東晋時代114 東晋孝武帝(十三) 前秦南下 383年(1)

今回は東晋孝武帝太元八年です。三回に分けます。

 

東晋孝武帝太元八年/前秦天王建元十九年

癸未 383年

 

[一] 『資治通鑑』からです。

春正月、前秦の呂光が長安を発ち、鄯善王・休密馱と車師前部王・彌窴を郷導(先導)にしました。

 

[二] 『晋書・第九・孝武帝紀』からです。

二月癸未(二十四日)、黄霧が四方を覆いました(黄霧四塞)

 

[三] 『晋書・第九・孝武帝紀』からです。

三月、始興、南康、廬陵で大水(洪水)があり、平地で水の高さが五丈になりました(大水平地五丈)

 

[四] 『晋書・第九・孝武帝紀』と『資治通鑑』からです。

丁巳(二十八日)、東晋が大赦しました。

 

[五] 『資治通鑑』からです。

夏五月、東晋の桓沖が十万の衆を率いて前秦を伐ち、襄陽を攻めました。また、前将軍・劉波等を派遣して沔北諸城を攻めさせ、輔国将軍・楊亮を派遣して蜀を攻めさせ、鷹揚将軍・郭銓を派遣して武当を攻めさせました。

楊亮が五城を抜いて涪城に進攻しました。

『晋書・第九・孝武帝紀』は「夏五月、輔国将軍・楊亮が蜀を伐って五城を抜き、苻堅の将・魏光を擒にした」と書いています。

 

『資治通鑑』に戻ります。

六月、桓沖の別将が万歳と筑陽を攻めて攻略しました(『資治通鑑』胡三省注によると、万歳は城の名で、筑陽の近くにあったようです。筑陽県は、漢代は南陽郡に属し、晋代は順陽郡に属しました。春秋時代の穀伯の国です)

 

前秦天王(秦王・苻堅)は征南将軍・鉅鹿公・苻叡、冠軍将軍・慕容垂等を派遣し、歩騎五万を率いて襄陽を救わせました。また、兗州刺史・張崇に武当を救わせ、後将軍・張蚝と歩兵校尉・姚萇に涪城を救わせました。

苻叡は新野に、慕容垂は鄧城(『資治通鑑』胡三省注によると、鄧城県は襄陽郡に属しました。晋が置いた県のようです)に駐軍します。

 

桓沖は退いて沔南に駐屯しました。

 

秋七月、郭銓と冠軍将軍・桓石虔が武当で張崇を破り、二千戸を掠めて(奪って)帰りました。

『晋書・第九・孝武帝紀』は「秋七月、鷹揚将軍・郭洽が苻堅の将・張崇と武当で戦い、大いにこれを敗った」と書いています。「郭洽」は『資治通鑑』の「郭銓」です。同じ『晋書』でも、『載記第十四』『列伝第四十四(桓石民伝)』『五行志中』等は「郭銓」としています。

また、上述の通り『資治通鑑』は桓石虔を「冠軍将軍」としており、『晋書・列伝第四十四(桓石虔伝)』を見ても「冠軍将軍」になっていますが、当時の冠軍将軍は謝玄ではないかと思われます。『晋書・第九・孝武帝紀』では、本年八月に謝玄が冠軍将軍として出征しおり(下述)、『晋書・列伝第四十九(謝玄伝)』を見ても、当時は謝玄が冠軍将軍です。

 

『資治通鑑』に戻ります。

鉅鹿公・苻叡が慕容垂を派遣して前鋒とし、兵を進めて沔水に臨ませました。

夜、慕容垂が軍士に命じ、一人一人に樹木の枝に縛りつけた十炬(十本のたいまつ)を持たせました(垂夜命軍士人持十炬繋于樹枝)。光が数十里を照らします。

桓沖は懼れを抱き、退いて上明(地名)に還りました。

 

張蚝が斜谷に出ると、楊亮も兵を率いて還りました。

 

桓沖が上表して兄の子・桓石民に襄城太守を兼任させ(原文「領襄城太守」。『資治通鑑』胡三省注によると、『資治通鑑』の版本によっては「襄城」を「襄陽」としています。『列伝第四十四(桓石民伝)』では「襄城」です)、夏口を守らせました。

桓沖自身は自ら江州刺史の兼任を求め(自求領江州刺史)、詔によって許可されました。

 

[六] 『資治通鑑』からです。

前秦天王(秦王・苻堅)が東晋に大挙入寇する詔を下しました。民は十丁(十人の成人男性)ごとに一兵を派遣することとし、良家の子で年が二十歳以下かつ材勇(才能・勇力)がある者は、全て羽林郎に任命しました。

また、こう言いました「司馬昌明(東晋孝武帝)を尚書左僕射に、謝安を吏部尚書に、桓沖を侍中に任命しよう。今の形勢なら、帰還する日は遠くない。あらかじめ彼等のために邸宅を建てよ(其以司馬昌明為尚書左僕射,謝安為吏部尚書,桓沖為侍中。勢還不遠,可先為起第)。」

 

良家の子で参集した者は三万余騎にのぼりました。秦州主簿・趙盛之が少年都統(『資治通鑑』胡三省注によると、「都統」という官名はここから始まりました)に任命されます。

 

当時、朝臣は皆、天王の出征を欲していませんでしたが、慕容垂、姚萇および良家の子が天王に出征を勧めました。

陽平公・苻融が天王に進言しました「鮮卑や羌虜は我々の仇讎であり(鮮卑は慕容垂、羌は姚萇を指します)、常に風塵の変(戦乱、混乱)によってその志を実現させようと思っています(常思風塵之変以逞其志)。彼等が述べる策画にどうして従うことができるでしょう(所陳策画,何可従也)(また)良家の少年は皆、富饒(富豪。豊かな家)の子弟で、軍旅には精通しておらず、とりあえず諂諛の言(阿諛追従の言葉)を為して陛下の意に合わせているだけです(良家少年皆富饒子弟,不閑軍旅,苟為諂諛之言以会陛下之意)。今、陛下は彼等を信じて用いており、軽率に大事を挙げようとしていますが、臣は功が成らないうえに、更なる後患を招くのではないかと恐れています。(もしそうなったら)後悔しても取り返しがつきません(今陛下信而用之,軽挙大事,臣恐功既不成,仍有後患,悔無及也)。」

天王は諫言を聴きませんでした。

 

八月戊午(初二日)、天王が陽平公・苻融を派遣して張蚝、慕容垂等を督させ、彼等に歩騎二十五万を率いて前鋒にさせました。また、兗州刺史・姚萇を龍驤将軍・督益梁州諸軍事に任命しました。

天王が姚萇に言いました「昔、朕は龍驤として業を建てたので(苻堅は龍驤将軍だった時、前秦帝・符生を殺して秦国を得ました。東晋穆帝升平元年・357年参照)(この将軍号を)軽々しく人に授けたことはない。卿は努力せよ(未嘗軽以授人,卿其勉之)。」

左将軍・竇衝が言いました「王者には戯言がないものです。これは不祥の徵(兆)です(王者無戯言,此不祥之徵也)。」

天王は黙然(沈黙すること)としました。

 

慕容楷と慕容紹が慕容垂に言いました「主上の驕矜(驕慢)は既に甚だしくなっています。叔父が中興の業を建てるのは、今回の行(行動、出征)にかかっています(主上驕矜已甚,叔父建中興之業,在此行也)。」

慕容垂が言いました「その通りだ。汝等でなければ、誰が一緒にこの事を成せるだろう(然。非汝,誰与成之)。」

『資治通鑑』胡三省注は「慕容垂は苻堅が必ず敗れると知り、ここに至ってやっと兄の子に明言した」と解説しています。

 

甲子(初八日)、天王が長安を発ちました。戎卒六十余万、騎兵二十七万を指揮し、旗鼓が相望み、前後が千里に連なります。

 

九月、天王が項城に至りました。

この時、涼州の兵は咸陽に到着したばかりで、蜀・漢の兵が流れに順じて東下を開始しました。また、幽・冀の兵も彭城に至りました。東西万里にわたって水陸が斉進(並進)し、運漕(水運)が万艘に及びます。

陽平公・苻融等の兵三十万が先に潁口(『資治通鑑』胡三省注によると、潁水が淮水に入る場所です。潁水は陽城県陽乾山から出て、東に向かって下蔡に至り、淮水に入りました)に至りました。

 

東晋孝武帝は詔を発して尚書僕射・謝石を征虜将軍・征討大都督に任命し、徐兗二州刺史・謝玄を前鋒都督に任命して、輔国将軍・謝琰、西中郎将・桓伊等の衆、合計八万人と共に前秦軍を拒ませました。謝琰は謝安の子です。

また、龍驤将軍・胡彬に水軍五千を率いて寿陽を援けさせました。

『晋書・第九・孝武帝紀』は八月に「苻堅が衆を率いて淮水を渡った。(東晋は)征討都督・謝石、冠軍将軍・謝玄、輔国将軍・謝琰、西中郎将・桓伊等を派遣してこれを拒ませた」と書いています。

 

『資治通鑑』に戻ります。

当時は前秦の兵が強盛になっていたため、東晋の都下が震恐しました。

謝玄が入って(謝安の部屋に入ったのだと思います。原文「謝玄入」)謝安に計を問いましたが、謝安は夷然(平然)として「既に他に旨がある(既に他の考えがある。原文「已別有旨」。この「旨」は皇帝の意旨で、「陛下にお考えがある」という意味かもしれません)」と言うだけで、寂然(静粛な様子。沈黙すること)としてしまいました。

謝玄は敢えてまた発言することができず、張玄に命じて改めて計を請わせました。

すると謝安は駕(車)を出して山墅(山荘)で遊ぶように命じました。親朋(親族・友人)が全て集まってから、謝安は山墅を賭けて張玄と囲碁をします(親朋畢集,与玄囲棋賭墅)。いつもなら謝安の囲碁の腕は張玄よりも劣っていましたが、この日は張玄が懼れを抱いて平常心ではなかったため、技量が匹敵して、結局、勝つことができませんでした(安棋常劣於玄,是日玄懼,便為敵手而又不勝)

その後、謝安は(山間を)游渉(漫遊)して、夜になってから還りました。

 

桓沖は深く根本を憂いとし(朝廷を深く憂い。この「根本」は国の基礎である都や朝廷を指します。原文「桓沖深以根本為憂」)、精鋭三千を派遣して、京師に入って護衛させました。

しかし謝安が頑なに断ってこう言いました「朝廷の処分(対処の方法)は既に定まっており、兵甲に闕(欠け。不足)はない。西藩は(兵を)留めて防備を為すべきだ(西藩宜留以為防)。」

桓沖が嘆息して佐吏(『資治通鑑』胡三省注によると、諸藩府の参佐(部下)が佐吏になりました)にこう言いました「謝安石(安石は謝安の字です)は廟堂の量(帝王の宗廟のように広大な度量)があるが、将略(将としての兵略)には通じていない。今、大敵が至ろうとしているのに、遊談に明け暮れて暇がなく、経験がない少年達を派遣してこれ(敵)を拒ませており、衆(兵衆)も寡弱なので、天下の事は既に知ることができる。私は左衽(左襟を上にすること。異民族の風習です)になるだろう(謝安石有廟堂之量,不閑将略。今大敵垂至,方遊談不暇,遣諸不経事少年拒之,衆又寡弱,天下事已可知,吾其左衽矣)。」

 

[七] 『晋書・第九・孝武帝紀』と『資治通鑑』からです。

東晋孝武帝が詔を発して、司徒・琅邪王・司馬道子を録尚書六條事(西晋愍帝建興二年・314年および東晋穆帝永和元年・345年参照)に任命しました。

 

 

次回に続きます。

東晋時代115 東晋孝武帝(十四) 肥水の戦い 383年(2)

2 thoughts on “東晋時代114 東晋孝武帝(十三) 前秦南下 383年(1)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です