東晋時代116 東晋孝武帝(十五) 慕容垂離反 383年(3)

今回で東晋孝武帝太元八年が終わります。

 

[九] 『晋書・第九・孝武帝紀』からです。

十一月壬子(二十七日)、東晋が陳留王の世子・曹霊誕を陳留王に立てました。

 

陳留王は魏帝の子孫です。孝武帝太元三年(378年)に曹恢が死んでから空位になっていました。

 

[十] 『資治通鑑』からです。

前秦天王(秦王・苻堅)が離散した部衆を収集(収容・招集)しました。洛陽に至った時には、十余万の衆になっており、百官・儀物・軍容もほぼ備わりました。

 

慕容農が慕容垂に言いました「尊(父。あなた)は険境においても人(天王)を逼迫しなかったので、その義声は天地を感動させるに足ります(尊不迫人於険,其義声足以感動天地)。農(私)が聞くに、祕記(予言書)はこう言っています『燕の復興は河陽にある(燕復興当在河陽)』。熟していない果実を取るのと、(果実が)自然に落ちるのを待つのとでは、旬日(十日)の間、遅くなるだけですが、難易・美悪の差は遠く離れています(夫取果於未熟与自落,不過晚旬日之間,然其難易美悪,相去遠矣)。」

慕容垂は心中でこの言を称賛し、澠池に至ってから天王にこう言いました「北鄙の民は王師が不利になったと聞いて、軽率にも扇動しあっています。臣は詔書を奉じてこれを鎮慰安集し、それを機に陵廟(『資治通鑑』胡三省注によると、慕容垂の祖父や父の陵廟です)を通って拝謁する機会を請います(北鄙之民,聞王師不利,輕相扇動,臣請奉詔書以鎭慰安集之,因過謁陵廟)。」

天王はこれを許可しました。

権翼が天王を諫めて言いました「国の兵が破れたばかりで、四方には皆、離心の傾向があるので、名将を徵集して京師に置き、そうすることで根本を固めて枝葉を鎮めるべきです(国兵新破,四方皆有離心,宜徵集名将置之京師,以固根本鎮枝葉)。垂は勇略が人を過ぎており、代々、東夏(中原東部)の豪(豪族。権力者)となってきました(垂勇略過人,世豪東夏)。最近、禍を避けるために来ましたが、その心がどうして冠軍(将軍)になることを欲するだけで済むでしょう(頃以避禍而来,其心豈止欲作冠軍而已哉)(彼を養うのは)鷹を養うのと同じで、(鷹は)飢えたら人に附きますが、風飊(暴風)が起きるのを聞くたびに、常に陵霄(飛翔。天高く飛ぶこと)の志を抱くものです(譬如養鷹,飢則附人,每聞風飊之起,常有陵霄之志)(よって)正にその絛籠(束縛)を厳格にすべきです。どうして(彼を)解き放ち、その欲するところに任せることができるでしょう(正宜謹其絛籠,豈可解縦,任其所欲哉)。」

天王が言いました「卿の言う通りだ。しかし朕は既にこれを許した。匹夫でも約束を破らないのだ。万乗(帝王)ならなおさらではないか(卿言是也。然朕已許之,匹夫猶不食言,況万乗乎)。もし天命に廃興があるなら、元よりそれは智力によって動かせるものではない(廃興が天命によって決まるのなら、智慧や力によって変えられるものではない。原文「若天命有廃興,固非智力所能移也」)。」

権翼が言いました「陛下は小信を重んじて社稷を軽んじています。臣には彼が去って帰らないことになるという結果が見えます。関東の乱はここから始まるでしょう(陛下重小信而軽社稷,臣見其往而不返,関東之乱,自此始矣)。」

天王はやはり諫言を聴かず、将軍・李蛮、閔亮、尹固(『資治通鑑』胡三省注によると、『資治通鑑』の版本によっては「尹国」としています)を派遣し、三千の衆を率いて慕容垂を送らせました。

また、驍騎将軍・石越を派遣し、精卒三千を率いて鄴を守らせ、驃騎将軍・張蚝を派遣し、羽林五千を率いて并州を守らせ、鎮軍将軍・毛当を派遣し、衆四千を率いて洛陽を守らせました。

 

権翼が秘かに壮士を派遣し、慕容垂を河橋南の空倉の中で待ち伏せさせました。しかし慕容垂は疑いを抱き、涼馬台(『資治通鑑』胡三省注によると、この涼馬台は富平津橋の西にあったようです。古の人は河渚で馬を洗ってから、馬を駆けさせて高地に行き、涼をとりました。そのため、涼馬台が地名になりました)で草筏を造ってそこから渡河しました。

この時、慕容垂は典軍・程同(『資治通鑑』胡三省注によると、典軍は王国の官で、慕容垂が前燕の呉王だった時に置いたようです)に自分の服を着させ、自分の馬に乗せて、僮僕と共に河橋に向かわせました。

果たして、伏兵が現れましたが、程同は馬を馳せさせて免れることができました。

 

十二月、天王が長安に至り、陽平公・苻融を哭してから(城内に)入りました。苻融には哀公という諡号が贈られます。

天王は大赦して、出征で死んだ家族の賦役を免除しました(復死事者家)

 

[十一] 『晋書・第九・孝武帝紀』と『資治通鑑』からです。

庚午(十五日)、東晋が寇難を平定したばかりであることを理由に(寇難初平)大赦を行いました。

 

[十二] 『資治通鑑』からです。

東晋が謝石を尚書令に任命し、謝玄の号を前将軍に進めましたが、謝玄は固く譲って受け入れませんでした。

 

謝石に関して、『晋書・第九・孝武帝紀』は「中軍将軍・謝石を尚書令にした」と書いていますが、『資治通鑑』は、「中軍将軍」を省いています。『晋書・列伝第四十九』を見ると、謝石は肥水の戦いの前に将軍(将軍号は書かれていません。『資治通鑑』では、謝石は肥水の戦いの前に「征虜将軍・征討大都督」に任命されています)の身で假節・征討大都督になり(以将軍假節征討大都督)、戦いの後、「中軍将軍・尚書令」になっています。

 

[十三] 『資治通鑑』からです。

東晋の謝安は娘婿を王国宝といい、王国宝は王坦之(東晋の名臣)の子でした。

謝安は王国宝の為人を嫌っていたため、いつも官位を抑えて重用せず(每抑而不用)、尚書郎に任命しただけでした。

しかし王国宝は自分が望族(声望がある一族。名門)だと思っており、故事(前例)に則るなら(名門の子弟は)吏部(尚書吏部郎)だけになっていて、余曹(他の官署)には配属されたことがなかったため、固辞して拝命を拒否しました。この後、王国宝は謝安を怨むようになります(『資治通鑑』胡三省注によると、晋制では三十五曹があり、二十三人の郎が置かれて、互いに交替で(または兼任で)担当しました(更相統摂)。江左(東晋)になると、直事、右民、屯田、車部、別兵、都兵、騎兵、左・右士、運曹の十曹の郎がなくなり、康帝・穆帝以後は、更に虞曹と二千石の二郎がなくなりました。こうして殿中、祠部、吏部、儀曹、三公、比部、金部、倉部、度支、都官、左民、起部、水部、主客、駕部、庫部、中兵、外兵の十八曹が残りましたが、後にはまた主客、起部、水部が省かれて十五曹になりました。この中で吏部は最も清選(選抜された人材)とみなされました)

 

王国宝の従妹が会稽王・司馬道子の妃になりました。

孝武帝と司馬道子はどちらも酒を好み(嗜酒)(司馬道子は孝武帝に)なれあい媚び諂っていました(狎昵邪諂)

そこで王国宝は、司馬道子の前で謝安を讒言し、孝武帝との関係を疎遠にさせようとしました(使離間之於帝)

謝安は功名が盛んになっていましたが、険詖求進の徒(陰険邪悪で昇格を求める者)の多くも謝安を毀短(誹謗)したため、孝武帝はしだいに謝安を疎忌(猜疑して疎遠にすること)するようになりました。

 

[十四] 『晋書・第九・孝武帝紀』と『資治通鑑』からです。

東晋が始めて酒禁(禁酒令)を解禁しました(初開酒禁)

『資治通鑑』胡三省注によると、東漢献帝の建安年間に、曹公(曹操)が酒禁を厳しくしていました(厳酒禁)

 

また、民の税米を増やし、一人当たりから五石を徴収することにしました(増民税米口五石)

『資治通鑑』胡三省注が解説しています。東晋成帝咸和五年(330年)、成帝が始めて民の田地を測量し、収穫から十分の一を取ることにしました。一畝当たりの税米が約三升になります(率畝税米三升)

哀帝が即位してから、田租(税米)を減らして一畝当たり二升を納めさせることにしました。

孝武帝太元二年(377年)、孝武帝が度田收租の制(田地を測量して田租を納めさせる制度)を廃止し、公王以下、一人当たりの税を三斛に定めました(口税三斛)。在役の身(労役、兵役に従事している者)は除外されます。

本年、また税米を増やして、一人当たり五石にしました。

 

[十五] 『資治通鑑』からです。

前秦の呂光が進軍して流沙(『資治通鑑』胡三省注によると、玉門を出て流沙を渡ってから、西に進むと鄯善に至り、北に進むと車師に至りました。胡三省注が流沙について更に詳しく解説していますが、省略します)を三百余里も越えました。

 

焉耆等の諸国が皆、投降しましたが、亀茲王・帛純だけは抵抗し、城に籠って守りを固めました(嬰城固守)

呂光は軍を進めてこれを攻めました。

 

[十六] 『資治通鑑』からです。

前秦天王(秦王・苻堅)は入寇(東晋討伐を指します)した時、乞伏国仁(東晋孝武帝太元元年・376年参照)を前将軍に任命して、先鋒の騎兵を統領させました。

しかし、ちょうど国仁の叔父・歩頽が隴西で反したため、天王は国仁を呼び戻してこれを討たせました。

 

それを聞いた歩頽は大いに喜び、路上で国仁を迎え入れました。

国仁が酒宴を開いて大言しました「苻氏は民を疲れさせて兵威を顕示しているので、恐らくもうすぐ亡びるだろう。私は諸君と共に一方の業を建てるつもりだ(苻氏疲民逞兵,殆将亡矣,吾当与諸君共建一方之業)。」

天王が敗れると、国仁は諸部を脅迫し、従わない者がいたら攻撃して併合しました。こうして部衆の数が十余万に達しました。

 

[十七] 『資治通鑑』からです。

慕容垂が安陽(『資治通鑑』胡三省注によると、安陽は鄴城の西南にありました)に至って参軍・田山を派遣し、牋(書信)を準備して長楽公・苻丕に届けさせました。

苻丕は慕容垂が北来(北上)したと聞いて、乱を為そうと欲しているのではないかと疑いましたが、自ら迎えに行きました。

 

趙秋が慕容垂に進言し、席上で苻丕を取って、それを機に鄴を占拠し、兵を起こすように勧めましたが、慕容垂は従いませんでした。

 

一方の苻丕は慕容垂を襲撃しようと謀りましたが、侍郎・天水の人・姜譲(『資治通鑑』胡三省注によると、晋制では、王国は二人の侍郎を置きました)が諫めてこう言いました「慕容垂は反形(謀反の形跡)がまだ顕著になっていません。それなのに明公が勝手にこれを殺したら、臣子の義とはなりません。上賓の礼によって遇し、厳兵に護衛させて、状況を秘かに上表し、勅令を聴いてからこれを図った方がいいでしょう(垂反形未著,而明公擅殺之,非臣子之義。不如待以上賓之礼,厳兵衛之,密表情状,聴敕而後図之)。」

苻丕はこの意見に従い、慕容垂を鄴西に住ませました。

 

慕容垂は燕の故臣と秘かに燕祚の回復について謀りました。

ちょうど丁零の翟斌(『資治通鑑』胡三省注によると、丁零の種落(種族・部落)は元々中山に住んでいましたが、苻堅が燕を滅ぼしてから、新安に遷しました。翟斌は前秦に仕えて衛軍従事中郎になっていました)が兵を起こして前秦に叛し、洛陽の豫州牧・平原公・苻暉を攻めようと謀りました。

前秦天王(秦王・苻堅)は駅書を送り、慕容垂に兵を率いて討伐するように命じました。

 

石越が苻丕に進言しました「王師が敗れたばかりで、民心がまだ安定していないので、負罪亡匿の徒(罪を負って逃げ隠れしている者達)の中には、乱を思う者が多数います。だから丁零が一唱したら、旬日(十日)の間に衆が数千になりました。これがその験(証拠)です(王師新敗民心未安,負罪亡匿之徒,思乱者衆,故丁零一唱,旬日之中衆已数千,此其験也)。慕容垂は燕の宿望(かねてから声望がある存在)であり、興復旧業の心があります。今また兵を与えたら、虎に翼を附けることになります(慕容垂,燕之宿望,有興復旧業之心,今復資之以兵,此為虎傅翼也)。」

苻丕が言いました「慕容垂が鄴に居るのは、虎が臥せて蛟が寝ているようなものであり、常に肘腋の変(身辺の変事)を為すことを恐れなければならない。今、遠く外に送ることができるのなら、その方がいいではないか(垂在鄴如藉虎寝蛟,常恐為肘腋之変,今遠之於外,不猶愈乎)。そもそも、翟斌は凶悖(凶暴で道理に背いていること)なので、必ず慕容垂の下になろうとはしない。両虎を互いに倒れさせて、その後に両者を制す、これは卞荘子の術である(卞荘子は春秋時代・魯の勇士です。二虎が戦うのを待って、一方が死に、一方が傷ついてから、傷ついた虎も殺して、二虎を得ました。原文「且翟斌凶悖,必不肯為垂下,使両虎相斃,吾従而制之,此卞荘子之術也」)。」

苻丕は羸兵(弱兵)二千と欠陥がある武器や甲冑(鎧仗之弊者)を慕容垂に与え、あわせて広武将軍・苻飛龍を派遣し、氐騎一千を率いて慕容垂の副(副将、副官)にさせました。

苻丕が秘かに苻飛龍を戒めてこう言いました「慕容垂は三軍の帥だが、卿は慕容垂を謀る将だ。行け、努力せよ(垂為三軍之帥,卿為謀垂之将,行矣,勉之)。」

 

慕容垂が鄴城に入って廟を拝謁する許可を請いましたが(『資治通鑑』胡三省注が解説しています。前燕は鄴を都にしたため、鄴城内に廟がありました)、苻丕は許可しませんでした。そこで慕容垂は潜服(甲冑の上に衣服を着ること)して城内に入ろうとしました。しかし亭吏が入城を禁じたため、慕容垂は怒って官吏を斬り、亭を焼いて去りました。

 

石越が苻丕に進言しました「慕容垂は敢えて方鎮(一方面の軍事の長。苻丕を指します)を軽侮(軽視・侮辱)し、吏を殺して亭を焼きました。反形が既に露わになったので、これを機に除くべきです。」

しかし苻丕はこう言いました「淮南での敗戦の際、慕容垂は乗輿(帝王の車)に侍って護衛した。この功は忘れてはならない(淮南之敗,垂侍衛乗輿,此功不可忘也)。」

石越が言いました「慕容垂は燕に対しても不忠でした。どうして我々に対して忠を尽くすことができるでしょう。今(の好機)を失って(彼を)取らなかったら、必ず後患になります(垂尚不忠於燕,安能尽忠於我。失今不取,必為後患)。」

苻丕はこの意見に従いませんでした。

石越は退室してから知人にこう告げました「公の父子(天王と苻丕)は小仁を為すことを好んで大計を顧みない。最後は人の禽(捕虜)となるだろう。」

 

慕容垂は慕容農、慕容楷、慕容紹を鄴に留め、自ら安陽の湯池に移動しました。すると、閔亮と李毗が鄴から来て、苻丕と苻飛龍が謀った内容を慕容垂に告げました。

慕容垂はこれを機に衆人の怒りを激発させてこう言いました「私は苻氏に対して忠を尽くしたが、彼等は専ら我々父子を図ろうと欲している。私が行動を止めようと欲しても、そのようにできるか(私にそのつもりがなくても、行動せざるを得ない。原文「吾尽忠於苻氏,而彼専欲図吾父子,吾雖欲已,得乎」)。」

慕容垂は兵が少ないことを口実に、河内で留まって兵を募りました。

旬日(十日)の間に八千の衆を有すようになります。

 

平原公・苻暉が使者を送って慕容垂を譴責し、兵を進めるように催促しました。

慕容垂が苻飛龍に言いました「今、寇賊は遠くないので(『資治通鑑』胡三省注によると、河内は新安、洛陽と大河で隔てられているだけでした)、昼は(行軍を)止めて夜に進み、相手の不意を襲うべきです(今寇賊不遠,当昼止夜行,襲其不意)。」

苻飛龍はその通りだと判断しました。

 

壬午(二十七日)夜、慕容垂が世子・慕容宝を派遣し、兵を率いて前方を進ませました。また、少子・慕容隆に命じて兵を指揮して自分に従わせ、氐兵に命じて五人で伍(一組)とさせました。

慕容垂は秘かに慕容宝と計画を定めており(陰与宝約)(燕兵が)鼓声を聞くと、前後が一斉に氐兵と苻飛龍を襲撃して、全て殺しました。

その後、慕容垂は参佐で家が西にある者を全て(前秦に)還らせ、同時に書を前秦天王に送って、苻飛龍を殺した理由(苻丕と苻飛龍が慕容垂を殺そうと謀った事)を述べました。

 

慕容垂の子・慕容麟はかつてしばしば前燕の朝廷に変を告げました(慕容垂が前燕を去った時、慕容麟が朝廷に告発しました。東晋廃帝太和四年・369年参照)。そのため、慕容垂は以前、天王に従って鄴に入った時(『資治通鑑』胡三省注は、東晋廃帝太和五年・370年の事としています)、すぐにその母を殺しましたが、慕容麟を殺すのは忍びなかったので、外舍(鄴城外の館舎)に置きました。慕容麟は稀にしか侍見(謁見して傍に仕えること)できなくなります(希得侍見)

しかし今回、慕容垂が苻飛龍を殺した時は、慕容麟がしばしば策画を進めて慕容垂の意を啓発しました。その結果、慕容垂は考えを改めて慕容麟を特別視するようになり(更奇之)、寵待(寵遇・待遇)を諸子と均等にしました。

 

慕容鳳と燕の旧臣の子にあたる燕郡の人・王騰、遼西の人・段延等(『資治通鑑』胡三省注によると、段延は段国の一族のようです)が、翟斌の挙兵を聞いて、それぞれ部曲を率いて翟斌に帰順しました。

 

平原公・苻暉が武平侯・毛当(諡号は武侯です)に翟斌を討たせました。

すると、慕容鳳が翟斌に「鳳(私)は今、先王の恥を雪ぐつもりです(「先王」は慕容鳳の父にあたる前燕の宜都王・慕容桓を指します。東晋廃帝太和五年・370年参照)。将軍のためにこの氐奴を斬る機会が与えられることを請います(鳳今将雪先王之恥,請為将軍斬此氐奴)」と言い、甲冑を身に着けて直進しました(擐甲直進)。丁零の衆が後に続き、秦兵を大いに敗って毛当を斬ります。

慕容鳳は更にそのまま兵を進めて陵雲台戍(陵雲台の守備兵。『資治通鑑』胡三省注によると、陵雲台は魏文帝が築きました。洛城西に位置しており、前秦はそこに守備兵を置いていました)を攻撃し、これを落として一万余人の甲仗を回収しました。

 

癸未(二十八日)、慕容垂が河を渡って橋を焼きました。この時、三万の衆を有しています。

遼東鮮卑の可足渾譚(『資治通鑑』胡三省注によると、燕主・慕容皝の后が可足渾氏だったので、可足渾譚も燕の親族のようです)を留めて、河内の沙城(『資治通鑑』胡三省注によると、魏郡にも沙城があったため、それと区別するために「河内の沙城」と書いています)で兵を集めさせました。

また、慕容垂は田山を派遣して鄴に入らせ、慕容農等に兵を起こして応じるように秘かに告げました。

この時、既に日が暮れていたので、慕容農と慕容楷は鄴の城中に留まって宿泊しました。慕容紹が先に出て蒲池(『資治通鑑』胡三省注によると、蒲池は鄴の城外にありました。かつて慕容儁が群臣と宴を開いた場所です。東晋穆帝升平三年・359年参照)に至り、苻丕の駿馬数百頭を盗んで慕容農と慕容楷を待ちます。

 

甲申晦(二十九日)、慕容農と慕容楷が数十騎を率いて微服(平民の服。おしのび)で鄴を出ました。そのまま慕容紹と共に列人(『資治通鑑』胡三省注によると、列人県は、漢代は鉅鹿郡に属し、魏・晋は広平郡に属しました。鄴城の東北に位置します)に奔ります。

 

『晋書・第九・孝武帝紀』は「前句町王・翟遼(『晋書・載記第十四』と『資治通鑑』では「翟斌」です)が苻堅に背き、河南で挙兵した。慕容垂が鄴から(移動して)翟遼と合流し、そのまま苻堅の子・苻暉を洛陽で攻めた」と書いていますが、『資治通鑑』では、翌年に慕容垂と翟斌(翟遼)が合流します。

 

[十八] 『晋書・第九・孝武帝紀』は本年の最後に「仇池公・楊世が奔って隴右に還り、(東晋に)使者を派遣して藩(臣)を称した」と書いています。しかし楊世は東晋廃帝太和五年(370年)に死んでいます。

『資治通鑑』では孝武帝太元十年(385年)に楊定が仇池公を称して東晋に使者を派遣します。『晋書・孝武帝紀』は誤って孝武帝太元十年の出来事を本年(太元八年)に置き、「楊定」を「楊世」と書いたようです(中華書局『晋書・孝武帝紀』校勘記参照)

 

 

次回に続きます。

東晋時代117 東晋孝武帝(十六) 後燕誕生 384年(1)

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