東晋時代117 東晋孝武帝(十六) 後燕誕生 384年(1)

今回は東晋孝武帝太元九年です。四回に分けます。

 

東晋孝武帝太元九年

前秦天王建元二十年/後燕燕王(慕容垂)元年

西燕済北王(慕容泓)燕興元年/後秦王(姚萇)白雀元年

甲申 384年

 

[一] 『資治通鑑』からです。

春正月乙酉朔、前秦の長楽公・苻丕が賓客と大会しましたが(大いに宴を開きましたが)、慕容農を招待しても現れなかったため、やっと異変を覚り、人を派遣して、四方に出て探し求めさせました。

三日後に慕容農が列人(地名)にいて既に兵を起こしたことを知ります。

 

慕容鳳、王騰、段延が皆、翟斌に対して、慕容垂を盟主に奉じるように勧めました。翟斌はこれに従います。

しかし、慕容垂は洛陽を襲おうと欲しており、しかも、翟斌の誠偽(誠心の真偽)を判断できなかったため、拒否してこう言いました「私は豫州を救いに来たのだ(『資治通鑑』胡三省注が解説しています。当時、前秦の平原公・苻暉が豫州牧として洛陽を鎮守していました)。君に附きに来たのではない(吾来救豫州,不来赴君)。君は既に大事を建てたが、成功してその福を享受するとしても、失敗してその禍を受けるとしても、私には関係ない(君既建大事,成享其福,敗受其禍,吾無預焉)。」

 

丙戌(初二日)、慕容垂が洛陽に至りました。

平原公・苻暉は慕容垂が苻飛龍を殺したと聞き、門を閉じて拒みます。

 

翟斌が再び長史・郭通を派遣し、慕容垂を説得しに行かせましたが、慕容垂はやはり同意しませんでした。

郭通が言いました「将軍が通(私)を拒むのは、翟斌兄弟が山野の異類(丁零)であり、奇才遠略がなく、必ず成すところがない(成功するはずがない)と思っているからでしょうか(将軍所以拒通者,豈非以翟斌兄弟山野異類,無奇才遠略,必無所成故邪)。将軍が今日彼等に頼れば大業を成就できるということは考えないのでしょうか(独不念将軍今日憑之,可以済大業乎)。」

慕容垂はやっと同意しました。

 

こうして翟斌が自分の衆を率いて慕容垂と会しに来ました。

翟斌が慕容垂に尊号を称すように勧めましたが、慕容垂はこう言いました「新興侯(前燕幽帝・慕容暐です。前秦によって新興侯に封じられました。東晋廃帝太和五年・370年参照)こそが我が主だ。(新興侯を)迎えて帰り、正統に戻すべきだ(当迎帰返正耳)。」

 

慕容垂は、洛陽の地形は四面から敵を受けるので、鄴を取って拠点にしようと欲し、兵を率いて東に向かいました。

故扶餘王・餘蔚(東晋廃帝太和五年・370年に鄴の北門を開いて秦兵を迎え入れた人物です)が滎陽太守になっていましたが、昌黎鮮卑・衛駒と共に、それぞれ自分の衆を率いて慕容垂に降りました。

 

慕容垂が滎陽に至ると、群下が頑なに尊号を進上することを請いました(固請上尊号)

そこで慕容垂は、晋中宗(東晋元帝)の故事に則って、大将軍・大都督・燕王を称し、皇帝の代わりに命を発して政務を行うことにしました(承制行事)。政務の場を「統府」と呼び、群下は「臣」と称し、文表の奏疏(文章の上奏・上書)や官爵の封拝は全て帝王のやり方と同等にします(皆如王者)

慕容垂の政権を歴史上「後燕」といいます。

 

慕容垂は弟の慕容徳を車騎大将軍に任命して范陽王に封じ、兄の子・慕容楷を征西大将軍に任命して太原王に封じ(『資治通鑑』胡三省注が解説しています。慕容徳は前燕時代に范陽王だったので、今回、元の王位に戻されました。慕容楷は慕容恪の子で、慕容恪は太原王だったので、今回、慕容楷に父の爵位を継がせました)、翟斌を建義大将軍に任命して河南王に封じ、餘蔚を征東将軍・統府左司馬に任命して扶餘王に封じ、衛駒を鷹揚将軍に、慕容鳳を建策将軍(『資治通鑑』胡三省注によると、建策将軍は慕容垂が一時的に置いた将軍号のようです)に任命しました。

その後、二十余万の衆を率いて石門から河を渡り、長駆して鄴に向かいます。

 

慕容農は列人に奔った時、烏桓の魯利の家に停留しました(『資治通鑑』胡三省注によると、魯利は烏桓種(族)でしたが、列人に住んでいました)

魯利が慕容農のために饌(食物)を置きましたが、慕容農は笑うだけで食べませんでした。

魯利はこの事を妻に話してこう言いました「悪奴よ(『資治通鑑』胡三省注によると、「悪奴」は妻を罵る言葉です)。郎(慕容農を指します)は貴人だ。我が家は貧しいので、もてなすことができない。どうすればいい(悪奴,郎貴人,家貧無以饌之,柰何)。」

妻はこう言いました「郎には雄才大志があります。今、理由もなく至ったのは、必ず異(尋常ではないこと)があるからです。飲食のために来たのではありません(郎有雄才大志,今無故而至,必将有異,非為飲食来也)。君(あなた)はすぐに出て(もう一度会いに行って)、遠望によって非常に備えるべきです(もっと遠くのことを視て尋常ではない事態に備えるべきだ、という意味だと思います。原文「君亟出,遠望以備非常」)。」

魯利はこの言葉に従いました。

(魯利が改めて会いに行くと)慕容農が魯利にこう問いました「私は列人で兵を集めて興復を図ろうと欲している。卿は私に従うことができるか?」

魯利は「死ぬも生きるも郎に従うだけです(死生唯郎是従)」と答えました。

 

(魯利の協力を得られたので)慕容農は烏桓の張驤を訪ねて説得し、こう言いました「家の王(慕容垂)が既に大事を挙げて、翟斌等が皆互いにそれを推奉しており、遠近が響応している。だから告げに来たのだ(家王已挙大事,翟斌等咸相推奉,遠近響応,故来相告耳)。」

張驤が再拝して言いました「旧主を得てそれを奉じることができるなら、どうして死(死力、命)を尽くさずにいられるでしょう(得旧主而奉之,敢不尽死)。」

 

慕容農は列人の居民を駆って(強制的に)士卒とし(農駆列人居民為士卒)、桑や楡の木を伐って兵器とし、襜裳(衣服の一種。腰巻)を裂いて旗を作り、趙秋を派遣して屠各(匈奴の部族)の畢聡を説得させました。

畢聡は屠各の卜勝、張延、李白、郭超および東夷の餘和、敕勃や易陽烏桓の劉大(『資治通鑑』胡三省注によると、易陽県は、漢代は趙国に属し、魏・晋は陽平郡に属しました)と共に、それぞれ部衆数千を率いて赴きました。

慕容農は仮に張驤を輔国将軍に、劉大を安遠将軍に、魯利を建威将軍に任命しました。

 

慕容農は自ら兵を率いて館陶(『資治通鑑』胡三省注によると、館陶県は、漢代は魏郡に属し、魏・晋は陽平郡に属しました)を攻撃し、破って軍資・器械を収めました。

更に蘭汗、段讃、趙秋、慕輿悕を康台(『資治通鑑』胡三省注によると、広平郡平恩県に康台沢がありました)に派遣して牧馬数千頭を奪取させます。蘭汗は燕王・慕容垂の従舅(母の従弟)、段讃は段聡(この「段聡」が誰を指すのかはわかりません。東晋穆帝永和八年・352年に段勤と弟の段思聡が慕容覇に降っています。「段聡」は「段思聡」を指すのかもしれません)の子です。

 

こうして歩騎が雲集し、部衆が数万に及ぶようになりました。

張驤等は共に慕容農を使持節・都督河北諸軍事・驃騎大将軍に推して諸将を監統(監督・統領)させました。能力に応じて部署が決められ、上下が粛然とします(隨才部署,上下粛然)

 

慕容農は燕王・慕容垂がまだ到着していなかったため、敢えて将士を封賞しようとしませんでした。

しかし趙秋がこう言いました「軍に賞がなかったら、士は進みません(軍無賞,士不往)。今、ここに来た者達は、皆、一時の功を建てて万世の利を図ろうと欲しているので、承制(君主の代わりに命令を発すること)によって封拝(封爵任命)することで中興の基礎を拡げるべきです(今之来者,皆欲建一時之功,規万世之利,宜承制封拝以広中興之基)。」

慕容農がこの意見に従ったため、慕容農の下に赴く者が相継ぐようになりました。

慕容垂はそれを聞いて称賛しました。

 

慕容農は、西は上党から庫傉官偉を招き(『資治通鑑』の原文は「農間招庫傉官偉於上党(慕容農は秘かに上党から庫傉官偉を招いた)」ですが、胡三省注を元に「間」を「西」に改めました。また、胡三省注によると『資治通鑑』の版本によっては「庫傉官偉」を「厙傉官偉」としています。「庫傉官」が姓です)、東は東阿から乞特帰を招き、北は燕国から光烈将軍・平叡および平叡の兄に当たる汝陽太守・平幼を招きました。庫傉官偉等は皆これに応じます(『資治通鑑』胡三省注によると、東阿県は、漢代は東郡に属し、晋代は済北郡に属しました。唐代には済州に属します。汝陽県は、漢・晋とも汝南郡に属しましたが、後に分けられて汝陽郡が置かれました。平幼はかつて(前燕で)汝陽太守に任命されて燕国に住んだようです。光烈将軍も前燕が平叡に授けた将軍号のようです。庫傉官偉等は皆、燕の旧臣だったので、慕容農の招きに応じました)

 

また、慕容農は蘭汗を派遣して頓丘を攻めさせ、占領しました(『資治通鑑』胡三省注によると、漢代の頓丘は東郡に属す県でしたが、西晋武帝が分けて頓丘郡を置きました)

 

慕容農は号令が整粛で軍に私掠(略奪)がなかったため、士女が喜悦しました。

 

長楽公・苻丕が石越を派遣し、歩騎一万余を率いて慕容農を討たせました。

慕容農はこう言いました「石越には智勇の名があるが、今、南に向かって大軍を拒もうとせず、ここに来た。これは王(慕容垂)を畏れて私を侮っているからだ。間違いなく備えを設けていないので、計を用いて取ることができる(越有智勇之名,今不南拒大軍而来此,是畏王而陵我也。必不設備,可以計取之)。」

衆人が列人城を治める(拠点にする、または修築する)ように請いましたが、慕容農はこう言いました「用兵を善くする者とは、心によって士と団結するものであり、異物(別の物)に頼ることはない。今、義兵を起こしたからには、ただ敵を求めるだけであり、山河を城池とするべきだ。列人がなぜ治めるに足りるのだ(善用兵者,結士以心,不以異物。今起義兵,唯敵是求,当以山河為城池,何列人之足治也)。」

 

辛卯(初七日)、石越が列人の西に至りました。

慕容農は趙秋と参軍・綦毋滕に石越の前鋒を撃たせて破りました。

 

参軍・太原の人・趙謙が慕容農に進言しました「石越の甲仗(甲冑・武器)は精良ですが、人心が危駭(恐慌)しているので、容易に破ることができます。急いでこれを撃つべきです(越甲仗雖精,人心危駭,易破也,宜急撃之)。」

慕容農はこう言いました「彼の甲は外にあり、我が甲は心にある(原文「彼甲在外,我甲在心」。『資治通鑑』胡三省注が解説しています。戦士の心が戦闘を欲していれば、たとえ甲冑がなくても勇敢に戦場に赴きます。「甲が心にある(甲在心)」とはそのような状態を指します)。昼に戦ったら、士卒はその外貌(石越軍の精良な甲杖)を見て畏れるだろう。暮を待って撃つべきだ。そうすれば必ず克つことができる(昼戦,則士卒見其外貌而憚之,不如待暮撃之,可以必克)。」

慕容農は軍士に備えを厳しくして待機するように命じ、妄りに動くことができないようにしました。

 

石越は柵を建てて自ら守りを固めました。

それを見た慕容農が笑って諸将に言いました「石越は兵器が精良で兵士も多いのに、到着したばかりの鋭気に乗じて我々を撃とうとせず、逆に柵を建てた。私には彼が何も為せないということが分かる(越兵精士衆,不乗初至之鋭以撃我,方更立柵,吾知其無能為也)。」

 

向暮(夕方)、慕容農が鼓譟(戦鼓を敲いて喚声を上げること)して出陣し、城西に陣を構えました。

牙門・劉木が率先して石越の柵を攻める許可を求めると、慕容農は笑ってこう言いました「およそ人が美食を見たら、誰がそれを欲しないだろう。どうして一人だけ(攻撃の許可を)請うことができるか。しかし汝の猛鋭は嘉すべきなので、先鋒(の機会)は汝に恵もう(凡人見美食,誰不欲之,何得独請。然汝猛鋭可嘉,当以先鋒恵汝)。」

こうして劉木が壮士四百人を率い、柵を越えて進入しました。秦兵が披靡(潰滅敗退)します。

慕容農は大衆を督してこれに従い、秦兵を大いに敗りました。石越を斬って首を慕容垂に送ります。

石越と毛当はどちらも秦の驍将だったため、前秦天王(秦王・苻堅)は彼等に二子(鄴の苻丕と洛陽の苻暉)の鎮守を助けさせました。しかしここにおいて二人とも相継いで敗没したため、人情(人心)が騒動(騒擾、動揺)し、各地で盗賊が群起するようになりました。

 

[二] 『晋書・第九・孝武帝紀』からです。

庚子(十六日)、東晋が武陵王の孫・司馬宝を臨川王に封じました。

 

武陵王は東晋になってから元帝の子・司馬晞が封じられました(東晋元帝太興元年・318年)。しかし司馬晞は簡文帝咸安元年(371年)に廃されて新安に遷され、孝武帝太元六年(381年)に死にました。孝武帝は司馬晞を新寧郡王に追封し、本年二月、司馬晞の子・司馬遵に跡を継がせます(再述します)

本年、臨川王に封じられた司馬宝は、『晋書・孝武帝紀』では「武陵王(司馬晞)の孫」、『晋書・列伝第三十四』では「武陵威王(威王は司馬晞の諡号です)の曾孫」としています。

臨川王は孝武帝寧康二年(374年)に会稽世子・司馬郁が追封されました。諡号を献王といいます(司馬郁は簡文帝(司馬昱)が会稽王だった頃に生まれ、幼い頃から敏慧(聡明)でしたが、十七歳で死にました)

本年、孝武帝が司馬宝を臨川王に封じて司馬郁の跡を継がせました。

 

 

次回に続きます。

東晋時代118 東晋孝武帝(十七) 後秦誕生 384年(2)

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