嵩(『資治通鑑』胡三省注によると、かつて拓跋鬱律が二子を生み、長子は沙莫雄といいました。次子が什翼犍です。沙莫雄は南部大人となり、後に名を仁に改め、拔拔氏と号しました。拔拔仁の子が嵩です。北魏建国後、嵩は宗室の長という立場だったので、道武帝(拓跋珪)が、長孫氏に改めました。尚、長孫氏の由来は諸説があり、今回の胡三省の解説は以前紹介した内容と少し異なります。東晋康帝建元二年・344年参照)、元佗等と共にそろって劉庫仁を頼りました。

 

拓跋什翼犍の子・窟咄は既に年長だったので、行唐公・苻洛が窟咄を長安に遷しました。

天王は窟咄を太学に入れて読書させました。

 

天王が詔を下しました「張天錫は祖父の資(資本、業績)を継承し、百年の業(功業)を借りて、勝手に河右に命を発し、偏隅(辺鄙な地域)で叛換(叛乱跋扈)した(張天錫承祖父之資,藉百年之業,擅命河右叛換偏隅)。索頭(拓跋氏)は代々朔北を跨いで領有し、中(前秦国内)では区域(領土)を分裂させ、東は穢貊(濊貊)を迎え入れ、西は烏孫を招き、控弦(戦士)は百万を数えて雲中で虎視した(索頭世跨朔北,中分区域,東賓穢貊,西引烏孫,控弦百万,虎視雲中)。そこで、両師(苟萇と苻洛の軍です)に命じ、分かれて黠虜(狡猾な賊)を討たせたところ、役が歳を満たすことなく、二凶を徹底的に殲滅して、俘降(捕虜や投降した者)は百万に上り、開いた土地は九千(恐らく「九千里」です)に及んだ(爰命両師,分討黠虜,役不淹歳,窮殄二兇,俘降百万,闢土九千)。五帝でも接したことがなく、周・漢でも至らなかったような地においても、通訳を重ねて天子に朝見しない者はなく、風気に懐いて職責を尽くしている(遥か遠くから通訳を重ねて朝貢に来ている。原文「五帝之所未賓,周漢之所未至,莫不重訳来王,懐風率職」)。有司(官員)は速やかに功績の序列に従って爵位を授けよ(有司可速班功受爵)。戎士(将士)は全て五年の賦役を免除し、爵位三級を下賜する(戎士悉復之五歳,賜爵三級)。」

天王は行唐公・苻洛に征西将軍を加え、鄧羌を并州刺史に任命しました。

 

陽平国常侍・慕容紹が秘かに兄の慕容楷に言いました「秦はその強大な力に頼り、勝利を追究して休むことがありません。北は雲中を守り、南は蜀・漢を守り、転運(物資の輸送)が万里に及び、道殣(道中で餓死した者)が望みあい、兵は外で疲弊し、民は内で困窮しています。危亡は近いでしょう(秦恃其強大,務勝不休,北戍雲中,南守蜀漢,転運万里,道殣相望,兵疲於外,民困於内,危亡近矣)。冠軍叔仁(慕容垂を指します。『資治通鑑』胡三省注が「叔仁」は「叔父」とすべきだ、と指摘しています。慕容垂は慕容楷と慕容紹の叔父に当たり、冠軍将軍に任命されました)は智度(智略と度量)が傑出しているので、必ず燕祚(燕の国統)を恢復することができます(冠軍叔仁智度英抜,必能恢復燕祚)。我々はただこの身を愛して(この身を大切にして)時を待つだけです(吾属但当愛身以待時耳)。」

 

以前、秦人が涼州を攻略してから、西障(西辺)の氐・羌討伐について商議しましたが、天王はこう言いました「彼等種落(部落)は雑居しており、互いに統一していないので、中国の大患にはなれない。まずは撫諭(宣撫・慰諭)してその租税を徴収し、もし命に従わなかったら、その後にこれを討つべきだ。」

天王は殿中将軍・張旬を派遣し、西に進んで宣慰させました。庭中将軍・魏曷飛にも騎兵二万七千を率いて後に従わせます(『資治通鑑』胡三省注によると、庭中将軍は前秦が置きました。武器を持って殿庭の中に立つ者(立仗殿庭中者)という意味のようです)

ところが、氐・羌が険阻な地に頼って帰服しなかったため、魏曷飛は憤慨して兵を放ち、氐・羌を撃って大掠(大略奪)してから帰りました。

天王は魏曷飛が命に違えたことに怒って鞭で二百回打ち、前鋒督護・儲安を斬って氐・羌に謝りました。

氐・羌は大いに悦び、降附・貢献した者が八万三千余落(戸)に上りました。

 

雍州の士族で、これ以前に禍乱のため河西に流寓(流亡・移住)していた者がいましたが、天王は全て故郷に還ることを許可しました。

 

劉庫仁は離散した者(代の民)を招撫して恩信を甚だ顕著にし、拓跋珪に奉事して恩勤周備(恩愛があって勤勉かつ周到なこと)で、廃興(拓跋氏が滅んで劉庫仁が諸部を任されたこと)によって意を変えることもなく、常に諸子にこう言っていました「この子(拓跋珪)には天下を覆う志があるので(此児有高天下之志)、必ず祖業を恢隆(恢復・興隆)させることができる。汝等は謹んで彼を遇せ(汝曹当謹遇之)。」

天王は劉庫仁の功を賞して広武将軍を加え、幢麾(旗の一種)・鼓蓋(戦鼓と車蓋)を与えました。

 

すると劉衛辰が劉庫仁の下にいることを恥じとして憤怒し、前秦の五原太守(『資治通鑑』胡三省注によると、五原は漢代の郡で、魏・晋は廃しましたが、前秦がまた郡を置きました。隋・唐は豊・鹽二州にします)を殺して叛しました。

しかし劉庫仁が劉衛辰を撃って破り、陰山の西北千余里まで追撃してその妻子を獲ました。

また、劉庫仁は西に向かって庫狄部を撃ち、その部落を遷して桑乾川に置きました(『資治通鑑』胡三省注によると、かつて拓跋力微が南諸部に駐留し、そこに庫狄部がいました。後に狄氏に改めます。桑乾県は、漢代は代郡に属しましたが、晋代になって廃されました。拓跋魏(北魏)が後に桑乾郡を置きます。唐代は朔州善陽県界内に属します)

 

久しくして、天王が劉衛辰を西単于に任命し、河西の雑類(諸族)を督摂(監督統治)して代来城(『資治通鑑』胡三省注によると、代来城は北河の西にありました。「代から来た者が住む城」という意味で、前秦が劉衛辰を住ませるために築いたようです)に駐屯させました

 

[十六] 『資治通鑑』からです。

この年、乞伏司繁(南単于。東晋簡文帝咸安元年・371年参照)が死んで子の国仁が立ちました。

 

 

次回に続きます。

東晋時代107 東晋孝武帝(六) 郗超 377年

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