東晋時代118 東晋孝武帝(十七) 後秦誕生 384年(2)

今回は東晋孝武帝太元九年の続きです。

 

[三] 『資治通鑑』からです。

庚戌(二十六日)、燕王・慕容垂が鄴に至りました。

慕容垂は前秦の建元二十年から燕の元年に改元し、服色や朝儀は全て旧章(前燕の旧制)に則りました。

前岷山公・庫傉官偉を左長史に、前尚書・段崇を右長史に(『資治通鑑』胡三省注によると、この「前」は前燕時代に授けられた官爵を意味します)、滎陽の人・鄭豁等を従事中郎に任命しました。

 

慕容農が兵を率いて鄴で慕容垂と会しました。

慕容垂は慕容農が自ら称した官(『資治通鑑』胡三省注によると、張驤等が慕容農を推して名乗らせた官(使持節・都督河北諸軍事・驃騎大将軍)を指します)に基づいて正式にそれを授け(因其所称之官而授之)、世子・慕容宝を太子に立て、従弟・慕容拔等の十七人および甥の宇文輸、舅子(母の兄弟の子)の蘭審を全て王にしました。その他の宗族や功臣で封公された者は三十七人、侯・伯・子・男の爵位を授かった者は八十九人に上ります。

 

可足渾譚が兵を集めて二万余人を得ました(前年、慕容垂が可足渾譚に命じて河内の沙城で兵を集めさせました)

その後、可足渾譚は野王を攻めて落とし、兵を率いて慕容垂と会してから鄴を攻めました。

平幼と弟の平叡、平規も数万の衆を率いて鄴で慕容垂と会しました。

 

長楽公・苻丕が姜譲を派遣して燕王・慕容垂を責問し、併せてこう説きました「過ちを犯しても改めることができる。今ならまだ晩くない(過而能改,今猶未晚也)。」

慕容垂はこう答えました「孤(私)は主上の不世の恩(この世にまたとない恩)を受けたので、長楽公を保護して全ての衆を京師(長安)に赴かせ、その後、国家の業を修復し、秦と永く鄰好(隣国との友好な関係)を為したいと欲しています(孤受主上不世之恩,故欲安全長楽公,使尽衆赴京師,然後修復国家之業,与秦永為鄰好)。なぜ(あなたは)機運に暗く、鄴城を返そうとしないのですか(何故闇於機運,不以鄴城見帰)。もしも(あなたが)迷って元に戻そうとしないなら、兵勢を極め尽くしましょう(全軍で攻撃を開始します)。恐らく単馬(単身)になって生を求めても、得られなくなるでしょう(若迷而不復,当窮極兵勢,恐単馬求生,亦不可得也)。」

姜譲が顔色を厳しくして譴責しました「将軍は家国(前燕)に容れられなくなったから、命を聖朝に投じたのだ。燕の尺土に対して、どうして将軍に分があるのだ。主上は将軍と風俗が異なり種族も違うのに(原文「風殊類別」。『資治通鑑』胡三省注が解説しています。氐は関西に住み、鮮卑は東北に住んでいたので、風俗も族類も異なりました)、一度会っただけで心を傾かせて宗戚のように親しみ、(主上のあなたに対する)寵遇は勲旧を越えていた(一見傾心,親如宗戚,寵踰勲旧)。古から今まで、君臣の際遇(出会い)において、このように厚かったことがあるか(自古君臣際遇,有如是之厚者乎)(それなのに)一旦にして王師の小敗に乗じ、すぐに異図を抱くとは(一旦因王師小敗,遽有異図)

長楽公は主上の元子(嫡長子)であり、分陝の任(一方の任)を受けた。どうして手を束ねて将軍に百城の地を送ることができるか(寧可束手輸将軍以百城之地乎)。将軍が裂冠毀冕するなら(「裂冠毀冕」は冠を破毀することですが、礼法に背くことを意味し、特に天子の領地を侵犯することを指します。『春秋左氏伝』が出典です)、自ずからその兵勢を極めればいい。なぜ更に云々と(言い訳を)述べるのだ(将軍欲裂冠毀冕,自可極其兵勢,奚更云云)。ただ、将軍が七十の年をもってその首を白旗に掲げることになり、高世の忠(卓越した忠臣)が却って逆鬼(反逆者の幽鬼)となることを惜しむだけだ(但惜将軍以七十之年,懸首白旗,高世之忠,更為逆鬼耳)。」

慕容垂は沈黙してしまいました。

左右の者が姜譲を殺すように請いましたが、慕容垂は「彼もそれぞれの主のためになしたのだ。何の罪があるのだ(彼各為其主耳,何罪)」と言い、礼遇して帰らせました。

また、苻丕に書を送り、同時に天王(秦王・苻堅)にも上表して利害について陳述し、苻丕を長安に送り帰させるように請いました。

天王と苻丕は怒って再び書を送り、慕容垂を激しく譴責しました。

 

[四] 『晋書・第九・孝武帝紀』からです。

辛亥(二十七日)、東晋孝武帝が建平等の四陵を謁拝しました。

 

[五] 『晋書・第九・孝武帝紀』と『資治通鑑』からです。

東晋の鷹揚将軍・劉牢之が前秦の譙城を攻めて落としました(『晋書・孝武帝紀』は劉牢之を「龍驤将軍」としていますが、『晋書・列伝第五十四(劉牢之伝)』を見ると、当時はまだ「鷹揚将軍」なので、『資治通鑑』は「鷹揚将軍」としています。譙城攻略後に「龍驤将軍」に昇格します)

また、車騎将軍・桓沖が自分の部将である上庸太守・郭宝を派遣して前秦の魏興、上庸、新城三郡を攻めさせ、攻略しました。

 

[六] 『資治通鑑』からです。

東晋の将軍・楊佺期が兵を進めて成固を占拠し、前秦の梁州刺史・潘猛を撃って走らせました。楊佺期は楊亮(東晋の梁州刺史)の子です。

 

[七] 『資治通鑑』からです。

壬子(二十八日)、燕王・慕容垂が鄴を攻めて外郭(外城)を落としました。

前秦の長楽公・苻丕は退いて中城を守ります。

関東六州の郡県の多くが任(人質)を送って後燕に投降を請いました。

 

『晋書・第九・孝武帝紀』は二月に「慕容垂が洛陽から(兵を移動し)翟遼と共に鄴で苻堅の子・苻丕を攻めた」と書いています(『資治通鑑』ではまだ正月です)

 

[八] 『資治通鑑』からです。

癸丑(二十九日)、燕王・慕容垂が陳留王・慕容紹を行冀州刺史に任命して広阿に駐屯させました(『資治通鑑』胡三省注によると、西漢の広阿は鉅鹿郡に属す県でしたが、東漢になって鉅鹿県に併入されました。鉅鹿県界内に広阿沢があり、大陸沢とも呼ばれていました)

 

[九] 『晋書・第九・孝武帝紀』からです。

二月戊午(初四日)、東晋が新寧王・司馬晞の子・司馬遵を新寧王に立てました(本年正月参照)

 

[十] 『晋書・第九・孝武帝紀』と『資治通鑑』からです。

東晋の豊城公・桓沖(諡号は宣穆公です)は、謝玄等が功を立てたと聞いて自分が失言したと思い、慚愧怨恨して病を患いました(桓沖は肥水(淝水)の戦いの前に晋軍が敗れると予測しました。前年参照)

 

辛巳(二十七日)、使持節・都督荊江梁寧益交広七州諸軍事・車騎将軍・荊州刺史・桓沖が死にました。

 

朝議は謝玄を荊江二州刺史にしたいと思いましたが、謝安は自分の父子の名位が盛んになりすぎていると考え、また、桓氏が失職によって怨望(怨恨)することを懼れたため、梁郡太守・桓石民を荊州刺史に、河東太守・桓石虔を豫州刺史に、豫州刺史・桓伊を江州刺史にしました。

 

[十一] 『資治通鑑』からです。

燕王・慕容垂が丁零、烏桓の衆二十余万を率い、飛梯(長い梯子。恐らく雲梯です)や地道(地下道)を造って鄴を攻めましたが、攻略できませんでした。

そこで、長囲(長大な包囲陣)を築いて囲み(築長囲守之)、老弱の者を分けて肥郷(『資治通鑑』胡三省注によると、肥郷県は広平郡に属しました。東魏の天平初年に魏郡臨漳県に併入されますが、隋がまた分けて肥郷県を置きます。唐代は洺州に属します)に配置し、新興城を築いて輜重を置きました。

 

[十二] 『資治通鑑』からです。

前秦の征東府の官属は、参軍・高泰が前燕の旧臣だったため、貳心(二心)を抱いているのではないかと疑いました(「征東府」は征東大将軍の官府です。『資治通鑑』胡三省注によると、当時の征東大将軍は苻丕です。高泰はかつて前燕に仕えており、慕容垂が従事中郎に任命しました)

懼れた高泰は同郡の虞曹従事・呉韶と共に逃走して勃海に帰ろうとしました(『資治通鑑』胡三省注によると、前秦の征東府は虞曹従事を置いて、管轄する山沢を掌管させました。高泰と呉韶はどちらも勃海の人です)

呉韶が言いました「燕軍が近く肥郷にいるので、それに従うべきです。」

しかし高泰はこう言いました「私は禍を避けるだけだ。一君から去って一君に仕えるようなことは、私にはできない(吾以避禍耳。去一君,事一君,吾所不為也)。」

高泰に会った申紹(元は前燕に仕えており、当時は前秦にいました)が感嘆してこう言いました「(高泰は)去就が道に則っている。君子ということができるだろう(去就以道,可謂君子矣)。」

 

[十三] 『資治通鑑』からです。

後燕の范陽王・慕容徳が前秦の枋頭を攻めて占拠し、戍(守備兵)を置いて還りました。

 

[十四] 『資治通鑑』からです。

東胡の人・王晏が館陶を占拠して鄴中(「鄴中」で一つの地名です。「鄴」を指します)の声援になりました。鮮卑、烏桓および郡県の民には、塢壁を占拠して燕に従わない者もまだ多数います。

燕王・慕容垂は太原王・慕容楷と鎮南将軍・陳留王・慕容紹を派遣してこれらを討たせました。

 

慕容楷が慕容紹に言いました「鮮卑、烏桓および冀州の民は、元は皆、燕の臣であり、今は大業が始まったばかりで、人心がまだ融和していないので、少し離反しているだけだ(今大業始爾,人心未洽,所以小異)。ただ徳によってこれを安撫すべきであり、威によって震撼させるべきではない(唯宜綏之以徳,不可震之以威)。私が一カ所に留まって軍声(軍の声威、声勢)の基礎になろう(吾当止一処,為軍声之本)。汝は民夷を巡撫し、(彼等に)大義を示せ。(そうすれば)彼等は必ず聴従(服従)するだろう(汝巡撫民夷,示以大義,彼必当聴従)。」

こうして慕容楷は辟陽(『資治通鑑』胡三省注によると、西漢高帝(高祖)が審食其を辟陽侯に封じた地です。長楽郡信都県に辟陽城がありました)に駐屯しました。

 

慕容紹は騎兵数百を率いて王晏の説得に行き、禍福について述べました。

その結果、王晏は慕容紹に従って慕容楷を訪ね、投降しました。

鮮卑、烏桓および塢民で降った者も数十万口に上ります。

慕容楷は老弱な者を留め、守宰(郡県の長)を置いて慰撫させてから、丁壮(壮健な成人男性)十余万を徴発し、王晏と共に鄴に向かいました。

慕容垂は大いに悦んで「汝等兄弟の才は文武を兼ねているので、先王(二人の父・慕容恪)を継ぐに足りる(汝兄弟才兼文武,足以継先王矣)」と言いました。

 

[十五] 『晋書・第九・孝武帝紀』と『資治通鑑』からです。

三月、東晋が衛将軍・謝安を太保に任命しました。

 

[十六] 『晋書・第九・孝武帝紀』と『資治通鑑』からです。

前秦の北地長史・慕容泓は燕王・慕容垂が鄴を攻めたと聞くと、逃亡して関東に奔り、鮮卑を收集しました。その衆は数千に及びます。

その後、戻って華陰に駐屯し、前秦の将軍・強永を敗りました。こうして慕容泓の衆が強盛になります。

そこで、慕容泓は自ら都督陝西諸軍事・大将軍・雍州牧・済北王を称し、慕容垂を丞相・都督陝東諸軍事・領大司馬・冀州牧・呉王に推しました。

 

慕容泓は前燕景昭帝(慕容儁)の子で(東晋穆帝升平三年・359年参照)、前燕最後の皇帝・慕容暐の弟です。

慕容泓が建てた政権は西燕とよばれますが、「東晋十六国」の一つには数えられていません。

 

前秦天王(秦王・苻堅)が権翼に言いました「卿の言(東晋孝武帝太元八年・383年参照)を用いなかったため、鮮卑をこのようにさせてしまった(不用卿言使鮮卑至此)。関東の地は、私は再び争うつもりがないが、慕容泓は如何してやろう(関東之地,吾不復与之争,将若泓何)。」

 

天王は広平公・苻熙を雍州刺史に任命して蒲阪を鎮守させました。また、雍州牧・鉅鹿公・苻叡を召還し、都督中外諸軍事・衛大将軍・録尚書事に任命して五万の兵を配し、左将軍・竇衝を長史に、龍驤将軍・姚萇を司馬に任命して慕容泓を討たせました。

 

平陽太守・慕容沖(慕容泓の弟。東晋穆帝升平三年・359年参照)も平陽で挙兵し、二万の衆を有して蒲坂に進攻しました。

天王は竇衝にこれを討たせました。

 

[十七] 『資治通鑑』からです。

庫傉官偉が営部(営内の部衆。統率する兵)数万を率いて鄴に至りました。

燕王・慕容垂は庫傉官偉を安定王に封じました。

 

[十八] 『資治通鑑』からです。

当時、前秦の冀州刺史・阜城侯・苻定は信都を守っており、高城男(男爵)苻紹は国(封国。『資治通鑑』胡三省注によると、高城県は勃海郡に属しました)におり、高邑侯・苻亮と重合侯・苻謨は常山を守っており、固安侯・苻鑒は中山を守っていました。

 

燕王・慕容垂は前将軍・楽浪王・慕容温を派遣し、諸軍を督して信都を攻めさせましたが、克てませんでした。

 

夏四月丙辰(初三日)、慕容垂が撫軍大将軍・慕容麟を派遣し、増兵して慕容温を助けさせました。

 

苻定と苻鑒は前秦天王(秦王・苻堅)の従叔(祖父の兄弟の子)、苻紹と苻謨は従弟、苻亮は従子(甥。または自分より一世代下の親族)です。

慕容温は燕王・慕容垂の弟の子です。

 

[十九] 『資治通鑑』からです。

慕容泓は秦兵が間もなく至ると聞いて懼れを抱き、衆を率いて関東に奔ろうとしました。

それを知った前秦の鉅鹿公・苻叡(諡号は愍公です)は、粗猛で敵を軽んじていたため、兵を馳せて邀撃しようと欲しました。

姚萇が苻叡を諫めて言いました「鮮卑は皆、思帰の志(帰郷しようとする心)を持っているので、起ちあがって乱を為したのです。彼等を駆って関から出させるべきであり、阻止してはなりません(宜駆令出関,不可遏也)。小さな鼠の尾を捕まえた時でも、(鼠は)逆に人に噛みつくことができるものです(夫執鼷鼠之尾,猶能反噬於人)。彼等は自分が困窮したと知ったら、我々に対して命懸けになるので、万一利を失ったら、後悔しても手遅れになります(彼自知困窮,致死於我,万一失利,悔将何及)。ただ、鼓を鳴らして後を追うだけでよく、(そうすれば)彼等は奔敗(奔走・敗走)して他の事を顧みる余裕がなくなります(但可鳴鼓隨之,彼将奔敗不暇矣)。」

苻叡はこの意見に従わず、華沢(『資治通鑑』胡三省注によると、華沢は華陰(地名)の沢です)で慕容泓と戦いました。その結果、苻叡は兵が敗れて殺されました。

 

姚萇が龍驤長史・趙都と参軍・姜協を派遣して前秦天王(秦王・苻堅)を訪ねさせ、謝罪しました。しかし天王は怒って二人を殺してしまいました。

姚萇は懼れて渭北の馬牧(『資治通鑑』胡三省注によると、「馬牧」は牧馬の地で、漢代の「牧苑」のような場所です)に奔りました。

すると、天水の人・尹緯、尹詳や南安の人・龐演等が羌豪を糾扇(糾合・扇動)し、自分の戸口を率いて姚萇に帰順しました。その数は五万余家に上り、姚萇を盟主に推します。

そこで姚萇は自ら大将軍・大単于・万年秦王と称して大赦を行い、白雀元年に改元しました。

尹詳と龐演を左・右長史に、南安の人・姚晃および尹緯を左・右司馬に、天水の人・狄伯支等を従事中郎に、羌訓等を掾属に、王據等を参軍に、王欽盧、姚方成等を将帥に任命しました。

 

この出来事を『晋書・第九・孝武帝紀』は「苻堅の将・姚萇が苻堅に背し、北地で兵を起こした。自ら立って王となり、国を秦と号した」と書いています。

姚萇の政権は「後秦」と呼ばれており、『資治通鑑』も姚萇を「後秦王・萇」としています。

 

[二十] 『資治通鑑』からです。

前秦の竇衝が河東で慕容沖を撃って大破しました。慕容沖は鮮卑の騎兵八千を率いて慕容泓に奔ります。

慕容泓の衆は十余万に達しました。

 

慕容泓が使者を派遣して前秦天王(秦王・苻堅)にこう告げました「呉王(慕容垂)が既に関東を定めた。速やかに大駕を資備(準備・提供)し、家兄である皇帝(慕容暐。慕容泓の兄です)を奉じて送り出すべきだ(可速資備大駕,奉送家兄皇帝)。泓(私)が関中の燕人を率いて乗輿を翼衛(輔佐・護衛)し、鄴都に還返(帰還)しよう。秦とは虎牢を界(境界)にして、永く鄰好(隣国との友好な関係)を為そう。」

 

天王は大いに怒って慕容暐を召し出し、譴責してこう言いました「今、泓の書はこのようであった。卿が去りたいと欲するなら、朕はそれを助けよう(卿欲去者,朕当相資)。卿の宗族は人面獣心というべきだ。国士として期待することはできない(不可以国士期也)。」

慕容暐は叩頭して血を流し、涕泣して陳謝しました。

天王は久しくしてから「これは三豎(慕容垂、慕容泓、慕容沖)が為したことだ。卿の過ちではない(此自三豎所為,非卿之過)」と言い、慕容暐の位を元に戻して当初と同じように遇しました(待之如初)

 

天王は慕容暐に命じて書信で慕容泓、慕容沖と慕容垂を招諭させました。

しかし慕容暐は秘かに使者を派遣して慕容泓にこう伝えました「私は籠の中の人なので、帰還できる道理があるはずがない(吾籠中之人,必無還理)。しかも(私は)燕室の罪人だ(『資治通鑑』胡三省注が解説しています。慕容暐は燕の社稷を保つことができなかったので、自身を罪人と称しました)。再び(私を)顧みるには足りない。汝は勉めて大業を建てて、呉王を相国(慕容垂)とし、中山王(慕容沖)を太宰・領大司馬とせよ。汝は大将軍・領司徒となり、承制封拝(皇帝の代わりに命を発して任官封爵すること)してよい。私の死問(訃報)を聴いたら、汝が尊位に即け。」

慕容泓は兵を進めて長安に向かい、燕興元年に改元しました。

 

 

次回に続きます。

東晋時代119 東晋孝武帝(十八) 翟斌 384年(3)

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