東晋時代107 東晋孝武帝(六) 郗超 377年

今回は東晋孝武帝太元二年です。

 

東晋孝武帝太元二年/前秦天王建元十三年

丁丑 377年

 

[一] 『晋書・第九・孝武帝紀』からです。

春正月、東晋が絶世(禄位が断たれた世家)を恢復して功臣の子孫に家を継がせました(継絶世,紹功臣)

 

[二] 『晋書・第九・孝武帝紀』と『資治通鑑』からです。

三月、東晋の桓豁が上表し、兗州刺史・朱序を南中郎将・梁州刺史・監沔中諸軍に任命して、襄陽を鎮守させました。

 

[三] 『晋書・第九・孝武帝紀』からです。

閏月壬午(『二十史朔閏表』によると、閏三月十九日です)、地震がありました。

甲申(二十一日)、暴風が吹き、木が倒れて家屋が飛ばされました(折木発屋)

 

[四] 『資治通鑑』からです。

この春、高句麗、新羅、西南夷がそれぞれ使者を派遣して前秦に入貢しました。

『資治通鑑』胡三省注によると、新羅は弁韓の苗裔、または辰韓の種(族)で、三国・魏の時代に新盧国(または「斬新盧」)になり、晋・宋の時代に新羅と呼ばれました。胡三省注が新羅の位置について解説していますが、省略します。

 

[五] 『資治通鑑』からです。

かつて趙で将作功曹だった熊邈がしばしば前秦天王(秦王・苻堅)に石氏(後趙)の宮室・器玩の盛(宮室や器物・玩具が盛大豪華な様子)について語りました。

天王は熊邈を将作長史に任命して将作丞を兼任させ(原文「以邈為将作長史,領将作丞」。『資治通鑑』胡三省注によると、『資治通鑑』の版本によっては「将作丞」を「尚方丞」としています。晋代の将作大匠は、丞はいましたが長史はいませんでした。この「将作長史」は前秦が置いたようです)、舟艦や兵器を大いに建造・修繕させました。それらのものは金銀で飾られて頗る精巧を極めます。

 

慕容農が秘かに慕容垂に言いました「王猛が死んでから、秦の法制は日に日に頽靡(頽廃・荒廃)しています。今、またこれに奢侈を重ねたので、間もなく殃(禍)が至るでしょう。図讖の言(慕容垂が燕を復興させるという予言)に験(効果、応験)があるはずです(図讖之言,行当有験)。大王は英傑を受け入れて交わりを結ぶことによって、天意を受け入れるべきです。時を失ってはなりません(大王宜結納英傑以承天意,時不可失)。」

慕容垂は笑って「天下の事とは、汝に及べるものではない(天下事非爾所及)」と言いました。

 

[六] 『晋書・第九・孝武帝紀』からです。

夏四月己酉(十六日)、雹が降りました(雨雹)

五月丁丑(十四日)、地震がありました。

六月己巳(『二十史朔閏表』によると、この年六月の朔は「癸巳」なので、「己巳」はありません)、暴風が吹いて沙石が舞いあがりました。

 

[七] 『晋書・第九・孝武帝紀』からです。

林邑が東晋に方物(地方の産物)を貢納しました。

 

[八] 『晋書・第九・孝武帝紀』からです。

秋七月乙卯(『二十史朔閏表』によると、この年七月の朔は「癸亥」なので、「乙卯」はありません)、老人星(寿星。長寿の象徴です)が現れました。

 

[九] 『晋書・第九・孝武帝紀』からです。

八月壬辰(初一日)、東晋の車騎将軍・桓沖が来朝(入朝)しました。

 

[十] 『晋書・第九・孝武帝紀』と 『資治通鑑』からです。

丁未(十六日。『資治通鑑』は「秋七月丁未」としていますが、『晋書・孝武帝紀』では八月に入っています。ここは『晋書』に従いました。下の「丙辰」も同じです)、東晋が尚書僕射・謝安を司徒に任命しましたが、謝安は謙譲して拝命しませんでした。朝廷は改めて謝安に侍中・都督揚豫徐兗青五州諸軍事を加えました。

 

丙辰(二十五日)、征西大将軍・荊州刺史・桓豁(『資治通鑑』では「征西大将軍・荊州刺史・桓豁」、『晋書・孝武帝紀』では「使持節・都督荊梁寧益交広六州諸軍事・荊州刺史・征西大将軍・桓豁」です)が死にました。

 

冬十月辛丑(十一日)、車騎将軍・桓沖を都督江荊梁益寧交広七州諸軍事・領荊州刺史(『資治通鑑』では「都督江荊梁益寧交広七州諸軍事・領荊州刺史」、『晋書・孝武帝紀』では「都督荊江梁益寧交広七州諸軍事・領護南蛮校尉・荊州刺史」です)に、桓沖の子・桓嗣を江州刺史に任命しました。

また、五兵尚書・王蘊を都督江南諸軍事・領徐州刺史(『資治通鑑』では「都督江南諸軍事・領徐州刺史」、『晋書・孝武帝紀』では「徐州刺史・督江南晋陵諸軍」です。『資治通鑑』胡三省注によると、『資治通鑑』の「江南諸軍」は「晋陵諸軍」を意味するので、『晋書・孝武帝紀』の「江南晋陵諸軍」は「江南の晋陵諸軍」と読むようです)に、征西司馬・領南郡相・謝玄(『資治通鑑』胡三省注によると、桓豁が征西将軍になった時、謝玄を司馬にしました)を兗州刺史・領広陵相・監江北諸軍事(『資治通鑑』では「兗州刺史・領広陵相・監江北諸軍事」、『晋書・第九・孝武帝紀』では「兗州刺史・広陵相・監江北諸軍」です)に任命しました。

 

桓沖は秦人が強盛だったので江南に遷って防備しようと欲し、上奏して鎮を江陵から上明(江南の地名です。『資治通鑑』胡三省注によると、桓沖は上明城を築きました。胡三省注が「上明」について詳しく解説していますが、省略します)に遷しました。冠軍将軍・劉波に江陵を守らせ、諮議参軍・楊亮に江夏を守らせます。

 

王蘊は徐州刺史の職を頑なに辞退しましたが、謝安が「卿は后父の重(皇后の父という重要な地位)に居るので、妄りに自分を貶めて、時遇(時代の恩遇)を損なうべきではない(不応妄自菲薄以虧時遇)」と言ったため、やっと命を受け入れました。

 

中書郎・郗超は父・郗愔の位遇(地位・待遇)が謝安の右(上)にあるべきだと考えていましたが、謝安が入朝して機権(中枢の大権)を掌握したのに対し、郗愔は散地で優遊とすることになったため(重要ではない地位で悠々と過ごすことになったため。『資治通鑑』胡三省注によると、郗愔が徐兗二州刺史から会稽に遷されたことを指します。東晋廃帝太和四年・369年参照)、常に憤邑(憤懣鬱憤)を辞色(言葉や表情)に表していました。こうして謝氏との間に対立が生まれるようになります。

 

当時、朝廷は秦寇を憂いとしていたため、孝武帝が詔を発して、文武の良将で北方を鎮禦できる者を求めました。

謝安は兄の子・謝玄を挙げて詔に応じさせました。

それを聞いた郗超は嘆息してこう言いました「謝安の明(賢明、明才)があるからこそ、衆人に違えて親族を挙げることができた(常人なら敢えて親族を推挙しようとはしないが、謝安には明才があり、その明才によって謝玄を見込んだから、親族でも推挙した)。謝玄の才は(謝安に見込まれたのだから)推挙の期待を裏切ることがないだろう(安之明乃能違衆挙親。玄之才足以不負所挙)。」

衆人は皆、そう思いませんでしたが、郗超はこう言いました「私はかつて謝玄と共に桓公府にいたことがある(桓公は桓温です。東晋哀帝興寧元年・363年参照)。その使才(才能を発揮する姿)を見たところ、履屐の間の事(「履屐」は靴です。「履屐間」は些細な事を意味します)でも、その任をおろそかにすることがなかった。だから(私には)分かるのだ(見其使才,雖履屐間未嘗不得其任,是以知之)。」

 

謝玄は驍勇の士を募り、彭城の人・劉牢之等、数人を得ました。

そこで、劉牢之を参軍に任命し、常に精鋭を統領して前鋒にさせました。その結果、戦えば勝てないことがなく、時の人は謝玄の軍を「北府兵」と号し、敵人がこれを畏れました。

『資治通鑑』胡三省注が解説しています。謝玄は二年後の孝武帝太元二年(379年)に俱難等を破って徐州刺史を兼任することになり、その兵が「北府兵」と称されます。晋代の北府は京口を指します。『資治通鑑』はここで謝玄について書いているので、併せて「北府兵」にも触れていますが、実際に「北府兵」として畏れられるのは後の事です。

 

[十一] 『晋書・第九・孝武帝紀』と『資治通鑑』からです。

壬寅(十二日)、東晋の護軍将軍・散騎常侍・王彪之(『資治通鑑』では「護軍将軍・散騎常侍・王彪之」、『晋書・孝武帝紀』では「散騎常侍・左光禄大夫・尚書令・王彪之」です)が死にました。

 

以前、謝安が宮室を増築しようとしましたが、王彪之がこう言いました「中興の初めは東府を宮とし、ことさら倹陋でした(殊為倹陋)(後に)蘇峻の乱に際して、成帝が蘭台の都坐に留まり、寒暑を防ぐこともほとんどできなかったので、やっと改めて新宮を築営しました(殆不蔽寒暑,是以更営)(こうして造られた新宮は)漢・魏と比べたら倹素でしたが、江(長江)を渡ったばかりの頃よりは奢侈でした(比之漢魏則為倹,比之初過江則為侈矣)。今、寇敵がまさに強盛なのに、どうして功役(労役)を大いに興して、百姓を労擾(労苦)させることができるでしょう(今寇敵方強,豈可大興功役,労擾百姓邪)。」

『資治通鑑』胡三省注によると、「東府」は建康台城の東にありました。「蘭台」は御史台、「都坐」は官員が討議する場所です。

 

謝安が言いました「宮室が弊陋(古くて粗末なこと)だったら、後人が人(我々)を無能とみなすだろう(宮室弊陋,後人謂人無能)。」

王彪之が言いました「天下の重責を担う者とは、皆、国を保全して家を安寧にし、政事を光り輝かせるものです。なぜ室屋を修築することを有能とみなすのですか(凡任天下之重者,当保国寧家,緝熙政事,乃以脩室屋為能邪)。」

謝安は王彪之の意見を変えさせることができなかったため(不能奪其議)、王彪之が生きている間は、営造(築営・建造)することがありませんでした。

 

[十二] 『晋書・第九・孝武帝紀』からです。

十二月庚寅(初一日)、東晋が尚書・王劭を尚書僕射に任命しました。

 

[十三] 『資治通鑑』からです。

東晋の臨海太守・郗超(『資治通鑑』胡三省注によると、臨海は会稽東部都尉が治めていましたが、呉の孫亮(廃帝)が郡にしました)が死にました。

 

かつて郗超は桓氏(桓温)の党羽になりましたが、父の郗愔が王室に対して忠心を抱いていたため、父に知られないようにしていました。

郗超は自分の病がひどくなると、一箱の書を取り出して門生に授け、こう言いました「公(父)は年尊(高齢)だ。私が死んだ後、もし哀惋(悲傷・悲痛)によって寝食が害されるようなら、この箱を献上せよ。そうならないようなら焼き棄てよ(公年尊,我死之後,若以哀惋害寝食者,可呈此箱。不爾,即焚之)。」

郗超の死後、果たして郗愔は哀惋によって病を患いました。

そこで門生が箱を献上しました。全て桓温との間でやりとりされた密計に関する内容です。

郗愔は大いに怒って「小子め、死ぬのが晩すぎたくらいだ(小子,死已晚矣)」と言い、二度と哀哭しなくなりました。

 

 

次回に続きます。

東晋時代108 東晋孝武帝(七) 襄陽包囲 378年

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