東晋時代113 東晋孝武帝(十二) 前秦の蝗 382年(2)

今回で東晋孝武帝太元七年が終わります。

 

[十二(続き)] 群臣が皆、退出してから、天王は陽平公・苻融だけを留めてこう言いました「古から大事を定めた者には一二の臣がいただけだ(自古定大事者,不過一二臣而已)(しかし)今は衆言が紛紛として、いたずらに人の意を混乱させている。私は汝とこれを決するつもりだ(今衆言紛紛,徒乱人意,吾当与汝決之)。」

苻融が応えました「今、晋を伐つには、三難があります。天道に順じていないこと、これが一つ目です(天道不順,一也)。晋国に釁(隙)がないこと、これが二つ目です(晋国無釁,二也)。我々はしばしば戦をして兵が疲れており、民に敵を畏れる心があること、これが三つ目です(我数戦兵疲,民有畏敵之心,三也)。群臣で晋を伐つべきではないと発言した者は、皆、忠臣です。陛下が彼等の意見を聴き入れることを願います(群臣言晋不可伐者,皆忠臣也,願陛下聴之)。」

天王が顔色を変えて言いました(作色曰)「汝もそのようであったら、私はまた何を望めばいいのだ(汝亦如此,吾復何望)。私は強兵が百万もおり、資仗(資財・兵器)も山のようである。(それに)私はまだ令主(名主)にはなっていないが、闇劣でもない。累捷の勢(連勝の勢い)に乗じて垂亡の国(滅亡しようとしている国)を撃つのに、なぜ克てないことを患うるのだ。どうしてこの残寇(残賊)を今後も留めて、長く国家の憂いとするのだ(豈可復留此残寇,使長為国家之憂哉)。」

苻融が泣いて言いました「晋はまだ滅ぼすことができません。これは昭然(明確なこと)としていて甚だ明らかです(晋未可滅昭然甚明)。今、師(軍)を労して大挙しても、恐らく万全の功はありません。そもそも、臣が憂いとしているのは、この事だけではありません(且臣之所憂不止於此)。陛下は鮮卑・羌・羯を寵育(寵遇・養育)しており、畿甸(近畿)に布満(分布・充満)させていますが、彼等は皆、我々の深仇です(此属皆我之深仇)(それなのに)太子が単独で弱卒数万と共に京師を留守したら、臣は不虞の変(不測の変事)が腹心肘掖(中心部や身辺)で発生することを懼れ、(もし実際にそうなったら)悔やむこともできません(臣懼有不虞之変生於腹心肘掖,不可悔也)。臣の頑愚(頑迷な意見)は誠に採るに足りません(臣之頑愚誠不足采)(しかし)王景略(王猛)は一時の英傑であり、陛下も常に彼を諸葛武侯(諸葛亮)と比していました。それなのに、(彼の)臨没の言(臨終の言葉。王猛は死ぬ前に「晋はまだ図るべきではない」と言い残しました。東晋孝武帝寧康三年・375年参照)だけは覚えていないのですか(独不記其臨没之言乎)。」

天王は苻融の意見を聴きませんでした。

 

当時、朝臣で諫言を進める者が多数いましたが、天王はこう言いました「私が晋を撃つのは、その強弱の勢を較べたら、疾風が秋の葉を掃くようなものである。それなのに朝廷の内外は皆、不可と言う。誠に私には理解できないことだ(以吾撃晋,校其強弱之勢,猶疾風之掃秋葉,而朝廷内外皆言不可,誠吾所不解也)。」

 

太子・苻宏が言いました「今は歳が呉分(呉の分野)におり、また、晋君にも罪がありません。もし大挙して勝てなかったら、恐らく威名が外で挫かれ、財力が内で尽きることになります。これが、群下が疑っている(心配している、戸惑っている)理由です(若大挙不捷,恐威名外挫,財力内竭,此群下所以疑也)。」

天王が言いました「昔、私が燕を滅ぼした時も歳を犯したが勝利した。天道とは元より理解するのが難しいものだ(昔吾滅燕,亦犯歳而捷,天道固難知也)(それに)秦が六国を滅ぼしたが、六国の君は皆、暴虐だったというのか(秦滅六国,六国之君豈皆暴虐乎)。」

 

冠軍(冠軍将軍)・京兆尹・慕容垂は天王にこう進言しました「弱が強に併呑され、小が大に併呑されるのは、自然な理勢(道理と形勢)であり、それを理解するのは難しいことではありません(弱併於強,小併於大,此理勢自然,非難知也)(陛下は)陛下の神武をもって期(時)に応じ、威を海外に加え、虎旅(勇猛な軍隊)は百万を擁し、韓・白(韓信・白起のような名将)が朝廷を満たしています(以陛下神武応期,威加海外,虎旅百万,韓白満朝)。これに対して、蕞爾(微小)な江南は独り王命に違えています。なぜ更にこれを留めて子孫に残すことができるでしょう(豈可復留之以遺子孫哉)。『詩』はこう言っています『事を計る者が多かったら、それが原因で成就しない(原文「謀夫孔多,是用不集」。『詩経・小雅·小旻』の言葉です)。』陛下は自身の聖心を断じるだけで足ります(陛下自身で決断すれば充分です。原文「陛下断自聖心足矣」)。なぜ広く朝衆に意見を求める必要があるのでしょうか(何必広詢朝衆)。晋武(西晋武帝)が呉を平定した時、頼りにしたのは張・杜(張華・杜預)といった二三の臣だけでした。もし朝衆の言に従っていたら、どうして混壹(統一)の功があったでしょう(晋武平呉,所仗者張杜二三臣而已,若従朝衆之言,豈有混壹之功)。」

天王は大いに悦んで「私と共に天下を平定するのは、卿独りだけだ(与吾共定天下者独卿而已)」と言い、帛五百匹を下賜しました。

 

天王は江東を取るという望みに専心しており(鋭意欲取江東)、就寝しても早朝まで眠ることができませんでした(寝不能旦)

陽平公・苻融が諫めて言いました「『満足することを知れば辱めを受けることがなく、止まることを知れば危険に遭うこともない(原文「知足不辱,知止不殆」。『老子』の言葉です)』といいます。古から今まで、兵を尽くして武を窮めた結果、滅亡しなかった者はいません(自古窮兵極武,未有不亡者)。そもそも、国家(前秦)は本来戎狄です。正朔(正統な暦。ここでは正統な天子の地位を指します)が人(戎狄)に帰すことは恐らくありません(且国家本戎狄也,正朔会不帰人)。江東は微弱でただ存在しているだけとはいえ、中華の正統なので、天意がこれを途絶えさせるはずがありません(江東雖微弱僅存,然中華正統,天意必不絶之)。」

天王が言いました「帝王の暦数になぜ常(常態。変わらないこと)があるのだ。ただ、徳がどこにあるかにかかっているだけだ(帝王暦数,豈有常邪,惟徳之所在耳)。劉禅は漢の苗裔ではなかったというのか。最後は魏に滅ぼされたではないか(劉禅豈非漢之苗裔邪,終為魏所滅)。汝が私に及ばない理由は、正に変通(状況に応じて変化する道理)に達することができないという欠点があるからだ(汝所以不如吾者,正病此不達変通耳)。」

 

天王はかねてから沙門・道安を信重(信任・尊重)していました(『資治通鑑』胡三省注によると、道安は襄陽にいましたが、天王が襄陽を破った時、輿を送って招きました)

そこで群臣は、道安に機会を探して進言させました(乗間進言)

 

十一月、天王が道安と同じ輦に乗って東苑で遊びました。

天王が言いました「朕は公と呉越で南遊し、長江に舟を浮かべて、滄海に臨もう。これも楽しいことではないか(朕将与公南遊呉越,泛長江,臨滄海,不亦楽乎)。」

道安が言いました「陛下は天に応じて世を御しており、中土に居て四維(四方)を制しているので、自ずから堯・舜と隆盛を比べるに足ります(陛下応天御世,居中土而制四維,自足比隆堯舜)。どうして必ず風を櫛にして雨で沐浴し(風雨に曝されるという意味です)、遠方を経略する必要があるのでしょうか(何必櫛風沐雨,経略遐方乎)。そもそも、東南は卑湿(湿潤な低地)で、沴気(災害をもたらす不祥な気)を容易に構成するので、虞舜も巡遊して帰らず、大禹も行くだけで戻りませんでした(原文「且東南卑湿,沴気易構,虞舜遊而不帰,大禹往而不復」。『資治通鑑』胡三省注が解説しています。虞舜は南に巡狩して蒼梧の野で死に、禹は東に巡狩して会稽で死にました)。どうして陛下が大駕を労すに足るのでしょうか(何足以上労大駕也)。」

天王が言いました「天は烝民(民衆)を生んでから、その君を樹立して司牧(統治)させた(天生烝民而樹之君使司牧之)。朕が労を嫌って、彼等一方だけに恩沢を被らせずにいることが、どうしてできるだろう(朕豈敢憚労使彼一方独不被沢乎)。必ず公の言葉の通りであるなら、古の帝王は皆、征伐の必要がなかっただろう(必如公言,是古之帝王皆無征伐也)。」

道安が言いました「どうしてもそのようにしなければならないなら、陛下は洛陽に駐蹕(駐留)し、先に使者を派遣して尺書(短い書。書信)を奉じさせ、その後ろで諸将に六師を総領させるべきです。(そうすれば)彼等は必ず稽首入臣するので(叩頭して臣を称すので)、自ら江・淮を渉る必要はありません(必不得已,陛下宜駐蹕洛陽,遣使者奉尺書於前,諸将総六師於後,彼必稽首入臣,不必親涉江淮也)。」

天王は道安の諫言も聴きませんでした。

 

天王が寵幸している張夫人も諫めてこう言いました「妾(私)が聞くに、天地が万物を生んだ時も、聖王が天下を治めた時も、皆、自然に則ってそれに順じたので、功を成せないことがなかったのだといいます(妾聞天地之生万物,聖王之治天下,皆因其自然而順之,故功無不成)。これに基づいて考えると、黄帝が牛を服させて馬に乗ったのは、その性(本性、性質)に順じたのです。禹が九川を通して九沢を遮断したのは、その勢(地勢)に順じたのです。后稷が百穀を播殖したのは、その時に順じたのです。湯・武が天下を率いて桀・紂を攻めたのは、その心に順じたのです。皆、順じるところがあったから成功したのであって、もしも順じるところがなかったら失敗するものです(是以黄帝服牛乗馬,因其性也。禹濬九川,障九沢,因其勢也。后稷播殖百穀,因其時也。湯武帥天下而攻桀紂,因其心也。皆有因則成,無因則敗)。今、朝野の人々が皆、晋は伐つべきではないと言っており、陛下だけがこれを行おうと意を決していますが、妾(私)には陛下が何に順じているのか分かりません(今朝野之人皆言晋不可伐,陛下独決意行之,妾不知陛下何所因也)。『書』はこう言っています『天の聡明(聡明・明察。または見聞きしている内容)は我が民の聡明に基いている(天聡明自我民聡明)。』天でも民に基いているのです。人ならなおさらでしょう(天猶因民,而況人乎)。妾(私)はまたこう聞いています。『王者の出師とは、必ず上は天道を観て、下は人心に順じるものである(妾又聞王者出師,必上観天道,下順人心)』。今、既に人心がそのようではないので(既に人心に順じていないので)、天道について検証させていただきます(今人心既不然矣,請験之天道)。諺はこう言っています『鶏が夜鳴いたら行師(出征)に不利である。犬の群れが鳴いたら宮室が空になる。兵(兵器)が動いて馬が驚いたら、軍が敗れて帰れなくなる(鶏夜鳴者不利行師,犬群嘷者宮室将空,兵動馬驚,軍敗不帰)。』秋冬以来、衆鶏が夜に鳴き、群犬が哀嘷(哀号)し、厩馬の多くが驚き、武庫の兵器が自然に動いて音が鳴っています。これらは皆、出師の祥(吉祥)ではありません(自秋冬以来,衆鶏夜鳴,群犬哀嘷,厩馬多驚,武庫兵器自動有声,此皆非出師之祥也)。」

天王は「軍旅の事は、婦人が関与すべきことではない(軍旅之事,非婦人所当預也)」と言いました。

 

天王に最も寵愛されている幼子・中山公・苻詵も諫めてこう言いました「臣が聞くに、国の興亡とは賢人の用捨(賢人を用いるかどうか)にかかっているといいます(国之興亡,繋賢人之用捨)。今、陽平公は国の謀主なのに、陛下はこれに違えました。晋には謝安、桓沖がいるのに、陛下はこれを伐とうとしています。(そのため)臣は心中で困惑しています(臣竊惑之)。」

天王が言いました「天下の大事が、孺子にどうしてわかるのだ(天下大事,孺子安知)。」

 

[十三] 『資治通鑑』からです。

前秦の劉蘭が蝗を討ちましたが、秋冬を経ても撲滅できませんでした(本年五月、幽州で蝗が発生しました)

十二月、有司(官員)が劉蘭を召還して廷尉に下すように上奏しました。

しかし天王(秦王・苻堅)はこう言いました「災とは天から降されるのであって、人力で除けるものではない。これは朕の失政が原因だ。劉蘭に何の罪があるのだ(災降自天,非人力所能除,此由朕之失政,蘭何罪乎)。」

 

この年、前秦は豊作になり(大熟)、上田は一畝あたり七十石を収穫し、下田でも三十石を収穫しました(上田畝收七十石,下者三十石)

また、蝗は幽州の境界から出ることなく、麻豆も食べず、(幽州の)上田では一畝あたり百石が収穫でき、下田でも五十石を収穫できました(蝗不出幽州之境,不食麻豆,上田畝收百石,下者五十石)

 

『資治通鑑』胡三省注はこう書いています「物が反常(常道や道理の逆になること)したら妖となる(物反常為妖)(中略)蝗が発生したのに五穀を食べないというのは、妖(怪事)の大きなものである。農人が服田力穡(農耕に尽力すること)して秋に至っても、古から今まで、一畝あたり百石や七十石を収穫したという理(道理)はなく、一畝あたり五十石や三十石を収穫したという話も聞いたことがない。もし誠にそのような事があったのなら、これもまた反常の大きなものではないか(使其誠有之,又豈非反常之大者乎)(逆に)もしそのような事がなかったのなら、州県が互いに誣飾(粉飾)して上を騙したのであり、これもまた不祥(不吉)の大きなものなので、秦が亡ぶのも当然である(使其無之,則州県相与誣飾以罔上,亦不祥之大者也,秦亡宜矣)。」

 

 

次回に続きます。

東晋時代114 東晋孝武帝(十三) 前秦南下 383年(1)

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