東晋時代112 東晋孝武帝(十一) 苻陽謀反 382年(1)

今回は東晋孝武帝太元七年です。二回に分けます。

 

東晋孝武帝太元七年/前秦天王建元十八年

壬午 382年

 

[一] 『晋書・第九・孝武帝紀』からです。

春三月、林邑の范熊が使者を派遣して東晋に方物(地方の産物)を献上しました。

 

『晋書・列伝第六十七(林邑伝)』では「范熊」を「范佛」としており、中華書局『晋書・孝武帝紀』校勘記も「范佛」が正しいと指摘しています。范佛は林邑王・范文(東晋成帝咸康二年・336年および東晋穆帝永和九年・353年参照)の子で、范佛の死後は子の范胡達が継ぎます。

 

[二] 『資治通鑑』からです。

前秦の大司農・東海公・苻陽、員外散騎侍郎・王皮(『資治通鑑』胡三省注によると、散騎侍郎は四人おり、魏初に散騎常侍と共に置かれました。員外散騎侍郎は西晋武帝が置きました)、尚書郎・周虓が反叛を謀りましたが、事が発覚したため、捕えられて廷尉に下されました。苻陽は苻法(東晋穆帝升平元年・357年に処刑されました)の子、王皮は王猛の子です。

 

前秦天王(秦王・苻堅)が反状(謀反の状況、原因)について問うと、苻陽はこう答えました「臣の父・哀公(献哀公)は罪がないのに殺されました(死不以罪)。臣は父のために復讎しようとしたのです(臣為父復讎耳)。」

天王が泣いて言いました「哀公の死は、朕にはどうしようもなかった。卿はそれを知らないというのか(哀公之死,事不在朕,卿豈不知之)。」

(天王の同じ問いに)王皮はこう答えました「臣の父は丞相となり、佐命の勲(天命を輔佐した勲功)がありましたが、臣は貧賎を免れることができませんでした。だから富貴を図ろうと欲したのです(故欲図富貴耳)。」

天王が言いました「丞相(王猛)は臨終の際、卿を(朕に)託し、十具(十頭)の牛を治田の資(農耕の資本)とさせたが、卿のために官を求めたことはなかった。子を知るのに父以上の者はいないというが、この言葉は何と確かなことか(または、「子を知るのに父以上の者はいないというが、丞相は何と英明だったことか」。原文「知子莫若父,何其明也」)。」

周虓はこう答えました「虓(私)は代々晋の恩を負って来たので(世荷晋恩)、生きている間は晋の臣となり、死んでからは晋の鬼となります。また何を問うのですか(生為晋臣,死為晋鬼,復何問乎)。」

周虓はこれ以前にもしばしば反叛を謀ったため、左右の者が皆、周虓を殺すように請いました。

しかし天王は「孟威(周虓の字です)は烈士であり、このような志を持っているので、どうして死を恐れるだろう(孟威烈士,秉志如此,豈憚死乎)。彼を殺しても、まさにその名を成させるに足りるだけだ(殺之適足成其名耳)」と言い、三人とも赦して誅殺しませんでした。

苻陽は涼州の高昌郡(『資治通鑑』胡三省注によると、苻堅が河西を平定してから、高昌の人・楊幹を高昌太守にしました。高昌は漢代・車師後部の高昌壁の地で、河西の張氏(前涼)が郡を置き、苻氏はそれを踏襲したようです)に、王皮と周虓は朔方の北に遷されます。

 

後に周虓は朔方で死にました。

苻陽は人並み以上の有力があったため(勇力兼人)、暫くして更に鄯善に遷されました。

建元の末、秦国が大乱に陥った際(建元は苻堅の年号です。建元十九年・383年に前秦は東晋討伐に失敗して大乱に陥ります)、苻陽は鄯善の相を脅迫して東に帰る許可を求めようとしましたが、鄯善王が苻陽を殺しました。

 

[三] 『資治通鑑』からです。

前秦天王(秦王・苻堅)が鄴の銅駝、銅馬、飛廉、翁仲を長安に遷しました(『資治通鑑』胡三省注によると、これらは後趙の石虎が鄴に置いた物です。東晋成帝咸康二年・336年に「(石虎が)洛陽の鍾虡、九龍、翁仲、銅駝、飛廉を鄴に移させた」という記述がありました。「銅馬」には触れていません)

 

[四] 『資治通鑑』からです。

夏四月、前秦天王(秦王・苻堅)が扶風太守・王永を幽州刺史に任命しました。

王永は王皮の兄です。王皮は凶険無行(凶悪で品行がないこと)でしたが、王永は清修(清廉で自分の身を修められること)かつ好学だったため、天王に用いられました。

 

陽平公・苻融を司徒に任命しましたが、苻融は固辞して受け入れませんでした。

天王は晋討伐を謀っている時だったため、苻融を征南大将軍・開府儀同三司にしました。

 

[五] 『資治通鑑』からです。

五月、幽州で蝗が発生し、その広袤(広さと長さ。面積)は千里に及びました。

前秦天王(秦王・苻堅)は散騎常侍・彭城の人・劉蘭に命じ、幽・冀・青・并州の民を動員して蝗を撲除(撲滅)させました。

 

[六] 『晋書・第九・孝武帝紀』と『資治通鑑』からです。

秋八月癸卯(十一日)、東晋が大赦しました。

 

[七] 『資治通鑑』からです。

前秦天王(秦王・苻堅)が諫議大夫・裴元略を巴西梓潼二郡太守に任命し、秘かに舟師を準備させました。長江を東下して東晋を討つためです。

 

[八] 『晋書・第九・孝武帝紀』からです。

九月、東夷の五国が使者を派遣して東晋に方物(地方の産物)を貢納しました。

 

[九] 『資治通鑑』からです。

車師前部王・彌窴と鄯善王・休密馱が前秦に入朝し、西域で服していない者を討つために、自ら郷導(先導)となる許可を求めました。また、西域を平定したら、それを機に漢代の方法に則り、都護を置いて西域を統理(統治)するように請いました。

 

前秦天王(秦王・苻堅)は驍騎将軍・呂光を使持節・都督西域征討諸軍事に任命し、淩江将軍・姜飛、軽車将軍・彭晃、将軍・杜進、康盛等(『資治通鑑』胡三省注によると、淩江将軍は晋文王(司馬昭)が置いた将軍号で、羅憲が任命されました。杜進と康盛は位が将軍に上りましたが、まだ将軍号がありませんでした)と共に兵十万・鉄騎五千を統べて西域を伐たせました。

陽平公・苻融が諫めてこう言いました「西域は荒遠で、その民を得ても使うことはできず、その地を得ても食すこと(開拓・農耕すること)はできず、漢武(西漢武帝)もこれを征しましたが、得たものが失ったものを補うことはできませんでした(西域荒遠,得其民不可使,得其地不可食,漢武征之,得不補失)。今、師(軍)を万里の外で労して漢氏による過挙(誤った行動)の後を追おうとしていますが、臣は心中でこれを惜しんでいます(残念に思っています。原文「今労師万里之外以踵漢氏之過挙,臣竊惜之」)。」

天王は諫言を聴きませんでした。

 

[十] 『資治通鑑』からです。

東晋の桓沖が揚威将軍・朱綽に命じて、襄陽で前秦の荊州刺史・都貴を撃たせました。

朱綽は沔北の屯田を焚践(焼毀・蹂躙)し、六百余戸を掠めて(奪って)還りました。

 

『晋書・第九・孝武帝紀』はこう書いています「苻堅の将・都貴が沔北の田穀を焚焼し、襄陽の百姓を略して(奪って)去った。」

しかし『晋書・載記第十四』は「晋の将軍・朱綽が沔北の屯田を焚践し、六百余戸を掠めて還った」と書いており、『晋書・列伝第四十四(桓沖伝)』でも桓沖が揚威将軍・朱綽に襄陽を討たせて、朱綽が沔北の田で稲を焼いています。中華書局『晋書・孝武帝紀』校勘記は「本紀の文が恐らく誤りである」と解説しています。

 

[十一] 『晋書・第九・孝武帝紀』からです。

冬十月丙子(十五日)、雷が落ちました。

 

[十二] 『資治通鑑』からです。

前秦天王(秦王・苻堅)が太極殿で群臣と会し、討議してこう言いました「私が大業を継承してもうすぐ三十載(年)になり、四方はおおよそ平定したが、ただ東南の一隅だけはまだ王化に接していない(自吾承業,垂三十載,四方略定,唯東南一隅,未霑王化)。今、我が士卒を大まかに数えてみると、九十七万を得ることができる。私は自ら(兵を)率いてこれを討とうと欲するが、如何だ(今略計吾士卒,可得九十七万,吾欲自将以討之,何如)?」

祕書監・朱肜が言いました「陛下が恭しく天罰(討伐)を行えば、必ず(帝王として)出征するだけで実際に戦う必要はなく、晋主は軍門で璧を銜えないとしても(投降しないとしても)、走って江海で死ぬことになるでしょう(陛下恭行天罰,必有征無戦,晋主不銜璧軍門,則走死江海,)(江南を平定したら)陛下は中国(中原)の士民を返して彼等の桑梓(故郷)を回復させ、その後、輿の向きを変えて東巡し、岱宗(泰山)に成功を報告すべきです(陛下返中国士民使復其桑梓,然後回輿東巡,告成岱宗)。これは千載に一時(の好機)です(此千載一時也)。」

天王は喜んで「これは私の志と同じだ(是吾志也)」と言いました。

しかし、尚書左僕射・権翼がこう言いました「昔、紂が無道を為しましたが、三仁(商王朝末期の三人の仁人。微子、箕子、比干を指します)が朝(朝廷)にいたので、武王はなお旋師(撤兵)しました(『資治通鑑』胡三省注が解説しています。西周武王は商を討伐しましたが、まだその時ではないと判断し、盟津に至ってから引き還しました。後に紂の暴虐がますますひどくなり、比干が殺され、箕子が捕えられ、微子が周に出奔してから、改めて出征して商を滅ぼしました)。今、晋は微弱とはいえ、まだ大悪がなく、謝安や桓沖は皆、江表の偉人であり、君臣が輯睦(和睦)して内外が同心になっています。臣がこれを観るに、まだ図ることはできません。」

天王は久しく沈黙してから(嘿然良久)、「諸君はそれぞれその志(意見)を述べよ(諸君各言其志)」と言いました。

 

太子左衛率・石越が言いました「今は歳鎮が斗を守っているので、福徳は呉にあります(『資治通鑑』胡三省注によると、「歳」は木星、「鎮」は土星です。斗・牛・女(北方玄武七宿のうちの三宿)は呉・越・揚州の分野に当たります)。これを伐てば、必ず天殃(天災)があります。そもそも、彼等は長江の険に拠っており、民も彼等に用いられています(民も服従しています)。恐らくまだ伐つべきではありません(彼拠長江之険,民為之用,殆未可伐也)。」

天王が言いました「昔、武王が紂を伐った時は、歳に逆らって卜に違えた(『資治通鑑』胡三省注が解説しています。西周武王が紂を討伐した時、魚辛が諫めて「歳は北方にあります。北征すべきではありません」と言いましたが、武王は従いませんでした。また、卜で不吉な兆が出ましたが、太公が出征を勧めたため、武王は行動を起こしました)。天道とは幽遠なので、容易に知ることはできない(天道幽遠,未易可知)(それに)夫差も孫皓も皆、江湖を保拠(占拠、領有)にしたが、滅亡から免れられなかった(不免於亡)。今、私の衆をもってして、全ての鞭を江に投じれば、その流れを断つに足りる(原文「投鞭於江,足断其流」。ここから「投鞭断流」という成語ができました。軍隊が強大なことを表します)(彼等は)また何の険を恃みとするに足りるのだ(又何険之足恃乎)。」

石越が応えました「三国の君(紂、夫差、孫皓を指します)は皆、淫虐無道だったので、敵国がこれを取るのは、落ちている物を拾うように容易でした(易於拾遺)。今、晋は無徳とはいえ、まだ大罪があるわけではありません。陛下が暫くは兵を抑えて穀物を蓄えることで、相手の釁(隙)を待つことを願います(願陛下且按兵積穀以待其釁)。」

 

石越の発言を機に、群臣がそれぞれ利害について述べましたが、久しく経っても決定できませんでした。

そこで、天王がこう言いました「これは『道端に家を建てる』というものであり、いつになっても成就できない(原文「此所謂築舍道傍,無時可成」。ここから「築舍道傍」という成語が生まれました。人が多い道端に家を建てたら意見も多くなるので、いつまでたっても完成できない、意見が多いと物事を成就できない、という意味です)。私が心中で決断すべきだ(吾当内断於心耳)。」

 

 

次回に続きます。

東晋時代113 東晋孝武帝(十二) 前秦の蝗 382年(2)

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