東晋時代109 東晋孝武帝(八) 謝玄の反撃 379年

今回は東晋孝武帝太元四年です。

 

東晋孝武帝太元四年/前秦天王建元十五年

己卯 379年

 

[一] 『晋書・第九・孝武帝紀』と『資治通鑑』からです。

春正月辛酉(初八日)、東晋が大赦しました。

 

[二] 『晋書・第九・孝武帝紀』からです。

東晋の郡県で水旱の害に遭遇した者は租税を減らしました。

 

[三] 『晋書・第九・孝武帝紀』からです。

丙子(二十三日)、東晋孝武帝が建平等の七陵を謁拝しました。

 

[四] 『晋書・第九・孝武帝紀』と『資治通鑑』からです。

前秦の長楽公・苻丕(前秦天王の子)等が詔(前回参照)を得て惶恐しました。そこで、諸軍に力を併せて襄陽を攻めるように命じます。

前秦天王(秦王・苻堅)も自ら兵を指揮して襄陽を攻めようと欲し、詔を発して、陽平公・苻融に関東六州の兵を率いて寿春で会させ、梁熙に河西の兵を率いて後継になるように命じました。

しかし、陽平公・苻融が天王を諫めてこう言いました「もしも陛下が江南を取ろうと欲するなら、もとより広く謀って深く考慮すべきであり、倉猝(唐突、軽率)であってはなりません(陛下欲取江南,固当博謀熟慮,不可倉猝)。もしもただ襄陽だけを取ろうと欲するなら、また、どうして大駕を自ら労す必要があるのでしょう(若止取襄陽,又豈足親労大駕乎)。一城のために天下の衆を動かすような者は、今までいたためしがありません(未有動天下之衆而為一城者)。これはいわゆる『隨侯の珠(隨侯が蛇を救って得たといわれる宝珠)を使って千仞の雀(「仞」は髙さの単位です。「千仞の雀」は高所を飛ぶ雀です)を撃つ(以隨侯之珠弾千仞之雀)』というものです。」

梁熙も諫めてこう言いました「晋主の暴はまだ孫皓(呉末帝)ほどではなく、江山の険固な地形は、守り易くて攻めるのが困難です(晋主之暴,未如孫皓,江山険固,易守難攻)。陛下が必ず江表を廓清(粛清・平定)しようと欲したとしても、やはり将帥にそれぞれ命を発して、関東の兵を率いて南は淮・泗に臨ませ、梁・益の卒を下らせて東は巴・峡から出させるだけで充分です。どうしてまた自らを労して鸞輅(天子の車)に乗り、遠く沮沢(沼澤)に行幸する必要があるのでしょうか(陛下必欲廓清江表,亦不過分命将帥,引関東之兵,南臨淮泗,下梁益之卒,東出巴峽,又何必親屈鸞輅,遠幸沮沢乎)。昔、漢光武が公孫述を誅して晋武帝が孫皓を擒にしましたが、二帝が自分で六師を統帥し、自ら枹鼓(戦鼓)を持って矢石を冒したとは、聞いたことがありません(未聞二帝自統六師親執枹鼓蒙矢石也)。」

天王は親征を中止しました。

『資治通鑑』胡三省注は「苻融と梁熙は自分が鎮守している地を離れていないので、どちらも(朝廷に)上書して(天王を)諫めた」と解説しています。

 

東晋孝武帝が詔を発し、冠軍将軍・南郡相・劉波に八千の衆を率いて襄陽を救わせました。

しかし劉波は秦を畏れて前に進もうとしませんでした。

 

朱序がしばしば出撃して秦兵を破りました。前秦の将が兵を率いて退き、徐々に遠くへ離れたため、朱序は備えを設けなくなります。

 

二月、襄陽の督護・李伯護が秘かに自分の子を派遣して前秦に誠意を伝え(密遣其子送款於秦)、内応となることを請いました。

長楽公・苻丕が諸軍に進攻を命じます。

 

戊午(『晋書・孝武帝紀』『資治通鑑』とも「戊午」としていますが、『二十史朔閏表』によると、この年二月は「甲申」が朔なので、「戊午」はありません)、前秦が襄陽を攻略し、朱序を捕えて長安に送りました。

天王は、節を守ることができた朱序を度支尚書(『資治通鑑』胡三省注によると、度支尚書は曹魏が置きました)に任命し、李伯護は不忠とみなして斬りました。

 

前秦の将軍・慕容越も順陽(『資治通鑑』胡三省注によると、西晋武帝の時代に順陽郡が置かれました)を攻略して、太守・譙国の人・丁穆を捕えました。

天王が丁穆に官を授けようと欲しましたが、丁穆は固辞して受け入れませんでした。

 

天王は中塁将軍・梁成を荊州刺史に任命して一万の兵を配し、襄陽を鎮守させました。また、当地の才望を選び、礼遇して用いました。

 

東晋の桓沖は襄陽が陷没したので、上書して章節(印章と符節)を送り返し、解職(免職)を請いました。

孝武帝は詔を発して劉波の官を免じましたが、間もなくして再び冠軍将軍に任命しました。

 

[五] 『資治通鑑』からです。

前秦が前将軍張蚝を并州刺史に任命しました。

 

[六] 『資治通鑑』からです。

東晋の兗州刺史・謝玄が一万余の衆を率いて彭城を救いに行き、泗口に駐軍しました。そこから間使(密使)を派遣して戴𨔵(彭城にいる沛郡太守)に報せようとしましたが、相応しい人物を得られません。

すると、部曲の将・田泓が水中を潜行して彭城に向かう許可を請いました。

そこで謝玄は田泓を派遣しましたが、田泓は秦人に捕えられてしまいました。

秦人は田泓に厚い賄賂を贈り、彭城に「南軍は既に敗れた」と伝えさせました。田泓は偽ってこれに同意してから、城中にこう告げました「南軍はすぐに至る。私は単行して報せに来たが、賊に捕まってしまった。(汝等は)努力せよ(南軍垂至,我単行来報,為賊所得,勉之)。」

秦人は田泓を殺しました。

 

彭超が留城(『資治通鑑』胡三省注によると、留県の城です。漢代以来、彭城郡に属しました)に輜重を置いていたため、謝玄は「後軍将軍・何謙を派遣して留城に向かわせた」と揚言しました。

それを聞いた彭超は彭城の包囲を解き、兵を引き還して輜重を守ります

(その間に)戴𨔵が彭城の衆を率いて何謙に従い、謝玄に奔りました。

 

彭超が彭城を占拠し、兗州治中・徐褒を留めて彭城を守らせてから、南の盱眙を攻めました。

 

『晋書・列伝第四十九(謝玄伝)』では、彭超が輜重を守りに行ってから何謙が馳せて彭城の包囲を解かせており、俱難等が敗れて逃走してから(本年六月)、東晋が彭城と下邳の二戍(二カ所の守備兵)を解散させています。『晋書・孝武帝紀』にも、本年に彭城が陥落したという記述はありません。

しかし『資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)によると、『十六国』と『秦春秋』がこう書いています「彭超が彭城を占拠した。」「彭超が兵を下邳に分け、徐褒を留めて彭城を守らせた。七月に至り、毛当を徐州刺史に任命して彭城を鎮守させ、王顕を揚州(刺史)に任命して下邳を守らせた。」

『資治通鑑』はこれらの記述に従って、二城とも前秦に攻略されたとしています。

 

本文に戻ります。

俱難も淮陰を攻略し、邵保を留めて守らせました。

『資治通鑑』胡三省注によると、淮陰県は淮水から五十歩離れており、北に向かって十里の地に清河口がありました(北対清河口十里)。進めば山東を窺うことができ、中にいれば江(長江)に沿って守ることができたので(進可以窺山東,内則蔽沿江)、晋・宋時代は重鎮とされました。

 

[七] 『晋書・第九・孝武帝紀』からです。

三月、大疫に襲われました。

 

壬戌(初十日)、東晋孝武帝が詔を発しました「狡寇(狡猾な賊)が縦逸(縦横、放縦)して藩守が傾没し、疆埸(国境)の憂虞が平時の倍にもなっている(狡寇縦逸,藩守傾沒,疆埸之虞,事兼平日)。よって、内外の衆官はそれぞれ心を尽くして協力することで、庶事を安んじさせよ(其内外衆官,各悉心戮力以康庶事)。また、一年の穀物も不作で、百姓の多くが窮乏しているので(又年穀不登,百姓多匱)、詔御が供ずるところは(「詔によって皇室に供給する必要がある物は」という意味だと思います)、万事を倹約に従わせ、九親(皇帝の九族)への供給や衆官の廩俸(俸禄)は暫く半分に減らせ(其詔御所供,事従倹約,九親供給,衆官廩俸,権可減半)。およそ諸役の費用において、軍国の事要(重要な事)でないものは、全て停省(停止・削減)して時務(目前の需要)を救うべきである(凡諸役費,自非軍国事要,皆宜停省以周時務)。」

 

『資治通鑑』はこの詔を要約してこう書いています「疆埸に憂虞が多く、一年の穀物も不作なので、供御(皇室への供給)に必要なものおいては、万事、倹約に則れ(疆埸多虞,年穀不登,其供御所須,事従倹約)。九親への供給や衆官の廩俸は、暫く半分に減らし、諸役の費用は、軍国の事要でなければ、全て停省すべきである(九親供給,衆官廩俸,権可減半。凡諸役費,自非軍国事要,皆宜停省)。」

 

[八] 『晋書・第九・孝武帝紀』と『資治通鑑』からです。

癸未(『晋書・孝武帝紀』『資治通鑑』とも「癸未」としていますが、『二十史朔閏表』によると、この年三月は「癸丑」が朔なので、「癸未」はありません)、東晋が右将軍・毛虎生に三万の衆を率いて巴中(『資治通鑑』胡三省注が「巴中は巴郡を指す」と解説しています。尚、『資治通鑑』では「巴中」ですが、『晋書・孝武帝紀』は「蜀」としています)を攻撃させました。魏興を救うためです。

前鋒督護・趙福等が巴西に至りましたが、秦将・張紹等に敗れて七千余人が死亡しました。

毛虎生は退いて巴東に駐屯しました。

 

蜀の人・李烏が二万の衆を集め、成都を包囲して毛虎生に応じました。

しかし前秦天王(秦王・苻堅)が破虜将軍・呂光を送って撃滅させました。

 

夏四月戊申(二十六日)、韋鍾が魏興を攻略しました。

太守・吉挹が刀をとって自殺しようとしましたが、左右の者が刀を奪いました。この時、ちょうど秦人が到着して吉挹を捕えます。結局、吉挹は何も言わず何も食べずに死にました(不言不食而死)

天王が感嘆して言いました「以前は周孟威が屈することなく、後には丁彦遠が自分を潔くし、(今また)吉祖沖が口を閉じて死んだ。何と晋氏には忠臣が多いことか(原文「周孟威不屈於前,丁彦遠潔己於後,吉祖沖閉口而死,何晋氏之多忠臣也」。孟威は周虓の字、彦遠は丁穆の字、祖沖は吉挹の字です)。」

 

吉挹の参軍・史穎は(東晋に)帰ることができました。

朝廷は(史穎から)吉挹が死ぬ前に書いた手疏(手書きの上書)を得て、詔を発して吉挹に益州刺史の官位を贈りました。

 

[九] 『晋書・第九・孝武帝紀』と『資治通鑑』からです。

前秦の毛当と王顕が二万の衆を率いて襄陽から東に向かい、俱難(『晋書・孝武帝紀』では「句難」ですが、『晋書・載記第十三』では「俱難」としています。『資治通鑑』は「載記」に従っています)、彭超と合流して淮南を攻めました。

 

五月乙丑(十四日)、俱難、彭超が盱眙を攻略し、高密内史・毛璪之を捕えました(『資治通鑑』胡三省注によると、高密は僑国(移民のために建てられた国)です。毛璪之は内史として盱眙を守っていました)

 

秦兵六万が三阿で幽州刺史・田洛を包囲しました(『資治通鑑』胡三省注によると、晋は江北の三阿に幽・冀・青・并四州を僑置していました)。広陵から百里しか離れていないため、東晋の朝廷が大いに震撼し、江に臨んで守備を並べ、征虜将軍・謝石を派遣して舟師を率いて涂中に駐屯させました。謝石は謝安の弟です。

 

東晋の右衛将軍・毛安之等が四万の衆を率いて堂邑に駐屯しましたが、前秦の毛当と毛盛が騎兵二万を率いて堂邑を襲うと、毛安之等は驚潰(震撼・崩壊)しました。

 

東晋の兗州刺史・謝玄が広陵から三阿を救いに行きました。

丙子(二十五日)、俱難と彭超が敗戦し、退いて盱眙を守りました。

 

[十] 『晋書・第九・孝武帝紀』からです。

六月、大旱に襲われました。

 

[十一] 『資治通鑑』からです。

戊子(初七日)、東晋の謝玄と田洛が五万の衆を率いて盱眙に進攻しました。

俱難と彭超はまた敗れ、退いて淮陰に駐屯します。

 

謝玄が何謙等を派遣し、舟師を率いて潮に乗じて上らせました(原文「乗潮而上」。淮陰は盱眙よりも下流に位置するので、「潮に乗じて(淮水を)下らせた」とした方が分かりやすいと思われます。あるいは、「潮に乗じて北上させた」または「潮に乗じて攻め上がらせた(進攻させた)」という意味かもしれません)

夜、東晋軍が淮橋を焼きました(『資治通鑑』胡三省注によると、前秦は淮水に橋を造って兵を渡らせていました)

邵保は戦死し、俱難と彭超は退いて淮北に駐屯しました。

 

謝玄と何謙、戴𨔵、田洛が共に前秦軍を追撃し、君川で戦ってまた大破しました。

俱難と彭超は北に逃走して、その身一つでなんとか免れました(僅以身免)

『晋書・孝武帝紀』は「戊子(初七日)、征虜将軍・謝玄が超・難(彭超、俱難)と君川で戦い、これを大破した」と書いていますが、当時の征虜将軍は謝石のはずです(上述)。『晋書・列伝第四十九(謝玄伝)』を見ると、謝玄は兗州刺史になった時(東晋孝武帝太元二年・377年)、建武将軍に任命されています。

 

『資治通鑑』に戻ります。

謝玄は広陵に還りました。

孝武帝が詔を発して謝玄の号を冠軍将軍に進め、領徐州刺史を加えました。

 

前秦天王(秦王・苻堅)は俱難等の敗戦を聞いて大いに怒りました。

秋七月、天王が檻車で彭超を召して廷尉に下そうとしましたが、彭超は自殺しました。

俱難は爵位を削られて庶民になりました。

 

天王は毛当を徐州刺史に任命して彭城を鎮守させ、毛盛を兗州刺史に任命して湖陸(『資治通鑑』胡三省注によると、湖陸は湖陵といいましたが、東漢章帝が改名しました。漢代の湖陸県は山陽郡に属しましたが、晋が山陽から分けて高平国に属させました)を鎮守させ、王顕を揚州刺史に任命して下邳を守らせました。

 

謝安が宰相になってから、秦人がしばしば入寇して辺兵が利を失いましたが、謝安は和静(友和・安静な態度)によって人々を鎮めました。また、謝安の為政は、務めて大綱(大要。重要なこと)を挙げて小察(小事に拘って精明を求めること)を為しませんでした。

そのため、時の人は謝安を王導と比し、しかもその文雅(風雅な姿)は王導を越えているとみなしました。

 

[十二] 『晋書・第九・孝武帝紀』と『資治通鑑』からです。

八月丁亥(初七日)、東晋が左将軍・王蘊を尚書僕射に任命し、間もなくして丹陽尹に遷しました。

しかし、王蘊は自分が国姻(帝王の姻戚、外戚。王蘊は王皇后の父です)なので、朝廷内にいることを願わず、苦心して外に出る許可を求めました。

そこで朝廷は、再び王蘊を都督浙江東五郡諸軍事・会稽内史に任命しました(『資治通鑑』胡三省注が解説しています。王蘊は以前、徐州を督しており、今回また浙東(浙江東)を督すことになりました)

 

[十三] 『晋書・第九・孝武帝紀』からです。

乙未(十五日)、暴風が吹き、沙石が舞い揚がりました。

 

[十四] 『晋書・第九・孝武帝紀』からです。

九月、盗(賊)が東晋の建安太守・傅湛を殺しました。

 

[十五] 『晋書・第九・孝武帝紀』からです(『資治通鑑』は採用していません)

冬十二月己酉朔(『二十史朔閏表』によると、この年十二月は「乙卯」が朔で、閏十二月の朔が「己酉」です。『晋書・天文志中』も「閏月己酉朔」としています)、日食がありました。

 

[十六] 『資治通鑑』からです。

この年、前秦が大飢饉に襲われました(秦大饑)

 

 

次回に続きます。

東晋時代110 東晋孝武帝(九) 苻洛謀反 380年

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