東晋時代110 東晋孝武帝(九) 苻洛謀反 380年

今回は東晋孝武帝太元五年です。

 

東晋孝武帝太元五年/前秦天王建元十六年

庚辰 380年

 

[一] 『晋書・第九・孝武帝紀』からです。

春正月乙巳(二十八日)、東晋孝武帝が崇平陵(東晋康帝陵)を謁拝しました。

 

[二] 『資治通鑑』からです。

前秦天王(秦王・苻堅)が北海公・苻重を改めて鎮北大将軍に任命し、薊を鎮守させました(苻重は豫州刺史でしたが、東晋孝武帝太元三年・378年に謀反して官を失っていました)

 

[三] 『資治通鑑』からです。

二月、前秦天王が渭城(『資治通鑑』胡三省注によると、西漢高帝が咸陽を新城に改名し、武帝が渭城に改名しました。東漢と晋は省きましたが、石勒が石安県を置き、苻秦がまた渭城と呼ぶことにしました)に教武堂を造りました。太学生の中で陰陽や兵法に明るい者に命じて、諸将に教授させます。

しかし祕書監・朱肜が諫めてこう言いました「陛下は東征西伐して向かう所に敵がなく、四海の地のうち、十分の八を得ました(什得其八)。江南はまだ服していないとはいえ、およそ語るには足りません(蓋不足言)。よって、少し武事を休めて、文徳を増やし修めるべきです(是宜稍偃武事,増修文徳)。それなのに、かえって新たに学舍を建てて、人に戦闘の術を教えました。恐らくこれは升平(太平)に至ろうとする方法ではありません(乃更始立学舍,教人戦闘之術,殆非所以馴致升平也)。そもそも、諸将は皆、百戦して余りあるので、どうして兵(兵事、軍事)に習熟していないことを患いる必要があるのでしょう。(それなのに)逆に書生から教えを受けさせても、志気を強くすることにはなりません(且諸将皆百戦之余,何患不習於兵,而更使受教於書生,非所以強其志気也)。これは実(実利)において益がなく、名(名声)においては損なうことになるので、陛下がこれを図ることを願います(陛下の再考を願います。原文「此無益於実而有損於名,惟陛下図之」)。」

天王は中止しました。

 

[四] 『資治通鑑』からです。

前秦の征北将軍・幽州刺史・行唐公・苻洛(『資治通鑑』胡三省注によると、苻洛は幽州刺史として和龍を鎮守していました。行唐は戦国時代の趙の邑で、秦が県にして、魏・晋もそれを踏襲していました)は勇猛かつ多力で、坐したまま奔走する牛を制すことができ、矢を射れば犂耳(犂の固い部分)に穴をあけることもできました(能坐制奔牛,射洞犂耳)

苻洛は自分に代を滅ぼした功績があると思っており、開府儀同三司を求めましたが、得られなかったため、怨憤を抱きました。

 

三月、前秦天王(秦王・苻堅)が苻洛を使持節・都督益寧西南夷諸軍事・征南大将軍・益州牧に任命しました。同時に、伊闕から襄陽に向かい、漢水を遡るように命じます。

しかし苻洛は官属にこう言いました「孤(私)は帝室の至親であるのに(『資治通鑑』胡三省注によると、苻洛は前秦景明帝・苻健の兄の子です)(中央に)入って将相になることができず、常に辺鄙(辺遠、辺境)に擯棄(放棄)されてきた。今また西裔(西の辺境)に投じられ、しかも京師を通ることすら許されなかった(今又投之西裔,復不聴過京師)。これは必ず陰計があり、梁成(荊州刺史。襄陽を鎮守しています)を使って孤(私)を漢水に沈めようと欲しているに違いない。」

幽州治中・平規が言いました「逆取順守(主に背いて国を取り、道に順じて国を守ること)とは、湯・武(商王朝の成湯と西周武王)がしたことです(逆取順守,湯武是也)。因禍為福(禍を福に転じること)とは、桓・文(春秋時代の斉桓公と晋文公)がしたことです(原文「因禍為福,桓文是也」。『資治通鑑』胡三省注が解説しています。斉桓公と晋文公はそれぞれ兄弟で国を争いましたが、国を得てからは霸を称えました)。主上(陛下。前秦天王)は昏暴を為してはいませんが、兵を尽くして軽率に武を用いているので、民の中で肩を休める場所を思う者(休息を願う者)は十室(家)のうち九室に上ります(主上雖不為昏暴,然窮兵黷武,民思有所息肩者,十室而九)。もし、明公(苻洛)の神旗が一たび建てられれば、必ず全土が雲集するように従うでしょう(若明公神旗一建,必率土雲従)。今、全燕を跨拠(占拠、拠有)すれば、地は東海に尽き(東海に至り)、北は烏桓・鮮卑を統べ、東は句麗・百済を引き(率い)、控弦の士は五十余万を下りません(控弦之士不減五十余万)。なぜ手を束ねて召喚に応じ、不測の禍に向かうのですか(柰何束手就徵,蹈不測之禍乎)。」

苻洛は袖をめくってこう大言しました(攘袂大言曰)「孤(私)の計は決まった。謀を阻止する者は斬る(孤計決矣,沮謀者斬)!」

こうして苻洛は自ら大将軍・大都督・秦王を称しました。

平規を幽州刺史に、玄菟太守・吉貞を左長史に、遼東太守・趙讃を左司馬に、昌黎太守・王縕を右司馬に、遼西太守・王琳、北平太守・皇甫傑、牧官都尉・魏敷等(『資治通鑑』胡三省注によると、漢代の辺郡に牧官がおり、前秦は牧官都尉を置きました)を従事中郎に任命します。

同時に使者を分遣して、鮮卑、烏桓、高句麗、百済、新羅、休忍の諸国から徵兵し、三万の兵を送って薊を守る北海公・苻重(苻洛の兄)を助けさせようとしました。

ところが諸国は皆こう言いました「我々は天子の守藩(封地を守る藩臣)になったので、行唐公に従って逆を為すことはできません。」

苻洛は懼れて計画を中止しようとしましたが、躊躇して決断できませんでした。

王縕、王琳、皇甫傑、魏敷が、苻洛は成功できないと知って告発しようとしたため、苻洛は彼等を全て殺しました。

 

吉貞と趙讃が苻洛に言いました「今、諸国が従わず、事が本図(本来の計画)から離れてしまいました(事乖本図)。明公がもし益州に行くことを恐れているのなら、使者を派遣して上表を奉じ、留まることを乞うべきです(明公若憚益州之行者,当遣使奉表乞留)。主上も考慮せず(上表に)従わないということはないでしょう(「請願を直ちに却下することはないでしょう」という意味だと思います。原文「主上亦不慮不従」)。」

しかし平規がこう言いました「今、事形(事態、情勢)が既に暴露したのに、どうして中止することができるのですか(今事形已露,何可中止)。詔を受けたと声言(公言)して、幽州の兵を尽くし(ことごとく動員し)、南に向かって常山に出れば、陽平公(苻融)が必ず郊外で迎えます。その機にこれを捕えて、進んで冀州を占拠し、関東の衆を総べて(統べて。統率して)西土を図れば、天下は一たび指揮するだけで平定できます(天下可指麾而定也)。」

苻洛はこの意見に従いました。

 

夏四月、苻洛が七万の衆を率いて和龍を発ちました。

 

天王が群臣を招集して謀りました。

歩兵校尉・呂光が言いました「行唐公は至親の身で逆を為しました。これは天下が共に憎むことです(此天下所共疾)。臣に歩騎五万を貸すことを願います。これを取るのは、落ちている物を拾うように容易なことです(願假臣歩騎五万,取之如拾遺耳)。」

天王が言いました「重と洛の兄弟は東北の一隅を拠点としており、兵賦(兵や物資。「賦」は民間から徴収した武器や資金だと思います)ともに蓄えられているので、軽視することはできない(重洛兄弟,拠東北一隅,兵賦全資,未可軽也)。」

呂光が言いました「彼の衆は凶威に迫られて、一時的に蟻のように集まっただけです(彼衆迫於凶威,一時蟻聚耳)。もし大軍でこれに臨めば、必ず瓦解する形勢にあるので、憂うるには足りません(若以大軍臨之,勢必瓦解,不足憂也)。」

 

天王はまず使者を派遣して苻洛を譴責し、和龍に還らせて幽州を永く世封(代々世襲する封地)とすることにしました。

しかし苻洛は使者にこう言いました「汝は還って東海王に告げよ(苻堅の元の爵位は東海王でした)。幽州は褊狭(狭小)なので、万乗を容れるには足りない。秦中で王となって高祖(景明帝・苻健の廟号です)の業を継承する必要がある(須王秦中以承高祖之業)。もし潼関で駕を迎えることができるようなら、位を上公にして、爵を本国(東海)に戻そう(若能迎駕潼関者,当位為上公,爵帰本国)。」

 

怒った天王は左将軍・武都の人・竇衝と呂光を派遣し、歩騎四万を率いて苻洛を討たせました。

また、右将軍・都貴(都が姓、貴が名です。『資治通鑑』胡三省注によると、鄭の公孫閼が字を子都といい、その子孫が都を氏にしました)に伝(伝馬、駅馬)を馳せて鄴に急行させ、冀州の兵三万を率いて前鋒にさせました。

陽平公・苻融が征討大都督に任命されます。

 

北海公・苻重は薊城の衆を全て動員して苻洛と会し、中山に駐屯しました。十万の衆を有しています。

 

[五] 『晋書・第九・孝武帝紀』からです。

東晋を大旱が襲いました。

癸酉(二十七日)、東晋が五年の刑以下の者を赦免しました(原文「大赦五歳刑以下」。中華書局『晋書・孝武帝紀』校勘記は、「大」の字を衍(余分な文字)としています)

 

[六] 『資治通鑑』からです。

五月、前秦の竇衝等が中山で苻洛と戦い、苻洛の兵が大敗しました。竇衝等は苻洛を生捕りにして長安に送ります。

北海公・苻重は逃走して薊に還りましたが、呂光が追撃して斬りました。

屯騎校尉・石越も騎兵一万を率いて東莱を発ち、海から和龍を襲って(浮海襲和龍)平規を斬りました。

こうして幽州が全て平定されます。

 

天王は苻洛を赦して誅殺せず、涼州の西海郡(『資治通鑑』胡三省注によると、東漢献帝時代、武威太守・張雅が居延に郡を置くことを請い、西海郡が置かれました)に遷しました。

 

[七] 『晋書・第九・孝武帝紀』からです。

大水(洪水)がありました。

 

[八] 『資治通鑑』からです。

東晋朝廷は秦兵の撤退(前年参照)を謝安と桓沖の功とみなしました。

そこで、謝安を衛将軍に任命し、桓沖と共に開府儀同三司としました。

『晋書・第九・孝武帝紀』は「司徒・謝安を衛将軍・儀同三司にした」と書いています。

 

[九] 『晋書・第九・孝武帝紀』からです。

六月甲寅(初九日)、東晋の含章殿に雷が落ちて四本の柱が震え(『晋書・孝武帝紀』の原文は「震含章殿四柱」ですが、『晋書・五行志下』は「雷震含章殿四柱」と書いています。ここは『五行志』に従って「雷」の字を補いました)、同時に二人の内侍を殺しました(并殺内侍二人)

 

[十] 『晋書・第九・孝武帝紀』と『資治通鑑』からです。

甲子(十九日)、東晋が連年の荒倹(不作)を理由に大赦しました。

また、太元三年(378年)より前の逋租宿債(滞納した租税や古い借金)を全て蠲除(免除)し、鰥寡(配偶者を失った男女)・窮独(孤独な者。身寄りがない者)・孤老(孤児や老人)で自存できない者には、一人当たり五斛の米を下賜しました(其鰥寡窮独孤老不能自存者,人賜米五斛)

 

[十一] 『晋書・第九・孝武帝紀』と『資治通鑑』からです。

丁卯(二十二日)、東晋が驃騎将軍・琅邪王・司馬道子(『資治通鑑』は「会稽王・道子」としていますが、司馬道子は太元十七年・392年に琅邪王から会稽王に改封されます。『晋書・孝武帝紀』では「驃騎将軍・琅邪王・道子」です)を司徒に任命しましたが、司馬道子は頑なに譲って拝命しませんでした。

 

[十二] 『資治通鑑』からです。

前秦天王(秦王・苻堅)が陽平公・苻融を召して侍中・中書監・都督中外諸軍事・車騎大将軍・司隸校尉・録尚書事に任命し、征南大将軍・守尚書令・長楽公・苻丕を都督関東諸軍事・征東大将軍・冀州牧に任命しました。

 

秋七月、天王は諸氐の種類(種族)が繁滋(発展、増加)していると考え、三原、九嵕(『資治通鑑』胡三省注によると、九嵕山は漢代の馮翊雲陽県界内にありました)、武都、汧、雍の氐族十五万戸を分けて、諸宗親にそれぞれ統領させました。宗親が方鎮(各地の軍鎮)に散居して古の諸侯のようになります。

 

長楽公・苻丕は三千戸の氐族を統領することになりました。そこで、仇池の氐酋・射声校尉・楊膺を征東左司馬に、九嵕の氐酋・長水校尉・齊午を(征東)右司馬に任命してそれぞれ千五百戸を統領させ、長楽世卿(長楽公に属す世襲の貴族)にしました。楊膺は苻丕の妻の兄、齊午は楊膺の妻の父です。

また、長楽郎中令・略陽の人・垣敞(『資治通鑑』胡三省注によると、垣は氐族の姓です。後に宋武(南宋武帝)に従って南帰し、代々の将家になります)を録事参軍に、侍講・扶風の人・韋幹を参軍事に、申紹を別駕にしました。

 

八月、前秦が幽州を分けて平州を置き、石越を平州刺史に任命して龍城を鎮守させました。

『資治通鑑』胡三省注によると、平州の地は本来、幽州界内に属しましたが、東漢末に公孫度が自ら平州牧を称しました。魏は公孫淵を滅ぼした後もそのまま平州を置いて、遼東、昌黎、玄菟、帯方の五郡(胡三省注は「楽浪」が抜けています)を統領させましたが、後にまた幽州と合併させました。苻秦は燕を滅ぼしてから、再び幽州を分けて平州を置きました。

 

中書令・梁讜を幽州刺史に任命して薊城を鎮守させ、撫軍将軍・毛興を都督河秦二州諸軍事・河州刺史に任命して枹罕を鎮守させ、長水校尉・王騰を并州刺史に任命して晋陽を鎮守させました。河・并二州にそれぞれ氐族三千戸を配します。

毛興と王騰はどちらも苻氏と婚姻関係にあり、氐の崇望(声望があって尊崇されている人物)でした。

 

平原公・苻暉を都督豫洛荊南兗東豫陽六州諸軍事・鎮東大将軍・豫州牧に任命して洛陽を鎮守させ、洛州刺史の治所を豊陽に遷し(太元三年・378年に触れました)、鉅鹿公・苻叡を雍州刺史にして(『資治通鑑』胡三省注によると、『資治通鑑』の版本によってはこの後「鎮蒲坂(蒲坂を鎮守させた)」の三文字が続きます)(苻暉と苻叡に)それぞれ氐族三千二百戸を配しました。

「豫洛荊南兗東豫陽六州」は「豫・洛・荊・南兗・東豫・陽の六州」です。『資治通鑑』胡三省注によると、前秦の兗州刺史は倉垣を鎮守し、南兗州は湖陸を鎮守しました。秦初の豫州刺史は許昌を鎮守しましたが、燕を滅ぼしてからは洛陽を鎮守することになり、許昌には東豫州が置かれました。「陽州」は「揚州」とするのが正しいようです。陽州は東魏の天平年間に始めて宜陽に置かれます。苻堅は王顕を揚州刺史に任命して下邳を守らせており、その地は苻暉の統括下に属しました。苻秦の洛州刺史は元々、陝城を鎮守しており(二年前の胡三省注では、「洛州刺史は洛陽を治所としていた」と解説しています。前秦の洛州刺史は以前、陝城から洛陽に遷り、今回、更に洛陽から豊陽に遷ったようです)、豊陽は荊州刺史が鎮守していましたが、襄陽を得て荊州にしたので、洛州の治所を豊陽に遷しました。

 

天王が苻丕を送って灞上に至りました。

(移住を命じられた)諸氐が自分の父兄と別れることになったため、皆、慟哭して、路人を哀感させました。

 

趙整が宴に侍った機会に琴(『資治通鑑』胡三省注が琴について詳しく解説していますが、省略します)を弾いてこう歌いました「阿得脂,阿得脂(直訳すると「阿が脂を得た」ですが、意味が分かりません)。博労の舅父は仇綏であり(原文「博労舅父是仇綏」。この部分も意味が分かりません。「博労」は「伯労」ともいい、鳥の名です。「仇綏」は不明です。『資治通鑑』胡三省注も「どういう物かわからない(仇綏,不知為何物)」と書いています。尚、『晋書・載記第十四』は「博労旧父是仇綏」と書いています(「舅父」ではなく「旧父」です)。あるいは、「博労」は鳥の名と「広く労す」という意味をかけており、この一文は「広く旧父(親族の父兄)を労して仇人を安撫する」という意味を表すのかもしれません)(博労は)尾が長くて翼が短いので飛ぶことができない。遠くに種人(族人。氐族)を遷して鮮卑(慕容氏)を留める。一旦にして緩急(急事)が有ったら、誰に語るのだろうか(『資治通鑑』原文「阿得脂,阿得脂,博労舅父是仇綏,尾長翼短不能飛。遠徙種人留鮮卑,一旦緩急当語誰」。『晋書・載記第十四』原文「阿得脂,阿得脂,博労旧父是仇綏,尾長翼短不能飛,遠徙種人留鮮卑,一旦緩急語阿誰」)。」

天王は歌を聞いて笑いましたが、諫言を採用しませんでした。

 

[十三] 『晋書・第九・孝武帝紀』と『資治通鑑』からです。

九月癸未(初十日)、東晋の皇后・王氏が死にました。

『晋書・列伝第二・后妃伝下』によると、王氏は「孝武定王皇后」といい、二十一歳でした。

 

[十四] 『晋書・第九・孝武帝紀』と『資治通鑑』からです。

冬十月、東晋の九真太守・李遜が交州を占拠して反しました。

 

[十五] 『資治通鑑』からです。

前秦天王(秦王・苻堅)が左禁将軍・楊壁を秦州刺史に、尚書・趙遷を洛州刺史に、南巴校尉・姜宇(『資治通鑑』胡三省注によると、苻秦(前秦)は南中に南巴校尉を置きました)を寧州刺史に任命しました。

 

[十六] 『晋書・第九・孝武帝紀』と『資治通鑑』からです。

十一月乙酉(十三日)、東晋が定皇后(王氏)を隆平陵に埋葬しました。

 

[十七] 『資治通鑑』からです。

十二月、前秦が左将軍・都貴を荊州刺史に任命して彭城を鎮守させました。

これは『資治通鑑』本文の記述ですが、胡三省注が「都貴は襄陽を鎮守したのであって、彭城は誤りである」と解説しています。

 

[十八] 『資治通鑑』からです。

前秦が東豫州を置き、毛当を刺史に任命して許昌を鎮守させました。

 

[十九] 『資治通鑑』からです。

この年、前秦天王(秦王・苻堅)が高密太守・毛璪之等二百余人を東晋に帰らせました(毛璪之は前年、前秦に捕えられました)

 

 

次回に続きます。

東晋時代111 東晋孝武帝(十) 秦晋の攻防 381年

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