東晋時代115 東晋孝武帝(十四) 肥水の戦い 383年(2)

今回は東晋孝武帝太元八年の続きです。

 

[八] 『晋書・第九・孝武帝紀』からです。

冬十月、苻堅の弟・苻融が寿春を攻略しました。

乙亥(二十日)(東晋の)諸将が苻堅と肥水(淝水)で戦い、大いにこれを破りました。捕虜・斬首は数万を数え(俘斬数万計)、苻堅の輿輦および雲母車を獲ました。

 

以下、『資治通鑑』を元に「肥水の戦い(淝水の戦い)」を詳しく書きます。尚、『晋書・孝武帝紀』では「十月乙亥(二十日)」に東晋軍が前秦軍を破っていますが、『資治通鑑』は十一月に置いています。

 

冬十月、前秦の陽平公・苻融等が寿陽を攻めました。

癸酉(十八日)、前秦軍が寿陽を攻略し、平虜将軍・徐元喜等を捕えました。

苻融は参軍・河南の人・郭褒を淮南太守に任命しました。

 

慕容垂も鄖城(『資治通鑑』胡三省注によると、江夏雲杜県の東南に鄖城がありました)を攻略しました。

 

東晋の胡彬は寿陽が陥落したと聞くと、退いて硤石(『資治通鑑』胡三省注によると、淮水が東に流れて寿春県の北を通ってから右(南)の肥水と合流し、その後、北に向かって山峡の中を通りました。ここを峡石といいます。東晋は向かい合う岸の山上に二城を築いて津要(水陸の要衝)の防備にしました)を守りました。苻融が兵を進めてこれを攻撃します。

 

前秦の衛将軍・梁成等が五万の衆を率いて洛澗(『資治通鑑』胡三省注によると、洛澗は死馬塘の水を引きつぎ、北に向かって秦墟を通り、淮水に注ぎました。ここを洛口といいます)に駐屯し、淮水に柵を築いて東兵(東晋軍)を阻みました。

謝石、謝玄等は洛澗から二十五里離れた場所に駐軍しましたが、梁成を懼れて敢えて進むことができませんでした。

胡彬は食糧が尽きたため、秘かに使者を派遣して謝石等にこう告げました「今は賊が盛んで(我々は)食糧が尽きたので、恐らく再び大軍(謝石等の援軍)に会うことはありません(今賊盛糧尽,恐不復見大軍)。」

ところが、秦人が使者を獲て陽平公・苻融に送りました。

苻融は使者を馳せさせて前秦天王(秦王・苻堅)にこう報告しました「賊は少ないので容易に擒にできます。ただ(彼等が)逃げ去ることを恐れるだけです。速やかに赴くべきです(賊少易擒,但恐逃去,宜速赴之)。」

『資治通鑑』胡三省注は「苻融は晋を伐つべきではないという意見を主張していたが、今、敵に臨んだらこのように軽脱(軽率)になった」と指摘しています。

 

天王は大軍を項城に留め、軽騎八千を率いて兼道(急行)し、寿陽で苻融と合流しました。

そこから尚書・朱序(前秦が襄陽を攻略した際、朱序を捕えて度支尚書に任命しました。孝武帝太元四年・379年参照)を派遣して謝石等を説得させ、「強弱が勢を異ならせているので(強弱の形勢の差が明らかなので)、速やかに降ったほうがいい(強弱異勢,不如速降)」という意見を伝えます。ところがこの時、朱序は個人的に謝石等にこう告げました「もし秦の百万の衆が全て至ったら、誠に敵とするのは難しくなります。今、諸軍が集まっていない機に乗じて、速やかに撃つべきです。その前鋒を敗ったら、彼等は気(志気)を奪われるので、撃破できます(若秦百万之衆尽至,誠難与為敵。今乗諸軍未集,宜速撃之。若敗其前鋒,則彼已奪気,可遂破也)。」

謝石は前秦天王が寿陽に居ると聞いて甚だ懼れを抱いたため、戦わずに秦師(秦軍)を疲労させようと欲していました(欲不戦以老秦師)。しかし謝琰が朱序の言に従うように、謝石に勧めました。

 

十一月、謝玄が広陵相・劉牢之を派遣し、精兵五千を率いて洛澗に向かわせました。

梁成は洛澗から十里も離れていない場所で(未至十里)、山谷を守りにして陣を構え、東晋軍を待ちました(阻澗為陳以待之)

しかし、劉牢之が直接前進して水(川)を渡り、梁成を撃って大破しました。梁成および弋陽太守・王詠(『資治通鑑』胡三省注によると、曹魏が西陽と蘄春を分けて弋陽郡を置きました。但し、前秦はまだその地を得ていないので、王詠は太守の官位を授かっただけのようです(領太守耳)。弋陽は唐代の光・蘄・黄三州の地に当たります)を斬ります。

劉牢之は更に兵を分けて前秦軍の帰路に当たる津(渡し場)を断ちました。

前秦の歩騎が崩潰し、争って淮水に赴いて、士卒の死者が一万五千人に上りました。劉牢之は前秦の揚州刺史・王顕等を捕え、器械軍実(武器や食糧等の軍需物資)を全て回収しました。

(劉牢之が前秦軍を破ったので)謝石等の諸軍が水陸から相継いで前進を開始しました。

 

前秦天王と陽平公・苻融が寿陽の城壁に登って東晋軍を眺めると、晋兵の部陣が厳整としている様子が見えました。また、八公山(『資治通鑑』胡三省注によると、西漢の淮南王・劉安は神仙を好みました。ある時、鬚も眉も白くなった八公(八人の長者)が現れ、劉安の門を訪ねて謁見を求めましたが、門者はこう言いました「我が王は長生を好みます。今、先生(八公)には駐衰の術(老衰を止める術)がないので、敢えて取り次ぐことはできません(未敢以聞)。」すると八公は皆、童に変化しました。そこで山上に八公の廟が建てられました。または、この山の廟に祀られているのは左呉、朱驕、伍被、雷被等の八人で、全て淮南王の客であり、八公は仙人になったといわれているようですが、胡三省注はこの説を誤りとしています)の草木を眺めて、それらも全て晋兵だと思いました(草木も兵に見えるほど、晋兵が埋め尽くしていた、または、勢いある晋兵に恐れを抱いたため、草木も晋兵に見えた、という意味だと思います。原文「又望八公山上草木皆以為晋兵」)

天王は振り向いて苻融に「これも強敵ではないか。なぜ弱いとみなすのだ(此亦勍敵,何謂弱也)」と言い、憮然(驚き失望した様子)として始めて懼色を表しました。

 

秦兵が肥水に迫って布陣しました。晋兵は川を渡れなくなります。

謝玄が使者を派遣して陽平公・苻融にこう伝えました「君は孤軍で深入りしたのに、水(川)に迫って陣を置いている。これは持久の計であって、速戦を欲するものではない。もし陣を移して少し退き、晋兵が渡れるようにして勝負を決するなら、それも善(良計)ではないか(君懸軍深入而置陳逼水,此乃持久之計,非欲速戦者也。若移陳少卻,使晋兵得渡,以決勝負,不亦善乎)。」

前秦の諸将は皆こう言いました「我々は多数で彼等は少数なので、これ(敵)を阻止して(こちら側に)来れないようにするべきです。そうすれば万全にすることができます(我衆彼寡,不如遏之,使不得上,可以万全)。」

しかし天王はこう言いました「兵を率いて少しだけ退き、彼等を半分渡らせた時に、我々が鉄騎で迫ってこれを殺しさえすれば、勝てないはずがない(但引兵少卻,使之半渡,我以鉄騎蹙而殺之,蔑不勝矣)。」

苻融もその通りだと判断したため、兵を指揮して退かせました。

こうして秦兵が退き始めましたが、(兵の動きを)止められなくなってしまいました(秦兵遂退不可復止)

これを機に謝玄、謝琰、桓伊等が兵を率いて川を渡り、秦兵を撃ちます。

苻融が騎馬を馳せさせて略陳(陣地の巡視)し、退く者を統率しようとしましたが、馬が倒れて晋兵に殺されました。秦兵は遂に崩壊します。

謝玄等が勝ちに乗じて追撃し、青岡に至りました。

秦兵は大敗して自ら互いに踏みつけあい、死者が野を覆って川を塞ぎました(秦兵大敗自相蹈藉而死者蔽野塞川)

逃走する者は風の音や鶴の鳴き声を聞いただけで、皆、晋兵がすぐに至ると思い、昼夜とも敢えて休むことができず、草行露宿(草野を進んで露天で寝ること)しました。更に飢凍が重なったため、死者が十分の七八に及びます。

 

(少し遡ります。)秦兵が少し退いたばかりの時、朱序が陣の後ろで「秦兵が敗れた(秦兵敗矣)!」と叫んだため、兵衆が大奔しました。

朱序はこれを機に張天錫(前涼最後の君主。孝武帝太元元年・376年参照)、徐元喜(本年十月参照)と共に東晋に来奔しました。

(東晋軍は)前秦天王が乗っていた雲母車(『資治通鑑』胡三省注によると、「雲母車」は雲母で装飾した車で、晋制では王公に下賜されるものでした)を獲ました。

また、寿陽を奪還して淮南太守・郭褒を捕えました。

 

前秦天王は流矢に中り、単騎(大軍からはぐれたという意味です。実際には随行する近臣がいます)で逃走して淮北に至りました。

天王の飢えが甚だしくなった時、壺飧(煮込んだ食物)や豚髀(豚の腿肉)を進める民がいたので、天王はそれを食べてから帛十匹と綿十斤を下賜しました。しかし民は辞退してこう言いました「臣が聞くに、白龍は天池の楽を嫌ったために、豫且による困難に遭ったといいます(豫且は春秋時代の漁師です。淵に住む白龍が魚に化けて姿を現したところ、豫且に目を射られたといわれています)。これ(白龍と同じ境遇。天王が自ら南下して苦難を招いた事を指します)は陛下が目で見て、耳で聞いたことです。今回の蒙塵(流亡)の難は、天から降されたものだというのでしょうか。また、妄りに(民に)施しても(民に対する)恩恵とはならず、妄りに(民が施しを)受け取ったら忠になりません。陛下は臣の父母です。子が(親を)養って報いを求めるということがあるでしょうか(この言葉は『晋書・載記第十四』の「臣聞白龍厭天池之楽而見困豫且,陛下目所睹也,耳所聞也。今蒙塵之難,豈自天乎。且妄施不為恵,妄受不為忠。陛下,臣之父母也,安有子養而求報哉」を元にしました。『資治通鑑』はこう書いています「陛下は安楽を厭苦し、自ら危困を選びました。臣は陛下の子であり、陛下は臣の父です。子が自分の父を養って報いを求めるということがあるでしょうか(陛下厭苦安楽自取危困。臣為陛下子,陛下為臣父,安有子飼其父而求報乎)」)。」

民は振り返ることもなく去りました。

天王は張夫人に「私は今またどの面目をもって天下を治めるのだ(吾今復何面目治天下乎)」と言って涙を流しました(原文「潸然流涕」。「潸然」は涙を流す様子です)

 

この時、前秦の諸軍は皆、潰えましたが、慕容垂が率いる三万人だけは完全なままでした(『資治通鑑』胡三省注が解説しています。慕容垂は鄖城を攻撃していたため、淝水の戦いには参加していません。また、軍が厳整を保っていたため、諸軍が潰滅しても慕容垂の軍だけは完全なままでいることができました)

天王は千余騎を率いて慕容垂を訪ねました。

 

慕容垂の世子・慕容宝が慕容垂に言いました「家国(慕容氏と燕国)が傾覆(転覆)してから、天命も人心も皆、尊(父。あなた)に帰しました。ただ、時運がまだ至っていなかったので、(今までは)形跡を見えなくして自ら隠れていたのです(家国傾覆,天命人心皆帰至尊,但時運未至,故晦迹自藏耳)。今、秦主の兵が敗れてその身を我々に委ねました。これは天がこの便(利)を貸して燕祚(燕の国統)を恢復させようとしているのです。この時を失ってはなりません(今秦主兵敗,委身於我,是天借之便以復燕祚,此時不可失也)。意気(情緒・心情、または天王との情誼)や微恩(わずかな恩義)によって社稷の重を忘れるようなことはないように願います(願不以意気微恩亡社稷之重)。」

慕容垂が言いました「汝の言う通りだ(汝言是也)。しかし彼は赤心(誠心)をもって私に命を投じた。どうしてこれを害すことができるだろう(然彼以赤心投命於我,若之何害之)。もし天が彼を棄てたのなら、彼が亡びないことを患いる必要はない(天苟棄之,不患不亡)。彼を危難から保護することで徳に報い、ゆっくりその釁(隙)を待って図った方がいい。そのようにすれば、宿心(かねてからの心意)に背かないだけでなく、義によって天下を取ることができる(不若保護其危以報徳,徐俟其釁而図之,既不負宿心,且可以義取天下)。」

奮威将軍・慕容徳が言いました「秦が強い時は燕を併合し、秦が弱くなったら(燕が)それを図る、これは仇に報いて恥を雪ぐというものであり、宿心に背くことではありません(秦強而并燕,秦弱而図之,此為報仇雪恥,非負宿心也)。兄はなぜそれを得たのに取らず、数万の衆を解き放って人に授けるのですか(兄柰何得而不取,釈数万之衆以授人乎)。」

慕容垂が言いました「私は昔、太傅(慕容評)に容れられず、身を置く場所がなくなったので、死から逃れるために秦に来たが(東晋海西公太和四年・369年参照)、秦主は国士として私を遇し、恩礼が極めて周到だった(恩礼備至)。後にまた王猛に売られ、弁明する術がなかったが、秦主だけはこれを明らかにすることができた(海西公太和五年・370年参照)。この恩をどうして忘れることができるか。もし氐(前秦)の運が必ず困窮するようなら、私は関東(の衆)を懐集(懐柔・招集)することで、先業を恢復させよう。関西は私が有すことにはならない(関西会非吾有也)。」

冠軍行参軍・趙秋が言いました「明公は燕祚を紹復(継承・復興)すべきであり、それは図讖(予言書)でも顕かになっています。今、天の時が既に至ったのに、なおまた何を待つのですか。もしも秦主を殺して鄴都を占拠し、鼓行(戦鼓を敲いて行軍すること)して西に向かえば、三秦も苻氏が有す地ではなくなります。」

慕容垂の多くの親党が慕容垂に対して苻堅(天王)を殺すように勧めましたが、慕容垂はどの意見にも従わず、全ての兵を苻堅に授けました。

 

平南将軍・慕容暐が鄖城に駐屯していましたが、天王が敗れたと聞いて、その衆を棄てて遁走しました。

慕容暐が滎陽に至った時、慕容徳がまた慕容暐を説得して、兵を挙げて燕祚を恢復させようとしましたが、慕容暐も従いませんでした。

 

謝安が駅書を得て秦兵が敗れたことを知りました。この時、謝安はちょうど客と囲棋(囲碁)を打っており、手に取った書を床の上に置くと、全く喜ぶ様子を見せずに今まで通り囲棋を続けました(摂書置牀上,了無喜色,囲棋如故)

客が(何があったのか)問うと、謝安はゆっくりこう答えました「子供達が既に賊を破った(小児輩遂已破賊)。」

ところが、囲棋を打ち終わって屋内に戻り、戸限(敷居)を越えたのに、喜びのあまり平静を失っていたため)屐歯(下駄等の履物の歯)が折れていることにも気がつきませんでした(既罷,還内,過戸限,不覚屐歯之折)

 

丁亥(初二日)、謝石等が建康に帰りました。

(肥水の戦いで)秦の楽工を得て、彼等が旧声(古い音楽)に習熟していたため、東晋の宗廟が始めて金石の楽(鐘や磬で奏でる音楽。宗廟の音楽)を備えることができました。

『資治通鑑』胡三省注によると、西晋末に起きた永嘉の乱で、晋の伶官(楽官)や楽器は全て劉氏や石氏に没してしまいました。江左(東晋)が建国したばかりの時は、宗廟に雅楽がなく、伶人(楽人)もいなかったため、太楽を省いて鼓吹令に合併させました。後に登歌食挙の楽(「登歌」は祭典等で奏でる音楽、「食挙」は酒席等で奏でる音楽です)を得ましたが、まだ完全ではありませんでした。

東晋明帝太寧年間の末に、明帝が阮孚等に意見を求めて更に音楽を増益させ、成帝咸和年間には、成帝が再び太楽の官を置いて遺工(残された技)を集めましたが、金石(鐘や磬で奏でる音楽)はまだありませんでした。

慕容儁が冉閔を平定した時(東晋穆帝永和八年・352年)、鄴下の多くの楽人が兵戈(戦事、戦乱)に遭ったため、東晋に移りました。

謝尚が寿陽(寿春)を鎮守した際(穆帝永和十一年・355年)には、楽人を探し求めて太楽を備え、あわせて石磬を作製しました。こうして雅楽がほぼ整いました。

王猛が鄴(前燕)を平定した時(東晋廃帝太和五年・370年)、慕容氏(前燕)が得た楽声(音楽)は関右(関西。前秦)に入れられました。

今回、東晋が苻堅を破って楽工・楊蜀等を獲ました。彼等は旧楽(旧声。古い音楽)に習熟していたため、東晋にやっと金石の楽が完備されました。

 

『資治通鑑』に戻ります。

乙未(初十日)、東晋が張天錫を散騎常侍に、朱序を琅邪内史に任命しました。

 

『晋書・第九・孝武帝紀』は「十一月庚申、(孝武帝が)詔を発して衛将軍・謝安に金城で旋師(凱旋した軍)を労わせた」と書いていますが、『二十史朔閏表』によると、この年十一月は「丙戌」が朔なので、「庚申」はありません。

 

 

次回に続きます。

東晋時代116 東晋孝武帝(十五) 慕容垂離反 383年(3)

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